「一緒に喜んでください」

及川 信

       ルカによる福音書 15章1節〜10節
   
15:1 徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。15:2 すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。15:3 そこで、イエスは次のたとえを話された。15:4 「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。15:5 そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、15:6 家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。15:7 言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」 15:8 「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。15:9 そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。15:10 言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」

  ヨナ

 旧約聖書の中に「ヨナ書」という小さな書物が入っています。預言書に分類されていますけれども、とても面白い含蓄のある物語です。
 神様がヨナに、アッシリアの首都ニネベに行って預言するよう命じるところから物語が始まります。アッシリアはメソポタミア地方の大帝国であり、イスラエルを滅ぼした国でもあります。だから、ヨナは行きたくない。そこで船に乗って逃げます。このこと自体が滑稽なんですが、人はこういうことをするものです。天地をお造りになった神様から逃れることが出来る場所など、この地上にはどこにもありません。それなのに、逃げることができると思ってしまう。そこに、人間の滑稽さがあります。
 ヨナはその後、海に投げ出され、大きな魚に呑み込まれ、三日三晩、魚の腹の中で悔い改めの祈りを捧げるのです。すると、魚がヨナを陸地に吐き出します。その時に再び、主はヨナに「ニネベで預言せよ」と命じます。彼は、その命令に従ってニネベに行き、都の中を歩き回って「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる」と預言するのです。でも、心では「ニネベなど神に裁かれて滅びればいい」と思っているのです。
 ニネベの人々は、ヨナの預言を聞くと、どういう訳か悪の道を離れ、断食までして神に赦しを乞う祈りをささげました。その様を見て、神様は「宣告した災い」を下すことを思い直されたのです。
 ヨナは納得できず、怒りを覚えます。神様の憐れみと慈しみの深さが我慢できないのです。主はヨナに「お前は怒るが、それは正しいことか」と問われます。この後、主はヨナの身勝手さを思い知らせる業をなさいますが、最後にこうおっしゃるのです。

「どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから。」(ヨナ書4:11)

 「主」(ヤハウェ)とは、天地の造り主にしてイスラエルの神様のことです。世界の諸民族の中からイスラエルを選び、彼らを祝福し、御心を示す神です。イスラエルの民は、主の御心に従って歩むべき民です。ヨナは、そのイスラエルの民の一員です。そのヨナだって、主の御心に背いたのです。しかし、魚の腹の中で悔い改めの祈りを捧げた。主はその祈りを聞いてヨナを赦し、新たに使命を与えられました。
 アッシリア人は主の民ではありません。救いの外にいる異邦人です。しかし、主は御心を知らず、右も左もわきまえぬ十二万人以上のニネベの人と無数の家畜を惜しまずにいられないのです。天地の造り主にしてイスラエルの神である主にとっては、イスラエルの一員であるヨナの命も異邦人であるニネベの人々も、惜しまずにはおれない人々なのです。主は、人が過ちを犯したとしても、悔い改めるなら、それが誰であってもお赦しになる方なのです。そして、ニネベの人々が悔い改め、裁きを免れたことを、主はヨナにも喜んで欲しいと願っておられる。
 聖書においてご自身を啓示されている神は、民族神とか国家の守護神をはるかに越えたお方です。しかし、こういう神様を信じ、神様の喜びを自分の喜びとすることは、私たち人間にとって実は非常に難しいのではないでしょうか。

