「神の国は何と似ているか」

及川 信

       ルカによる福音書 13章18節〜21節
   
13:18 そこで、イエスは言われた。「神の国は何に似ているか。何にたとえようか。13:19 それは、からし種に似ている。人がこれを取って庭に蒔くと、成長して木になり、その枝には空の鳥が巣を作る。」13:20 また言われた。「神の国を何にたとえようか。13:21 パン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」

 誰でも知っている?

 今日の箇所は、時も場所も先週と同じです。イエス様は十八年間も腰が曲がった女性を癒してくださいました。ユダヤ人にしてみると、安息日にしてはならない業をされたのです。その直後に、神の国の譬えを語られたのです。
 この譬えは、マタイにもマルコにも出てくる譬えなので、聖書に親しんでいる方なら誰でも知っている話です。私も知っているつもりでした。先週もこの箇所に触れて、私が知っていると思っている解釈に基づいて少し語りました。でも、よく読んでみると、今まで思ってもみなかったことが含まれていることが分かりました。

 三つの福音書

 マルコ福音書では、からし種は「土」に蒔かれます。人が種をとって蒔くという動作は記されません。それに対して、マタイやルカは、「人」(アンスローポス、男)が種をとって蒔く動作に注目します。マタイでは、種は「土」ではなく、「畑」に蒔かれます。ルカでは「庭」です。マタイやマルコでは、「どんな種よりも小さい」からし種が野菜の中で最大のものに成長することが強調されます。もちろん、ルカにおいても、同じことが言われています。でも、ルカでは、からし種の小ささは強調されていません。それはどうしてか、何のためかを考えないといけないと思います。
 マタイやルカは、既に書かれていたマルコ福音書を参考にして、自分の福音書を書いたと言われます。からし種は「土」に蒔かれたと記してあるマルコ福音書を参考にしつつ、土は土でもそれは「畑」であるとマタイは説明しているのです。ある本によると「からし種は庭には蒔かず、畑に蒔く」と律法の規定で決められていたそうなのです。
 それなのに、ルカは「庭に蒔く」と書いている。律法の規定を紹介してくれた本の著者は、「ルカは律法を知らぬ異邦人だから、こんなことを平気で書いている」という解釈をしていました。でも、私は違うと思います。ルカが異邦人かどうかは分かりませんが、彼はユダヤ人はからし種を庭に蒔かないことを知った上で、敢えて「人がこれを取って庭に蒔く」と書いたのだと思います。
 イエス様は、ご自身の言葉を書き残さなかったので、様々な解釈を通して伝えられることになります。だから、新約聖書に四つの福音書があるのです。私は、今日、ルカが伝えるイエス様の言葉を新たに聴き取り、受け止め、解釈し、伝えたいと思います。

 文脈による違い

 20節以下のパン種の譬えは、マルコにはなくマタイとルカにある話です。マタイとルカは全く同じ文章です。でも、マタイの文脈で読むと、小さなからし種が大きな野菜になるように、ほんの僅かなパン種が多くの粉を膨らませるという話になるように思います。小さなものでも大きなものに決定的な影響を与える。そういう話です。
 でも、ルカの文脈で読むと、少し異なる要素が入って来ると思うのです。庭にからし種を蒔くような人はいないはずなのに、いた。それと同じように、尋常ではない量のパンを作る女がいた。そういう要素が入ってくると思います。
 三サトンの粉(小麦粉)とは、重さにすると二十キロ以上になり、百五十人分のパンが出来る量なのです。ここに出てくる「女」は、普通の家庭の主婦でしょう。直前のからし種の譬えに出てくる「人」は、ある家の主人だと思います。その男が律法の規定に逆らって家の庭にからし種を蒔く。安息日にイエス様が腰の曲がった女性を癒されたように。そして、普通の主婦が、家の中で百五十人分のパンを作る。いずれも、通常はあり得ないことです。しかし、神の国はそういうことに譬えられる。主イエスにとっては、そういうものなのです。

 旧約聖書の背景

 そのことを踏まえた上で、もう一度最初から読み返していきたいと思います。からし種が成長して木になり、その枝に空の鳥が巣を作る。この言葉の背景には、旧約聖書の預言があります。
 最初に、エゼキエル書を見ておこうと思います。エゼキエルは、神様との間に結んだ契約を破ったイスラエルに対して、こう預言します。

