「安息日の解放」

及川 信

       ルカによる福音書 13章10節〜17節
   
13:10 安息日に、イエスはある会堂で教えておられた。13:11 そこに、十八年間も病の霊に取りつかれている女がいた。腰が曲がったまま、どうしても伸ばすことができなかった。13:12 イエスはその女を見て呼び寄せ、「婦人よ、病気は治った」と言って、13:13 その上に手を置かれた。女は、たちどころに腰がまっすぐになり、神を賛美した。13:14 ところが会堂長は、イエスが安息日に病人をいやされたことに腹を立て、群衆に言った。「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない。」13:15 しかし、主は彼に答えて言われた。「偽善者たちよ、あなたたちはだれでも、安息日にも牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くではないか。13:16 この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか。」13:17 こう言われると、反対者は皆恥じ入ったが、群衆はこぞって、イエスがなさった数々のすばらしい行いを見て喜んだ。

 2010年11月7日から始めたルカ福音書の連続講解説教も、百回目を迎えました。24章まで何回掛かるか分かりませんが、少しずつ読み進めて行きたいと思います。水曜日の聖研祈祷会では今24章を読んでおり、9月には終わると思います。その後は、ルカ福音書の続編である使徒言行録に入ろうかと思っています。中渋谷教会は、3年後には創立百周年を迎えますし、その後には新たな伝道拠点としての会堂建築が控えています。その時期に、エルサレムに誕生した初代教会が、様々な困難に直面しつつ福音の伝道を展開していった様を読み続けることは相応しいと思うからです。

 福音

 今、「福音」と言いました。「幸福をもたらす知らせ」という意味です。しかし、主イエスがもたらす「幸福」と、この世で考えられている「幸福」は違います。両者は時に対立し、一方を取れば他方を捨てなければならない。そういうこともあるのです。強い違和感を経て与えられるもの、手にするものだと思います。ですから、「福音を宣べ伝えたい」と言っても、福音を聞いた者がすべて「良い知らせを聞いた。信じます」となるはずもありません。多くの人は違和感や反発を抱き、警戒心を抱くのです。かつては、私たちもそうでした。この世を生きている限り、この世に順応していた方が楽にきまっています。その「楽」が幸福を意味する場合もありますから、福音の伝道は楽ではありません。でも、そこにこそ「幸福」がある。その幸福は、実に小さな、目立たないことから始まることが多いのです。それは、同じ安息日の会堂で主イエスが語られた「神の国」に関する譬話を読めば分かります。

 神の国

 そこで、「神の国」は小さな「からし種」やパン粉と見分けのつかない「パン種」に譬えられています。からし種は小さなものの象徴であり、パン種は粉に混ざれば目には見えなくなります。種が、地にまかれると、いつしか多くの鳥が巣を作る大きな木になっていきます。種の成長は、種が大きくなることではありません。また、パン種(イースト菌)は、粉と同じように見えます。でも、そのパン種をたくさんの粉に混ぜると、粉全体を膨らませてパンにするのです。最初は小さなものや目には見えないものが、形を変えて大きく成長していく。その事実を見ることが出来るか。その事実の中に、身を投じることが出来るか。そのことが、絶えず新たに問われているのだと思います。

 安息日の会堂で教えること

 今日の箇所は、このように始まります。

「安息日に、イエスはある会堂で教えておられた。」

 この言葉を読む時に、私たちが思い起こすべきは4章の言葉です。洗礼者ヨハネから洗礼を受け、聖霊の注ぎを受けた主イエスは、直後に悪魔の試みに遭われましたが、御言葉をもって勝利されました。その後、ガリラヤ地方の諸会堂で神の国を教え始めるのです。
 ある安息日に、イエス様は故郷であるナザレの会堂に入り、イザヤ書の言葉を読まれました。

「主がわたしを遣わされたのは、
捕らわれている人に解放を、
目の見えない人に視力の回復を告げ、
圧迫されている人を自由にし、
主の恵みの年を告げるためである。」
(ルカ4:18)

