「時を見分ける」

及川 信

       ルカによる福音書 12章54節〜59節
   
12:54 イエスはまた群衆にも言われた。「あなたがたは、雲が西に出るのを見るとすぐに、『にわか雨になる』と言う。実際そのとおりになる。12:55 また、南風が吹いているのを見ると、『暑くなる』と言う。事実そうなる。12:56 偽善者よ、このように空や地の模様を見分けることは知っているのに、どうして今の時を見分けることを知らないのか。」 12:57 「あなたがたは、何が正しいかを、どうして自分で判断しないのか。12:58 あなたを訴える人と一緒に役人のところに行くときには、途中でその人と仲直りするように努めなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官のもとに連れて行き、裁判官は看守に引き渡し、看守は牢に投げ込む。12:59 言っておくが、最後の一レプトンを返すまで、決してそこから出ることはできない。」

 時の感覚

 久しぶりにルカ福音書に帰ってきました。12章は随分長い章ですけれど、その最初から緊迫した場面が続きました。イエス様が、当時のユダヤ人社会の支配者であるファリサイ派や律法学者を真っ向から批判したからです。騒ぎを聞きつけて、群衆が足の踏み場もないほど集まってきました。
 主イエスは、弟子たちに対して弟子の覚悟を問い、群衆にはその愚かさを指摘しました。振り返る時間はありませんが、そこで問題になっていたのは「時の感覚」です。主人がいないその時、僕は何をすべきなのかが問題なのです。思いがけない時に、主人は帰って来るからです。

 群衆

 今日の箇所では、「イエスはまた群衆にも言われた」と出てきます。群衆とは、しばしば自分を隠して、何事も他人事のように見たり聞いたりしているものです。先日の都議会でもあったように、多くの人に紛れていれば、どんな下品な野次でも言えると思っている人は多いのです。
 この時も、群衆は、イエス様が弟子たちに語る厳しい言葉を他人事のように聞いていたでしょう。しかし、ここでイエス様が語りかけている群衆は、神の民イスラエルの子孫としてのユダヤ人です。神様との契約関係を生きている民です。男は皆、契約の徴としての割礼を受けています。神が与えた律法を守って生きることを約束しているのです。出エジプト記の言葉を用いれば、神の「宝の民」であり、「祭司の王国」、「聖なる国民」です。モーセとかアロンだけが、祭司や聖なる国民ではありません。そのことは、承知しておかねばならないと思います。
 先週の説教で、私は、十二弟子に求められている具体的行為と、それ以外の人々に求められている行為は違うと言いました。でも、続けてこう言いました。「しかし、すべての人に求められていることがある。それは、天の国に生きたいのであれば、この世の束縛を精神的に捨て去りなさいということです。」
 伝道者にだけ求められていることがあります。しかし、それは信徒に求められていることと本質的には同じなのです。信仰と服従が求められていることは、同じなのです。服従の仕方が違うだけです。私たちキリスト者は総体として「新しいイスラエル」と呼ばれます。そのこともよく承知しておかねばならないと思います。

 空や地の模様を見分ける

 イエス様は、弟子たちに対する厳しい言葉を、どこか他人事のように聞いていたであろう群衆に対して、「偽善者よ」ときつい言葉で呼びかけます。彼らは、「空や地の模様を見分ける」ことは知っているのに、「今の時を見分けることを知らない」からです。
 人間は、昔から天気を気にしながら生きてきました。天候は農業、牧畜、漁業すべてに影響がありますし、商売にとっても同様ですから当然でしょう。パレスチナ地方は西に地中海があります。西から湿った空気と共に雲が出てくると雨が降り、南のネゲブ砂漠から風が吹いて来れば、それは熱風なのです。そういう点では分かりやすい。基本的に雨季と乾季しかありませんし。だから、経験を積めば大体見分けることが出来るのです。そして、人々は、その模様を見て雨に備え、暑さに備えます。「見分ける」とは、そういう備えまで含むことです。

