「わたしが来たのは」

及川 信

       ルカによる福音書 12章49節〜53節
   
12:49 「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。12:50 しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。12:51 あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。12:52 今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。
12:53 父は子と、子は父と、
母は娘と、娘は母と、
しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、
対立して分かれる。」

 文脈

 私たちは毎週礼拝に招かれて、月に三回はルカ福音書を読んでいます。皆さんの中にも、私と同じことを感じている方もおられるかもしれませんが、私は正直言って「勘弁して欲しい」と感じています。あまりに鋭く、厳しい主イエスの言葉が続くので、ちょっと休みたいというか、しばらく別の箇所を読みたいと思ったりもします。精神的に追い詰められていく感じがするのです。
 その理由を知るために、今日は文脈を振り返ることから始めたいと思います。11章37節以下には「ファリサイ派の人々と律法の専門家とを非難する」という小見出しがついています。彼らは、ユダヤ人社会の中で宗教的な権威と政治的な権力を持っていました。彼らに逆らうことは、裁かれるべき犯罪者、また罪人になることを意味します。
 イエス様は、そういう彼らを真正面から非難されました。偽善者だ、愚かだ、と。それは権力者を敵に回すことですから、直後から危険が迫ってきました。
 私たちが読んでいる箇所は、そういう緊迫した状況の中で語られたイエス様の言葉です。だから、読むだけで十分に恐ろしい言葉なのです。
 イエス様は、こうおっしゃいました。

「体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。」
「権力者のところに連れて行かれたときは、何をどう言い訳しようか、何を言おうかなどと心配してはならない。」
「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。自分の持ち物を売り払って施しなさい。」
(ルカ12:4, 12, 32)

 どれをとっても厳しい言葉です。
 その後に、主人と僕のたとえが続きます。僕は、いつでも目を覚まして主人の帰りを待っていなければならない。主人の言った通りのことを、主人が不在中も忠実にしなければならないというたとえです。そして、こう言われる。

「主人の思いを知りながら何も準備せず、あるいは主人の思いどおりにしなかった僕は、ひどく鞭打たれる。」(ルカ12:47)

 そういう厳しい話の後に、今日の箇所が続くのです。私が「勘弁して欲しい」と思うのも、無理はないのではないでしょうか。でも、勘弁されることはないし、されたとしたら、弟子として認められていないということですから、それもつらい。

 決意

 9章51節に、「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた」とあります。以後の記述はすべて、エルサレムに向う旅において起こったことです。そのことを、私たちはいつも覚えておかねばなりません。
 イエス様は、権力者の迫害が待っていることが明らかであっても、まっすぐにエルサレムに向って歩んでいく。父なる神の御心に従って生きる。つまり、ご自身の十字架の死と復活に向って歩んでおられるのです。今日の言葉の中にも、そういう決意が込められているのです。
 であるとすれば、そのイエス様に従っていく者たちもまた、非常な決意が必要であるということになります。その決意、決断、覚悟を、主イエスは弟子たちに求めておられる、と言って間違いはないでしょう。

 火

「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。」

 最初に、「火」という言葉から見ていきます。主イエスの先駆者である洗礼者ヨハネは、イエス様のことを、「その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」と言った上で、こう続けました。「そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」(ルカ3:17)
 「火」は、裁きをもたらすものです。裁きとは、分けることなのです。麦と殻を分ける。その上で、役に立たない殻を焼き払うのです。今日の箇所にも、「分裂」とか「対立して分かれる」と出てきます。「火」には、不純物を焼き尽くして純度の高いものを残す精錬作用もあります。
 使徒言行録では、「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、霊″が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」とあります。「炎」は原文では「火」と同じです。その炎のような聖霊によって、弟子たちは、力強く説教をし始め、ペトロは「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」と説教しました。「こう宣言することで、処刑されることになったとしても構いません」ということです。かつて、死を恐れてイエス様のことを「知らない」と三度も言って逃げた人物が、聖霊の炎に燃やされた時には、大胆に信仰を告白し、イエス・キリストを証したのです。