 主イエスは「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と言って話し始められました。説教されたのです。最初はイエス様が語る「恵み深い言葉」に人々は感嘆していました。でも、イエス様が彼らの罪を指摘し始めると豹変し、イエス様を崖の上にまで連れて行って突き落とそうとしたのです。
 「解放」「視力の回復」「自由」を与える「福音を告げ知らせる」ことは、主イエスにとって最初から命懸けのことなのです。語れば語るほど危険が身に迫って来るのです。何故でしょうか。罪に捕らわれている人は、自分は捕らわれてないと思っており、自分は何もかも見えており、自由に生きていると思っているからでしょう。また為政者たちは、自分に逆らう者を圧迫しながら、パンと娯楽を与えることで自分たちの支配の本質を見えなくします。そういう彼らにしてみれば、人々の視力を回復させて、解放と自由を与える人間は危険人物です。また、皮肉なことですけれど、捕らわれていること、見えないこと、圧迫されていることに慣れ親しんだ人々にとっても、主イエスは危険な人物である場合があるのです。
 この世に神の国をもたらす、この世の支配の中に神の支配をもたらす、この世の秩序の中に神の秩序をもたらすとは、古い革袋に新しいぶどう酒を入れることです。新しいぶどう酒は発酵して膨張しますから古い革袋を破り、ぶどう酒も無駄になります。だから、ぶどう酒にとっても革袋にとっても危険なことです。主イエスは「古いぶどう酒を飲めば、だれも新しいものを欲しがらない。『古いものの方がよい』と言うのである」とおっしゃいます。今日、この「会堂」に集まっている私たちは、主イエスの言葉を新たに聴いて何と言うのか。「慣れ親しんできた古いぶどう酒の方がよい」と言うのか、それとも、「古い私を壊して、新しく造り替えてくださることを感謝します」と言って、神を賛美するのか。そのことが問われることになります。身がすくむようなことです。

 病気は治った・解放された

 話を13章に戻します。安息日の会堂の中には、「十八年間も病の霊に取りつかれている女」がいました。彼女は腰を伸ばすことができないのです。その日に、初めて会堂に来た訳ではないでしょう。これまでも、安息日ごとに会堂に来ていたのだけれど、彼女に目を留める者がいなかったのだと思います。自分と無関係な現実だと思えば、私たちは目を留めないものです。その人がいてもいなくても関係ないのです。まして、その人の心の中にある思いなど想像することもありません。
 でも、イエス様はその女性を見ました。そして、「十八年間もの間サタンに縛られて」いることを洞察され、そこにある苦しみ、悲しみ、嘆きを想像されたのだと思います。「十八年」とは、長い期間を表す言葉なのだろうと思います。
 イエス様はその女を見ると、すぐに「呼び寄せ」ました。恐らく会堂の一番後ろに前かがみになって座っていた女に、出てくるように呼び出されたのです。記されてはいませんが、彼女は招きに応えて前に出て行ったのです。群衆の目は彼女に注がれたでしょう。イエス様は、彼女にいきなりこうおっしゃいました。

「婦人よ、病気は治った。」

 その女がイエス様に癒しを願った訳でもないし、周囲の人々が「癒してください」と頼んだ訳でもない。呼び出しに応えて前に出てきた女に、いきなり「病気は治った」と言われたのです。直訳では、「病気から解かれた」「解放された」です。ここでは、そのように訳すべきだと思います。受身形ですし、これまでの癒しの記事や、この後の会堂長の言葉の中に出てくる「治る」(セラペウオー)とも違う、「〜から解放する」(アポルオー)という言葉が使われているからです。「捕らわれ人を釈放する」とか「罪を赦す」という意味がある言葉です。
 「手を置く」は、病気の癒しの時の動作です。日本語で言えば「手当て」でしょう。でも、ここではイエス様が女を見てすぐに「あなたは病から解放された」とおっしゃったことが大事なのだと思います。当時の人々は、不治の病は神に見捨てられた徴であり、罪に対する裁きでもあり、主イエスの言葉にもありますように「サタンに縛られていた」ことなのです。だから、主イエスにとって、この時の病の癒しは、彼女をサタンの束縛から解放し、罪を赦す神の救いの御業なのです。
 そのことを彼女は知ったので、「女は、たちどころに腰がまっすぐになり、神を賛美した」のです。普通だったら、治してくれたイエス様に感謝するはずです。しかし、彼女はここで「神を賛美した」のです。ここで何が起こっているのかを、私たちは見極めなければなりません。

