「神の国の宴会」

及川 信

       ルカによる福音書 13章22節〜30節
   
13:22 イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた。13:23 すると、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と言う人がいた。イエスは一同に言われた。13:24 「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。13:25 家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである。13:26 そのとき、あなたがたは、『御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです』と言いだすだろう。13:27 しかし主人は、『お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』と言うだろう。13:28 あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする。13:29 そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。13:30 そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。」

 エルサレムに向う

 ルカ福音書は、9章51節に大きな分岐点があります。そこには、こうあります。

イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。

 この時まで、北部のガリラヤ地方で伝道活動をしておられたイエス様が、これ以後、エルサレムを目指して南下していくのです。それは「天に上げられる」ためです。しかし、イエス様は、天に上げられる前に十字架に磔にされて殺されるのです。「エルサレムに向かう」とは、主イエスにとってそういうことでした。単なる伝道旅行ではありません。
 この先の33節で、主イエスは「わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ」とおっしゃいます。そして、エルサレムに対しては、「わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。見よ、お前たちの家は見捨てられる」と、滅亡を預言されます。しかし、それに付け加えて「お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言う時が来るまで、決してわたしを見ることがない」とも言われる。
 これらの言葉が何を語っているのかは、次週ご一緒に耳を傾けたいと思います。今は、イエス様が死ぬ時が来る、エルサレムが滅亡する時が来る、世が終わる時が来ることを確認しておきたいと思います。

 時を見分ける

 イエス様は、少し前に、群衆に向って「どうして今の時を見分けることを知らないのか」とおっしゃいました。イエス様によれば、今は悔い改めるべき時なのです。それまでの生き方を捨てて、神様に向って生きるべき時なのです。エゴイズムに絡め取られてきた罪を赦して頂き、神様と和解すべき時なのです。その「時」を見分けることなく、これまで通り生き続けているならば、借金を抱えたまま牢屋に投げ込まれるか、実を結ばないいちじくの木のように切り倒される時が来るのだと、イエス様はおっしゃいました。
 そういう文脈の中で、からし種やパン種の「神の国」の譬話があり、今日の箇所に繋がります。今日の箇所は、様々な機会にイエス様が語られた短い言葉が纏められた箇所だと思いますが、最終的には「神の国の宴会」に関する話になっていきます。

 呑気な人間

イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた。すると、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と言う人がいた。

 イエス様がこの時、エルサレムで「十字架刑」に処せられることをご存知であったかどうかは分かりません。しかし、これまでの預言者のように無残な死が待っていることは、覚悟しておられたでしょう。この地上の人々に神の国をもたらすために、「今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない」と決意しておられるのです。
 私たちも、自分の死について考えることはあります。私たちは誰でも必ず死の時を迎えます。それは確実です。今は、その死に向っている時です。そのことを自覚し、覚悟した上で、今の時をどう生きるのかと問われている。それは明らかです。しかし、私たちは往々にして、その問いを避けているし、忘れています。死に向って進むべき「自分の道」とは何か、を真剣に考えていない。そういう呑気さが、私たちにはあると思います。「救われる者は少ないのでしょうか」と質問する人の心の中にも、その呑気さが隠れているように思います。
 皆さんも、「キリスト教信仰ってどういうものなの?」と質問されることがあるかもしれません。私は、あります。かなり深刻な思いで尋ねられることもあります。その場合は、その方が何を問題にし、何を知りたいのか、それは何故なのかを尋ねながら一生懸命に語ります。でも、興味半分で尋ねられる場合は、「まあ、とにかく礼拝に来てよ。話はすべてそこから始まるから」と言います。自分の在り様とか、生活習慣とかを少しも変える気のない人に語っても、ほとんど意味がないからです。せめて一回くらいは礼拝に来るという行動を見せてもらわないと、話す気になれません。

