「人に尊ばれるもの・神に忌み嫌われるもの」
16:14 金に執着するファリサイ派の人々が、この一部始終を聞いて、イエスをあざ笑った。16:15 そこで、イエスは言われた。「あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである。人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ。 16:16 律法と預言者は、ヨハネの時までである。それ以来、神の国の福音が告げ知らされ、だれもが力ずくでそこに入ろうとしている。16:17 しかし、律法の文字の一画がなくなるよりは、天地の消えうせる方が易しい。16:18 妻を離縁して他の女を妻にする者はだれでも、姦通の罪を犯すことになる。離縁された女を妻にする者も姦通の罪を犯すことになる。」 16:19 「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。16:20 この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、16:21 その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。16:22 やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。16:23 そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。16:24 そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』16:25 しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。16:26 そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』16:27 金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。16:28 わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』 16:29 しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』16:30 金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』16:31 アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」 内と外 町中がクリスマス一色になり、会堂の中も蝋燭の本数が増え、今日はアドヴェント的な箇所を説教するべきかもしれません。でも、今日は前回とセットの箇所なのでルカをやります。前回は、召天者記念礼拝であるだけでなく幼児祝福式がありました。パソコンの普及以来どんどん変化する時代に於いて、将来の社会における幼児たちの幸いはどこにあるのか分からない感じがします。将来の社会がどういうものであれ、子どもたちの幸いを祈りたいと思います。 一方で、この一年程私は入院生活をしていますが、同室者はほとんど目上の方で、昭和一桁の方です。漏れ聞く同室者の話を聞いても、最後に物を言うのは金であることは明らかです。身寄りがいない、友達がいない、金がないでは、退院も施設への入所も出来ません。世話をする役所の人も大変ですが、あまり話が分からない本人は本当に大変だと思います。 私は入院中ですから、一歩も外に出られないのです。けれども、たまに外から差し入れがあります。先日は『笑って働き、黙って納税』というブックレットのような本を頂きました。昭和八年から二〇年まで、全国の新聞や雑誌などに出たスローガンを集めたものです。その中に「欲しがりません、勝つまでは」とか「贅沢は敵だ」とよく知られたものもありますが、「飾る体に、汚れる心」というものがありました。体は鍛えに鍛えて威風堂々たるものであっても、心は蚤の心臓のままであれば、鍛えれば鍛えるほど体は惨めなものになります。体と心を人の外と内とするなら色々言えます。外だけきらびやかに着飾って、内面はボロボロということはよくあることです。 主イエスとファリサイ派 前回は十一月の中旬ですけれども、借金まみれの借用書を書き換える「不正な管理人」の話でした。彼は、主人の金さえ自由に使えれば大丈夫と思っていました。少なくとも、一つの側面はそういうものです。