 今の時を見分けることができない

 しかし、彼らはイエス様によると「今の時」「見分けることを知らない」のです。だから「偽善者」だとおっしゃる。
 「見分ける」(ドキマゾー)と訳された言葉は、「吟味する」とか「正しいと認める」、「調べる」という意味をもった言葉です。「今の時」(カイロス)とは、ただ単に「今は冬だ」とか、「夏だ」という「時」のことではありません。ルカ福音書で、最初に出てくるのは1章20節です。そこで、天使はザカリアに「時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかった」と言って、ザカリアの口を利けなくしてしまいます。ここに出てくる「時」がカイロスです。
 19章44節にも出てきます。それは9章51節に始まったエルサレムに向けたイエス様の旅が終わった所です。そこで、イエス様はエルサレムを見ながら涙を流しつつこうおっしゃいます。

「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……。しかし今は、それがお前には見えない。やがて時が来て、敵が周りに堡塁を築き、お前を取り巻いて四方から攻め寄せ、お前とそこにいるお前の子らを地にたたきつけ、お前の中の石を残らず崩してしまうだろう。それは、神の訪れてくださる時をわきまえなかったからである。」(ルカ19:42〜44)

 時に関する言葉がいくつか出てきますが、「神の訪れくださる時をわきまえなかった」「時」がカイロスです。ですから、「時を見分ける」とは、生と死、救いと滅びに関わることなのです。
 日本語でも「時すでに遅し」とか「時を捕える」という言葉があり、「後悔、先に立たず」という言葉もあります。今の時を来るべき時のために備えなさい、と教えている言葉だと思います。しかし、聖書に出てくる「時」は、「神の訪れてくださる時」であり、裁きの時なのです。

 裁判官の前に行く時

 そのことを理解させるために、イエス様は続けてこう言われます。

「あなたがたは、何が正しいかを、どうして自分で判断しないのか。あなたを訴える人と一緒に役人のところに行くときには、途中でその人と仲直りするように努めなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官のもとに連れて行き、裁判官は看守に引き渡し、看守は牢に投げ込む。言っておくが、最後の一レプトンを返すまで、決してそこから出ることはできない。」

 ここに出てくる「あなた」とは、訴えられている人です。「最後の一レプトンを返すまで、決してそこから出ることはできない」とありますから、借金を返すべき時が過ぎても返済していない人なのです。貸した方は、これまでも何度も「返してくれ」と言ってきたでしょう。しかし、一向に返す素振りが見えない。そこでついに、彼を裁判官のところに連れていくことになったのです。裁判官の前に立たされれば、有罪を宣告されて牢に投げ込まれるほかにない。そして、当時の最小単位である一レプトン(一円)を返すまで、決して出ることはできないのです。

 自分で判断しなければならない

 訴えられている人にとって「今の時」は、借金返済をしていないことが露わにされてはいても、まだ裁判官の前には立たされていない。そして、牢屋には投げ込まれていない。そういう「時」です。その時にすべき「正しいこと」は何かを自分で「判断」しなければなりません。しかし、群衆はその「判断をしない」。イエス様から見れば、そうなのです。
 だから、イエス様は教えてくださいます。「途中でその人と仲直りするように努めなさい」と。「仲直りする」と訳された言葉(アパラスッソー)は、新約聖書で三回しか使われない珍しい言葉ですが、ここでは「放免されて、その後ずっと自由である」という意味だと解説書には書かれていました。問題は、借金の返済なのです。道中でいくら謝っても、借金を返済できるはずはありません。しかし、何故、無罪放免とされるのか。
 さらに言うと、この人が牢屋に入れられたら、どうやってその借金を返すことが出来るのでしょうか。この人が密かにお金を貯蓄しているとすれば別ですけれど、イエス様はそういう話をしている訳ではないでしょう。彼は借りるだけで返していない。あるいは返せないのです。裁判官に会うまでの道中においても返せないし、牢屋に入れられれば尚更返せません。それは明らかではないでしょうか。だから、「訴える人」が本当に金を返して欲しいと願うのであれば、彼が持っているかもしれない不動産とかを競売にかけて売り払うか、彼自身を奴隷市場に売るはずです。しかし、そういうことを求めている訳ではなさそうです。だとすれば、何を求めているのか。
 イエス様が、群衆に分かって欲しいのは、「あなたたちは、実は借金を抱えながらそれを返さないまま生きている人間なのだ」ということでしょう。しかし、多くの人は分かっていないのです。自分が分かっていないし、今の時が何であるかが分かっていない。

