「今日も明日も、その次の日も」
13:31 ちょうどそのとき、ファリサイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに言った。「ここを立ち去ってください。ヘロデがあなたを殺そうとしています。」13:32 イエスは言われた。「行って、あの狐に、『今日も明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える』とわたしが言ったと伝えなさい。13:33 だが、わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ。13:34 エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。13:35 見よ、お前たちの家は見捨てられる。言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言う時が来るまで、決してわたしを見ることがない。」 先週、私たちは、主イエスがエルサレムに向けて旅をしていることを知らされました。今日の箇所では、それが何のためであるかを、主イエスご自身が明言されます。 主イエスは、「狭い戸口から入るように努めなさい」と言われました。神の国に入れて頂けるように神の御前に立ち帰り、虚栄心やエゴイズム、また慢心を捨てる戦いをしなさいということでしょう。次に、入口の戸はいつか突然閉められるのだから、その前に招きに応じなければならない、とおっしゃいました。私たちは永遠に招かれ続けるわけではないのです。戸が開いている間に入らねばなりません。それは、神の民であるイスラエルの子孫であるユダヤ人においても同じことです。特権意識に甘えていてはいけないのです。私たちキリスト者も同じです。 ファリサイ派 イエス様が語っておられる「ちょうどそのとき」、ユダヤ教の一派である「ファリサイ派の人々が何人か近寄って来て」、「ここを立ち去ってください。ヘロデがあなたを殺そうとしています」とイエス様に言いました。彼らの真意はよく分かりません。ファリサイ派の中にも、イエス様に好意的な人々がいたのかもしれません。でも、自分たちが住む地域からイエス様に出て行って欲しいがために、ヘロデを口実に使ったのかもしれません。いずれにしろ、彼らは、イエス様に自分たちと一緒に生きて欲しいと願ってはいない。それは明らかです。 主イエスは、すべての人を分け隔てなく神の国に招いています。そのこと自体が、彼らには気に入らなかったでしょう。彼らは、契約の民イスラエルであり、律法を忠実に守っている者が神の国に入ることができると思っていたのです。そうであれば、自分の罪を悔い改めて、主イエスを信じれば、誰の罪でも赦されて救われるという福音を受け入れることができないのは当然です。それは、自分たちのあり方を根本的に否定することだからです。 ヘロデ ヘロデも、その点では彼らと同様です。彼は、ヘロデ大王の息子で、名はヘロデ・アンティパスと言い、ローマ帝国の庇護の下にガリラヤ地方の領主の座に就いていた人物です。彼は、兄の嫁を奪った男でもあります。洗礼者ヨハネは、そのことを赦されない罪として厳しく批判しました。するとヘロデは、ヨハネを牢獄に閉じ込めた上に暗殺したのです。極めて身勝手で残忍な男です。そのヘロデは、イエス様に会いたいと願っていました。イエス様も自分の罪を批判する男であれば、ヨハネと同じように口を封じなければならないからです。彼もまた、自分の在り方を少しも変える気がないのです。 俗物の権力者であるヘロデと敬虔な信徒であるファリサイ派の人々は、通常は互いに反目する間柄です。でも、自分を批判する者は排除したいと願うことにおいては変わることがないのです。 その場にいる人間として 主イエスは、忠告に来たファリサイ派の人々に感謝する訳でも、殺意を頂くヘロデを恐れる訳でもありません。 こうおっしゃいます。 「行って、あの狐に、『今日も明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える』とわたしが言ったと伝えなさい。」 非常にきつい言葉です。「イエス様は、いつも優しく静かで、温厚な方だ」というイメージが一般にはあるかもしれません。キリスト者の中にも、そう思っている人がいると思います。ちゃんと聖書を読んでいるのか?と思います。自分好みのイエス様像を勝手に造り出しているだけだと思います。結局、自分自身で偶像を作り、それを拝むことに繋がります。 イエス様が優しく温厚だと思ってしまう原因の一つは、翻訳にもあると思います。個人訳の聖書は別にして、幾人もの学者たちが共同で作る聖書は、丁寧語に統一されて訳されますから、臨場感とか固有性が奪われます。