  美化 正当化

 私たちは毎日、様々なニュースに触れて心を痛めています。私たちよりもむしろ、神様がどれ程深く悲しみ、また怒り、嘆いておられるかを思います。中でも、「イスラム国」を自称する集団の残虐な行為は、目を覆いたくなるようなものです。(「イスラム国」という名称は、真っ当なイスラム教徒にしてみれば、本当に迷惑な名称だと思います。)最近ネット上で見た動画では、裸にしたシリア政府軍の兵士たちを腹ばいに寝かせた上で、数人の戦闘員が機関銃で集団処刑する様が映されていました。BGMとして流れていた音楽は、アラーの神を称える言葉かコーランの朗誦だと思います。集団処刑は、アッラー(神)の御心に従ったジハード(聖戦)の一環だということです。
 彼らは、「アメリカの空爆に協力する国々で、神の名の下に市民を殺せ。それが聖戦に参加すること。神に近付くことだ」というメッセージをネット上で流しています。右も左もわきまえない者たちがそのメッセージに触発されて、他人と自分の命をゴミのように扱う行動に出始めています。
 現代の日本人の感覚としては、彼らの行為や宣伝は異様に見えますし、その言葉に触発されて戦地を目指したり、テロに走る人たちが異常な人間に見えます。でも、私たちの国もかつては「天皇陛下のために命を捨てることが日本人のあるべき姿だ」とし、「鬼畜米英を殲滅する」とか「一億火の玉、玉砕」とか言っていましたし、十代の若者を帰りの燃料を積まぬ「特攻機」に乗せて自爆させ、それを美しいことであるかのように宣伝していたのです。捕虜や住民の集団処刑もしたし、化学兵器製造のための生体実験もしたのです。いずこの国も、隠したい暗部とか恥部を持っています。
 洗脳されたり、異常な現場に連れて行かれれば、誰だって異常になるし、麻薬によって感覚を麻痺させれば、殺すことも殺されることも恐ろしくはなくなります。麻薬は戦争につきものだし、戦争そのものが人間にとっては断ち難い麻薬のようなものではないでしょうか。

  いなくてもよい人間

 私たち人間が戦争をする場合、その根底には「いなくてもよい人間がいる」という思いがあります。「死んでもよい人間がいる。滅んでもよい人間がいる。」そういう思いがあるのです。少なくとも、自分の目の前からは消えて欲しい。そう思っている。人間の恐ろしい所は、そういう思いを「愛国心」の名の下に、また神の名の下に正当化し美化する所にあります。
 学校教育、マスコミ操作、そして、現代ではインターネットを使って「いなくてもよい人間」を殺すことは国を愛することであり、神に近付くことという宣伝がなされ続けています。そして、戦死者を「英霊」とか「殉教者」と顕彰しつつ、新たな血を流させるように促す人々が後を絶ちません。

  聞き手

 前回からルカ福音書15章を読み始めています。イエス様の譬話が三つ出てくる有名な箇所です。前回は、羊の譬話をルカ福音書の文脈に沿って読みました。今日は、羊と対になっている銀貨の譬話を、時代の文脈(コンテキスト)を意識して読んでいます。
 私は前回、「聴き手は誰か」に注目しましたが、今日もその点は確認しておきたいと思います。
 ファリサイ派や律法学者とは、神の民イスラエルのエリートです。彼らから「罪人」と断じられる人々は、神の民の枠外に追いやられることになります。つまり、神の救いには与らない。神の国の食卓に着くことはないとされるのです。排除される。
 しかし、そういう人々がイエス様の話を聞こうと近寄って来るのだし、イエス様はそういう人々を歓迎し、「食事まで一緒にしている」。食事を一緒にするとは、食前食後の神への感謝の祈りを共にすることであり、神の子として互いに兄弟であることの証なのです。
 イエス様は、ファリサイ派の人々とも食事を共にします。兄弟の交わりを持つのです。しかし、彼らの食卓には徴税人や罪人と呼ばれる人々はいません。そういう人々は、彼らにとっては「いなくてもよい人間」なのであり、彼らの食卓には「いてはいけない人間」だからです。
 イエス様は、そういうファリサイ派や律法学者に語っているのです。しかし、その場には徴税人や罪人たちもいる。彼らも聞いている。そういう情景を思い浮かべつつ、この箇所を読んでいきたいと思います。

