「報われないから報われる」

及川 信

       ルカによる福音書 14章7節〜14節
   
14:7 イエスは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話された。14:8 「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、14:9 あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。14:10 招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。14:11 だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」14:12 また、イエスは招いてくれた人にも言われた。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。14:13 宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。14:14 そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」

 復習

 8月24日に、ルカ福音書14章の1節から6節までを読みました。今日はその続きです。
 ある安息日に、イエス様がファリサイ派の議員の家に食事に招かれたのです。しかし、それは好意に基づく招きではなかったと思います。偶然なのか必然なのか分かりませんが、その場には水腫を患う人がいました。イエス様が安息日規定を破ってその人を癒すかどうかを、その場にいる人々が「うかがっていた」とあります。その多くは律法の専門家やファリサイ派の人々です。この「うかがう」とは、罠を仕掛けて見張るという感じの言葉です。彼らは、イエス様が安息日にも癒しの行為をしたら、律法違反者として裁きにかけようと伺っているのです。しかし、全く思いもかけない仕方で、イエス様は彼らの狙いを打ち砕かれました。

 文脈

 この安息日の食事の場面は、24節まで続きます。少し前の13章29節で、「人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。そこでは後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある」と、イエス様はおっしゃいました。
 今日の箇所に出てくる「婚宴」とか16節以下に出てくる「宴会」は、しばしば「神の国」の食卓に譬えられます。しかし、その結末の言葉は、「言っておくが、あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は一人もいない」です。つまり、安息日の癒しから始まった食事の場面は、非常に厳しい結末に向っていくのです。そういうことを踏まえれば、ここで主イエスがお語りになっていることが、正しいテーブルマナーとか謙譲の美徳という処世訓でないことは明らかです。

 席順

 今日の箇所は、当初、人々から様子を伺われていたイエス様が、今度は招待客たちの様子を伺うところから始まります。
 私たちも、何かの宴会に招かれてその会場が指定席になっていない場合は、自分がどこに座ったら良いのか考えてしまうことがあります。年齢や地位、招待者との近しさの度合いなど、様々な要素がからむので難しいのです。そこで、少し低めの席を選んで、後で「いやいや、あなたはもっと上席の方に移動してください」と言われる位が良いかなと思ったりします。イエス様がおっしゃるように、最初に上席に座ってしまってから末席に移されるより、その方が面目を保てるからです。
 教会の牧師になってから三十年になりますけれど、教会の中で特に女性たちの会で食事をしたりする時は、私の両隣りは誰も座りたがらないという現実が続いています。そこは上席だからか、末席だからかよく分かりませんが、どうなのでしょう?

 自分の基準

 安息日の午後の食卓は、ユダヤ人にとって特別大事なものです。礼拝を共にした後に、同じ神を信じる兄弟たちが肉の糧を分かち合う場ですから。そういう食事の席で、イエス様はその場の人間の行動を観察されるのです。人の性質とか思想は、何気ない動作にこそ表れるものです。
 イエス様は、招かれた人々が少しでも上席に着こうとする様子を見て、婚宴の譬え話をされます。婚宴に誰を招くかは重要な事柄ですし、その席順には気を使います。婚宴は、結婚する当人だけのものではなく、両家の問題です。当人そっちのけで、親が自分のために開くような婚宴もあります。そうなると、著名人とか有力者が主賓としてスピーチでもしてくれることを願ったりします。それが実現すれば、その宴会のグレードが上がり、自分の格も上がるからです。
 招かれる方にとっても、誰から招かれるかは重要なことです。地位や身分が高い人から招かれることは名誉なことです。しかし、招かれた後は、自分の席順とか招待者から挨拶を受ける順番が気になり、「あの人よりも下なら嫌だな」と考えたりする。逆に、安っぽい宴会に招かれた場合は、そんな宴会にのこのこ出かけていかない方がよい。「ああいう人の仲間なんだ」と思われない方が得策だと思う。そういうこともあります。
 つまり、招く側も招待客を選びますし、招かれる側も招待者を選ぶのです。選ぶためには基準が必要です。その場合の基準は、自分で自分のことを、どう思っているかです。人は、謙遜を装い、表面的には下手に出てはいても、心の中では高ぶっていることがよくありますし、内心の劣等感を隠すために尊大に振舞うこともあります。その逆に、劣等感が悲しいほど表面に出てしまうこともある。いずれにしろ、そこで問題になっているのは、自分が自分をどう見るかであり、更に人が自分をどう見るか、です。