講壇の上で朗読されるものとして訳されるので、それは致し方ないのです。 でも、この場面の情景を思い浮かべていただきたいと思います。ファリサイ派の人々の表情や語調はどういうものだったのかを、想像して欲しいのです。この時の彼らの顔には、イエス様への恐れと本心を隠す卑屈さがうっすらと表れていたのではないかと、私は思います。そういう彼らの顔を見ているイエス様の表情はどういうものだったか。そういうことを想像しながら読む必要があると思います。その場にいる人間の一人として読むのです。 私は、イエス様は厳しい顔をして激しい語調で語られたと思います。「行って、あの狐に伝えろ!」と。「狐」は、悪知恵をもち、狙った獲物をかすめ取る動物というイメージがあったようです。イエス様の言葉がそのままヘロデに伝えられれば、ヘロデはやはり怒り狂ったでしょう。私たちは、時の権力者に対して陰では何を言ったとしても、直接伝えることができる人間に「あの豚に言っておけ」とか「犬に伝えろ」とは言わないでしょう。私も言いません。しかし、イエス様はそういうことをここでおっしゃっている。上品な丁寧語で、笑みを湛えながら静かにおっしゃっているはずがありません。激しい怒りと、その怒りを呼び起こす熱い愛に心が揺さぶられながら語っているのです。その愛に基づくイエス様の怒りを感じとらねば、ここを読んだことにならないと思うのです。 キリスト者の現実 その愛に基づく怒りは、イエス様に対して「ここを立ち去ってください」としばしば思っている私たちに向けてのものでもあるからです。 私たちが、イエス様に「共にいて欲しい」と願うのは困った時か礼拝の時だけである場合が多いのです。一週間の仕事の生活、家庭生活においては、自分が主人であって、僕としてイエス様に従って生きていない場合が多いでしょう。それは、イエス様に立ち去って頂いていることです。イエス様とは、たまに会いたくなる。いつも決まった特定の場所で会いたい。その時その場のデートはしたい。でも、それ以外の時は束縛されたくない。無意識の内にそう思っているものです。 そういう私たちキリスト者への言葉として、イエス様の言葉を読む、そして聴く。イエス様が、真正面から自分に語りかけている言葉として聴く。それは、やはり恐ろしいことです。その場から、逃げ出したいと思うのです。深く強く愛されるとは、やはり恐ろしいことです。しかし、そこに命の喜びがある。それも疑うことができない事実です。だから、私たちは今日もこの礼拝堂にいる。主イエスに集められているのです。大きな恐れと喜びをもって。 ヘロデの願い 話を戻します。ヘロデは、後にエルサレムでイエス様に会うことになります。祭司長らに捕らわれ、ピラトの裁判にかけられようとしているイエス様と会うのです。彼は、奇跡を見せてみろと要求したり、色々尋問したりしますが、イエス様が一切返答しなかったので、ピラトに突き返します。「この男は、お前が好きにしろ」ということです。その様にして、彼は以前から心に抱いていた願いを実現していきます。「殺そうとしている」とは、「あなたを殺すことを願っている」が直訳ですから。 神の願い しかし、人が何を願おうが、また、極端な言い方をすれば、イエス様が何を願おうが、イエス様は「今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない」のです。「自分の道」とは意訳で、「前進し続けなければならない」「旅を続けなければならない」「続けることになっている」が直訳です。この「なければならない」とか「ことになっている」は、ギリシア語ではデイという言葉で、神様の御計画とか願いを表す極めて大切な言葉です。 33節の「だが」(プレーン)には、強い意志が込められていると思います。イエス様が逮捕される直前のオリーブ山での祈り(マタイやマルコでは「ゲツセマネの園の祈り」ですが)の中でも、その言葉は使われています。 「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」(ルカ22:42) ここに出てくる「しかし」が、「だが」と同じ言葉です。主イエスには、自分の願いがあるのです。イエス様にとって、十字架に磔にされ、人々の嘲笑の中に死ぬなんて、耐え難いことなのです。当たり前です。だから、「取りのけてください」と願う。しかし、イエス様の究極的な願いは、神様の願いが行われることなのです。その願いに従って、十字架の死という「杯」を受け取られるのです。そこに神様の御計画(デイ)があり、神様に遣わされた者の道があるからです。 主イエスは言われます。 「預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ。」 