 聖霊

 「聖霊」は、今日の箇所には出てきません。でも、私は「聖霊」が前提とされていると思います。先ほど引用した「権力者のところに連れて行かれたときは、何をどう言い訳しようか、何を言おうかなどと心配してはならない」に続く言葉は、「言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる」、だからです。迫害の中で信仰の証をすることは人間の力では不可能なのです。父なる神様が与えてくださる聖霊の力によらなければ、出来ないのです。その聖霊が与えられ、受け入れているか否かが、キリスト者であるかそうではないか、証に生きる人間かそうではないか、を分けていくことになります。

 受けねばならない洗礼

 イエス様は、その聖霊の火をもたらすために来た、のです。神の民を自負するイスラエルの中に、その火が少しも燃えていないからです。そこにあるのは硬直化し、自己を絶対化する体制だけなのです。神を愛し、神を信じ、神に仕える溢れる喜びがない。だから、イエス様は、「あなたたちは不幸だ」と嘆かれるのです。幸いになって欲しいからです。だから、これは単なる非難ではなく、愛に基づく幸いへの招きなのですが、その愛が受け入れられる可能性は限りなく低いのです。しかし、イエス様はその僅かな可能性を求めて愛し続けます。そこには、多くの苦難が予想されます。それが、50節の言葉で言われていることでしょう。
 ここに出てくる「受けねばならない洗礼」とは、エルサレムへの旅路の中で経験する苦難、特にエルサレムにおける十字架の死と三日後の復活を表していると思います。「洗礼」とは、それまでの命の死であり、同時に新しい命の誕生を表すからです。

 実現されるまで専念させられる

 その後に続く、「それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう」は、こうも訳せるのです。「それが成し遂げられるまで、私は専念させられるだろう」と。原文の動詞は受け身ですから、隠れた主語は神様だと思います。「終わる」は「成し遂げる」、「実現する」としばしば訳される言葉で、「苦しむ」は「取り囲まれている」とか「見張られている」という意味があります。使徒言行録には「パウロは御言葉を語ることに専念し、ユダヤ人に対してメシアはイエスであると力強く証しした」とあります。「専念する」が、「苦しむ」と原文では同じです。パウロが、神に見張られて御言葉を語ることに専念せざるを得ないように、イエス様も神様によって見張られて、十字架の死と復活に向けて、エルサレムに向っていかざるを得ない。罪人を救い出すという神様の御心を、成し遂げることに専念する。そういうことをおっしゃっているのだと思います。
 苦難を経なければ、メシアは栄光に入ることはできず、イエス様は十字架の死を経なければ、復活には至ることはないのです。そのイエス様に従う者たちもまた、「自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って」従うことが求められますし、「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである」と言われているのです。これは、聖書に書かれていることです。

 分裂

 イエス様の言葉は神の国の現実を表し、神の国への招きですから、この世の現実の中に生きており、そこに留まりたいと思う者にとっては、なにもかもが違和感や不快感を呼び起こすものです。それは、決断を迫られる違和感であり、不快感です。自分を捨て、それまでの自分の命を失うことを決断するとは、誰にとっても気軽にできることではないし、そういうことを求められることは嬉しいことではありません。
 でも、イエス様は、さらに違和感や不快感を呼び起こす言葉を畳みかけてきます。

「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。
父は子と、子は父と、
母は娘と、娘は母と、
しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、
対立して分かれる。」

 平和

 「平和」
は、ルカ福音書の中に一四回も出てくる大切な言葉です。皆さんも、いくつか思い出されると思います。
 洗礼者ヨハネの父ザカリアは、ヨハネが誕生した時に、彼に続いて来る「主」は、「暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く」方であると、預言しました。
 また、イエス様の誕生を羊飼いに知らせた天使たちは、こう賛美しています。

「いと高きところには栄光、神にあれ、
地には平和、御心に適う人にあれ。」
(ルカ2:14)