主なる神はこう言われる。わたしは高いレバノン杉の梢を切り取って植え、その柔らかい若枝を折って、高くそびえる山の上に移し植える。イスラエルの高い山にそれを移し植えると、それは枝を伸ばし実をつけ、うっそうとしたレバノン杉となり、あらゆる鳥がそのもとに宿り、翼のあるものはすべてその枝の陰に住むようになる。(エゼキエル17:22〜23)

 堂々たる姿を誇るレバノン杉にイスラエルが例えられているのですが、そのレバノン杉は神様との契約を破ったが故に切り倒されるのです。しかし、その木の枝から切り取られた「若枝」が高い山に移植されると、大きなレバノン杉となり、「あらゆる鳥がそのもとに宿る」ようになる。それは、古い王国が神によって倒され、神に立てられたメシアによる新しい王国が誕生することの預言です。
 エゼキエルは、当時の大帝国であるエジプトのファラオに対しては、こう語りかけるように神様に命ぜられます。

「お前の偉大さは誰と比べられよう。
見よ、あなたは糸杉、レバノンの杉だ。
(中略)
大枝には空のすべての鳥が巣を作り
若枝の下では野のすべての獣が子を産み
多くの国民が皆、その木陰に住んだ。」
(エゼキエル31:2〜6)

 空のすべての鳥が、その枝に巣を作る巨大なレバノン杉。それは大帝国の権勢を表す言葉です。しかし、先のイスラエルと同じく、エジプトのファラオは権勢を誇る高慢の故に、さらに強大なバビロンの王に滅ぼされるという預言が続きます。
 そのバビロンの王ネブカドネツァルに関して、ダニエル書にはこういう話があります。王が、大地の真ん中に生えている大きな木の夢を見るのです。「その木陰に野の獣は宿り、その枝に空の鳥は巣を作り、生き物はみな、この木によって食物を得た」とあります。しかし、その夢の中に天使が現れてこう言うのです。

「この木を切り倒し、枝を払い、葉を散らし、実を落とせ。その木陰から獣を、その枝から鳥を追い払え。」
「人間の王国を支配するのは、いと高き神であり、この神は御旨のままにそれをだれにでも与え、また、最も卑しい人をその上に立てることもできるということを、人間に知らせるためである。」
(ダニエル4:11、14)

 眠りから覚めた時、ネブカドネツァル王は、ダニエルに夢の解釈をするよう願います。ダニエルは、大木はネブカドネツァルの支配の象徴であることを告げます。つまり、今のバビロンは繁栄の極みにあっても、高慢な思いを捨てることが出来なければ、いと高き神によって滅亡させられることになる。そして、神はこの世で最も卑しいとされる人をご自身の国の王とすることもできるのだと、告げるのです。その上で、ネブカドネツァルにこう進言します。

「王様、どうぞわたしの忠告をお受けになり、罪を悔いて施しを行い、悪を改めて貧しい人に恵みをお与えになってください。そうすれば、引き続き繁栄されるでしょう。」(ダニエル4:24)

 王はダニエルの進言を受け入れず、悔い改めを拒みます。自分が手にしている権力の偉大さに自惚れることを止めないのです。結局、彼もバビロン帝国も滅んでいきました。

 レバノン杉  からしの木

 「その枝には空の鳥が巣を作る」。この言葉の背景に、以上のような旧約聖書の言葉があることは明らかです。ここで注意しなければならないのは、旧約聖書に出てくる木はレバノン杉という巨木です。大きな枝があり、その枝に繁る葉が大きな木陰を作り出す巨木です。
 それに比して、からしの木は2メートルから4メートル程度の木です。幹は細く、葉っぱも木陰を作るようなものではありません。からし種は吹けば飛ぶような小さく軽いもので、750粒集めて漸く1グラムになるそうです。その小さな種が2メートルとか4メートルの木になるのですから、それはそれで大変な変化です。
 神の国は、最初は人間の目に留まるようなものではない。しかし、次第に成長し空の鳥が宿るような木になる。ある村の会堂の中で為された一つの癒しの業も、庭に蒔かれた、からし種なのだ。いつか大きく成長し、多くの人々を神の国に招き入れることになる。イエス様は、そういうことをお語りになっている。それは確かなことだと思います。
 しかし、それだけではない。レバノン杉に例えられる人間の支配と、からしの木に例えられる神の支配の本質的な相違についても語っておられるし、種を蒔く行為、また種を蒔く人についても語っているように思います。

