「あなたも悔い改めなければ」
13:1 ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。13:2 イエスはお答えになった。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。13:3 決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。13:4 また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。13:5 決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」
13:6 そして、イエスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。13:7 そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』13:8 園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。13:9 そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」 大阪女学院 中一修養会 私は先週の日曜日の晩に大阪に行き、月曜日から水曜日にかけて大阪女学院中学一年生の修養会に講師として参加してきました。もう四回目になります。生徒のほぼ全員が、大阪女学院に入って初めてキリスト教に触れた子たちです。 十二歳の女の子に、一時間半の講演で語りっぱなしではもちませんから、映像を使ったり、脚本を書いて先生たちに寸劇を演じてもらったりして、聖書の記事と現代の問題がどれ程深いつながりがあるかを話します。 毎年、必ずされる質問は、「なぜ牧師になったのか」なのですが、今年はそれに加えて、「牧師としての最終目標は何ですか」とか、「何歳まで生きたいですか」、「牧師さんは、毎週日曜日には、ちゃんと教会に行っているのですか」、「月曜日から土曜日までの休みの日は何をしているのですか」という質問がありました。「ちゃんと教会に行ってるに決まってるやろ」とか「月曜日の今日だって、こうして仕事してるやんか」とか言いながら、楽しく答えました。あっちに行くと、私はすぐに怪しげな関西弁になります。 ちなみに、「牧師としての最終目標」と「何歳まで生きたいか」という問いは、今日の箇所とも関係すると思うので簡単に触れておこうと思います。 私は、二〇代後半で牧師になりました。その時も今も、同じ目標というか願いをもっています。それは幼子から死を間近にした人まで、どんな人とも聖書の言葉を分かち合える人間でありたいということです。そういう人間であるためには、小さな子どもが話す言葉も、青少年が話す言葉も、大人たちが話す言葉も、高齢の方たちが話す言葉も、よく理解しなければならないでしょう。様々な言葉の世界、あるいは次元に合わせて聖書の言葉を語らなければなりません。だから、中学一年生の言葉を聞き、彼女らに語りかける機会を与えて頂くことは、私にとっては非常に貴重なことです。毎回、生徒が書く感想文には慰められますけれど、今年のある生徒は、感想文の冒頭にこう書いてくれました。原文のまま読みます。 「わたしは、この講演が始まる前までは、えん説とかほんまいらんわ〜〜、聞いてもなにもわからへんし、寝とこっかな〜って思ってました。けど、講演の一回目の方を聞いて、終わった後、なんだかすごく気分がよかったです。なんだか言葉では上手に説明できないようなすごく満足してて、ずっとおもいっきり笑っていることしかできなかったです。なんか、ほんまに、めちゃすごかったです。牧師さんの言葉がほんまに少しずつしみこんできて、じっくりじっくり、理解して、わたしのものになったような感じがしました。」 「聖書の言葉は、ちゃんと語ることができれば、誰にでも通じるはずだ」というのが、牧師になる時の私の確信ですから、今年もそういう確信を深めてくれる経験をさせて頂きました。神の言は心を開き、耳を澄ます人の心に種となって蒔かれていきます。その種が成長して実を結ぶに至るかどうかは分かりません。だから、祈るしかないのです。 OSさん 女学院の修養会に招かれた時は、大阪にもう一泊して、尼崎の高齢者施設に入所されている地方会員のOSさんをお訪ねします。ご長女である地方会員のSMさんも、車で四十分程度の所におられるので、いつもご一緒です。今回は、次女のご夫妻もSMさんの御主人も一緒でした。