「安息日の癒し」

及川 信

       ルカによる福音書 14章1節〜6節
   
14:1 安息日のことだった。イエスは食事のためにファリサイ派のある議員の家にお入りになったが、人々はイエスの様子をうかがっていた。14:2 そのとき、イエスの前に水腫を患っている人がいた。14:3 そこで、イエスは律法の専門家たちやファリサイ派の人々に言われた。「安息日に病気を治すことは律法で許されているか、いないか。」14:4 彼らは黙っていた。すると、イエスは病人の手を取り、病気をいやしてお帰しになった。14:5 そして、言われた。「あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか。」14:6 彼らは、これに対して答えることができなかった。

 エルサレムへの途上で

 14章は、「安息日のことだった」という言葉で始まり、それまでと場面が変わります。この日、イエス様は「食事のためにファリサイ派のある議員の家に」行かれました。1節から24節までは、すべてその食事の席でのことです。そこでイエス様がなさること、お語りになることは、いずれも激しいことです。だから、その場にいる人々は相当に不愉快になったと思います。
 この食事の最後で、イエス様は「言っておくが、あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は一人もいない」とおっしゃいます。主イエスは招いた。しかし、その招きに応えて神の国の食卓に着く者はいない。そういうことです。
 25節以下の段落は、イエス様について来る者たちに対するイエス様の言葉です。イエス様は、弟子になりたければ、「自分の十字架を背負って」ついて来いと言われるし、「自分の持ち物を一切捨てないならば」弟子にはなれないとおっしゃるのです。読み進めていくことが躊躇われるほどに、厳しい言葉です。
 主イエスは、自分の十字架を背負ってエルサレムに向っておられるのです。先週読みましたように、「預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないから」です。今日からご一緒に読んでいく14章には、十字架による処刑が待っているエルサレムに向って前進する主イエスの言葉と業が記されている。そのことを、私たちは忘れてはならないと思います。

 安息日の会堂

 金曜日の夕刻から始まる安息日には、ユダヤ人は会堂に集まって礼拝をします。その礼拝が共同体の中心であり、生活の中心なのです。安息日は仕事を休む。神様の休息に与り、神様の御手に自分を委ねる。神様の創造と救済の御業を想起し、今もその御業の中に生かされていることを感謝し、賛美する。そのような歩みの中で、人は自分が神に造られ、愛され、生かされている存在であることを新たに見出し、力を与えられ、望みを与えられるのです。
 しかし、そういう喜びを与えるはずの安息日が、人々を縛る律法になってしまうことがあります。「安息日に仕事をしてはならない、休め」という律法は、「仕事をしなければ生きていけないのだ。一日も無駄にしないで金を稼がねば生きていけない。収入の多寡が人間の価値を決める」という考え方から、人間を解き放つために与えられたものです。私たちは神に造られ、神に愛されているが故に、神様との愛の交わりの中でこそ、また愛されている者同士が互いに愛し合うところで真実に生きることが出来る。律法は、そのことを教えるためのものなのです。しかし、その本来の趣旨を守るために、「してはならない仕事とは何か」を決めなければ、ということになってきます。そこに難しい問題が生じてくるのです。
 ルカ福音書は、「安息日」に関する記述が多い福音書ですが、直前の13章では、18年間も病に苦しむ女性をイエス様が癒されたことが記されていました。安息日礼拝の中で、癒しの御業をなさったのです。それを見た会堂長は、「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない」と、群衆に向って言いました。彼の心の中には恐れがありました。イエス様に直接抗議しても反論されてしまうという恐れです。だから、彼は群衆に向って語りかけるのです。でも、イエス様は彼とその仲間たちを「偽善者たちよ」と呼び、「家畜に水をやるために、綱を解いて水場まで連れていくことは安息日にも許された仕事であるのだから、18年間も病で苦しんできた女性を助けてやるのは当然ではないか」とおっしゃいました。
 「反対者たちは皆恥じ入ったが、群衆はこぞって、イエスがなさった数々のすばらしい行いを見て喜んだ」とあります。今日の箇所にも、この時の影響は残っているでしょう。