ところが、主人の金を頼りに出来そうもなくなった時、「この世の家」よりは「永遠の家」の方をとったのです。譬話の表面ではそうなっていなくとも、実際はそうです。 また、前回の話は、管理人によって借用書を書き換えてもらった人々の話でもありました。彼らは、そのことによって自分では何もしないまま「永遠の家」に迎え入れてもらえるのです。彼らは何の努力もしません。それ以上のことは繰り返しませんが、彼らは管理人や主人のお陰で「永遠の家」に住むことが出来るようになります。 そして、前回の最初の聞き手は主イエスの周りにいる「弟子たち」でした。つまり、教会に来ているキリスト者たちです。この世に生きているのだけれど、教会に来ている人たちです。彼らは、最初は単に借用書を書き変えてもらっただけかもしれませんが、後に人の借用書を書き換える人にならなければなりません。なかなか複雑な人たちです。 今回の話の聞き手は「金に執着するファリサイ派の人々が」(14節)とありますように、ファリサイ派の人々です。彼らは前回の話を聞いて主イエスを嘲笑ったのでした。その中の何人かには管理人もいたでしょう。 主イエスは、今日の所でファリサイ派に反抗する意味で、金銭的な禁欲を説いてはいません。信仰者の信仰に対して神の祝福があることは旧約法にも記されているし、主イエスにおいても敵視されるようなことではありません。「律法の文字の一画がなくなるよりは、天地の消えうせる方が易しい」とあるとおりです。彼らはその点では共通しているのです。しかし、ファリサイ派らは「富んでいるから自分は信仰者だ。妻を気に入らないから離婚でき、気に入った女と結婚出来るから、自分は人に尊ばれるべき信仰者だ」と言っていたのです。「律法にはそう記されている」と、彼らは思っている。 けれど、主イエスの律法の読み方は違います。同じものを読んでいても解釈が全く違う。だから、主イエスとファリサイ派は互いに敵対し、ファリサイ派は主イエスを嘲笑ったのです。少なくとも一面はそういうものです。 主イエスは「律法と預言者は、ヨハネの時までである」とおっしゃっています。バプテスマのヨハネは、徹底的に悔い改めを説いた預言者です。律法をそのように読んだから、彼は迫害されたのです。主イエスはヨハネを継いでいます。そして、「神の国の福音」を告げるために来、「律法と預言者」についても「神の国の福音」という観点から読みます。 「律法と預言者」とは、私たちにとってはほぼ「旧約聖書」の事と言って良いかと思います。旧約聖書は,新約聖書を読むためにこそある。ファリサイ派の観点から旧約の律法を読めば、男が離縁状を出せば女は離縁出来る存在だったのです。離縁状を出すか出さないかは男次第。ところが、主イエスにとっては違います。そこに、男の正しさが証明される訳ではないのです。「神の国の福音」が宣べ伝えられ、それが心から聞かれるところでは、女も男と同等の人間なのです。 そこで問題になるのは、目に見える男の行動ではなく、人の目には見えない「心」です。「神の国の福音」を聞くとは、そういう「心」から行動し、また「心」を見ることです。しかし、人の目しか見えない人々は「力づくで」、つまり、律法の一点一画を自力で守ることによって、神の国に入ろうとしている。しかし、律法の読み方を間違えれば、いくら読んでも主イエスの言葉は分かりません。神の国に入ることはできないのです。ファリサイ派は、入ることはできません。そのことを分からせるために、主イエスは今日の譬話を話すのです。 金持ちとラザロ 本日の19節以下の譬話は、ファリサイ派を聞き手として導入するために、一般的な話を譬話の前にしてあります。 今日の譬話は、「ある金持ちがいた」という言葉で始まります。前回は「ある金持ちに一人の管理人がいた」です。同じ書き方です。いずれも、律法を忠実に守る信仰者には神様の祝福があるということでしょう。 金持ちは、半端ではない金持ちであることが強調されています。彼のところには、ラザロという人がいました。主イエスの譬話で、「ラザロ」という固有名詞が出るのはここだけです。極めて珍しいことがここには起こっているのです。多くの方がヨハネ福音書11章のマルタとマリアの兄弟ラザロ、主イエスに復活させられたラザロを思い出すでしょうが、これは譬話の中の途上人物ですから違います。主イエスが作り上げた人物です。 「ラザロ」はギリシア語で、ヘブライ語のエレアザルの直訳です。エレアザルとは、「神に愛された者」、「神の愛によって生きる者」、あるいは「神が助ける者」と訳せる言葉です。そういう男が毎日、金持ちの家の門前に運ばれてきた。それを、この金持ちは赦していたということです。