OSさんらが東京にお住まいだった頃、近所づきあいをされていたSTさんが、今年も東京から駆けつけてくださいました。 OSさんは、八十六歳になられます。脳梗塞の後遺症で右半身と言語に重い障害があります。一年毎に少しずつ痩せてこられましたし、表情も乏しくなっています。 いつも廊下の端にある広場でテーブルを囲み、小さな集会をします。先日は、ご家族の方からリクエストされた讃美歌532番、「ひとたびは死にし身も、主によりて今生きぬ・・・いつか主に結ばれつ、世にはなきまじわりよ」を歌いました。その後、「わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す」というイザヤ書の御言を読み、OSさんの顔のすぐ近くで短く語りかけました。最初に「ひとたびは死にし身も、主によりて今生きぬ」の解説から始めました。「イエス様を主と信じる告白をし、洗礼を受けた時に、私たちはひとたび死んだのです。今は、主イエスと共に新しい命を生きています。この命は肉体の死を越えた命ですから安心です」と語り始めました。 黙って前を見ながら聞いていたOSさんでしたが、しばらくすると、「うん」と頷いてから、私の方を見て、麻痺がない左手で握手を求めて来られました。それは、「今日も、私たちの造り主である神様が、私たちを担い、背負い、救いに導いていてくださる。その愛を、今日も思い出しましょう。私たちはしばしば忘れてしまうから、今日も思いだしましょう」と、語っていた時です。 何歳まで生きたいか 中学一年の女の子に「何歳まで生きたいか」と問われた時、私は、「もちろん今死にたいとは思わないし、与えられる限り生きたいと願っている。でも、いつ死んでもよいとも思っている」と答えました。そして、続けてこう言いました。「皆さんは、自分のことをなんと紹介しますか。『私は大阪女学院の一年生です』とも言えるし、『私は女です。私は日本人です』とも言えるでしょう。『私は〜〜です』といくつも言えると思います。でも、その後に、『だからいつ死んでも大丈夫です』と言える自己紹介はないと思います。私は主イエスを信じ、洗礼を受けたクリスチャンですから、『私はクリスチャンです。だからいつ死んでも大丈夫です』と言えます。いつ死ぬかは誰も分からないのだから、私はクリスチャンとして命ある限りイエス様の愛を信じて、その愛を伝えて生きていきたい」と言いました。 この世の支配者たちによる死 豊かな自然と田園に囲まれた丹波篠山の施設にも新聞やテレビはありますから、イスラエル人とパレスチナ人の間に起こっていることの報道は読んでいました。イスラエルの少年たちが誘拐された上に殺害され、報復にパレスチナ人の少年が焼き殺される。そして、敵対勢力ハマスの拠点だけを狙っているというイスラエルによる空爆で、民間人が殺され続けています。今朝の新聞によると既に百二十七人になっています。その中に、何人もの子どもたちがいるのです。この世の支配者たちは、自分たちの行為の正当性を主張しています。その「正しいこと」の中に、民間人や子どもの殺害も入るのでしょう。この世の支配者は、いつも安全な場所にいますし、彼らの子どもたちも、空爆で殺されるようなことはないのです。 自然災害による死 帰りの新幹線の車中で、土石流に呑み込まれた一家の十二歳の長男が死んでしまったことを知りました。女学院の子と同じように、学校の宿泊行事から帰った晩のことです。母親や弟たちに、臨海学校で楽しかったことを話した数時間後のことでしょう。何ということかと思います。残されたお母さんや幼い弟たちの気持ちを思うと、胸が苦しくなります。 ちょうどそのとき ルカ福音書13章は、「ちょうどそのとき」から始まります。「ちょうどそのとき」は、直前のイエス様の言葉に繋がります。そこで、イエス様は群衆に向って、「どうして今の時を見分けることを知らないのか」と言い、「あなたがたは、何が正しいかを、どうして自分で判断しないのか」とおっしゃっていました。そして、今の時とは「裁判官のもとに連れて行かれる」途上の時であり、その時にすべきことは、訴える人と「仲直りする」ことであると語っておられたのです。 「ちょうどそのとき」、ローマの総督ピラトが、「ガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことを」告げる人々がいたのです。「ガリラヤ人」とは、ガリラヤ地方に住むユダヤ人のことで、しばしばローマの支配に対する抵抗運動を展開したようです。ここで言われていることが、具体的にどういうことであるかはよく分かりません。エルサレム神殿に犠牲を捧げに来たガリラヤ人の幾人かを、ピラトはローマに対する反逆者と見做して殺害し、ユダヤ人の聖所を汚し、屈辱を与えたのかもしれません。 