 神の基準

 この譬えの最後の言葉は、こういうものです。

「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

 これまでは、「あなた」とか「あなたを招いた人」と、主語が明確に書かれていましたけれど、この結論部では「低くされる」「高められる」と受身形となっており、誰が低くしたり、高めたりするかは隠されています。
 隠されるという意味では、主イエスが譬えを語る一つの目的は隠すことであり、聞く耳のある者だけに語ることなのです。
 「婚宴」は、極めて世俗的な宴会です。しかし、イエス様は、その婚宴を神の国の譬えとしておられる。だとするなら、「招いている人」とは神様のことでしょう。その神様は、末席に座っている人に近づいて、「さあ、もっと上席に進んでください」と言うに違いないと、イエス様はおっしゃいます。新共同訳聖書では「さあ」と訳されている言葉は、「友よ」です。ギリシア語ではフィロスです。フィレオーは「愛する」とか「親しむ」を意味しますから、フィロスは愛する友人のことです。婚宴に招かれて来たけれど、そのこと自体、分不相応な名誉だと思い、内心びくびくしながら末席に座っている。そういう人に主人は近づいて来て「あなたこそ私の友なんだ。もっと私に近い席に来てくれ」と言う。それが神の国というものだ。主イエスは、そうおっしゃっているのだと思います。

 面目 栄誉

 「そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる」と、イエス様はおっしゃいます。これも一見すると、極めて世俗的な言葉です。如何にもありそうなことです。「面目」と訳された言葉は、ドクサです。ドクサは、この世における名誉、誉れを意味すると同時に、神の栄光や神が与えてくださる栄誉を意味する言葉なのです。ここでも「面目をほどこす」という世俗的な言葉の中に、神からの栄誉が与えられるという意味が隠されているのだと思います。

 もう一つの譬え

 11節は、その栄誉が何であるかを暗示していると思います。

「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

 この言葉は、他の所でも聞き覚えがあると思われる方も多いと思いますが、18章14節にも出てきます。そこでも、イエス様は譬えを語られます。語りかける相手は、「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々」です。そういう人々に、イエス様は「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった」と語り始めます。ファリサイ派の人は、自分が徴税人のような罪人ではなく、律法を守る正しい人間であることを神様に感謝します。つまり、自分は上席に座る資格がある人間であると評価し、神様にもその評価に基づく処遇をするように暗に求めるのです。
 他方、徴税人は祭壇から遠く立ち、「目を天に上げようともせず、胸を打ちながら」こう言うのです。

「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」(ルカ18:13)

 彼は、末席に座ることさえ畏れ多いと思っている人です。でも、神殿には招かれたいのです。自分の罪を知っているからです。神様に罪の赦しを求めて、「憐れんでください」と祈るしかないのです。神様は祈りを聞いて憐れんでくださる、赦してくださると信じて祈るしかない。ファリサイ派の人は、罪があってもそれを知らないのです。だから、彼は祈りの中で何も求めず、神様に感謝をし、自分の功績を報告しながら、上席を要求している。幸せと言うべきか、不幸と言うべきか。それは、何を基準にするかで異なります。
 イエス様は、世の常識に反して、「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない」とおっしゃいました。そして、駄目押しのように、こう締め括られたのです。

「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」(ルカ18:14)

 主語は隠されていますが、人を低くしたり、高めたりするのは、人ではなく神様です。悔い改める罪人の罪を赦し、義とされる(正しい者とする)のは神様です。この神が、神の国の主人なのです。婚宴や宴会の主人です。その主人は、すべての人を招きます。しかし、すべての人を上席に座らせる訳ではない。自分で自分を正しいと評価する者は既にこの世の誉れを受けていますし、自分で作った上席に座っていますから、神様から「友よ、もっと上席に進んでください」と語りかけられることはありません。既にこの世で面目を保っているからです。だとするなら、どちらが幸いなのでしょうか?この箇所にはもう一度帰ってきますが、今は先に進みたいと思います。