多分、「施し」は、「祈り」や「断食」と共に、人々に称賛される行為だったのです。 当時、食卓の残りのパンは、布巾のように食後の汚れを拭いて地面に捨てられていたようです。犬にできものを舐められながら、その様に捨てられたパンをラザロは食べていたのかもしれません。食卓の上にある物を食べたいな、と心に願いながら。その願いも叶わぬまま犬にできものを舐められる。これは、私たちが最も忌み嫌うことではないでしょうか。 つまり、ここには人々に尊ばれる人と忌み嫌われる人が登場しているのです。片方は大金持ちです。彼の家の門前にはできものだらけの乞食がいたのです。犬にできものを舐められながら、パン屑を拾って食べる男です。これがもう一方の人間です。やがて二人とも死にます。ここから物語は展開します。 一方は、人々に葬られることなく「宴席にいるアブラハムのすぐそばに」天使に連れて行かれます。アブラハムとは、イスラエルの民の先祖です。ただ先祖であるだけでなく信仰の父です。そのアブラハムの「そばちかくにいる」とは、「懐にいる」とも訳されますが、本当に名誉なことです。しかし、それは地上の誰も見た訳ではありません。譬話の中では、地上で丁重に扱われ、葬儀も盛大にやってもらった上で死者の世界である陰府にいる金持ちが、「はるかかなたに見た」だけです。地上で丁重に葬られても、彼は死んでからアブラハムのそばちかくにいるわけではなく、陰府の火焔の中で渇いているのです。そこに妬みがない訳ではありません。 そこで彼は言います。 「父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。」 彼は未だにラザロと直接口を利かず、彼を御用聞きのように扱っています。とにかく、彼にとって今の自分の環境は、自分でも全く予想がつかなかったでしょう。かつての恵まれた地上の環境など、全く無意味なものとして吹き飛んだのです。 アブラハムの答え アブラハムの答えは、彼の予想以上に厳しいものでした。「ラザロは、お前とは違って、かつて人々に最も忌み嫌われるものを受け取っていたから、今は良いものを受け取る。また、自分のいる所と金持ちのいる所の間には大きな淵があって、今はもう自由に行き来できない」と言うのです。 そこで金持ちは、まだ地上に生きている彼の兄弟五人を思い出します。彼らをこんな酷い所に来させないために、ラザロを遣わして欲しいとアブラハムに頼みます。しかし、アブラハムは、「地上にいる者には『モーセと預言者』がいるだろう、彼らに聞け」と言うのです。つまり、「旧約聖書を生ける神の言葉として読め」と言う。そうすればそんな所には来ないですむ、ということです。 金持ちは言った。「いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。」アブラハムは言った。「もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。」 金持ちにとって、「モーセと預言者」は既に死んで終わってしまった者なのです。文字は残っていても、今の言葉はない。そういう者たちです。そういう者の文字は、幼い時から何度も読んで覚えてしまった。兄弟たちも、彼と同じだと言うことです。彼らにとって旧約聖書は、いくら読んでも自分の根底から悔い改めを促すような言葉はなく、むしろ本人を肯定するような文字しかない。そういうものでした。 アブラハムにしてみれば、モーセや他の預言者たちの言葉をその様にしか読まない者は、自分にとって善い言葉でない限り、誰の言葉であっても聞き入れる言葉ではないのです。だとするなら、生き返ったラザロの言葉だって意味はないのです。そもそも、神は死んだと思っている者にとっては、すべてが同じです。また、金持ちにとってラザロは未だに御用聞きです。金持ちの代弁者です。生きている時に彼に声をかけたこともなく、今だって直接頼む訳ではない。彼は、すこしも変わっていないのです。 旧約と新約 ここで注意せねばならぬのは、「遊び暮らしていた」(euvfrai,nw )と訳された言葉です。この言葉は、15章後半で、親の遺産を食いつぶし飢え死に寸前の弟息子が家に帰った時に、父親が開く「宴会」の意味で何度も使われます。つまり、お祭り騒ぎのことです。地上での生活を毎日が宴会のように生きた人間が、陰府では渇きによって「もだえ苦しむ」ように生きる。それは、彼には全く思いがけないことでした。彼は地上の正しさが陰府でも続くと思っており、地上の贅沢な暮らしがずっと続くと思っていたのです。外と内は連動しています。彼は正しいから、この世の生活は浮世離れしていた。