「主イエスの弟子であるとは」

及川 信

       ルカによる福音書 14章25節〜35節
   
14:25 大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。14:26 「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。14:27 自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。14:28 あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。14:29 そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、14:30 『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう。14:31 また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。14:32 もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。14:33 だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」 14:34 「確かに塩は良いものだ。だが、塩も塩気がなくなれば、その塩は何によって味が付けられようか。14:35 畑にも肥料にも、役立たず、外に投げ捨てられるだけだ。聞く耳のある者は聞きなさい。」

 覚悟を求める

 今日の箇所から、イエス様は再びエルサレムに向けて歩み始めます。その歩みは、十字架の死に向っての旅と言ってよいものです。その旅は、ペトロがイエス様のことを「神からのメシアです」と告白し、イエス様が御自身の受難の死と復活を預言した後に始まりました。その時、イエス様は弟子たちにこう語りました。

「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。」(ルカ9:23〜24)

 今日の箇所の背景に、この言葉があることは明らかでしょう。
 イエス様は弟子たちに、「命が危険にさらされることを承知の上でついて来たいならついて来るように」とおっしゃっているのです。そこに、いかなる意味での洗脳も強制もありません。ちゃんと危険があることを告げた上で、覚悟を求めておられるのです。いい加減な嘘を並べて「お国のために命を捧げなさい」という類の強制とは全く逆です。
 「大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた」とあります。この「群衆」とは、直前にあったファリサイ派の議員の食事には招かれない者たちでしょう。しかし、神の国での食事には招かれている。そういう人々にも、イエス様は覚悟を求められます。

 振り向く

 ルカ福音書では、イエス様が「振り向く」とか「振り向いて言われた」という言葉が何回か出てきますが、最も印象的なのはペトロが三度もイエス様を否認した場面です。その時、「主は振り向いてペトロを見つめられた」と記されています。ペトロは、泣きました。

 選択

 イエス様が、大勢の群衆の方を振り向いてお語りになる言葉は、聞いただけで泣きたくなるような言葉です。

「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。」

 この場合の「憎む」は、感情というよりは選択です。イエス様はこの先の16章で、「どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである」とおっしゃいます。一方を選べば他方は捨てることになります。どちらも捨てたくないと思っている限り、何も選んではいないのだし、それはその人自身の人生をまだ生き始めていないということでしょう。

 キング牧師

 アメリカの白人たちによる徹底した黒人差別に対して公民権運動を展開し、ベトナム戦争に対する反戦運動も展開することになったマルティン・ルーサー・キング牧師はこう言いました。

 「もし人がそのために死ぬに値する何ものかを発見しなかったとするならば、彼は生きるに値しない。」
 「私はわが民の自由のために立ち上がって死のう。」

 死の危険があっても、人間の自由のために立ち上がり前進することが、彼の生きる道だったのです。そのようにしてしか、キング牧師は、主イエスに従うことはできませんでした。
 キング牧師の妻や子どもたちも何度も危険にさらされ、牧師自身絶えず脅迫にさらされており、恐怖と絶望の中に叩き落とされることがしばしばありました。そういう時期のある集会の後に、一人の婦人が彼の恐れを見抜いて、こう語りかけたそうです。

 「私たちがいつもあなたと共にいるとは言いません。……しかし、たとえ私たちがあなたと共にいなくても、神があなたの面倒を見てくださいますよ。」

 神が面倒を見てくださる。それは、神が共にいてくださる。神は決して、ご自身の御心に従う者を独りにはしないという約束です。この約束を心新たに信じたキング牧師は、こう語ります。

 「われわれは白人兄弟たちを、たとえ彼らが何をなそうとも、愛さなければならない。われわれが彼らを愛していることを知らせなければならない。」
 「イエスは今も何世紀もの時代を越えて叫んでおられる。『敵を愛し、あなたがたを呪う者を祝福しなさい。悪口を言う者のために祈りなさい』。これこそがわれわれが生きるべき戒めである。」