 パン種 膨れる 隠す

 そのことを知るために、次の譬えも見ておきたいと思います。先ほど、三サトンもの粉を使ってパンを作る主婦はいないと言いました。律法で禁じられているにもかかわらず、庭にからし種を蒔く主人がいないのと同様にです。しかし、主イエスはそういう男や女を例に挙げて、ご自身が地上にもたらしている神の国を語るのです。
 パン種、つまりイースト菌はごく少量混ぜるだけでパン粉全体に影響を与えます。「混ぜる」という言葉は、「隠す」とも訳される言葉です。小さなからし種は、庭に蒔かれれば、人間の目には全く見えなくなります。小さな茶色の種は、土の塵と見分けがつかないからです。イースト菌もパン粉と同じ白い粉ですから、混ぜれば見えなくなります。完全に隠れてしまうのです。しかし、人間の目には見えなくなった時に、からし種もパン種も活動を開始するのです。
 「やがて全体が膨れる」とあります。「パン種」「膨れる」は原文では同じ言葉です。パン種という名詞が動詞の形を取ると「膨れる」とか、「発酵する」と訳されるのです。英語ではleaven(レヴン)が名詞にも動詞にもなるので、「レヴンが粉の中に隠されると粉はレヴンされる」と書かれています。つまり、パン種が隠された小麦粉は次第にパン種化してパンになる。単に大きく膨らむだけでなく、変化する。そういうパン種をパン粉に混ぜる人、隠す人がいる。それは誰のことか。また、パン種とは何のことか。それが問題です。

 中間時の業

 この譬話をどのように解釈するかは、人それぞれです。私は私なりに解釈をしたいと思います。
 ここに出てくる「人」とか「女」は、両方とも神様の比喩として考えることができるのではないかと、私は思います。この箇所の少し前は、「時を見分ける」ことに関しての話が続いていました。主イエスによれば、今は終末に向っている時です。神の国の完成に向っている時なのです。「中間時」と言われます。その中間時に、私たちが何をすべきかが問われていましたが、同時に、神様がイエス様を通して何をなさっているかも記されていたのです。
 先週読んだ安息日の癒しも、イエス様がこの世の中に神の国をもたらしている様を現しているのです。それは、古い革袋に新しいぶどう酒を入れるような業です。革袋が新しくならない限り、新しいぶどう酒を入れ続けることは出来ません。新しいぶどう酒は、発酵を続けるからです。そのぶどう酒を自分の中に入れる人も、それに応じて新しい人間にならないといけない。根本的に変化しないといけない。そういう人間を、一人また一人と生み出すために、主イエスは神の国を宣べ伝え、神の国をもたらしているのです。
 その続きである今日の箇所は、神様がイエス様という種をこの地に蒔いている、隠している。そのことを通して、この地上にご自身の国、神の支配を広めておられることを語っているのではないかと思います。
 22節以下を読むと分かりますが、イエス様は今、エルサレムに向っている途中なのです。その旅の途上で「町や村を巡って教え」ておられる。その時、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と問う者がいたことが記されています。それに対して、主イエスは「狭い戸口から入るようにと努めなさい」と言われました。「入ろうとしても入れない人が多いのだ」と。そして、「家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまう」時が来るとおっしゃいます。終末が来るということです。
 その話の結論は、こういうものです。

「そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。」(ルカ13:29〜30)

 ここでも主イエスは、「神の国」に関して語っておられるのです。招かれている今、招きに応えて狭い戸口から入って来なければならない。戸が閉められてしまう時が来るから。その時までに、招きに応えて入って来る者であれば、ユダヤ人であるとないとに関わりなく誰でも神の国の宴会の席につくことができる。主イエスは、そうお語りになっています。誰であっても、罪を悔い改めて、イエス様を主と信じる者は、救われた喜びを分かち合い、神様を賛美する宴会の席につくことができる。そのようにして、世界はいつの日か、神の国にされる。神の支配が完成する。今日の譬話は、こういう話に続くのです。その文脈の中で読むことによって、主イエスが何を語りかけておられるかが次第に分かってきます。