だから、何を聞いても悔い改めなかった。 でも、神は見ているのです。そして、「モーセと預言者」を通して招き続けている。しかし、彼はその神を見ず、「モーセと預言者」の声を生ける神の言葉として聞きません。それらのものは、彼にとっては死んだ者の言葉の羅列に過ぎないからです。ならば、悔い改めないのは当然です。自分は正しいと思い、人々にもその正しさを尊ぶべきこととしている人は、悔い改めません。この金持ちは、自分と兄弟たちが同じであることを嫌と言うほど知っていたでしょう。つまり、表面は律法の言葉を重んじながら、内面では軽んじているのです。 日本のキリスト者の中にも、「旧約は自分とは関係ないユダヤ教の書物だ」と思っていたり、もっぱら律法主義的に読んだりする人がいます。牧師と信徒関係なく、そう思っている。そのいずれも間違いだ、と私は思っています。旧約は旧約として読み、その後、新約の光にてらして読む。そういうことをしないといけないし、新約だって素直に読めない箇所はいくつもあります。御言を自分にとって都合のよいように受け取るだけであるならば、そうなるしかないでしょう。 イエスは復活した 私は九月の説教の中で、「イエスの十字架の意味」だけではなく、より深く「イエスの復活の意味」を問う説教をしなければならないと言いました。何故そういうことを言ったか。理由は色々とあるのですが、自分の説教を聞き返す期間が与えられるなかで、復活を語っていないな〜と思ったことが一つです。また、ルカの続きと言われる「使徒言行録」を読むと、復活信仰一本やりなのです。これには参りました。そのことも影響があるかもしれません。もう一つ決定的なのは、ルカ福音書にしろ、なんにしろ、新約聖書は全部イエス様の復活後に書かれ、イエス様の復活抜きに書かれはしなかったという当たり前のことに気づいたことです。どの書物も、「イエスは十字架に掛かって死んだ」だけでなく「イエスは復活した」という事実を告げたくて書かれたものだということです。 今日の箇所にしても、ルカはイエス様が亡くなって数十年後に書いたのです。彼らは、死んで終わってしまった者の偉大な伝記を書いたのでしょうか。違います。十字架に死んで、三日目の日曜日の朝に復活したイエスについて書いているのです。それを書けば、皆ぶっとんで信じたかと言えばそんなことはない。鼻でせせら笑われることの方が多かったのです。イエスは目に見えないのですから。しかし、ルカは、復活したイエス様の現臨のもとに書き続けたのです。そういう中で、信じる者たちが立てられていったのです。私たちは、そのことの意味を考えなければなりません。 「預言者」と主イエス 「もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。」 「死者の中から生き返る者」とは、直接的にラザロのことだと思いますが、主イエスのことだとも言えます。旧約の言葉を生ける神の言葉と聞けない者は、復活の主イエスの言葉を聞ける訳がありません。ここを書きながら、ルカは教会に来ているキリスト者の顔を思い浮かべていたでしょう。ある人は、「読み手はここに至って、自分たちはラザロでも金持ちでもなく、金持ちの兄弟たちであることが分かる」と言っていました。つまり、私たちはファリサイ派だということです。そうかもしれません。兄弟たちは聖書の言葉は大体知っているのです。そして、すべて自分に都合よく解釈している。都合の悪いところは読まない。つまり、悔い改めることがない。そういうことは、よくあることです。 しかし、イザヤ書にこういう言葉があります。 わたしの選ぶ断食とはこれではないか。 (中略) 飢えた人にあなたのパンを裂き与え さまよう貧しい人を家に招き入れ 裸の人に会えば衣を着せかけ 同胞に助けを惜しまないこと。(イザヤ58:7〜8) テーブルからパン屑を捨てていた金持ちの兄弟たちが、会堂(シナゴーグ)で聞いているはずの「預言者」の言葉の一つです。庶民と自分たちを分けたファリサイ派は、これらの言葉を「庶民向け」のものとしたのでしょうか。それはどうか分かりません。いずれにしろこれらの言葉は、彼らと我々とを糾弾しないでしょうか。これが、復活の主イエスの言葉でもあるのです。主イエスは、飢えた人に「あなたのパンを」裂き与えるのです。私たちは、聖書の前では誰でもうな垂れるしかないのです。そのことを踏まえなければ、今日の箇所を聞けません。これから与る聖餐式も、そのこと抜きに与る訳にはいかないのです。 主イエスと私たち 今日のルカの箇所は、15章から引き続いた譬話の一つの締めくくりです。だから今日読んでいるのです。