 キング牧師が暗殺される前日に語った有名な演説があります。その中で、キング牧師は「私も人並みに長生きをしたいとは思う。でも、今はそれもどうでもよい。私はただ神の御心を行いたいだけだ。私はもう何も恐れてはいない。神は山の頂きに私を登らせ、約束の地を見せてくださったからだ」と語りました。その翌日、宿のバルコニーのベランダに出てきたところを狙撃されてしまったのです。しかし、彼が神から与えられ、語り続けた夢は、彼の死によって潰えた訳ではありません。
 ご自分の命を捨てて愛してくださる主イエスを信じ、主イエスの御心に従って生きる。主のために生き、主のために死ぬ。それが、「自分の十字架を背負ってイエス様について行く」ということです。

 伝道

 主イエスは、ご自分について来る者たちに、ご自身の後に従うとはどういうことであるかをきちんと告げられます。そこにある危険性を隠さないのです。
 アメリカ人の学者が書いた注解書を読んでいたら、この箇所に関してこういう注解が記されていました。

 「教会や説教者やテレビ番組の中には、まるで中古車売買の様に福音を提供するものがある。彼らは、真の献身は必要ではないかのように、福音を可能な限り容易に見せかける。」

 これは、アメリカのある種の教会にだけ見られる傾向ではないでしょう。伝道が全く進展せず衰退している日本の教会にも見られる傾向だと思います。
 教会の使命は福音の宣教です。イエス・キリストを宣べ伝え、一人でも多くの人々に洗礼を授けるために教会は存在するのです。四つの福音書の最後は、すべて主イエスによる伝道命令です。主イエスは、明確に「洗礼を授けなさい」と命じておられるのです。しかし、それは言葉巧みに人々を洗脳してなすべきことではありません。「主イエスに従うことは、それまでの自分に死に、献身することだ。生半可な覚悟で出来るものではない」と、告げなければなりません。それでも「イエスは主である」と告白する者が出てきた時に、教会は父・子・聖霊の三位一体の神の名によって洗礼を授けるのです。それが、イエス様から与えられた教会の使命です。

 献身・献金

 今日は、中渋谷教会の創立97年の記念礼拝としてこの礼拝を捧げています。その礼拝の中でNUさんの洗礼式を執行できたことは時宜に適ったことでありますし、主の御名を賛美します。
 受洗準備会においては様々なことをします。洗礼式で告白した「日本基督教団信仰告白」の解説をしますし、「教会規則」の説明もします。その中で特に「会員」とは何かの説明をします。イエス様の弟子になった者は、具体的には教会の会員として生きるのです。キリスト者としては、家庭や職場また地域に於いて誠実に生活や仕事をしつつ信仰の証をします。会員としては、教会の礼拝を守り、自分ができる奉仕を捧げ、献金を捧げることで務めを果たします。だから、礼拝と奉仕と献金に関して説明します。
 中渋谷教会の週報には、かなり前から「奉献」(献金)と書かれています。献金とは自分自身を捧げることだという意味を明確にしているのです。会費を納入するのではありません。献金は、会員数と教会の予算額を考慮して、自分は幾らくらい出せばよいという発想に基づいて捧げられるものでありません。すべては神様から与えられたものであると信じるなら、すべてを神様の御心のために捧げて用いて頂くのです。自分自身を捧げながら献金を捧げるのです。とすれば、痛くも痒くもない額にはならないでしょう。献金は、主イエスご自身の献身に対する感謝の応答ですから。喜んで自分自身と共に捧げなければ意味はありません。