そういう残虐行為がローマ人への憎しみを増長し、大規模な反乱を用意するのです。そして、結局、市民たちの虐殺がなされることになる。今のイスラエルとパレスチナの関係を見ても分かるように、人間の歴史はそういうことの繰り返しなのです。 あの壊滅的な敗戦を経験することによって、戦争を放棄すると宣言した憲法を掲げてきた私たちの国も今、再び戦争を正当化し、さらに美化までする国になりつつあるように、私には思えます。今、この時に、何をすることが正しいか、考えざるを得ません。それは、私たち一人ひとりの課題だと思います。 問題は、生きている人間の今 話をピラトの残虐行為に戻します。こういう血生臭い出来事が起こった時、私たちはどう思うのでしょうか。まずは、殺された人に同情し、気の毒だと思うでしょう。そして、自分でなくて良かったと思う。さらに、なぜ彼らはそのような殺され方をしてしまったのかと思うこともあります。殺した側に対して、憎しみをつのらせることもあります。その一方で、殺された側にも何かの原因があるのではないかと思うこともあります。何か悪いことをしていたのではないか。だから、あれは罰だったのではないか、と。こういう因果応報的な考え方は古今東西に見られるものです。でも、イエス様は、厳しく拒絶されます。「決してそうではない」と。 その後に、イエス様は殺された原因を説明したり、死後の彼らの状態について説明したりしません。問題は、生きている人間なのです。この時、主イエスの周りを取り囲んでいる弟子たちや群衆がどう生きるかが問題なのだし、今も生きておられる主イエスの言葉を聴くためにこの礼拝堂に集まっている私たちが、どう生きるかが問題だからです。人の死の原因やその後のことを、他人事のように語り合うことに意味はありません。それは無責任なことだし、空虚なことです。 突発的事故による死 イエス様は、そういう無責任にして空虚な思いに陥りがちな私たちに畳みかけてきます。 「シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。決してそうではない。」 今度は、突発的な事故による死です。エルサレムの町を囲む城壁の上に建っていた塔がいきなり倒れてきて、たまたまそこにいた十八人もの人が死んでしまったのです。こういうことは、今もよくあることです。自然災害に巻き込まれることも、同じことです。どうしてその人々が死ななくてはならなかったかは、誰にも分からない。人々の方に原因がないとすれば、神がやったことなのか。神は無辜なる市民を殺すのか。神は正しいことをしているのか。そういう問いも起きます。 しかし、そう思う時、私たちは「今の時を見分けている」のか、また、今の時に、「何が正しいか」を自分で判断し、正しいことをしているのかと自らに対しても問うべきでしょう。 ぶどう いちじく イエス様は、続けて譬話をされます。それは、ぶどう園に植えたいちじくの木が三年経っても実を結ばないことに腹を立てた主人が、園丁に「切り倒せ」と命じる話です。しかし、園丁はこう答えます。 「御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥しをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。」 この譬話において、いちじくの木は園丁の必死の執り成しの故に、切り倒されるまでの猶予を与えられているのです。 「ぶどう」や「いちじく」は、旧約聖書においてはイスラエルの民の象徴としてしばしば登場します。神様が、収穫を期待するものです。預言者ミカは、こう語っています。 「悲しいかな わたしは夏の果物を集める者のように ぶどうの残りを摘む者のようになった。 もはや、食べられるぶどうの実はなく わたしの好む初なりのいちじくもない。 主の慈しみに生きる者はこの国から滅び 人々の中に正しい者はいなくなった。 皆、ひそかに人の命をねらい 互いに網で捕えようとする。」(ミカ書7:1〜2) 神様が期待する収穫とは、「主の慈しみに生きる者」です。しかし、そういう者たちは滅んでしまった。いなくなったのです。神の慈しみに縋り、信じ、罪の赦しを乞い求めつつ、神様の愛を証する者たちはいない。皆、自分の利益のために人を殺し、罠をかけながら、自分は正しいことをしていると思い込んでいる。そういう人々にとっては、利益を求めるための人殺しである戦争さえも「正しいこと」なのです。恐るべきことです。 今は何の時か しかし、この譬話には旧約聖書には登場しない「園丁」が登場します。