 狭い戸口から入る

 イエス様も、この時、同じような思いを持たれたのではないかと思います。尋ねた人を無視するようにして、その場にいる「一同」に対して、こう言われるからです。

「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。

 「努めなさい」
とは「戦う」とか「競技をする」とも訳される言葉です。そう聞くと、「救われるか否かは早い者勝ちだから頑張れ」と言われているように思ってしまいます。でも、ここではそういう意味ではないと思います。
 先日、二日ほど休暇を頂いて、金沢と富山の友人を訪ねました。金沢の兼六園に隣接している「二十一世紀美術館」の敷地の端っこに、古い茶室が保存されていました。その茶室に入るための戸口は、本当に小さなものです。誰が入るにしても、腰をかがめて入らなければならない。殿様だろうが誰だろうが等しく腰をかがめ、丸腰で入らなければならないのです。そのようにして入った飾り気のない茶室で、正座して待っている師匠と対座しなければならない。そこにおける一挙手一投足に、その人間がどういう人間であるかが現れるでしょう。一人の裸の人間として見られる。「それは恐ろしいことだ」と、感じました。
 その狭い戸口から入るために、自分との戦いがあるはずです。虚飾、虚栄を捨て去る勇気とか覚悟が求められるからです。生半可な気持ちで、その茶室に入ることはできない。そう思いました。
 「入ろうとしても入れない人が多いのだ」とは、そういう意味だと、私は思います。私たちは、年齢を重ねるごとに捨てられないものを身に付けます。「救い」とは何の関係もない身分とか地位とか富とか名誉とかを求めて、肌身離さず大事にするようになる場合があります。愚かで悲しいことです。そういうものを捨て去って、裸で神様の御前に立つ。そこには戦いがあります。自己との戦いがあるのです。その戦いをするつもりもなく、客観的に「救われる者は多いのか少ないのか知りたい」なんて質問に、主イエスは答えません。「そんな質問をしている暇があるなら、狭い門から入るように努めよ」ということでしょう。

 戸はいつか閉められる

 続く言葉は、こういうものです。

「家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである。」

 ここにも「戸」が出てきますが、ここでは戸口の狭さは問題になっていません。問題は「狭さ」ではなく「時」なのです。「家の主人が立ち上がって、戸を閉める」とは、内側から鍵をかけることで、なすべき仕事がすべて終わったことを示す行為なのです。その時以降に家に来ても、「お前たちがどこの者か知らない」と言われるだけだ、とイエス様はおっしゃる。
 そんな時刻に来る人とは、主人から夕食にでも招かれていた人でしょう。彼らは、いつ行っても自分は受け入れてもらえると勝手に思い込み、それぞれ自分のやりたいことをやっていたのです。そういう甘え、呑気さが通じない時があるのです。主人が戸を閉める定刻があるわけではなく、その時は主人が決めるのです。招かれていた者が決めることではありません。いつ人生の終わりの時を迎えるのかを、私たちが決めることができないのと同じです。私たちは命の創造者でも支配者でもないのですから。

 わたしから立ち去れ

「そのとき、あなたがたは、『御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです』と言いだすだろう。しかし主人は、『お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』と言うだろう。」

 有名人になったり、宝くじに当たったりすると、突然親戚とか知り合いが増えると言われます。クラスが同じだっただけなのに、会ったこともない遠い親戚なのに、昔から親しかったように人々に自慢したりすることがあります。それだけならまだ可愛いのです。厚かましい人になると、会いに来て一緒の写真を撮ったり、サイン色紙をたくさん求めたり、たかりを始めたりします。
 今日の箇所では、これまで主人の招きに応えてこなかったのに、家に入れてもらえないと分かると、突然「一緒に食事をしたことがある」とか、「教えを聞いたことがある」ということを持ち出してくる人間の浅ましさが「不義」と言われているのです。
 「小さい頃は教会学校に行っていました」とか、「親は熱心なクリスチャンでした」とか、「ミッションスクールで、何々牧師の話を聞いたことがあります」と言ってくる人がいます。自分が今、教会生活していないことの免罪符のように言われる場合もありますし、「そういうことがあれば、私も救われますよね」という念書を求める感じで言われることもあります。しかし、それは「不義」なことです。
 今、自分が熱心に「狭い戸口から入るように努め」ているか、救いにとってはただそれだけが問題なのです。そういう意味では、洗礼を受けたキリスト者である私たちだって同じことです。「昔、洗礼を受けたことがあります」と言いながら、今、熱心に救いを求めていないのであれば、それは不義であり、イエス様から「お前がどこの者か知らない」と言われてしまうのです。問われるのは、今、自分自身が何を求めて生きているかです。