 力 戦い

 今日の箇所で三回も出てくる言葉は、「わたしの弟子ではありえない」です。これは、「わたしの弟子であることができない」と訳した方がよいかと思います。「力」という言葉が元になっているからです。家族、親族、さらに自分の命よりも主イエスを愛し、従って生きることには力が必要でしょう。愛と信仰の力が必要です。
 今日の箇所で、家族は自分を愛してくれる存在として登場しますが、21章ではキリスト者になった者を迫害し、殺す者として家族や友人が描かれます。親には内緒で洗礼を受けざるを得ない人はいます。代々受け継いで来た宗教がある家の長男であれば、キリスト者になることはとんでもない親不孝です。墓の問題、結婚相手の問題、仕事選択の問題、様々な問題が洗礼を受けようとする時に障害として立ち現れてきます。そういう障害を乗り越えることは簡単なことではありません。牧師の家やキリスト者の両親の下に育った者には、それとは別の乗り越えるべき内的障害があります。人は、それぞれ何らかの葛藤を経て洗礼を受けるのです。それは当然のことです。しかし、洗礼を受けた後にこそ、本当の戦いがあるのです。その点で、甘いことを言う訳にはいきません。その戦いは、勝利を目指して命をかけて戦うべき戦いであり、真の自由のための戦いであり、死ぬに値する戦いです。

 森明

 中渋谷教会の創立者である森明牧師の父親は、初代文部大臣の森有礼です。森有礼はイギリスへの留学体験を通してキリスト教文化に触れている人ですが、伊勢神社参拝の折に不敬を犯したと報道され、キリスト者であることが疑われて暗殺されたのです。それ故に、森家にとってキリスト教は最大の禁忌(タブー)でした。そういう家庭環境の中、幼い頃から病弱だった森明は宣教師や牧師との出会いを通して洗礼を受けることを志すようになりますが、国家主義者でもあった次兄は断固反対であり、明が洗礼を受けることは到底不可能な状況でした。しかし、祈りの期間を経て、森明は母と共に家族には知らせないで植村正久牧師から洗礼を受けます。数年後にそのことが次兄に知れますが、事なきを得、さらに十年後には次兄も洗礼を受けたことが『中渋谷教会八十年史』には記されています。森明は、その後の生涯を伝道に捧げました。その伝道によって、中渋谷教会の基礎は据えられたのです。
 森明がスローガンとした言葉は、「キリストの他 自由独立。主にある友情を重んじる」というものです。当時の意味としては、教派の相違によってキリスト者が一つになれない現実を突破するためのスローガンであったと思います。でも、より根源的には、この世のあらゆるものからの自由と独立を目指した言葉だと思います。この自由と独立は、キリストに密着し、徹底的に束縛され、服従することによってのみ獲得することが出来るものだからです。キリストに束縛されることによってしか、この世のあらゆるものから自由になり、独立した人格として生きることはできません。
 イエス様が私たちに与えようとしておられる命とは、この世の家族、親族、友人関係のすべてを失っても、信仰によってイエス様と結びつくことで得る命です。「その命を得たいと求めるのであれば、それなりの代償が必要である。あなたは、それを払う覚悟があるのか」とイエス様は群衆に問いかけ、「その覚悟があるなら、ついて来なさい」と招いておられるのです。当然、去る者がいるでしょうし、それはそれでその人の選択です。
 森明は洗礼を受けることを通して、それまでの家族関係を失ったでしょうが、家族を愛することを止めた訳ではなく、後に新たな家族関係を結ぶことができたのです。それは、肉の家族ではなく神の家族です。
 イエス様も両親や弟たちを捨てて神の国の伝道に旅立たれました。それは長男の務めを放棄したことです。でも、母マリアと弟のヤコブは聖霊降臨後に誕生したエルサレム教会の重要なメンバーになったのです。捨てることで、新たに得ることがあるのです。

 できる

 28節以下の譬えで問題になっていることは、最後まで成し遂げることが出来るかどうかです。「完成することはできなかった」と嘲られることがないように、敵に打ち勝つことが出来るように、まずよく考えることが求められています。ここには三回「できる」を意味する言葉が出てきますが、最後の「迎え撃つことができるかどうか」の場合は、それまでの二回とは違う言葉が使われており、それは18章にも出てくる言葉です。
 永遠の命を受け継ぐことを願いながら、富を手放すことができずに、イエス様の前から立ち去っていく議員の姿を見て、イエス様は「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」とおっしゃいました。らくだが針の穴を通ることは現実的には不可能ですから、その場にいた人々が「それでは、だれが救われるのだろうか」と言ったのです。するとイエス様は、こう言われました。