  私の羊 あの銀貨

 ドラクメ銀貨とは労働者一日分の報酬だとか十日分だと書かれており、私にはどちらが正しいのか分かりません。いずれにしろ、庶民にとっては貴重なものです。庶民の家は一部屋で窓はなく、床も地面のままです。部屋の中は暗く、地面には土埃がたまりますから、銀貨がなくなればともし火を灯して地面を掃きながら捜すしかありません。
 「見失う」とか「無くす」はアポリューミという言葉で、「死ぬ」とか「滅びる」とも訳されます。
 譬話に出てくる羊飼いは、一匹の羊を必死に捜して、見つけ出すと大喜びで大宴会を開きます。女も一枚の銀貨が見つかったら、「友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう」と、イエス様はおっしゃいます。一緒に喜んでもらう宴会にかかる費用は、銀貨一枚では済まないでしょう。この女は、銀貨一枚の損失をなくすために必死に捜している訳ではないのです。
 羊飼いは「見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください」と言っています。忠実に訳せば「見失った私の羊を見つけた」です。「私の」が大事なのです。今日の箇所では、「無くしたあの銀貨を見つけました」です。「あの銀貨」が大事だと思います。友人が同情して他の銀貨をあげようとしても、女は、「あなたのご好意には感謝するけれど、私には『あの銀貨』でなければ駄目なのです」と言って断る。イエス様は、そういう譬話をしているのだと思います。
 十人兄弟の中の一人がいなくなってしまった場合、「十人いること」が何より大事なら、他の誰かを養子に迎えても良いわけです。でも、親にとっては「あの子」でなければ何の意味もないでしょう。十人いることが問題なのではなく、「あの私の子」が私と共にいることが大事なのです。

  捜される人間

 問題は、一匹の羊とか一枚の銀貨の損失ではありません。羊飼いや女は、神様あるいは神様に遣わされたイエス様のことでしょう。神様にとって、私たちの誰一人として「いなくてもよい人間」ではない。そういうことを、イエス様はお語りになっているのです。
 にもかかわらず、私たちは右も左もわきまえぬ人間であり、しばしば飼い主から離れ、また土埃の中に落ちてしまうのです。
 アダムとエバが、蛇に唆され、禁断の木の実を食べてしまった時以来、私たちは「あなたはどこにいるのか」と神様から捜される者となったのです。神様にとって「いなくてもよい人間」はいないから、神様は捜し続けてくださる。
 私たち一人ひとりは、神様から「私の羊」「あの銀貨」として捜しだされた者である。あるいは、神様は私たち一人ひとりをそのように掛け替えのない存在として捜しだし、ご自身の家の食卓に着かせてくださるお方なのだ。私という一人の人間を見つけ出すことが出来た時には、大枚をはたいて宴会を開いてくださる。そのように喜んでくださるのだ。この神様に感謝しよう。
 そういうことだけなら、話は分かりやすいのです。私自身が、これまでそういう線でこの話を読んできたと思います。

  招きを拒否する人間

 聴衆が誰であるかを考えなければ、それでよいと思います。しかし、聴衆は「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだしたファリサイ派や律法学者たちなのです。
 この時、イエス様と徴税人や罪人たちが「家の中」で食事をしていたとすれば、「家の外」で不平を言いながら決して中に入ろうとしないのがファリサイ派や律法学者です。彼らにしてみれば、徴税人や罪人は神の国の中には「いなくてもよい人間」どころか「いてはならない人間」だからです。そういう者たちと一緒に食事はできない。罪人たちが外に追い出されたら、中に入っていく。そう思っている。
 しかし、この食事は神様が招いている食事です。ニネベの人と同じように、この時の徴税人や罪人たちも皆、神様にとっては惜しむべき人間であり、無くてはならない人間です。私たちは、自分がそのような存在として神様に見られている時は感謝します。でも、自分にとって「いなくてもよい人間」や「いてはならない人間」をも、神様が自分と同じように見ていると我慢できないものです。家の中に入って来ない。一緒に食事をとらない。
 そういう心の思いの行き着く先が、殺人であり、残虐行為であり、戦争だと思います。残念ながら、その思いはキリスト者になった後も、少しも変わっていない場合が多いのです。

  キリスト教会の現実

 先日、『悪童日記』という映画を観ました。戦時中、ハンガリーの田舎に疎開をしている双子の兄弟の経験が描かれているものです。彼らの住む村の近くに、ナチスが作ったユダヤ人強制収容所があります。ハンガリーでもユダヤ人差別は激しいものがあったようですけれど、カトリック教会の司祭館に務める美しい女性もユダヤ人を「獣」と呼び、差別意識をむき出しにしていました。町のユダヤ人が一斉に強制収容所に送られる直前に、双子の兄弟は、ユダヤ人の靴屋のお爺さんから温かい冬用の靴を貰っていたのです。しかし、その心優しいお爺さんは、クリスチャンの女性の告げ口によって金槌で殴り殺されてしまいました。納得がいかない双子は、彼女に恐るべき復讐をすることになります。
 その教会の司祭は、少し知恵遅れの女の子に性的な悪戯をしてお金をあげたりしている。そのことを知った双子は、司祭を強請(ゆす)りに行きます。その時、司祭から「十戒を知っているか」と問われます。彼らは「知っている」と答えた上で、こう言うのです。