 今は招かれている時

 この先の34節も、実は今日の箇所と同じ時に語られたのですが、イエス様はこうおっしゃっています。

「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。見よ、お前たちの家は見捨てられる。」

 ここに出てくる「エルサレム」とは、町の名と言うよりは、神の民であるイスラエル、ユダヤ人の象徴と言っても良いでしょうが、その民は何度も集まるようにと神様に招かれていたのです。でも、それぞれに理由をつけて招きに応えなかった。主人の招きよりも、自分の思いとか生活を優先していたのです。そのことの愚かさ、傲慢さが分かる時が来る。自分が何をしてしまったかが分かる時が来る。その時、「皆わたしから立ち去れ」と言われてしまう。「見捨てられる」時が来る、と主イエスはおっしゃる。

 遅すぎる

 ある牧師の説教の中に、こういう言葉が引用されていました。

「神の愛には、遅すぎるということがある。遅すぎることのない神の愛であるならば、われわれが眠っていても、知らぬ顔をしている神になってしまう。われわれは眠るわけにはいかないのだ。神の愛が呼んでいる。神の愛が呼び覚まそうとしている。眠るわけにはいかない、今目を覚ませと、主イエスは声をかけておられる。」(加藤常昭説教全集十五)

 実際には「神の愛には、遅すぎるということはない。神はいつまでも待っていてくださる」と言われることが多いのです。一見すると、神様の愛の深さや寛大さを賛美しているようでありながら、実は自分の願望を神様に押し付けているだけであることが、私たちにおいてはよくあります。「神様はいつまでも待っていてくださる」という言葉の中には、そういう甘えとか傲慢が入り込んでいると言うべきだろうと思います。
 私も時折、「神様には遅すぎるということはない」と言ってきました。しかし、その例として挙げるのは、ルカ福音書の十字架の場面です。
 十字架のイエス様の左右には、二人の犯罪人がいました。その内の一人は、イエス様に向って「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」と罵ったのです。しかし、もう一人は、「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない」と言ったのです。その上で、彼は主イエスにこう願いました。

「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください。」(ルカ23:42)

 彼は、死の間際に、隣の十字架の上で「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と祈っている主イエスの姿を見、その声を聞いて、主イエスが祈りを捧げている父なる神様の臨在を感じて、深い恐れに満たされたのです。そして、自分が犯してきた罪を心から悔い、主イエスに赦しを乞うたのです。命の終わりを迎える時に、主イエスによる御国への招きに応えて悔い改めたのです。
 もちろん、ここで彼が何を言おうが、死刑を免れるという意味では遅すぎます。今頃、罪を認めても、十字架から降ろされる訳ではありません。彼も、そんなことを求めている訳ではない。彼は、国家からの赦しを求めているのではなく、神の赦しを求めているのです。死の直前にです。
 主イエスはそこで「不義を行う者よ、わたしから立ち去れ」とはおっしゃいませんでした。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われたのです。彼の悔い改めは、遅すぎなかったのです。
 しかし、もう一人の犯罪人は、死の間際にも罪を悔い改めず、生き延びることだけを求めました。彼は、この時になっても狭い戸口から入るための戦いをしなかったのです。主イエスの命をかけた招きにも、罵りをもって応答したのです。その結果は、明らかです。もう遅いのです。
 もし、ここで彼が悔い改めを拒否しても死後に救われることが決まっているのであれば、生きている時の悔い改めなどしようがしまいが関係ないことになってしまいます。悔い改めを拒んで死んだ者の救いについては、私たち人間は主イエスにすべてを委ねるべきだと思います。