 偽善者よ

 そう考えると、「偽善者よ」という言葉の意味も分かるような気がします。皆さんも、最初に読んだ時にはこの言葉の意味が分からなかったと思います。空や地の模様を見分けることが出来ても、「今の時」を見分けることが出来ないことが、なぜ「偽善者よ」と呼ばれることになるのか、分からないのです。「愚かな者よ」なら分かります。
 でも、イエス様は、かつてこうおっしゃいました。

「偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。」(ルカ6:42)

 ルカ福音書に出てくる「偽善者」は、見るべきものを見ていない人間。大事なことは何も見えていないのに、見えると思っている人間のことなのです。見えると思っているから、危機が迫っていても何の備えもしないのです。

 借金、負債としての罪

 そうなると、次に続くイエス様の言葉は、私たちにとって耳が痛いものになります。聖書では、罪はしばしば負債、借金に例えられるからです。それは、神様から今を生きる命を与えられているのに、人はその命を神様のために用いないからです。まるで自分のものであるかのように、好き勝手に生きている。借りているのに、永遠に自分のものであるかのように振舞っている。それは、神様に対して、負債の上に負債を積み重ねているようなものなのです。しかし、私たちはその現実は全く見えていない。自分の罪を見分けることが出来ないのです。
 酒におぼれたり、薬物で身を持ち崩したりしてしまった人を「あの人は人生を浪費している。破壊している」と正しく批判することはできても、自分のことは見えていない。浪費や破壊が「おが屑」程度だと、自分は正しいと判断している。でも、丸太であれ、おが屑であれ、目の中に異物が入っている限り、実は何も正しくは見えていないのです。自分の本当の姿も、今の時が何のためにあるかも見えていないのです。しかし、見えていると自分は思っている。
 そういう人間を、主イエスは「偽善者」と言うのです。偽善者のままでいて欲しくないからです。「偽善者」と言って切り捨てるためではなく、神様との和解、平和に導くためです。偽善者にとって今は、その導きに応えるべき時なのです。神の訪れの時までに、人生が終わる時までに、私たちは主イエスの言葉を見分け、何が正しいかを自分で判断しなければなりません。

 神の訪れの時

 12章は、イエス様のエルサレムに向う旅の途中であることを言いました。その旅は、9章51節に始まり、エルサレムに到着するという意味では、19章44節で終わります。イエス様が泣きながら、エルサレムの滅亡を予告する所です。
 主の言葉どおりヨハネが誕生した時に、口が利けるようになったザカリアは、「主はその民を訪れて解放する」と預言しました。半年後に誕生する主イエスは、民を解放するために訪れる方だと預言したのです。しかし、解放という救いをもたらすために訪れた主イエスが、泣きながら滅亡を予告しなければならなくなるのです。何故でしょうか。
 今、世界の各地で紛争が勃発しています。ウクライナでもイラクでも人々が殺し合いを続け、南シナ海でも、日本海でも不穏な状態が続いています。
 私たちの国は、国民的議論がないままに、一部の政治家たちが、集団的自衛権からさらに集団的安全保障にまで乗り出すための手続きをしようとしています。既に武器輸出を解禁し、先日開催されたフランスにおける武器の国際展示会に、日本の企業も様々な武器を展示していました。防衛副大臣が、嬉しそうに訓練用の機関銃をもって狙いを定める振りをしていました。人を殺す道具を持つことが何故嬉しいのでしょうか。金儲けになるからでしょう。
 私たちの国において、つい先日まで、考えることもできなかった光景です。でも、ある人々はこの時を待ち望み、そのためにずっと備えていたのです。戦争をしない国として存在し続けるべきだと思うのであれば、こうなる前にすべきことをしなければならないのです。富を求めて人殺しに過ぎない戦争を繰り返す「普通の国」になるべきだと思う人々が、それぞれの時を捕えて備えをしてきたようにです。今の私たちの国の現実を見ると、この国では、「普通の国」を目指す人の方が多くて、ずっと前からこの時に備えてきたのだ言わざるを得ない感じがします。
 私にしてみると、最近よく耳にする「積極的平和主義」とは、「平和の道をわきまえていない」と言わざるを得ないものです。仮想敵国を増やし、仮想敵国から攻撃される「時」を強く意識しているのでしょうが、神の訪れの「時」があることは意識していない。全く、見えていない。考えたこともないのです。自分が神だからです。