「人間にはできないことも、神にはできる。」(ルカ18:27)

 この「できる」「迎え撃つことができる」の「できる」と同じデュナトスです。「力」が元になっている言葉です。「わたしの弟子ではありえない」は「わたしの弟子であることができない」が直訳だと言いましたが、ここではデュナトスの動詞が使われています。主イエスに従うためには力が必要なのです。敵は四方八方から、様々な手段で襲いかかって来るのですから。強面顔で襲って来ることもありますが、優しげな顔で誘惑して来ることもある。富、権力、性、様々な要素を用いて、敵は主イエスから私たちを引き離そうとします。そういう敵の力を打ち破り、自由と独立を勝ち取ることは大変なことです。

 振り向くイエス

 私たちは、しばしば敗れます。それが現実です。でも、主イエスは惨めな私たちの方を振り向いてくださるのです。あの時のペトロもそうでした。
 「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言うペトロに対して、主イエスは「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう」と言われました。ペトロは、どこまでも主イエスに従う覚悟、決意をもっていたのです。主イエスを愛するが故に、自分の命をすら憎んでいたのです。少なくとも、彼はそう思っていた。しかし、彼はその数時間後に、「わたしはあの人を知らない」と言って、主イエスを裏切り、そして自分をも裏切ってしまいました。自分の命を愛することによって自分の命を失ったのです。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うのです。
 しかし、主イエスは、こうなる前にペトロに対して「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」と言ってくださっていました。このイエス様の祈りと、裏切った直後にイエス様が振り向いてくださったことによって、彼は立ち直っていくことになります。彼の力だけで、信仰を生き切ることはできません。神様の愛の力によって、人は信仰を守られるのです。

 王の譬え

 そういう観点から31節以下の「王」の譬えを見てみると、これは私たちのことではなく、神様のことを語っていることが分かります。神様はよく考えた上で、圧倒的に数に勝る敵を迎え撃って勝利できると確信して、進撃したのではないかと思います。その進撃の仕方は、たった独りの息子を世に遣わすという仕方です。ヨハネ福音書の言葉を使えば、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」のです。それは、神様ご自身にとっては、一切を捨てるということです。独り子を与えるとは、自分の全存在を与えることです。人を救うためにご自分を捨てる。らくだに針の穴を通らせるという不可能を可能なものにするために、人にはできないことも神にはできることを明らかにするために、です。愛とは、結局、そういう所に行き着くのです。
 夫婦の愛とか親子の愛とか、主にある友情とかも突き詰めれば、相手のために命を捧げることでしょう。一緒に生きていくためならすべてを捨ててもよい。これまでの仕事、地位、名誉、富、家族との関係、そのすべてを捨ててもあなたと一緒に生きていくことを選ぶ。結婚とは、そういう覚悟をもってするものでしょう。最初の夫婦が誕生した時の聖書の言葉は、直訳すれば「こうして男は父母を捨てて女と結ばれ、二人は一体となる」ですから。
 また、子どもの命が救われるのであれば、自分の臓器を取って移植して欲しい。自分が身代わりになって死んでも、この子は生かして欲しい。そう願い、可能な限りのことを実行するのが親の愛でしょう。その愛に生きる時に、それまで必要だと思って持っていたものの意味は劇的に変化するはずです。逆転するのです。
 神様にとっては、私たちに命を与えることが最も大事なことなのです。神様は、私たちのために生きてくださっているのです。私たちにすべてを与えてくださっているのです。神様が御子イエス・キリストを私たちの救いのために送ってくださったとは、そういうことです。ただそのことによってしか、罪の力に支配されている私たちを救うことができないと確信されたからです。イエス様の十字架に現れる神様の愛を信じる者が、少数であっても必ずいるはずだと確信されたのだと思います。だから、神様は独り子をさえ惜しまずに与えてくださった。すべてを捨ててくださった。
 独り子イエスは、神から遣わされたメシアとして、痛ましい十字架の死を経ての復活と昇天に向けての旅を始め、決然とした覚悟をもって最後まで歩み通されました。様々な妨害、敵意、憎しみに対峙しつつ、それでも人々を愛することを止めず、救いへ招くことを止めず、ついに自分を殺す者たちの罪が赦されて救われることを祈りつつ十字架の上で死んでくださったのです。主イエスは、私たちを愛するが故に、ご自分の命を憎まれたのです。命までも捨てられたのです。