 被造物の喜び

 神様は、いつだって真剣に、私たちの中に本来の人間性を呼び覚まそうとしておられるのです。私たち人間は、創造主である神を心から賛美するために創造されたのです。被造物の喜びは、自分を愛してくれる創造者である主と出会い、心から主を愛し、感謝と賛美を捧げるところにあります。だから、礼拝を捧げるところに本来の私たちがいるのです。礼拝堂に集まっての礼拝はもちろんその中心的なものですけれど、日常の中で、私たちは幾らでも礼拝を捧げることはできます。主の御前に出て悔い改めの祈りを捧げることができるし、感謝の報告をすることができるし、願うことができます。聖霊の導きを祈りつつ聖書を読み、神様の語りかけを聞くことができるし、誰かと一緒にいる時に、主の臨在と導きを願いつつその時を過ごすこともできます。そういう時に、神に造られ、愛され、生かされ、導かれていることの喜びと感謝を味わい、賛美を捧げることができます。
 でも、こうして同じ信仰を与えられた者たちが集められて席に着き、時を同じくして、同じ御言葉を聴き、同じ賛美を捧げることができる喜びは唯一無比なものです。この礼拝を通して、私たちは「主の名によって来られる方に、祝福があるように」と賛美する終末の救いを仰ぎ見ることができるからです。神の国の完成を望み見ることができるのです。
 主イエスが、「町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進む」とは、人々を礼拝としての神の国に招いてくださっているのです。その招きに応えて悔い改める。そこには、大きな戦いがあります。それまでの自分が身につけたものを捨てる必要がありますし、内面に巣食っている奢り高ぶりという「不義」が打ち砕かれなければならないからです。その戦いに勝利した時には、大きな喜びがあります。

 選民意識

 今日の箇所で「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と尋ねた人は、ユダヤ人です。アブラハム、イサク、ヤコブの子孫です。彼らの心の中には、選民意識があります。ユダヤ人の中でも、律法を忠実に守る者は救われ、そうでない者は排除されるとか、救われる順番とか天国における地位の上下とか、色々なことが言われていたのです。でも、異邦人は、神に見捨てられているという意識は共有していたでしょう。
 しかし、イエス様はこうおっしゃいます。

「あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする。そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。」

 「アブラハム、イサク、ヤコブ」
は、イスラエルの信仰の父祖ですから、神の国に入っているのは当然です。「預言者たち」は、人々をその信仰に立ち帰らせるために、神に立てられた者たちです。でも、イスラエルの民は、「預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺した」のです。自分たちに「狭い戸口から入るように努めなさい」と命じたからです。自分たちは、血筋や割礼、律法順守によって救いに入れられていると思いたかったのです。でも、預言者たちは「神の国に入っている」と、イエス様はおっしゃいます。イスラエルの民に排除された者たちが、神様には受け入れられているということです。

 時が来る

 28節の直訳はこういうものです。

「そこでは嘆きと歯ぎしりがあるだろう。アブラハム、イサク、ヤコブ、そしてすべての預言者たちが神の国にいるのに、あなたがたは外に投げ出されているのを見る時には。」

 新共同訳聖書では、「見る時には」という大事な言葉が消えてしまっています。
 主イエスは、ユダヤ人たちが神の国の外に投げ出されているのを見る時が来る、とおっしゃっているのです。自分たちは神の民だ、救われる民だ、と思っているかもしれない。血筋とか割礼とか律法順守とかに頼って、そう思っているかもしれない。自分たちのあり方は、少しも変える必要はないと思っているかもしれない。しかし、それは根本的に間違っている、今は分からないかもしれないが、分からされる時が来る、そのときでは遅いのだ、と主イエスは言われるのです。早く気付いて欲しいのです。