 安息日の食事

 当時のユダヤ人は、安息日礼拝後の食事を大事にしたようです。でも、この後を見れば分かりますように、そこは誰が上席に座るかで緊張が走る場でもありました。
 イエス様がファリサイ派の議員の家に入った時は、別の意味での緊張感が漂っていました。「人々はイエスの様子をうかがっていた」とあります。イエス様が何をするかに注目しているのです。事と場合によっては、律法違反者として訴えようと思っている。
 「そのとき、イエスの前に水腫を患っている人がいた」と、あります。「水腫を患う」とは、何かの病気で体液が体に溜まってしまう状態のようです。当時、病気は何らかの意味で宗教的な意味をもちます。病気であるとは、神様との関係の中で不完全なのです。そういう水腫を患っている人が、イエス様の目の前にいる。ファリサイ派が招いた客なのか。それともイエス様に癒して頂きたくて勝手に入って来たのか。イエス様が「わたしの後について来るように」と誘った、と想像する人もいます。
 いずれの想像も様々なことを考えさせられますが、ファリサイ派が招いたとするなら、それは何のためかが問題となります。見ただけで病気と分かる人を、食事に招く意図は何か。それはやはり、イエス様を罠にかけることだと思います。安息日に病を癒すという業、つまり仕事をするのかどうか。それを試すために、水腫の人を呼んでイエス様の目の前に立たせたのだと思います。
 彼らは、その人の病が癒されることを願っている訳ではありません。水腫を患っている人は、イエス様を陥れる罠の小道具だと思います。だからこそ、イエス様は彼を癒した後、すぐに「お帰しになった」のです。家の中にいる人の誰も、彼が癒されたことを喜び、神様の御業を褒めたたえる訳ではないからです。彼はいたたまれないでしょう。だから、イエス様はそっとお帰しになった。

 ルカにおける「安息日」

 イエス様は、家に入った途端にその場の雰囲気を感じ取っただろうし、水腫の人が目の前にいるのを見た瞬間に、それが何を意味するのかも理解されたでしょう。そして、真正面からファリサイ派や律法の専門家の挑戦を受けて立ちます。と言うより、彼らに真正面から挑戦されるのです。

「安息日に病気を治すことは律法で許されているか、いないか。」

 これは様々な意味で難しい質問です。病気と言っても、一刻を争う状態なのかどうかが問題ですし、ユダヤ教各派の中でも、この点については解釈の違いがあったようです。しかし、この問題を根本的に考えるためには、これまでの安息日に関する記事を振り返っておかねばならないと思います。
 ルカ福音書においては、イエス様の本格的な活動の開始は安息日の会堂におけるものでした。4章16節以下です。
 イエス様は、悪魔の試みを受けた後に、故郷であるナザレに来て、安息日に会堂に入り、イザヤ書の言葉を読みました。

「主の霊がわたしの上におられる。
貧しい人に福音を告げ知らせるために、
主がわたしに油を注がれたからである。
主がわたしを遣わされたのは、
捕らわれている人に解放を、
目の見えない人に視力の回復を告げ、
圧迫されている人を自由にし、
主の恵みの年を告げるためである。」