 アダム カイン カインの末裔

 蛇の誘惑に落ちた人間は、禁断の木の実を食べ、目が開け、自分が神のような存在であると錯覚し始めました。皮肉なことに、目が開けることによって、裸であることを恥と感じ、葉っぱで腰を隠し始め、神様が出てくると全身を葉っぱの陰に隠すようになったのです。それでも、悔い改めない。だから、神様は彼らをエデンの園の外に追放しました。そこは、自らを神として生きることができる世界でもあります。
 その世界で誕生したカインは、神が止めたにも拘わらず、弟のアベルを殺しました。最初の人間から生まれた最初の子は人殺しなのですから、人殺しをするのは「普通の人間」なのだとも言えます。人は人を殺すものなのです。戦争をするのが、「普通の国」であるのと同じように。
 カインは、神様の憐れみを受けました。神様から死の罰を与えられず、彼を殺そうとする者からも守られたのです。でも、彼は悔い改めを拒みました。そして、野蛮な文明を築く人類の先祖になっていったのです。人類の歴史は、「カインの末裔」の歴史であると言わざるを得ない面があるのです。カインの子孫のレメクは、「わたしは傷の報いに男を殺し、打ち傷の報いに若者を殺す。カインのための復讐が七倍なら、レメクのためには七十七倍」と、二人の妻に嘯(うそぶ)きました。こういう言葉を、新聞テレビで聞かない日はありません。しかし、私たちもまたそういう言葉を発しない訳ではないでしょう。他人の「おが屑」ばかりを指摘している訳にはいきません。

 今のこの時、どこに向っているのか

 私たちの世界は、私たちの国は、そして私たち一人ひとりは今この時、どこに向っているのでしょうか。平和な楽園に向っているのでしょうか。裁判官の前に向っているのではないでしょうか。審判が待っているのではないでしょうか。目に見えるものは、何もかも永遠な存在ではないのです。必ず終わりが来ます。最後の審判の時、私たちは自己を弁明できるのでしょうか?「借金などしていません、借金は返しました」と、言えるのでしょうか。そもそも、私たちは神様に対する負債をどのように返すことができるのでしょうか。裁判官の前に立つ時までに、それが出来るのでしょうか。あるいは牢屋に入れられた後、それが出来るのでしょうか。
 出来ないのです。私たちが目を開いて見なければならない事実は、そのことなのです。呑気で無自覚な群衆でいてよいわけではない。主イエスは、そう語りかけておられると思います。