 東西南北から来る人々

 「人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く」と言われます。ここに出て来る「人々」は、異邦人を含む人々であり、十字架に磔にされる重犯罪者も含みますし、「罪の女」として蔑まれていた人も含むし、徴税人のように忌み嫌われていた人も含むのです。罪の故に病や障碍を身に帯びていると考えられていた人々も含みます。
 生まれであるとか、この世で何をしていたかは、救いにとっては何の関係もないのです。主イエスの招きに応えたか、悔い改めたか、主イエスへの信仰を告白したか、今もその信仰に日々生きているか、そのことが問われるのです。主イエスの招きに応え、罪を悔い改めた人は、誰であっても救われるのです。そういう人が多いか否かは、戸が閉められる前に狭い戸口から入るように努める人が多いかどうかにかかっているのであって、主イエスに尋ねるようなことではありません。あなたはどうする?!ということです。

 神の国の宴会

 「神の国で宴会の席に着く」とあります。アナクリノーという珍しい言葉の受身形です。ルカ福音書では、主イエスを飼い葉桶に「寝かせた」というところで最初に出てきます。主イエスの時代の食事は敷物の上に寝そべって食べるのが普通でしたから、「席に着く」も「横たわる」も同じなのだと思いますけれど、ルカ福音書ではあと一回、12章37節に出てきます。
 そこは、目を覚ましているのを主人に見られる僕の話です。主人はいつ何時帰って来るか分かりません。しかし、忠実な門番は、目を覚ましたまま、主人が帰る時を待ちます。そのような僕を見ることができる主人の喜びは大きいのです。
 イエス様はこう言われます。

「はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。」

 これは尋常なことではありません。主人が僕に給仕するなんてことは、この世ではあり得ないのですから、これは神の国の比喩です。神の国では、主人が僕を食事の席に着かせる。僕の側から言えば、席に着かされる。13章では人々が主語ですから、原文では「着かされる」と受身形で書かれています。
 今与えられている「神の国」への招きに応えて、悔い改めをもって戸を叩いた者は、誰でも家に入れてもらえます。そして、食卓に着かせて頂ける。その時、給仕してくださるのは神の国の主人なのです。主イエスです。今日は聖餐式がありませんが、私たちは聖餐式の度ごとに、主イエスご自身に給仕して頂いているでしょう?パンもぶどう酒に象徴されるものも主イエスが備えてくださったのだし、主イエスが手渡してくださるのです。そこに、主イエスの命をかけた愛があるのです。私たちはただ、席に着いて悔い改めと信仰と賛美をもって頂くだけです。聖餐がない礼拝でも、命の糧である御言葉を与えてくださるのは、神様です。必要なものは、すべて神様が与えてくださっているのです。
 主イエスは、私たちのためにエルサレムの十字架の上で、罪の赦しを祈り求めてくださり、死にて葬られ、陰府に降り、三日目に甦り、天に昇り、聖霊を降し、教会を立て、今も東西南北すべての人を共に食事の席に着く「神の国」に、今も招いてくださっています。今は、その招きに応えるべき時なのです。救われる人は多いのか少ないのか、なんてことを議論することは無意味です。そして、戦うべきは自分自身、打ち砕かれるべきは自分です。不義にまみれた自分を丸ごと、主イエスに委ねる。明け渡す。その悔いし砕けた心を、主イエスは受け入れてくださいます。「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった」と大喜びで家に招き入れ、祝宴の席に着かせてくださるのです。
 今日も、狭い戸口から入った人は、今、自分は神の国の宴会の席に着かされていることを知り、主を賛美せざるを得ないでしょう。一人でも多くの方が、狭い戸口から入ることができますように、祈ります。

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