 このイザヤ書の言葉が、その後のイエス様の言葉と業のすべてと関わりがあることは明らかです。今日の箇所でも、イエス様は捕らわれている人を解放し、見えない人の視力を回復し、圧迫されている人に自由を与えようとしておられるのです。イエス様は、その業を安息日にもなさるのです。
 そして、捕らわれているのは水腫を患っている人だけではなく、ファリサイ派らも別の意味で捕らわれ、目が見えず、圧迫されているのです。そのことを覚えておきたいと思います。
 次に安息日の業が出てくるのは、6章です。ある時、イエス様の弟子たちが、通りがかりの麦畑の穂を摘んで、「手でもんで食べた」のです。これは盗みの罪ではなく、脱穀の罪なのです。脱穀するという仕事は、安息日にはしてはならない。それが律法の定めでした。それに対して、主イエスは旧約聖書の事例を引いて反論した後に「人の子は安息日の主である」と宣言されました。安息日に何をすべきかは、主に油を注がれて遣わされた「人の子」である主イエスが決めるということです。「人の子」とは、ここではメシア(救い主)の意味だと言って良いでしょう。
 その次の段落にも、安息日の出来事が記されています。安息日の会堂で、イエス様が「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか」とおっしゃった上で、右手が萎えた人を癒されるのです。その時、律法学者やファリサイ派は、「怒り狂って、イエスを何とかしようと話し合った」とあります。
 この後も、ファリサイ派や律法学者らとの論争は続きましたが、13章では会堂長が「恥じ入り」、今日の箇所ではファリサイ派の人々は「答えることができなかった」となりましたから、論争という意味では、イエス様が勝利を収めていくのです。
 問題は、安息日に神様から求められているのは、「善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか」です。今日の箇所でも、それは同じなのです。主イエスは、一貫しています。神様は「解放」「回復」「自由」を与えるために、ご自分を遣わされた。だから、それが安息日であれ他の六日であれ、主イエスは「今日も明日も、その次の日も」その御業を続けていくのです。その結果が、エルサレムでの十字架における死なのです。つまり、イエス様は神に背く罪人として処刑されてしまうのです。

 善  悪

 なぜそういうことになるのかと言えば、善と悪の基準が違うからでしょう。世界各地の争いの根底にあることも、そういうことだと思います。ある者にとっての善は、他の者、特に利害が対立する者にとっては悪であることが幾らでもあります。そして、「命を救うことか、滅ぼすことか」に関してだって、相手の魂を救うために殺してやるんだという恐るべき論理を考え出す宗教団体がありましたし、今もあるでしょう。国家権力が偶像化されると、さらに恐ろしいことが起こります。大量殺戮である戦争が美化されるのですから。「お国のため」という言葉が暴走し、「お国のため」になることは善であり、そうでないことは悪になります。しかし、その際の「お国」とは、一部の特権階級の人々の欲望とか利益を象徴する言葉なのです。そういう人々のために、人を殺したり、殺されたりすることが「お国のため」であり、平和のための善いことである。そういう時代が嘗てありましたし、今後もまたやって来るかもしれない。そのことに対して、責任があるのは、私たち一人ひとりです。
 とにかく、何が善で何が悪か、何が救いで何が滅びかは自明なことではなく、時代によって変わります。しかし、イエス様がおっしゃっている善や悪も時代によって変わるものなのかと言えば、決してそうではありません。
 安息日の規定には、「癒してはならない」とか「脱穀してはならない」だけでなく、様々な細かい規定があります。その一つ一つを作っていく動機は、神様の御心に忠実に従おうとすることですし、そのこと自体が悪であるわけではないでしょう。しかし、その善い動機が変質していくことがあるのです。
 「敬虔なクリスチャン」という言葉があります。その第一義的な意味は、恐らく礼拝を欠かすことがないことでしょう。礼拝を欠かすことがないことは善でしょう。主日礼拝を守ることは、信仰生活において大切なことだと思います。しかし、そこにも悪が入りこんできます。礼拝を欠かさないことそのものが目的になると、そのことを自分で評価し始めますし、他者からの評価を求め、礼拝を休む人たちを、「あの人の信仰はまだ弱い」と裁き始める場合もある。そのようにして、善だったことが悪になり、救いが滅びになる。そういうことがあります。

 十戒の規定

 イエス様は、そういう人間的な次元をはるかに越えた次元の世界をもたらし、その世界に、私たちを招こうとしておられるのではないかと思います。
 今日の箇所に「自分の息子か牛が井戸に落ちたら」とあります。「自分の」は原文にはない意訳です。注解書を読むと、写本の中には「ろばか牛」と書いてあるものがあるようです。「ろばか牛」であれば、いずれも家畜です。しかし、「息子と牛」であれば、人間と家畜ということになります。その違いは、大きいと思います。
 もし、「ろばか牛」であるとすれば、イエス様は、「安息日に井戸に落ちた家畜を助け出すことが認められているのだから、人間を助けることが認められるのは当然ではないか」とおっしゃっていることになります。でも、「息子か牛」であれば、動物ですらこうなのだから人間であれば尚更である、という話ではなくなります。それでは、どういうことなのか。それが問題です。(ちなみに、写本としては、恐らく「息子か牛」と書かれたものの方が古いと考えられて、新共同訳聖書はその写本を採用しているのです。)
 この問題を考えるために、律法の中心である「十戒」の安息日規定を見ておく必要があると思います。出エジプト記20章8節から11節です。