 だから、同じように

 王の譬えは、このような神様とイエス様のことを語っていると解釈しないと、「だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない」という言葉が理解できないと思います。「どんな王でも」「王」を、私たちのことと解釈すると、「だから、同じように」とは繋がらないのです。塔を建てる譬えは、弟子として生きようとする者に対する忠告でしょうが、敵を迎え撃つ王の譬えは、神の戦いがどのような戦いであるかを教えているのだと思います。神様は一切を捨てて、私たちを愛してくださっているのだ、と。

 捨てる

 「自分の持ち物を一切捨てないならば」とあります。今日の箇所に出てくる「捨てる」は「別れを告げる」という意味です。それまで執着していたもの、これがなくては生きていけないと思っていたもの、そういうものに別れを告げるのです。現実には何を持っていてもよいのです。
 先週も、結果として与えられる富や権力そのものが悪であるわけではない、と言いました。そういうものを与えられたキリスト者は、それらのものを神様の御心に従って使う責任が与えられています。かつては、富も権力も自分のためのものです。それらがないと不安だったのです。しかし、今は自分の命は神様が与えてくださったものであり、神様が守ってくださるものであると信じているのですから、この世の思い煩いからは自由になり、すべてのものを神様のために、神様が喜んでくださるように用いていくことになります。新しい人間にされれば、「自分の持ち物」との関係も新しくされるのは当然です。

 塩

 しかし、信仰を与えられても、多くの人々の生活はさして変わらないと思います。ほとんどの人は、信仰を与えられる前と同じ家に住み、同じ仕事をし、同じように食べているからです。すべての人が伝道者になるわけではありません。でも、見た目は変わらずとも、その内実が本質的に変えられたのです。その本質を失ってはいけません。
 塩は人間にとって必須のものですが、肥料として使ったとしても、食糧の保存用に使ったとしても、味付けに使ったとしても、使うと同時に目には見えなくなるものです。それでも、塩がちゃんと塩気を持っていれば役立っているのです。人の目には見えなくても、使命を果たしているのです。
 人間社会という土壌はすぐに腐敗し、健康な人間がなかなか育ちません。だから殺伐としてくるのです。私たち人間が自分の命を愛し、他人の命を憎むからです。私たちが毎日報道を通して見聞きしている国内外の現実は、そのことを嫌と言うほど知らせるものでしょう。そういう社会の中に、神の独り子イエス・キリストは遣わされ、あの十字架の死に向って旅を続けてくださったのです。そして、一粒の種として死んでくださった。その死が塩だとも言えます。イエス様は罪人を愛するが故に、自分の命さえも憎んで十字架にかかってくださったからです。
 教会は、この主イエスの十字架の上に建っているのです。しかし、この国では全く無力であると言って良いでしょうし、一人ひとりのキリスト者は尚更無力です。私たちは全く目立ちませんし、しばしば踏みつぶされてしまう感覚を覚えます。いっそ、この世に埋没した方が楽だと思うこともあります。
 でも、私たちは、塩気を失ってはならないのです。世の光、地の塩として生きなければならない。そのためには、自発的に自分の十字架を背負ってイエス様について行くしかありません。どんな危険が待ち構えていても、イエス様に従っていくならば、神様が面倒を見てくださいます。塩としてのイエス・キリストが、私たちの中に生きてくださるのです。この世で長生きは出来ないかもしれませんが、永遠の命に生かされます。この世ですべてを失うかもしれませんが、最も大切なものは手にすることができるのです。その大切なものを与えるために、主イエスは三度も「わたしの弟子ではありえない」と言いつつ、「わたしの弟子になりなさい」とおっしゃっているのです。
 「聞く耳のある者は聞きなさい。」

ルカによる福音書説教目次へ
礼拝案内へ