 「平和」と言っても、その意味は多様です。「天下泰平」も「地には平和」という意味ですけれど、それは一人の武将が他のすべての武将に勝利して諸国を平定したという意味です。自分に逆らう者がいない状態が、その武将にとっての泰平(平和)なのです。しかし、服従を強いられた者たちにとって、それは泰平ではなく不公平です。
 イエス様が生まれた当時のローマ帝国の皇帝アウグストゥスは、「ローマの平和」の基礎を築いた人です。ローマ帝国内の権力闘争に勝利し、領土内の各民族の抵抗を完全に抑えたのです。それ故に、彼は「平和の君」「救い主」「神の子」とも呼ばれていました。「天帝」とか「天皇」という呼び名も、同様の意味を持っているでしょう。
 現在も大国が主導して、各地域の平和のために安全保障会議が開かれますし、「積極的平和主義」なるものが提唱されたりします。しかし、それらはすべて武力とか経済力を背景としたものです。積極的に自分たちの平和を構築するために軍備を増強するのです。いつの時代も、人の世は強い者が自分のための平和を作りだすものです。だから、それはいつか崩壊していくのです。
 イエス様は、そういう意味での「平和」をもたらすために、この世に来られたのではありません。そんなものは、人間の世界にはずっと前からある陳腐なものなのですから。その「平和」の内実は、一部の人間の尊大な自己満足と、多くの人間の怒りと諦めと打算です。しかし、多くの人々の血が流される戦争状態よりは良いから、天下泰平をもたらした者は偉人と称えられるのが、この世の常です。
 そんな世に留まり続けるところに、人間の救いがあるはずもありません。しかし、そこから脱出しようとすれば、それまでの関係性の中になんらかの分裂が起こります。それまでとは異なる世界、既にこの世に突入しつつも、いつまでも異質であり続けている世界の中に入っていくことだからです。

 異質な言葉

 最近出版された本の中に『異質な言葉の世界』というものがあります。ウイリモンというアメリカの牧師であり神学者が書いた本ですが、副題は「洗礼を受けた人にとっての説教」です。今日の説教準備をしながら、何か関係がありそうだと思って最初の章だけ読みました。
 ウイリモンは、牧師の多くが聖書を解釈する対象物としてしまい、人間の一般的状況を解説するための道具としてしまっていることを批判します。そして、礼拝の聴衆が、自分の生死について真剣に考えていない人々であるかのように思っていることに対して、厳しい批判をします。
 彼は、礼拝に集まっている人々の大半は、洗礼を受けた人々であり、神が呼び集めた者たちであることを強調します。つまり、人間社会の分析などを聴くために集まっているのではなく、神の言葉を聴くために集められた人々なのだ、ということです。そして、その人々は、ローマの信徒への手紙6章の言葉によれば、「キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けた」者たちであり、それは、「洗礼によってキリストと共に葬られ」、「キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように」「新しい命に生きる」人々です。罪に支配された古き自分に死に新しくされた人々、国籍を天に移し、神の国を生きる人々なのです。だから、常に神の言葉を必要とし、神から送られる聖霊を必要としている人々なのです。神の言葉と聖霊を与えられ、そこから力と勇気、望みを与えられなければ、信仰をもってこの世の中を生きていくことなど誰もできないからです。そのことを忘れている牧師があまりに多い、と彼は言います。的を得た批判です。私も常に肝に銘じるべき批判です。

 喜びと苦難

 洗礼を受けて信仰に生きることは、本当に喜ばしいことです。でも、それはこの世においては、苦難の始まりでもあります。それは様々な意味で言えることなのです。
 それまで罪だとも思わなかったことが罪だと分かり、日々、自分の罪を自覚させられる苦しみがあります。また、この世がいかに神の御心に反しているかが前よりも良く分かり、そういう世に生きていることが苦しいと思うこともある。