安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。 六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。

 ここにある世界は壮大なものです。この戒めを読めるのは人間だけでしょう。しかし、この戒めが考えている世界は、人間の世界だけではありません。被造物すべてが生きている世界です。
 東日本大震災後の津波の被害を受けた地域や、放射能汚染地域に生きる動物たちの実態を描く映画を見たことがあります。津波で命を失ったのは、人間だけではありません。また、福島の汚染地域には、鎖に繋がれたまま飼い主が帰って来るのを待ち、骨と皮だけの死体になっている犬が何匹もいました。牛舎に繋がれたままの牛たちは弱いものから順に飢え死にし、その死体には無数の蛆が湧いていました。生き残っている牛は、何が起こったのか分からぬままに放置され、飢え死にするのを待つだけです。鎖から放たれて野犬化した犬たちは、時折、餌をやりに来てくれるボランティアのお陰で何とか生き延びていますが、車が来ると飼い主が帰って来たと思うのか、飛び出してきて撥ねられてしまうことがよくあるそうです。また、放射能に汚染されている牛を、行政の殺処分勧告を無視して飼い続けている人もいました。人間が犯した過ちの責任を動物にとらせる訳にはいかない、と考えているからです。野犬化した犬に餌をやりに行くことや、汚染された牛を飼い続けることに対して批判する人がいる一方で、賛同して資金援助を続ける者もいます。何が善で、何が悪かは、私には分かりません。
 しかし、創造主なる神様は、すべての人間同様に家畜にも休みを与えるべきだとお考えになっていることは分かります。彼らも、安息日には仕事を休ませなければならない。彼らも神に造られ、生かされている命だからです。その意味では同列の仲間なのです。
 その動物を、私たち人間は「支配」しなければなりません。創世記1章で、神様はご自身に似せて造られた人間に対して、「地を従わせよ。(中略)生き物をすべて支配せよ」と命じられたからです。「従わせる」は無理矢理に服従させることではありません。小さな子どもの手を引く親は、子どもを危険から守っているのです。「支配する」も「守る」という意味だし、共存して生きていくということでしょう。欲望のままに動物を乱獲したり、森を乱伐してよいということではありません。しかし、自然界の動物も家畜も、またペットも人間の欲望によって虐待され、存在が脅かされることがしばしばあります。それは、人間にも及ぶことです。

 被造物の呻き と 神の子

 パウロは、ローマの信徒への手紙8章において、神様を「アッバ、父よ」と呼ぶ「神の子」について語っています。聖霊によって神を「父よ」と呼ぶことが出来るようになった「神の子」は、世の終わりの日にキリストと共に相続する「栄光」に向って、「キリストと共に苦しむ」ことになると言います。その「栄光」とは、ルカ福音書の言葉で言えば「神の国の食卓」に着かせていただくことだし、世の終わりの「復活」に与ることです。
 パウロは、その栄光に向って生きる人間について語りつつ、被造物に関して8章19節以下でこう語っています。

被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。(中略)つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。わたしたちは、このような希望によって救われているのです。