 いと高き方

 これまでの箇所は、食事に招かれて上席を求める人々に語りかけた譬えです。12節以後は、イエスを招いてくれた人、つまり、「ファリサイ派のある議員」に向けてのお言葉ですが、もちろんその場にいたすべての人も聞いているでしょう。
 主イエスは、食事会を催す時には、友人、家族や親族、金持ちを呼んではならない。むしろ、「貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人」を招きなさい、とおっしゃいます。これは、単純な二者択一を迫る言葉ではありません。ここで主イエスがおっしゃっていることは、神の民として心を砕かねばならないことなのです。
 今日の箇所とよく似た表現が、6章27節以下にありました。そこで、主イエスは弟子たちに向って、「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい」とおっしゃるのです。「弟子たち」とは、主イエスの招きに応えて神の国の食卓についている者たちのことですし、洗礼を通して聖餐の食卓を囲む者となった私たちのことです。そういう者たちに、主イエスは「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい」と語りかけ、それは「いと高き方の子」となるためだと言われるのです。そして、こう続けられます。

「いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」(ルカ6:35〜36)

 主イエスは、私たちの目を「いと高き方」に向けさせるのです。地上を這いつくばって、あの人よりは私の方が上だとか下だとかを気にしている私たちの目を天に向けさせる。地上一万メートルから見れば、すぐ近くに建つセルリアンタワーと中渋谷教会の高低差など見えません。そんなものです。しかし、地上に這いつくばって生きている人間にとっては、その差が大事であり、人を蹴落としてでも上席に上がっていこうとする。そこに座ることが幸いだと思う。しかし、そのように生きることで「いと高き方の子となる」という最大の幸いを失うのです。目を天に上げることもなく、胸を打ちながら「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と祈る必要のない者は、この世的には幸いでしょう。でも、いつか自分がどれ程不幸な存在であるかを知ることになります。
 また、父なる神の憐れみの故に食卓に着くことを許された人は、父から受けた憐れみを与える人とならなければ、与えられた「幸い」を失ってしまいます。私たちキリスト者が、神の憐れみを必要とし、その憐れみに生かされていることを知っているのであれば、私たちも父なる神と同じように憐れみに生きる者とならなければならないのです。そこに真の幸いがあるのであり、主イエスは私たちが真の幸いを生きる者となることを願ってくださっているのです。

 一人もいない

 「貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい」と、イエス様は言われます。レビ記によれば、これらの障碍をもった人たちが祭司になることは禁じられていました(21:17〜23)。また、主イエスの時代に、荒れ野で厳格な律法に基づく集団生活をしていたクムラン教団というユダヤ教の一派は、こういう人々の加入を認めませんでした。ファリサイ派の人々も、同様の考えだったのだと思います。つまり、彼らが考える神の国から排除したのです。彼らは律法を守る生活を求めるだけでなく、身体的な健全さをも神の国に招かれる為には必要なこととしていたのです。病や障碍は、罪の結果であると考え、そう考えることが罪だとは考えないからです。だから、彼らは主観的な幸いを生きつつ、不幸なのです。自分で自分に報いてしまっており、神の名を口にしながら、人からの報いを求めるばかりで、神様からの報いを求めていないからです。そして、ついに、主イエスによって「あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は一人もいない」と断言されることになる。恐ろしいことです。

 主人はイエス

 15章は、有名な譬話が連続して出てくる箇所ですが、書き出しはこういうものです。

徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。(ルカ15:1〜2)

 つまり、婚宴や宴会の譬えに出てきた「主人」は、主イエスご自身のことなのです。主イエスは、社会の最底辺や周辺に追いやられている人々をも、神の国にお招きになるのです。安息日に水腫を患っている人を癒したことも、その招きを表しています。

 神の報い

 イエス様は結論部の14節で、「そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる」とおっしゃいました。そこで、11節の言葉に戻りたいと思います。
 11節と14節は、低くなった者が後に高くされるという点で共通しているのです。11節の「へりくだる者」とは、その直前の「低くされ」と同じ言葉です。また、「お返しができない」「報われる」も原文では同じ言葉なのです。「その人たちは、報いることができないから、・・・あなたは報われる」とイエス様はおっしゃっている。そして、その報いは人から与えられる報いではなく、神様が与えてくださる報いであり、それは「正しい者たちが復活するとき」の報いですから、神の国における「復活」のことなのです。11節の「へりくだる者は高められる」とは、そのことをこの段階で暗示しているのです。

 死に至るまで従順

 そのことを知るために、フィリピの信徒への手紙の2章6節以下を読みます。そこには、初代教会の信仰告白があると言われます。

キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。(フィリピ2:6〜8)