園丁は、「出来る限りのことをするから、切り倒すのを一年間待って欲しい」と主人に懇願します。いちじくの木が切り倒されないで済んでいるのは、この園丁のお陰なのです。しかし、そうは言っても、来年までに実を結ばなければ切り倒されることは確実です。直前の話で言えば、裁判官の前に立つまでに訴える人と仲直りしない限り、牢屋に叩きこまれて出て来られなくなる。今は、そういう時なのです。その時に、何をすることが正しいのか。私たちは、自分で判断しなければなりません。 罪深い者 そこで、前の段落に戻ります。新共同訳聖書では、両方とも「罪深い者」と訳されています。原文では2節の方はいわゆる「罪深い」という意味の言葉で、4節の方は「負債」を意味する言葉が使われています。「罪」を神様に対する負債、返すべき借金を返していない状態と表現しているのです。せっかく植えて貰ったのに、いつまでも主人に対して実を結ばない状態のことです。 主イエスは、残虐な支配者に殺されることも、突発的な事故によって命を落とすことも、罪に対する神の罰であるとは言いません。私たちは、病や災難が重なったりすると、「私は、こんな目に遭うような悪いことをしたのか」と思ったり、「神様は不公平だ、意地悪だ」と考えがちです。そういう私たちに、主イエスは問いかけます。 「あなたがたは罪深い者ではないのか。神様に対して何の負債もないと思っているのか」と。 滅びる ここで考えなければならないのは、「災難に遭った」とか「塔が倒れて死んだ」ことと、「あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」と言われる「滅びる」は、同じ意味なのか、です。 ピラトに殺されたり事故で命を落とした人々のことを、「どのガリラヤ人よりも罪深く」「エルサレムに住むどの人々よりも罪深い者(負債の多い者)」であると考えることに対して、イエス様は「決してそうではない」と言っておられます。しかし、「それらの人々には罪がない」と言っているわけではありません。 主イエスは、「あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」とおっしゃっています。それは、実は死んだ人たちにも当てはまることなのです。イエス様にとっては、悔い改めていない人間は既に滅びの中に生きているからです。その「滅び」とは、肉体の死のことではありません。だから、イエス様は「あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように死ぬ」とは言わないのです。 死んでいた いなくなっていた 先ほど、預言者ミカの言葉を読みました。そこに、「主の慈しみに生きる者はこの国から滅び、人々の中に正しい者はいなくなった」とありました。ここでは、「滅びる」と「いなくなる」は同じ意味であり、ギリシア語ではアポリューミという言葉です。「滅びる」は「死滅した」という意味ではありません。 ルカ福音書で、アポリューミが頻出するのは15章です。群れから離れて迷子になってしまった一匹の羊の話、失われた一枚の銀貨の話があり、最後に父親の遺産を生前分与させた上で家出してしまった弟息子の話が出てきます。その中に出てくる「見失った」とか「無くした」が、「滅びる」と同じアポリューミです。そして、豚の餌を食べたいと思うほどに落ちぶれた弟息子が、雇い人の一人にしてもらいたいと家に帰ってきた時、父親は家から走り出て息子を抱きしめました。その時、父親は「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ」と言いました。「いなくなっていた」がアポリューミです。父親にしてみれば、「いなくなっていた」は「死んでいた」と同じなのです。この場合の「死んでいた」は、父親との関係性において死んでいたということです。そのこと自体が、神様から見れば「滅び」なのです。 悔い改め 15章を貫く主題は「悔い改め」です。これは、ルカ福音書を貫く主題と言ってもよいと思います。主イエスは、「悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある」と言い、「一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある」とおっしゃいました。それは、死んでいた者が生き返ることだからです。神様が喜ばれることは、罪によって死んでいた者、滅んでいた者が、生き返ることであることは当然だし、私たちにとって最大の喜びは神様に喜んで頂けることでしょう。 切り倒す これらのことを併せて考えれば、今日の箇所で主イエスがおっしゃっていることは明らかだと思います。