 収穫の時

 先ほど、裁判官のところに行く道中で、借金を返済することは不可能だし、まして牢屋に入ったら尚更不可能だと言いました。イエス様は、その不可能性を見つめ、認めることを私たちに勧めておられると、私は思います。そして、その不可能を可能にする唯一の道を切り開くために、イエス様は、この時、エルサレムに向っているのだと思うのです。神様と私たちの間に「平和の道」を造り出すためにです。その事実を、私たちが見分けることができるか。それが問題なのです。
 イエス様は、エルサレムについて以降、ユダヤ人の支配者たちに本格的に命を狙われ始めます。そういう現実の中で、イエス様は、彼らのことをぶどう園の農夫に例えました。その農夫たちは、収穫の時、すべての収穫を自分のものにするために、主人から送られてきた僕を次々と三人も袋叩きにして追い返したり、放り出したりするのです。そこで、主人は愛する息子を送ります。「この子ならたぶん敬ってくれるだろう」と思ってのことです。しかし、農夫たちは「これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる」と言って殺してしまうのです。
 律法学者や祭司長たちは、この譬話が自分たちへの当てつけであることを悟って、イエス様を殺そうとします。でも、民衆を恐れてその時は手を下せませんでした。

 神のものは神に返す

 その後、彼らは使いを遣わして、ローマの皇帝に税金を納めるべきか否かをイエス様に問わせます。この問いに対して、イエス様が「皇帝に税金を払うべきではない」と答えるとしたら、彼らはイエス様をローマへの反逆者として訴えることができるからです。
 その時、イエス様はローマの貨幣に皇帝の肖像が刻まれているのを確認させてから、こうおっしゃいました。

「それならば、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」  (ルカ20:25)

 私たちが神に返すべきものとは、何でしょうか。それは、私たち自身なのです。私たちは誰でも、神の像に象って造られた人間だからです。神様を愛し、信じ、賛美するために造られたのです。その存在と言葉と行いを通して、神様の栄光を称えるために造られたのです。私たちは、神様が喜びをもって収穫すべき財産でもあるのです。しかし、私たちはすべてを自分のものにしようとします。そのことが罪であり、負債であり、それが神様と私たちの間の平和を壊しているのです。しかし、私たちの目には「おが屑」とか「丸太」が入っていて、その事実を見ることができません。だから、私たちは悔い改めない。その時、私たちは「偽善者」であり続けるのです。それは、弟子たちも同じです。

 平和があるように

 しかし、そういう弟子たちを主イエスは訪れてくださいました。平和をもたらすためにです。それはどのようにしてか。それは、ご自身をあの十字架の上に捧げることによってです。十字架の上で「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と祈ることによってです。そのようにして、私たちが返すべき借金を最後の一レプトンまで返してくださったのです。そのようにして、私たちの罪を赦し、罪の支配からの解放を与え、無罪放免としてくださったのです。
 その十字架の主イエスの姿を見分けることができるか否か、それが私たちの救いにとって決定的なことです。

 心の目が開かれる

 ペトロを初めとする弟子たちは、主イエスが逮捕されると同時に逃げ去りました。命を自分で守ったのです。そのことでむしろ命を失ってしまった。でも、主イエスの十字架の死から三日目の日曜日の夜、復活の主イエスが彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われたのです。弟子たちは、最初、幽霊を見ているのかと思いました。しかし、「イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて」、こう言われました。

「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」(ルカ24:46〜49)

 弟子たちの「目を開いて」くださったのは、主イエスです。私たちにとっては、聖霊です。「高い所からの力」である聖霊の導きによって聖書を読むことができる時、私たちの「心の目が開かれ」ます。そして、主イエスこそ私たちのメシア、救い主であり、私たちに罪の赦しを得させる悔い改めを与えてくださる方であることが分かるのです。この方が私たちの負債を全部返してくださった方であり、罪と死の束縛から解放してくださり、神の像をもった人間として私たちを造り替えてくださるお方であることが見えるのです。
 ただその時にのみ、私たちは偽善者ではなくなります。見るべきものが見えるからです。今は聖霊の時であり、全世界にイエス・キリストの福音、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられるべき時であると見分けることができ、信仰と伝道に生きることこそ正しいことであると判断出来るからです。
 今、この礼拝においても聖霊が注がれ、私たち一同が、平和の内にこの世へと出ていき、神と人に愛をもって仕えつつ、主の福音を証することができますように祈ります。

ルカによる福音書説教目次へ
礼拝案内へ