 安息日

 会堂には、会堂長と呼ばれる責任者がいました。会堂長は、「イエスが安息日に病人をいやされた(セラペウオ―)ことに腹を立て」ました。女の喜びを共にしつつ神様を賛美したのではなく、腹を立てた。イエス様が、安息日にしてはならないことをしたからです。そのことを黙認すれば、会堂長としての自分の立場を守れません。でも、彼はイエス様に面と向かって文句を言いません。群衆に言うのです。そこに、彼が心に抱くある種の怖れが隠されているでしょう。

「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない。」

 律法の中心とも言うべき「十戒」(出エジプト記)に、人々は六日間働くべきこと、七日目は「主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない」と定められています。この戒めは、イスラエルの民にとって極めて大切なものであり、安息日を守ることが割礼と共に彼らが神の民であることの印となっていきました。
 仕事をしてはならないのは、「あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である」と続きます。つまり、一家の主人だけでなく、子どもたちも、奴隷も外国人も、さらには動物までも休まなければならないのです。
 この戒めは、経済的効率には反するし、身分や地位の上下を作りたがる人や外国人を差別したい人にとっては面白くない戒めでしょう。でも、それが天地をお造りになり、ご自身の像に象って人をお造りになった神様の意志なのです。安息日には、神の安息に与る。天地を造り、自分たちを造り、生かしてくださっている神様を礼拝する。そのようにして、神との交わりを回復する。それが安息日を守る一つの意味です。
 「十戒」は、申命記にも記されています。そこにも、「あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる」とあり、こう続きます。

「あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るよう命じられたのである。」(申命記5:15)

 神様の愛と力によって、エジプトの奴隷であったイスラエルは束縛から解き放たれたのです。そのことを覚える。忘れない。そのために安息日はあるのです。イスラエルの成人男子だけが休むのではありません。奴隷を休ませるのです。その日は、解放するのです。そして、共々に神様の救済の御業を賛美する。そのために、安息日はあるのです。
 天地創造の御業、奴隷からの解放という救済の御業を賛美するために安息日はあるのです。「安息日を守る」とは、創造と救済の御業をなしてくださる神様への賛美を、主人も奴隷も、男も女も、イスラエルも外国人も共に捧げることなのです。その時、人々は真実の解放、救いに与るのです。
 しかし、会堂長は、イエス様が病人を「癒す」という仕事をしたことに腹を立てました。ここで何も言わないと、自分が律法違反を黙認した、あるいは加担したと思われることも恐れたでしょう。だから、彼は自分の立場を維持するために「安息日はいけない」と言ったのです。そこに彼の偽善があります。

 偽善者たち

 しかし、イエス様はここで、「会堂長」に対してだけ「偽善者よ」とは言っていません。「偽善者らよ」と言っているのです。複数形です。会堂長の言葉に同意する人々もいたのです。当然でしょう。なんだか変だと思いながらも、飴をしゃぶらせてくれる「お上」の空虚な言葉に盲目的に従う人は沢山います。それらの人々は、この世においてはある意味で「賢い」人ですし、この世的な意味では「幸福」に生きていける人々だろうと思います。でも、主イエスから見れば、愚かで不幸な偽善者なのです。いつか、自分たちが圧迫され、捕らわれている惨めな存在であることに気づくからです。
 ルカ福音書の中で「偽善者」とは、真実が見えない人のことです。イエス様は、「偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる」とおっしゃいました。
 その「丸太」が、会堂長の目に入っているし、それに同調する人々の目にも入っているのです。だから、彼らはここで起こっていることの内実が見えない。でも、自分は見えていると思っている。主イエスは、その丸太を取りのけて、愚かな律法理解、誤った神理解から彼らを解放しようとしてくださいます。