 現代との関わり

 しかしそれは、現代の私たちが直面する現実と向き合うことと不可分なのです。  ウクライナ東部で起こっている現実、ガザ地区で起こっている現実、この国の右傾化や様々な腐敗の現実、また被災地で起こっている現実が心に重くのしかかってきます。歴史的背景や政治的背景はそれぞれ違いますけれど、どこの国の為政者たちも自らの権力を求め、自らの繁栄を求め、支配の拡大を求めている点では同じでしょう。だれも彼もが「レバノン杉」になることを求めている。そして、そのことが正しいことだと思っている。だから、罪を悔い改めることなどあり得ないのです。その結果、貧しい者、弱い者は常に虐げられ、無視され、時に犠牲とされるのです。
 ガザ地区の死者は、多くの子どもたちを含めて千人を越えたそうです。ウクライナ上空で撃ち落とされた旅客機の乗員乗客も三百名近い人々です。いずれの死者も、殺した側の人間から謝罪されることはありません。この世の支配者たちにとって、敵とおぼしき人間を殺すことは正しく、あるいはやむを得ないことだからです。
 そういう現実の中で、私たちは生きています。何千年も生きている。そのことに慣れてしまっている。心のどこかで諦めてしまっている。
 しかし、エゼキエル書でもダニエル書でも、そういう大国、強国の支配は必ず終わることが預言されています。滅亡するのです。それも確かな歴史的事実です。バビロン帝国もエジプト帝国も今はありません。ドイツの第三帝国も大日本帝国もありません。ソビエト連邦は崩壊し、二〇世紀に大国化したアメリカも未来永劫大国であり続けるはずもありません。かつて「眠れる獅子」と揶揄された中国は、再び大国化への道を歩んでいますが、様々な矛盾と欺瞞を孕んだ一党独裁体制が今後50年続くかどうかは分かりません。
 私たち人間は、いつになったら「人間の王国を支配するのは、いと高き神であり、この神は御旨のままにそれをだれにでも与え、また、最も卑しい人をその上に立てることもできるということを」知るのでしょうか。ダニエルが、この言葉を語らされてから二千数百年の年月を経ているというのに、私たちはまだそのことを知らないままなのです。

 教会

 当時の人々の多くは、イエス様の存在、その業や言葉に驚いても、そこに神の国到来の事実を見て、その国の中に入ってくる訳ではありませんでした。でも、イエス様の十字架の死と復活、そして聖霊降臨を通して教会が誕生し、東西南北に拡大し、その教会に宿る人々が次第に増えていったのです。そして、キリスト教会を弾圧してきたローマ帝国がキリスト教化されました。それに伴う様々な問題があることは事実です。しかし、最初は目にもとまらない小さな種だったものが形を変えて成長し、巨大なものに隠されて見えなかった種が大きなものを変化させていったと言うことは出来るでしょう。そして、そのキリスト教会は神の国を求め続け、伝道することを通して七つの海を越え、あらゆる国境線を越えて世界中に広がってきました。
 宣教150年を越える私たちの国の中で、教会の存在は未だにまことに小さく、隠れているとしか言い様がありません。今から30年前に地方都市の松本の教会に遣わされた時、私はその地の人々にとって教会とは全く異質なものであり、あってもなくてもよいものであることを痛感しました。十四年前に都心に建つ中渋谷教会に遣わされた時も、全く同じことを感じました。無数と言ってよい人々が街を行き交っていますが、その人々にとって教会の存在は全く見えていないし、必要とされていません。
 でも、全国の町や村に建つ教会で、今も毎週礼拝が捧げられています。その礼拝の中で、主イエスは語り続けておられるのだし、信じる者たちは悔い改めと信仰と賛美を捧げています。そして、この世の中に生きながら、神の家である教会をわが家として、そこで必要な糧を頂いているのです。その群れは小さいです。でも、私たちは既に「ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」という主イエスの言葉を聞いているのです。
 私は毎週、礼拝出席者の数を数え、「今日はあの方が来られなかった、この方は来られた。今日は少なかった、多かった」と一喜一憂しています。そんなことは気にしない方がよいとも思いますけれど、牧師が信徒の一人ひとりを気にしなくなったらお終いだとも思います。礼拝に来たくても来られない方たちは、年々増えています。礼拝から気持ちが離れている方もいます。だから、新たに礼拝に集う方がいても、礼拝出席者の数は増えていきません。そういう現実も重くのしかかっています。疲れ切ってしまうこともあります。
 しかし、私たちは既に蒔かれた種、隠された種によって誕生した教会の一員なのです。人の目には見えずとも、その戸口の狭さゆえに多くの人が入って来ずとも、今日も私たちは東京近郊の東西南北の各地からこの礼拝堂に集まって、救われた喜びを分かち合っているのだし、世の終わりの日には神の国は天地に完成することを信じて、御国が来ますようにとの祈りを捧げつつ、神様を賛美しているのです。既に到来している神の国の宴会である礼拝を捧げているのです。一羽でも多くの鳥が、からしの木に宿ることを願い、一人でも多くの人がパン種としてのキリストを受け入れ、キリスト者に変化していけることを願い、そのために種を蒔き、パン種を隠してもいるのです。その様にして、神の御業に与っているのです。