 被造物は、「神の子たち」たちの出現を待ち望んでいる。彼らは、「神の子たち」の出現を通して初めて、「滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるから」です。「解放」「自由」が、ここにも出てきます。
 それでは、「神の子」とは何かと言えば、主イエスが安息日にナザレの会堂で読んだイザヤ書の言葉に記されています。捕らわれ、目が見えず、圧迫されていたのに、主に遣わされたメシアによって解放と回復と自由を与えられた人々です。
 ここに記されている事柄は、社会的な弾圧とか不平等からの解放や自由という意味でもありますけれど、究極的には罪に捕らわれ、罪の闇の中で善悪が見えなくなっており、罪に圧迫されて身動きがとれない人間の現実が語られているのです。そういう罪の力から解放され、神を見る目が回復され、罪の支配から自由にされ、神の国の完成をはるかに望み見て、現在の苦しみに耐えつつ、信仰に生きる人々。それが「神の子」だと思います。
 その「神の子」による安息日の守り方、それは被造物も含めた神の国の完成を仰ぎ望みつつ、今も救済の歴史を導いてくださっている父・子・聖霊なる三位一体の神様を賛美することではないか、と思います。

 神の国への招き

 「あなたたちの中に、(自分の)息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか」という主イエスの言葉には、十戒やパウロが語っている壮大な世界、いつか神様が完成してくださる被造物をも含んだ「神の国」が隠されていると思います。そして、その「神の国」にイエス様は人々を招いている。しかし、この食卓における最後の言葉は、「言っておくが、あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は一人もいない」なのです。どうしてでしょうか。

「彼らは、これに対して答えることができなかった。」

 「答える」
とは、「応答する」というよりは、「抗弁する」「反論する」という意味の言葉です。彼らは、反論できなかったのです。だから、黙り込んだ。
 それは、当然でしょう。イエス様こそ、神様が天地を創造された時以来変わることなき善を行っているのですから。そのことは、彼らなりに分かったのです。しかし、彼らは認めたくない。悔い改めないのです。だから、黙り込む。
 しかし、彼らの沈黙が爆発する時が来ます。ここで主イエスに向って抗弁し、反論して、徹底的に議論していれば、彼らは主イエスに完膚なきまでに打ちのめされて、悔い改めに導かれたかもしれません。でも、ふてくされて沈黙する者は悔い改めることなく、いつか必ず的外れな復讐をするものです。神の前で沈黙しつつアベルを殺したカインのように、です。
 イエス様も、この後、十字架に磔にされて殺されます。しかし、そのような復讐を受けながら、その者たちが罪から解放され、信仰の目が開き、罪の支配から自由にされて「父よ」と呼ぶ「神の子」となれるように、イエス様は十字架の上で祈ってくださるのです。そこに「神の国」の内容としての神の愛があり、主イエスはこの安息日にも、ファリサイ派の家にいるすべての人を愛をもって招いておられるのです。
 ここで招かれているのは、水腫を患っている人だけではありません。罪に捕らわれ、闇の中で目が見えず、罪に圧迫されているすべての人です。気がつけば自己義認と自己独善の井戸に落ちて溺れているすべての人間を、主イエスは今日も、引き上げようとしてくださっているのです。
 その招きに対して、「主よ、信じます。私の罪をお赦しください」と応答できる者は幸いです。主は、招きに応える者、悔いし砕けた心をもって信じる者を「神の子」にしてくださるからです。そして、被造物は、その「神の子」の誕生を呻きつつ切に待ち望んでいるのだし、誰よりも主イエスが私たちの悔い改めを待ち望んでくださっているのですから。
 そして、国籍、民族、人種、性別、貧富、身分の違いを越えて、すべての人間が、そして家畜も、神様の安息に与り、神に造られ愛されている者として互いに愛し合いつつ、主を賛美する。そして、来るべき神の国の完成に向けて、キリストと共に苦しみつつ、望みに生きる。その信仰と希望と愛の人生を支え、励ますために、神様は安息日をお定めになったのです。だから、イスラエルの民は、「安息日を心に留め、これを聖別」するのです。
 私たちにとって、それは主イエスの十字架の死から三日目の日曜日、主イエスが死の闇の中から復活させられ、罪と死に勝利されたことが明らかになったこの主の日に礼拝することです。私たちは、この日の礼拝を通して、主イエスを信じる信仰が与えられ、その信仰において解放と回復と自由を与えられるのです。このような喜びの日を与えてくださった、主を心から賛美したいと願います。

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