このエルサレムにおける死に向って、旅を続ける。ヘロデが何を願おうと、ファリサイ派が何を願おうと、弟子たちや群衆が何を願おうと、神様が願っていることは、エルサレムへの旅を続けることである。だから、「わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない」と、イエス様はおっしゃるのです。イエス様は、ご自分の道行きを「神様の願いに従う」という一点において決めておられるのです。 三日目 32節に戻ります。そこでは、「今日も明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える」とあります。「今日も明日も、その次の日も」と同じ三日間のことですけれど、これから三日間だけ人々を神の国に招く業をしたらすべてを終える、という意味であるはずもありません。 いつものこととは言え、今日の箇所は特に言葉の表面的意味だけを見ても、何も分かったことにならないのです。隠された意味があったり、二重の意味があったりするからです。 「三日目」が何を意味するのかに関しては、様々な解釈があり定説と呼べるようなものはありません。 私は、聖書の中で考えていきたいと思います。 出エジプト記19章10節以下には、モーセに対する主の命令が記されています。 「民のところに行き、今日と明日、彼らを聖別し、衣服を洗わせ、三日目のために準備させなさい。三日目に、民全員の見ている前で、主はシナイ山に降られるからである。」 この日から「三日目」に、主はシナイ山でモーセに十戒を与えるのです。それは、イスラエルの民が神の契約の民として祭司の国、聖なる民、神の宝とされる決定的なことでした。 ホセア書6章2節には、こうあります。 「二日の後、主は我々を生かし 三日目に、立ち上がらせてくださる。 我々は御前に生きる。」 この言葉も、「三日目」に、主の大いなる御業が現れることを告げています。この「三日目に、立ち上がらせてくださる」は、後にイエス様の復活を預言したものと解釈されるようにもなりました。「三日目」に、主の大いなる御業が現れること、死に瀕している民が立ち上がらせられることにおいて、出エジプト19章とホセア書6章は通じるものがあります。 終える 次に、「終える」という言葉にも注目したいと思います。ギリシア語では、テレイオオーという言葉です。この言葉が最も印象的に、また象徴的に使われるのは、ヨハネ福音書の十字架の場面です。福音書は、それぞれイエス様の十字架の死と三日目の復活を、一つの救いの出来事として見ていると思いますが、ヨハネは特にそうです。十字架の死=復活=聖霊の到来として見ていると思います。そのヨハネの十字架の場面は、こうです。 この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。 イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。(ヨハネ19:28、30) ここに出てくる「成し遂げられた」とか「実現した」が、「終える」と基本的に同じ言葉なのです。この後、主イエスの体に槍が刺されると、「血と水」が出てきました。血は罪の贖いのために流された血で、水は新しい命を造り出す聖霊の象徴だと思います。主イエスの復活を通して与えられるものです。つまり、この時、主イエスが地上でなすべき救いの御業が成し遂げられた。終えられたのです。以後は、終末の時に向って新たな段階に入っていくのです。 三日目に終える ルカ福音書9章では、イエス様が「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている(デイ)」とおっしゃっています。これまでの言葉を併せて考えると、「今日も明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える」とは、エルサレムにおける十字架の死と復活によって、イエス様の地上における招きの業は成し遂げられることを暗示していると受け止めることが相応しいかと思います。 エルサレム すべての預言者がエルサレムで殺された訳ではないし、町としてのエルサレムが「預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者」であるはずもないのですから、「エルサレム」は神に選ばれた民イスラエルの象徴です。皮肉なことに、神に遣わされた預言者たちは、神の選びの民の中で排斥され、排除されるのです。最も深刻にして陰湿なやり方で、です。 「石で打ち殺す」とは、神を冒涜した者に対する処刑方法なのです。使徒言行録に出てくるステファノも、ユダヤ人に悔い改めを求めたが故に「神を冒涜する者」として石で打ち殺されることになります。