この段落は、罪の赦しの有無が問われているのだし、神様のとてつもない大きな愛に触れて悔い改める話が語られているのです。私たち一人ひとりを羊飼いや女主人が、必死になって捜し出してくれたのです。弟息子はやりたいだけやって、自分で悔い改め、自分の足で帰ってきました。でも最も身分の低い者をも愛する父親が、家の中で窓から外を見つめており、家の外まで駈け出してくれました。兄は、この譬話の中では家の中にまで入ってきません。彼は悔い改めないのです。ファリサイ派も同じです。しかし、父は招きます。私たちはどちらでしょうか。 不正な管理人は自分のできることをしました。利息のある人は何もしないまま、利息を帳消しにされ、管理人と共に「永遠の家」に入れられました。 ラザロは何もしていません。ただ、いつの日か食卓の上のものを食べられたらいいなと思っていただけです。犬にできものを舐められながら、大金持ちの偽善を赦していたのかもしれません。でも、それだけです。金持ちはラザロを見ながら、毎日お祭り騒ぎをしていたのです。次に本格的に見たのは、死んだ後です。ラザロが、アブラハムの「ふところ」と言えるほど側近くにいた時です。自分は陰府の炎に渇きを覚えながらです。兄弟たちは何も見ていません。私たちは何か見ているのでしょうか。 こうしてみると、罪の赦しは一方的に与えられているのです。与えられる人には与えられる。いつか違いが来ることも、死ぬ前では分かりません。すべては死んでから分かる。そのことをよく覚えておかねばなりません。悔い改めるのは生きている時なのです。それ以外の時ではありません。 私たちキリスト者は、十字架の片方の犯罪者が「我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから当然だ。しかし、この方は何も悪いことはしていない」と言ったように、主イエスが何も悪いことをしていないと知っているはずです。にも拘らず、十字架に掛かっている。 その上で、この譬話を読んでいるのです。その時、私たちは誰しも悔い改めの心をもっているはずではないでしょうか。私の身代わりに十字架に掛かって下さった方のお陰で、私は今ここにいる、と思うからです。 イエス様はこうおっしゃいました。 「あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである。人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ。」 行いを見た人々に尊ばれるようにすることは、簡単なことです。心の中を神様の御前でスカッとするのに比べれば、簡単なことです。神様は、人に見せびらかすことが出来るような外面より、人に見えない「心」を重んじられます。十字架の主イエスと復活の主イエスが、私たちのために死に復活してくださったと心から信じていること、そういう意味で今、悔い改めていることが大事なのです。その悔い改めの心こそ、今も後も神が見給うことなのです。 これまでの譬話もこれに続く譬話も、自分は正しいと思っている人が出ます。自分は正しいと思っている限り、自分から頭を下げて神の家の中に入りません。心底から悔い改めて入りはしないのです。表面は、神に仕えているように人に見せることが出来るからです。しかし、主イエスの十字架の死と三日目の復活によって打ち立てられた神の国の福音を、身と心で完全に聞いた者は、人に尊ばれることではなく、神に尊ばれることを目指すはずです。主イエスは今日、そのことを私たちに目指すように語りかけているのでしょう。 詩編 ルター すべてダビデの作、と言われていた詩編51編にはこうあります。 もしいけにえがあなたに喜ばれ 焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのなら わたしはそれをささげます。 しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。 打ち砕かれ悔いる心を 神よ、あなたは侮られません。(詩編51:18〜19) まったくそのとおりです。 宗教改革者のルターはこう言いました。 「キリストが『悔い改めよ』と言った時、それは生涯ただ一回悔い改めよと言ったのではない。キリスト者の生涯が、悔い改めであることを言ったのである。」 まことにその通りだと思います。「悔い改め」とは「神の方へ向く」ことだからです。 アドヴェントの日々、それは神を待ち望む日々のことです。テレビコマーシャルのように御馳走やケーキを食べることに夢中のなるのではなく、心と体の全身で神に立ち帰ることに夢中になりたいと思います。 |