「偽善者たちよ、あなたたちはだれでも、安息日にも牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くではないか。この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか。」

 牛やろばを繋いでいるロープを解いて、水場まで引いていくことは安息日にも禁じられていませんでした。ここに出てくる「解いて」は、「病から解放された」の「〜から」を示す前置詞(アポ)がない言葉(ルオー)です。家畜が生きるために縄を解くことは許可されているのに、人をサタンの束縛から解くことは禁じられていると考えることの愚かさが、偽善者にはあります。
 それは、人殺しに過ぎない戦争によって「平和」を作り出せると考える愚かさと同じように、恐ろしく惨めなものです。福島の人々が味わっている悲しみや苦しみを無視して、経済的利益のために原発再稼働を推進することは、この世的には正しく賢いことなのでしょう。政治家の多くは再稼働を容認し、経済界のトップも歓迎していると言うか、再稼働するように働きかけています。
 しかし、私たちキリスト者は、憲法解釈の問題にしろ原発の問題にしろ、神様から見て正しく賢いことは何であるかを考えるべき者たちだと、私は思います。その正しさや賢さも、「一つしかない」と考えることは恐ろしいことだと思います。一つの教会の中でも、様々な見解があるべきだと、私は思います。
 しかし、旧新約聖書は人間が作り出す社会とか政治、また歴史と深い関わりがあると理解することは正しいと思います。人間の内面の問題とだけ関係があるのだから、キリスト者は政治や社会問題に関心を持つべきではないし、発言すべきではないとは、聖書を読んでいる人間の言うことではないと、私は思います。私たちキリスト者は、御心が天に行われるように、地にも行われるように祈り、神の国が来ますようにと祈っている民なのです。その神の国は内面のことに限定されるわけではないでしょう。違うでしょうか?神の御心が、具体的にも形になることを祈り求め、自分自身をそのために捧げることを願わないで主の祈りを祈ることは、「福音伝道は即社会活動である」と主張することと同じく偽善であり欺瞞だと思います。私たちは、どちらの偽善や欺瞞にも陥らないように細心の注意を払わねばなりません。聖霊の導きの中で、御言に聴き、個々人が自分の十字架を背負って従わねばならないのです。これは、主イエスが命じていることです。この命令に従うことは、この世においては危険であり、愚かな道を歩むことだと思います。でも、真実な幸福がそこにあると信じます。それは、主イエスによって到来している神の国に生きる幸福です。
 安息日の会堂で、主イエスが何をなさっているのかと言えば、この世の中に神の国をもたらしておられるのです。そのことに、主イエスがご自分の命をかけておられるのです。そして、その神の国に私たちを招いておられる。その招きに応えることに、私たちの命が掛からないはずもありません。

 ご自身を隠される神

 主イエスの言葉を聞いた時、「反対者は皆恥じ入ったが、群衆はこぞって、イエスがなさった数々のすばらしい行いを見て喜んだ」とあります。新約聖書に引用される旧約聖書の言葉の多くは、ギリシア語訳聖書(七十人訳聖書)ですけれど、この言葉の背後にもギリシア語訳聖書のイザヤ書45章16節の言葉があると言われます。そこには「彼に逆らう者たちは皆、辱められ、恥じ入り、辱めの中を行く」とあるのです。ルカは、このイザヤ書の言葉がここで実現したと見ているのでしょう。「彼(神)に逆らう者」がここに出てくる「反対者たち」と同じ言葉(アンティケイマイ)だからです。そして、「素晴らしい行い」とは「栄光に満ちた行い」であり、言うまでもなく神様の業を表す言葉です。
 今読んだイザヤ書45章16節は、実はこういう言葉で挟まれているのです。

「まことにあなたはご自分を隠される神
イスラエルの神よ、あなたは救いを与えられる。
イスラエルは主によって救われる。
(中略)
恥を受けることも、辱めを受けることもない。」