主イエスは、「地上に生きている今、あなたがたは悔い改めなければならない。それこそが『今の時を見分け』ることであり、その時になすべき『正しい』ことだ」と、おっしゃっているのです。 「悔い改める」とは、悪事を犯したことを悔いるとか反省するという意味ではなく、本来生きるべき場に帰ることです。神様との愛の交わりの中に帰ることです。神の家に帰ることだと言ってもよい。「園丁」のお陰で、私たちはまだ猶予を与えられているのですから、その時を無駄にしてはならないのです。 洗礼者ヨハネは、真実の悔い改めをすることなく、見せかけの洗礼を受けようとする人々に向ってこう言っていました。 「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。……斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」(ルカ3:7〜9抜粋) このヨハネの後に宣教を開始した主イエスは、いちじくの木を愛する「園丁」として、「私が精いっぱいのことをやりますから、今年もこのままにしておいてください」と、ぶどう園の主人である神様に頼んでくださるのです。「このままにしておいてください」はアフィエーミという言葉の命令形です。「赦す」という意味なのです。主の祈りの「わたしたちの罪を赦してください」がそうだし、「もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい」という主イエスの言葉の中にも出てきます。最後に出てくるのは、あの十字架の祈りです。 主イエスは、ついに悔い改めることなく、ご自身を十字架に磔にして、正しいことをしたと確信している者たちのために、こう祈ってくださいました。 「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23:34) 「父よ、彼らをそのままにしておいてください。私が彼らのために死に、復活し、そしてこれからも語りかけますから」ということです。 この言葉を聞いて、イエス様の隣の十字架に磔にされていた犯罪者は衝撃を受けました。そして、悔い改め、罪の赦しを乞い求めたのです。イエス様は、その彼に対して、こうおっしゃったでしょう。 「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」(ルカ23:43) この時、彼は、「死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった」のです。この時、「神の天使たちの間に喜びがある」のです。もちろん、悔い改めた罪人は、滅びから救い出された喜びが与えられました。その喜びは、肉体の死を越えた喜びです。 私たちキリスト者は、主イエスによって与えられた悔い改めと信仰によって「ひとたびは死にし身も、主によりて今生きる」者たちなのです。どうして、感謝しないでいられようかと思います。 一緒に楽園にいる 宗教改革者のマルティン・ルターは「キリスト者の全生涯は悔い改めである」と言いました。それは、うじうじと後悔しながら生きることではありません。「あなたは今日、わたしと一緒に楽園にいる」と宣言されながら生きることです。この宣言を聞いた後、犯罪者は十字架の上で死にました。犯してきた罪に対する、人間の裁きを受けて死んだのです。でも、滅びたのではありません。彼は真の裁判官の御前に立つまでに訴える者と仲直りし、切り倒される前に悔い改めに相応しい実を結んだのですから。 神の愛 最後に、パウロの言葉を読んで終わります。彼は、私たちのために執り成してくださるイエス様に対する溢れる感謝と賛美をこのように語ります。 だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。(中略) これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。(ロマ書8:34〜39) 私たちの人生は、いつ何時どのような形で終わるかしれません。この世界もいつか終わります。地球という天体も永遠不変なものではありません。しかし、何が起こっても、「わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」悔い改めによって知ることは、そのことです。だから、私たちは今この時、悔い改めるように招かれている。救いへと招かれている。 その招きに応えて、天上の喜びの賛美を聞きつつ、私たちも心からの賛美を捧げたいと願います。 |