 対立をもたらす信仰

 また、「日曜日は礼拝の日」と決めて毎週礼拝に通うことは、それまでの自分の生活パターンの激変です。家族が共にいる場合、日曜日に家でごろごろされないで、むしろ喜ばれるということもあるかもしれません。しかし、それまで毎週、子どもを連れて行楽に出かけていたのに一人で礼拝に行くとなれば、やはり子どもたちからは相当に顰蹙を買うのではないでしょうか。そういう親の姿を見て、子どもが教会嫌いになるケースはいくらでもあります。無理矢理面白くもない教会学校に連れて行かれることで教会嫌いになる子もたくさんいます。家に残している夫に気を遣いながら、あるいは妻に気を遣い、遠慮しつつ礼拝に通っているということもあります。親が宗教嫌いだとか、逆に他の宗教に入れ込んでいる場合、自分独りがキリスト教会の礼拝に通い出すことは、大変なことです。それは、下手をすれば絶縁覚悟のことになります。
 逆に、牧師家庭とか熱心なクリスチャン家庭の中で、子どもが礼拝に出席しないことも大変なことです。そういう家の中では、子どもが信仰を告白しない限り、世間的にどれほど立派に生きていても親から認められることはありません。常に「汝なお一つを欠く」という目で見られるのです。ウイリモンも、自分の息子や娘が洗礼を受けた時のことを、「自分の人生にとって最高の瞬間となった」と前書きで書いています。そんな思いで親から見られる子どもはたまったものではありませんが、仕方のないことです。家族中が同じ信仰を持たない限り、信仰は家族に平和をもたらすものではなく、分裂をもたらすものです。
 しかしまた、信仰はやっかいなものです。「キリスト教信仰は一つであり、キリスト者は誰でも同じ信仰を生きているはずだ」と思っても、実際は違います。キリスト教の中でも、いわゆる「ファンダメンタリスト」と呼ばれる人たちにとっては、神は天地を七日で造ったと信じることが信仰です。そういう信仰の立場に立てば、先日私が公にした説教集『天地創造物語』などは、信徒が絶対に読んではならない禁書扱いになりますし、下手をすれば「悪魔の書」と言われるのです。その他にも、様々な違いがキリスト教の世界の中にあり、キリスト教会は良くも悪くも分裂したままです。それが個性とか強調点の違いであれば良いのですが、時に深刻な争いを生み出す場合もあるのです。

 決断

 「平和の君」とも呼ばれるイエス・キリストですが、そのイエス・キリストがもたらしたものは「分裂」です。信仰に生きる決断をしたなら、日曜日の趣味のサークルに入っていた人は、そのサークルを諦めるしかありません。趣味を継続するにしても、他の日に振り替えるしかないのです。様々な所で、私たちは信仰的な決断を問われます。仕事においても、また政治的な立場においても問われます。信仰に立つ限り出来ないことがあるし、逆にやらねばならないことがある。そのいずれもがこの世の中では異質なものです。だから、信仰的な決断をした結果、孤立したり、不利益を被ることがあります。それまであった「平和」を、自ら壊してしまうことがあるのです。
 しかし、決断をしなければなりません。新しいぶどう酒を古い革袋に入れれば、内部で発酵して古い革袋を破ってしまいます。もし、新しいぶどう酒を受け入れたいのなら、古い革袋を捨てて新しい革袋になるしかないのです。内側に入っているものが変われば、外側も変わってきます。もし、本当に主イエス・キリストの言葉と聖霊を受け入れたのであれば、その人の外側、つまり行動も生活パターンも発する言葉も変っていくのです。発酵力も何もないキリスト教の「教え」を理解し、承認する程度であるならば、古い革袋のままでいられますが、そんなことに何の意味があるのか、私には分かりません。

 聖書が言っている

 主イエスの言葉は、この後さらに過激に厳しいものになっていきます。この先の14章25節で、主イエスはご自身について来る群衆に向ってこうおっしゃいます。

「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。」

 何と言ったらよいか戸惑う言葉です。
 先ほどのウイリモンの本の中に、ブルッゲマンという旧約学者の言葉が紹介されていました。彼は、説教者の集まりの中でこう言ったそうです。

「もしあなたが臆病者で、生まれつき大胆になれないのなら、降りてきて、聖書テキストの後ろに隠れることが出来ます。聖書の陰からそっと覗いて、こう言うことができます。『これを言ったのはわたしではない。聖書テキストです。』」

 私は自分がどういう人間なのかよく分かりませんが、毎週日曜日の朝と夕に、「こんなことは自分の口からは言えない。出来れば、言いたくない」と思うことを語らされていることは確かです。この務めは、私にはかなり重いものです。しかし、礼拝の場で、自分が語れることだけを語っても何の意味もありませんし、それはむしろ神様の怒りを招くことだと思います。そして、自分では言えないことを語れることこそ、最大の喜びであることも確かなのです。神様は、人間の言葉を聴かせるために、私たちを礼拝に呼んでいるのではないのですから。人間の言葉を通して、ご自身の言葉を語り聞かせるために、私を含めて一人ひとりをこの礼拝の場に呼び集めておられるのですから。