「十戒に書かれていることを、誰も守っていない。『殺すな』と書かれているけれど、皆、殺している」。

 つまり、キリスト者の大人たちは誰も神の言葉に従ってなどいないということです。戦争も差別も大虐殺もすべて、キリスト教世界でも起こっているのです。
 先日読んだアメリカの教会事情を報告する本によると、アメリカの差別体質が最も剥き出しになるのが日曜日の朝、礼拝の時刻だと言うのです。教会毎に、そこに集う人々の特色がはっきりしているのです。白人教会には黒人はおらず、その逆も然りです。教会の中に人種間の最も高い壁が建っているのです。また、金持ちは金持ちの教会に集まり、貧乏人は貧乏人の教会に集まる。それ以外にも様々な分断があります。日本の教会にも、そういう現実がない訳ではありません。
 また、南米やアフリカの飢えている子どもたちへ献金を送っていることを誇りとする教会が、その町のホームレスのためのシェルターが隣接地に建てられることには断固反対して阻止してしまうということもある。普段接することのない貧民にはチャリティをし、目の前にいる貧民は遠ざける。見ないようにする。一緒に食事などしない。日本の教会にも、そういう偽善や欺瞞がない訳ではありません。

  真実のキリスト教会

 パウロは、ガラテヤ地方の教会に向けてこう言っているでしょう。

あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です。(ガラテヤ2:26〜27)

 肌の色、身分、性別、経済的格差、それまでの宗教の違い・・・人間がその力では決して乗り越えることができない壁を、キリスト・イエスはご自身の十字架の死と復活を通して乗り越えてくださり、すべての人々を一つにする道を開いてくださったのです。すべての人が、一つの食卓に着く道を開いてくださっているのです。キリスト・イエスに対する信仰において、すべての者がイスラエルの父祖であるアブラハムの子孫であり、神の国を受け継ぐべき相続人とされたからです。
 でも、キリスト・イエスに結ばれた神の子であるはずの私たちは、「あの人と一緒に食卓に着くのは嫌だ」、「一緒に礼拝など出来ない」と不平を言って家に入って来ない。あるいは、家の中に入れない。そうではないでしょうか?私たちキリスト者が一番、イエス・キリストに躓いているのです。その恵みと憐れみと慈しみの深さに躓いている。
 ヨナは、神様がニネベの人々を赦したことを知った時、こう言って神様に抗議しました。

「わたしには、こうなることが分かっていました。あなたは、恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方です。」 (ヨナ書4:2)

 これは、神様の恵みと憐れみ、慈しみを賛美する言葉のはずです。でも、この言葉が怒りに満ちた抗議の言葉なのです。つまり、神様の恵みと憐れみと慈しみが自分に与えられると神様を賛美する人間が、自分にとっては「いなくてもよい人間」「いない方がよい人間」にも神様の恵みが与えられると妬み、そして怒る。なんとも情けないことですけれど、それが私たちの現実である。そのことを否定できる人はいないのではないでしょうか?