 キリストは最も高い所、つまり天におられた方であるのに、低い所、地に降りて来られたのです。その地の上でも最も低い所であり、「末席」とも言うべき所は十字架でしょう。私たちの誰だって、人生の最後を処刑台の上で迎えたくはないはずです。畳の上で死にたいのです。人としての尊厳が守られる形で死にたいのです。しかし、神と等しい方であった栄光に満ちたイエス・キリストは、地上で尊厳を奪われた人をも招くために、「人間の姿で現れ、へりくだって(己を低くして)、死にいたるまで、それも十字架の死に至るまで従順」だった。神様の御心に従われた。最底辺にまで下られたのです。そこに神ご自身の「憐れみ」が表れているのです。神様は、御子主イエス・キリストを通して、ご自身の憐れみとは何であるかをお示しになっているのです。

 高く上げられる

 信仰告白は続きます。

このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。(フィリピ2:9〜11)

 イエス・キリストは、神と等しい方であったのに、天から地に下り、社会の底辺に生きている人たちの友となり、彼らを招いて食卓を囲むお方です。また、安息日であっても、病を癒されるお方です。触れてはならない人にも触れていったのです。その一つ一つの行為が、イエス様を十字架の死へと追いやっていくのです。主イエスが神様の御心に従って憐れみに生きれば生きるほど、底辺に貶められ、周辺に追いやられ、最後は処刑されてしまうのです。人を愛しても愛しても、理解されず、受け入れられず、憎まれていくのです。愛に愛が返って来ない。むしろ、無理解と憎しみが返ってくる。それでも、愛することを止めない。その極みが十字架の死です。人の罪の赦しを乞い、身代わりに裁かれる死です。そういうイエス様を、神は高く引き上げるのだし、復活と昇天をもって報われるのです。そこに主イエスの不幸と幸いがある。地上で報われない不幸があり、天上で報われる幸福がある。人からは報われない。でも神様から報われる幸福がある。「あなたがたにはこの幸福を生きて欲しい」と、主イエスは願っておられるのです。気がつくと、あの人より上だとか下だとかを気にして落ち込んだり、高ぶったりしている愚かな私たちを、その愚かさから解放しようとしてくださっているのです。

 弟子の歩み

 その解放の道を歩むのが、主イエスの弟子なのです。その弟子とは何であるかは、25節以下を見れば分かりますように、「自分の十字架を背負って」イエス様に従うこと以外にありません。その十字架を通してしか、復活には至りません。つまり、徹底的に自分を低くしていく。それしかないのです。それは単なる謙遜ではありません。そんなレベルの話ではないのです。自分の罪を徹底的に知っていくということなのです。実は、私たちはイエス様に従おうと真剣になる時に初めて、自分の罪深さを知るのです。人と比較して自分を見ている間は、自分のことなど何も見えていないのです。イエス様に従う。ただその時にのみ、自分の十字架を背負うということが起こります。イエス様に従う。「敵を愛し、憎む者に親切にし、迫害する者のために祈る。」それを真剣にしようとする時、私たちは「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と祈る他にない罪人だということが分かるでしょう。
 イエス様に従うことができない。その罪を知らされるのは、イエス様に従おうとした時です。その時にだけ「罪人のわたしを憐れんでください」と祈る者とされ、その時にだけ義とされる。正しい者とされる。

 正しい人の復活

 ルカ福音書では、徹底的にへりくだり、十字架の上で「彼らをお赦しください」と祈りつつ、息を引き取られたイエス様のことを、百人隊長が「本当に、この人は正しい人だった」と言って、神様を賛美しました。父なる神様の憐れみを体現された方だからです。敵を愛し、自分を憎む者のために祝福を祈るというのは、この世では愚かなことであり、正しくないことでしょう。しかし、神様の正しさは、罪人を憐れむところに、その罪を赦すところに現れるのです。その憐れみを、その正しさを体現されたのがイエス様です。
 そのイエス様が、「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」とおっしゃる。それは、私たちが神様に赦されたように、あなたがたも赦しなさいということ以外の何ものでもありません。人の罪を赦すことは、上に立って出来ることではありません。決して。お高くとまっていて出来ることではありません。胸を打ちながら、神様の憐れみを求めながら、事実として憐れみを受けながら、そして信じて生きる時に初めて可能なのです。最早、「私が生きているのではなく、私の内にキリストが生きている時」に、その時にのみ可能でしょう。そこにのみ、正しい者としての歩みがある。その歩みは、ひたすらへりくだっていく歩みですから、この世の報いは期待せずに、神様が正しい者たちを復活させてくださるという報いを期待して、信じて生きることになります。イエス様は、今日もその信仰の道へと私たちを招いてくださっているのです。その招きに応えることができますように、祈ります。

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