 愛する・憎む

 イエス様は、弟子として生きようとする者に対して、肉親に対する愛よりもイエス様に対する愛を優先することを求めておられます。それは「私が」ではなく、「聖書が」語っていることです。ただ、誤解のないように言っておかねばなりませんが、ここに出てくる「憎む」とは、憎しみの感情ではなく決断を表す言葉なのです。AかBかの二者択一をする時に、当時のユダヤ人は「私はAを愛し、Bを憎む」と言ったのです。ここに出てくる「憎む」とは、そういう意味です。
 イエス様自身、肉親からの愛、肉親への愛を最優先したなら、神の国を宣べ伝える伝道に旅立つはずもないし、エルサレムへの旅を続けるはずもありません。それは、処刑の死に向う歩みなのですから。しかし、イエス様は神を愛し、人を愛するが故に、神様の御心に従われたのです。その愛は、人々にはなかなか分かって貰えません。しかし、イエス様がエルサレムの十字架で死に、三日目に復活させられなければ、イエス様の肉の家族の罪が赦され、新しい命、永遠の命に生かされる道も開かれないのです。イエス様は息子や兄弟として家族を愛する愛よりも、「神の子」「救い主」「平和の君」として家族を愛する道を選択されたのです。そこには家族との分裂があります。しかし、そこには新しい交わりが開かれる希望があるのです。それは、イエス様がもたらす分裂は憎しみによる分裂ではなく、人間の愛を遥かに超えた神の愛を生きるが故の分裂だからです。真実な愛によって、表面的な平和を壊し、本当の平和をもたらす対立だからです。主イエスは、その愛に生きるようにと私たちを招かれるのです。

 主イエスの洗礼

 主イエスご自身が、私たち罪人の罪を赦し、新しく生かすために、罪人を裁くための十字架に磔にされるのです。そこに、主イエスが受けるべき洗礼があるのです。ヨハネから洗礼を受けた時に、既に決められていた受けるべき洗礼がある。その洗礼、死を通して新たな命に生かされる洗礼を通して、私たちを招いておられるのです。今もなお武力や権力、経済力によって「自分のための平和」を作り出そうとするが故に不和対立と争いを繰り返す私たちを招いておられる。イエス様によってこの世に到来しつつある神の国に、招いておられるのです。目の前にまで来てくださって、招いておられる。

 日曜日の礼拝

 私たちキリスト者が、なぜ日曜日に礼拝を捧げるかと言えば、この日に主イエスが復活されたからです。休みだから礼拝をしているのではなく、日曜日に主イエスが復活して弟子たちに現れたから礼拝しているのです。ユダヤ人の安息日を土曜日から日曜日に変えたのです。そこには、非常に大きな決断があるのです。
 だから礼拝は、二千年前に生きておられたイエス様の教えを牧師から聞く時間ではありません。今も生きており、この礼拝堂に臨在し、私たちに語りかけてくださるイエス様の言葉を聴いているのです。そして、ひれ伏し賛美しているのです。
 ルカ福音書24章36節には、イエス様の十字架の死から三日目の日曜日にエルサレムにいた弟子たちに起こったことが記されています。

こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。

 イエス様は、こうおっしゃっているのです。
 「あなたの罪は赦された。信じなさい。神は、十字架の上で捧げたわたしの祈りを、『父よ、彼らをおゆるしください』という祈りを聞いてくださった。あなたはもう神との和解を得ている。わたしは、その『平和』をもたらすために来たのだ。信じなさい。そうすれば、あなたはこの世に生きながら、神の国に生きる命を生きることが出来る。神の愛を証しつつ生きることが出来る。神を賛美しながら生きることが出来る。地に平和をもたらす人間として、生きることができる。平和を地上にもたらすために、出て行きなさい。」
 こういうイエス様の祝福と派遣の言葉を、今、この礼拝の中で聴くことができる人は幸いです。その人は、聖霊の炎に燃やされつつ、苦難があっても、なお信仰と希望と愛に生きることができるからです。復活の主イエスが共に生きてくださるのですから。

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