(今年の全体交流会では、CSの生徒たちと共にその場面を寸劇で演じるので、今日も午後に練習をします。) 神の民イスラエルにおいて、神から遣わされた預言者たちが神を冒涜する者として処刑される。こんな悲しむべき皮肉はありません。しかし、こういうことはよくあることなのです。教会の中でこそ、実は、キリストは抹殺されていることがあるのです。 羽(翼)の下 石で打ち殺されることになる預言者たちは、何をしたのでしょうか。「めん鳥が雛を羽の下に集めるように」、神から離れてしまった人々を集めることなのです。彼らは、そのために遣わされたのです。詩編には「あなたの翼を避けどころとして隠れます」(61:5)とか「あなたの翼の陰でわたしは喜び歌います」(63:8)とあります。「羽の下に集められる」とは、神様の守りの中に生きることであり、喜んで神様を賛美することに繋がるのです。この喜びの賛美を与えることを、神様は願って預言者を遣わしたのです。 イエス様は、その預言者たちの系譜を引き継ぐ者であると同時に、その預言者たちが「来られることを預言した」メシアでもあります。「今日も明日も、その次の日も」イエス様が続けていく旅の第一の目的は、神様の羽の下から出て行ってしまったイスラエルを、再び神の羽の下、翼の陰に呼び戻すことです。 「集めようとした」は、「集めることを願った」が直訳であり、「お前たちは応じようとしなかった」は、「お前たちは、願わなかった」が直訳です。主イエスは願ったのに、人々は願わなかったのです。今日の箇所には、ヘロデの願い、イエス様の願い、そして人々の願いの三つが絡まって出てきています。 集める 「集める」に関しては、147編だけを読んでおきます。 神への賛美はいかに美しく快いことか。 主はエルサレムを再建し イスラエルの追いやられた人々を集めてくださる。(詩編147:1〜2) 神様に「集められる」ことは、罪を赦されること、救われることであり、神様を賛美することに繋がるのです。神様の翼の陰に集められるとは、そういうことです。神様は、イスラエルの民にその喜び、賛美を与えようと願っているのに、ヘロデにしろ、ファリサイ派にしろ、また、最終的には弟子にしろ、群衆にしろ、その願いを拒絶したのです。その結果、どうなるか。 見捨てられる 見よ、お前たちの家は見捨てられる。 見捨てられるのです。 エルサレムを首都と限定するならば、主イエスの時代から三十年あまり後に、ユダヤ人はローマに対して反乱を企てて、エルサレムはローマ軍によって破壊し尽くされました。そういう意味で「見捨てられる」と受け取ることができます。 しかし、より根源的には、神の民イスラエルはついに見捨てられるということでしょう。シナイ山で、神様と契約を結んだ時に与えられた特権的地位を失う。神の言葉に聴き従うことを通して、神の願いを地上に実現して行く神の民としての地位を失う。そのことを意味すると思います。しかし、それは「運命として定まっている」という宣言ではなく、「そうならないように、今この時に悔い改めなさい、信じなさい」という招きなのです。 主の名によって来られる方 「言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言う時が来るまで、決してわたしを見ることがない。」 ここも難しい。「主の名によって来られる方に、祝福があるように」とは、詩編118編の言葉です。エルサレム神殿に巡礼の旅をしてきた人々に、神殿の祭司たちが祝福を告げる言葉です。しかし、主イエスの時代には、来るべきメシアを喜び迎える言葉として伝わっていました。そういう二重性があるのです。イエス様も、そのことを意識してお使いになっていると思います。 この先の19章で、イエス様がエルサレムの町に入る時に、弟子たちが神様を賛美しつつ「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように」と叫んだことが記されています。だから、「自分はこれからもエルサレムに向けての旅を続ける。あなたたちがわたしを見るのは、来るべき過越しの祭りをエルサレムで祝う時のことになる」と、イエス様はおっしゃったと理解する人もいます。 終末の時 そういう意味もあるでしょう。でも、今日の箇所はほとんどすべての言葉に、より重要な意味が隠されていると思います。 前回の箇所で問題となっていたのは、「時」です。今は何の時であるか、です。終わりの時が来る。「もう遅い」と言われる時が来る。死ぬ時が来る。最終的に神の国の戸が閉められる時が来る。自分が外に放り出されているのを見る時が来る。そうならないように、今の時に何をすべきなのか。それが問題だったのです。 私たちが毎週唱和している「使徒信条」の中には、「かしこより来りて、生ける者と死ねる者とを審き給わん」という信仰告白があります。