  人間の正しさ

 イエス様の譬話は、よく読んでいくと私たちを混乱させるものです。イエス様が譬話を語る一つの意図は、そこにあると言ってもよいと思います。捜してもらう側に立って感動していると、家の外で不平を言っている自分の姿がつきつけられて来る。そういうものです。
 今回改めて三つの譬話を読んでみて、三つとも神様の願いが実現したとは書かれていないことに気付きました。羊飼いも女も「一緒に喜んでください」と言いました。そして、イエス様は、「大きな喜びが天にある」、「神の天使たちの間に喜びがある」とおっしゃっている。それは、罪人が神様に見つけ出され、連れ帰られたことを、神様と一緒に、天使たちと一緒に喜んで欲しいという願いです。
 でも、友達や近所の人々が、その招きに応えて家の中に入ったかどうか、それは分かりません。「招かれた者たちは、羊飼いと一緒に喜んだ」「女と一緒に喜んだ。神の国とはそういうものである」と、イエス様はおっしゃっていません。
 放蕩の限りを尽くして帰って来た弟を、父親は喜び迎え入れました。「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ」と言って大喜びし、なんと肥えた子牛一頭を屠って食べるという豪勢な宴会を催しました。しかし、その喜びの歌や踊りの声を外で聞いた兄は、家に入ってきませんでした。自分はずっと忠実に父に仕えて生きてきたのに、友達との宴会に子山羊一匹すら出してくれなかった父が、娼婦たちと財産を食いつぶした弟が帰って来ると、肥えた子牛を屠って宴会を開いている。そのことを知って我慢できなかったのです。死んだも同然だった弟が生き返ったことを、父と一緒に喜べないのです。自分はこれまでも、そしてこれからも正しく生きていく人間だと思っているからです。そして、父の愛は正しい者にこそ向けられて然るべきだと思っているからです。私たちだって、そう思っています。
 しかし、人間の「正しさ」、正義ほど危ういものはありません。正義と平和のために、残虐な戦争を始めるのは人間です。その戦場では、人を無残に殺すことが正しいことです。兄だって、戦場に連れて行かれれば同じことをするでしょう。私たちは、誰だって、いつ何時、自分が死んだも同然になるか分からない存在です。
 私たちは、例外なくニネベの人と同じく「右も左もわきまえぬ」罪人です。何が本当に正しいことなのかなんて知らないでしょう。たとえ知ったとしても、それを生きることができないのです。

  神の愛と義

 神様こそ正しいお方です。聖書の神は正義の神です。しかし、その正しさ、神の義はどこに現れたか。それはイエス様の十字架の死に現れたのです。パウロは、ローマの信徒に向ってこう言っています。

神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。(ロマ書3:25)

 神様は、罪なき独り子であるイエス・キリストに罪人の罪をすべて背負わせ、裁かれたのです。そのことを信じる者には、誰であれ神は赦しを与えて義とする。そこに神の義が現れている。そういうことです。
 律法を忠実に守り、清く正しく生きることで自ら義に到達するのだと信じている者にしてみれば、この神の恵みと憐れみ、慈しみは耐え難いものです。そこに現れる神の正しさ、義は、到底容認できないのです。ヨナがそうであったように、です。
 でも、旧約聖書の時から、神様はそういうお方であったのです。皮肉なことに、また悲劇的なことに、常に神の民に受け入れられず、否定される神様なのです。その行き着く先が、イエス・キリストの十字架の死です。神様の恵みと憐れみ、慈しみを体現されるイエス・キリストを「生きていてはいけない人間」として処刑する。それが、私たち罪人が考える正しいことだからです。それは当然の帰結です。そのようにして、私たちは神から見失われる羊になり、無くなった銀貨になる。つまり、本質的に死に、滅びていく。
 しかし、そういう私たちのためにイエス様は、十字架の上で祈られました。

「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23:34)

 「彼らは、右も左もわきまえない民です。私が代わりに裁きを受けます。どうか、彼らを惜しんでください。彼らを救ってください。いつか彼らも分かります。そして、私の十字架の死を記念する食卓に共に着く日が来ます。」

 このイエス・キリストの祈りを聞き、その姿を見て悔い改めた犯罪者、イエス様の隣の十字架に磔にされていた犯罪者は、「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と、イエス様に言われました。人から決して赦されることなく、ついに処刑される人間が、悔い改めれば、その人間を楽園に迎え入れる。そこに神の愛があり、神の義が現れているのです。
 私たちは、このようにして一匹の羊、また一枚の銀貨を見つけ出して喜ぶ主イエスの姿を見て、賛美するのでしょうか。怒るのでしょうか。賛美する者でありたいのです。そして、神様の愛と義を生きることが出来るようになりたいのです。しかし、それは私たちの力でなし得ることではありません。だから、共に聖霊の助けを祈り求めたいと思います。

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