 「ご自分を隠される神」
の御業を見て賛美出来る者たちは、救われる。解放されるのです。それがイスラエル、それがアブラハムの子であり「アブラハムの娘」です。その神に逆らう者、反対者は、いつの日か必ず己自身を恥じ入ることになります。
 安息日に会堂に来た女は、イエスという一人の人間に前に出るように呼び出されました。この時、誰もイエス様のことを「メシア」だとか「救い主」だとか「神の子」だとか思っている訳ではないし、まして信じている訳ではないのです。独特な律法の教師、奇跡行為者と思っていたでしょうが、それ以上のものではない。
 しかし、神様はこの人間の中にご自身を隠し、ご自身の業をなさっておられる。ご自身の国、神の国をもたらしているのです。呼び出しに応えて前に出て行き、主イエスに「婦人よ、あなたは病から解放された。その束縛から解かれた」と言われた時に、その言葉が実現したことが分かったのです。自分はサタンの束縛から解かれ、神の救いの中に招き入れられたことが分かったのです。神様は、このイエスという人を通してご自身の解放の業、「捕らわれている人に解放を与える」というイザヤの預言を実現しておられることが分かったのです。その時、背筋を伸ばして「神を賛美した」のです。

 会堂長が見ているもの

 だけれども、会堂長は、その解放の業を単なる病気の「癒し」にしか見なかったのです。時たま現れる奇跡行為者、不思議な力をもった治癒者の仕事にしか見えなかったのです。14節の、「癒す」「治す」も原語では同じ言葉ですから、どちらかに統一すべきだと思いますが、英語で治療を意味するセラピーの元になる言葉が使われています。
 彼には隠されているのです。目の前で起こっている事柄が何であるかが隠されている。だから見えない。見えている、分かっていると思っている者が、実は分かっていない、見えていない。そういうことはよくあることです。パウロが言う如く「神は世の知恵を愚かなものにされ」ました。だから、「世は自分の知恵で神を知ることはできない」のです。

 神を賛美した

 最後に「神を賛美した」という言葉について語ります。この言葉は、ルカ福音書においてはキーワードですけれども、最後に出てくる箇所を見ておきたいと思います。それは23章47節です。言うまでもなく、イエス様が十字架の上で息を引き取られた場面です。
 主イエスは、十字架の上で「自分が何をしているのか知らない」者たちの罪を赦してくださいと祈られました。その祈りを隣の十字架の上で聞いて悔い改め、赦しを乞い求めた犯罪者に「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」という救いの宣言を与えてくださったのです。
 そして、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と言って、主イエスは息を引き取られました。十字架の下にいる者たちは、口々に「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい」「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」と罵っていました。でも、神様はイエス様を十字架から降ろしはしませんでした。そういう「救い」を、イエス様にお与えになりませんでした。イエス様もお求めになりませんでした。イエス様が求めたのは、自分の救いではなく、私たち罪人の救いなのです。だから、イエス様は、十字架に掛かったまま息を引き取られたのです。何も華々しいことは起きなかった。神の栄光が現れるような御業はなかった。
 でも、ローマの百人隊長は「この出来事を見て、『本当に、この人は正しい人だった』と言って、神を賛美した」のです。彼は、そこに神の栄光の御業を見たのです。この世を根本的に破壊し、十字架の上に神の国の土台を据えた神の救いの御業を見たのです。
 十字架のイエス、この方の中に神様はご自身を隠し、私たちに解放を与えてくださったのです。自己の正しさを主張し、富を奪い合い、殺し合うことも「平和のため」と豪語し、力が強い者が都合のよい「正義」を作り出すこの世の中で、すべての罪人の罪が赦されるために自らを犠牲として捧げる。この方の中に神の「平和」があり、「正義」があるのです。そして、己が罪を悔い改めてこの方を神の子・キリストと信じる所に救いがある、罪の世からの解放があるのです。そのことが分かった者は、腰をまっすぐにして天を見上げて神を賛美します。そこに安息日の解放があり、神の国があるのです。この国をこそ生きる者となりましょう。

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