神の右に挙げられている主イエスが、終末の時には審判者として再臨し、生ける者と死ねる者とを審く最後の審判がある。その審判を経て救いは完成する。神の国は完成する。人が何を願おうが、今の現実が人にどう見えようが、神はその救いの御計画を進展しておられる。私たちキリスト者は、そのことを信じているのです。 そして、私たちキリスト者が人生の最後まで信仰を生きるとするならば、それが生きている時であれ、死して後のことであれ、主がメシアとして再臨される時に「主の名によって来られる方に、祝福があるように」と賛美しつつ迎えることができるのです。主イエスは、その終末の時のことを語りつつ、今は何をすべき時であるかを語っているのだと思います。今は、悔い改めと信仰に生きる時なのです。その信仰の旅を最後まで続ける者は、人生の終わりの時、あるいは世界の歴史の終わりの時に、再臨の主イエスを賛美しつつ迎えることができるのです。 詩編118編の言葉を活かして、もう一つのメッセージを聴くとするなら、最後まで信仰に生きた者は、終わりの日に「祝福あれ、主の名によって来る人に」と、天使たちから祝福を受けつつ、神の国に迎え入れられ、救いの食卓に着かせられるということでしょう。 その神の国に、すべての人を集める。イスラエルの民だけでなく、世界中のすべての人を集める。そのために、主イエスはエルサレムへの旅を続けるのです。十字架で死に、三日目に復活するためにです。神様の願いを成し遂げるためです。それは、イエス様が神に見捨てられることによって成し遂げられる業なのです。 赦す ルカ福音書の説教を103回もやってきました。その中で、何度読んだか分かりませんが、主イエスは十字架の上でこう祈られたのです。 「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23:34) この「赦す」という言葉の原語はアフィエーミです。「〜から送る」「〜から去らせる」が元々の意味ですが、それが「放任する」とか「忘れる」を意味することになり、さらに「〜をさせておく」「赦す」という意味にもなるのです。「お前たちの家は見捨てられる」も、アフィエーミです。 先ほども言いましたように、イエス様は、「お前たちの家は見捨てられる」と言うことで、イスラエルの民が辿ることになる運命を語っているのではありません。そうではなくて、「あなたがたがこのまま自分の在り様を変えることなく、わたしの招きに応えることを願わないのであれば、いずれ見捨てられてしまう。だから、悔い改めなさい」と招いているのです。でも、その願いは彼らの心に届きませんでした。彼らは結局、自分の願いに従って生きました。それが、終わりにどういう結末を迎えるかも知らずに、です 無謀な戦争に闇雲に突入して行った当時の日本の指導者たちも、同じことでしょう。情報は遮断され、盲目的に扇動に乗らざるをえなかった多くの国民も、皆、「自分が何をしているのか知らないのです。」私は、当時の指導者と国民が戦争に対して同じ責任があるとは、思いません。当時は、今のような国民主権の国家ではありません。しかし、神の願いよりも自分の願いを優先し、邪魔者は排斥し、殺す性質を持っている、つまり、罪に捕われているという点では、当時の指導者も国民も同じだと思います。今も同じでしょう。 「そういう者たちを見捨てないでください。赦してください。きっといつか分かります。実がならないからと言って、今日切らないでください。もう少し待ってください。」主イエスは、そう祈ってくださっている。その様に私たちの悔い改めを待ち、神の国に招いてくださっているのです。そして、私たちは恵みによって、その招きに応える信仰を与えて頂いたのです。 新約聖書の最後の言葉、ヨハネ黙示録22章20節以下にこうあります。 以上すべてを証しする方が、言われる。「然り、わたしはすぐに来る。」アーメン、主イエスよ、来てください。 主イエスの恵みが、すべての者と共にあるように。 私たちは、終末の救いの完成の時を目指して「今日も明日も、その次の日も」「御国が来ますように」「主イエスよ、来てください」と祈りつつ歩む神の民です。そして、主イエスが再臨した時には「主の名によって来られる方に、祝福があるように」と賛美し、同時に、「祝福あれ、主の御名によって来る人に」(詩編118:26)と祝福されつつ神の国に迎え入れられる神の民とされているのです。 主イエスに従う者として、「今日も明日も、その次の日も」、一人でも多くの人々を神様の羽の下に集める旅を続けて参りたいと思います。どれ程、拒まれても諦めることなく、絶望することなく、信仰を生きる伝道の旅を続けたいと思います。主イエスの恵みが、いつも共にあるのですから。 |