 十字架という木

 神様が、律法の規定によれば蒔いてはならない所に蒔いた種、それは結局、どのような木になったのかと言えば、一本の十字架です。その十字架の木に打ちつけられた罪状書きは「ユダヤ人の王」です。それは、「お前はユダヤ人の王になろうとしたのかもしれないが、見よ、お前の王座は十字架だ!」そういう嘲りの徴です。ローマの総督ピラトにしてみても、それは同様です。ユダヤ人を支配する者として、自らの権力を見せつけているのです。「ユダヤ人の王」など存在しないのだ。それはユダヤ人を支配するのはローマの皇帝だ、と思い知らせているのです。
 しかし、神様にとって、「ユダヤ人の王」とは、一民族の王を現す言葉ではありません。神の民イスラエルが不信仰の故に切り倒された後に、高い山に植えられる「若枝」とは、全く新しい意味でのユダヤ人の王であり全世界のメシアなのです。エゼキエルは、そのメシアの登場を預言していたのです。
 マタイ福音書のクリスマス記事に出てくる「ユダヤ人の王」、東の国から占星術の博士が拝みに来る「ユダヤ人の王」とは、全世界の民の救い主、メシア(キリスト)です。しかし、その「ユダヤ人の王」の王座は宮殿の奥の間にはありません。そうではなくて、人々に嘲られる十字架の上にある。そこに隠されている。世界中の人々が、権力を持った者も庶民も、裕福な者も貧しい者も、ユダヤ人もパレスチナ人を初めとする異邦人も、日本人も中国人も、すべての者が共に心安んじて憩うことができるのは、この十字架の木の下なのです。
 そこでしか、私たち人間は罪を赦し合い、和解することはできません。この十字架のキリストを通して与えられた神様の愛を信じ、その愛に生かされる時にしか、敵対し、憎み合う人間同士が和解して愛し合うことはできません。イエス・キリストの十字架によって、神様との和解を与えられた人間同士が互いに和解し、神を愛し、人が互いに愛し合う。その神の国をこの地上にもたらすために、神様は主イエスを地上に送られた。この人間の世界で命を落とす一粒の種として蒔かれた。この人間の世界に隠されたのです。その種は、人間が抹殺したと思っても生き続け、今も成長を続け、また世界に影響を与え続けているのです。私たちが、今日もこうして礼拝を捧げていることに、その事実を見ることができるのです。
 私たちは、この世の現実から目を逸らしていけません。神様が直視しているからです。神様は、私たち人間をいつでも見ておられます。私たちは、目に見える現実の中に隠されている事実、神様の御業を見つめなければならないのです。今日も、私たちはキリストの招きに応えて礼拝に集い、心からの感謝と賛美を神様に捧げています。この礼拝する民が、今もこの地上で成長し続ける種なのだし、世界をキリスト化するパン種なのです。教会は、キリストの体なのですから。だから、恐れることは何もありません。ただ神の国を求めて歩んでいけばよいのです。そこに私たちの栄えある使命があるのです。かくも大切な使命を、かくも小さく弱い者に与えてくださる神様を賛美します。

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