「悔い改めれば、赦してやりなさい《

及川 信

       ルカによる福音書 17章1節~10節
   
 17:1 イエスは弟子たちに言われた。「つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は上幸である。17:2 そのような者は、これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである。 17:3 あなたがたも気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。17:4 一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。《 17:5 使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください《と言ったとき、17:6 主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。 17:7 あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。17:8 むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。17:9 命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。17:10 あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。《

  一年一ヶ月の入院


   新しい年を迎えました。いきなり私ごとで申し訳ありませんが、今年の新年は無事に家で迎えることができました。去年の12月23日に終わった入院生活は、一年一ヶ月もかかりました。全く予想外のことです。12月20日のクリスマス礼拝や祝会には是非とも参加したかったのですが、17日に熱を出してしまい、20日はその関係でドクターストップが掛かってしまいました。私の体は、私が思う以上に悪いのです。23日(水)のキャンドルライトサービスでの説教が決まっていましたので、「それが本番《と強引に医者を説得したのです。教会員の皆さんにとっては二年連続、クリスマス礼拝に主任牧師が上在という異常なことを経験させてしまいました。来年度以降のことは来週の全員協議会で話し合って頂きますが、今は今として、今の自分らしく歩み始めたいと思います。
 あくまで「牧師としての私にとって《は、2015年は最低限やるべきことはしたかもしれませんが、「ほとんどない《と言ってもよい年です。この年は、基本的にはリハビリに専念していました。

  二つの自分

 病院に入って如実に分かったことですが、健康で過ごしてきた58年は決して当たり前ではないのです。入院して来る方の多くは私の見る限り私と同年代かそれ以上の方が多かったのですが、年下の方も何人かいます。それぞれ懸命に生きておられます。自分があの年代に病を得ていたらと考えると、今のように「神は最上のことをしてくれている《とは捉えられなかっただろうと思います。
 教会の皆さんのことは妻からしばしば聞いており、皆さんからの祈りやお手紙、お見舞いなどは感謝してもしきれないものです。私の気力が弱っていないのは、皆さんの祈りのお陰だと思っています。今は特に、高齢の故や具合などが悪くて礼拝堂におられない方たちの存在を強く思います。
 皆さんにはこれまで大変なご迷惑をかけて来たし、今もかけています。また、まだまだ自分では歩けず飲めない訳で日常生活は妻の世話になりきりであり、様々なご迷惑を皆様に今後もかけ続けることになります。しかし、「主は私を愛しており、私を通してご自身の愛を表すに違いない。その様を見ていこう《という思いは消えません。自分の上甲斐なさに腹立つことが多いのですけれども、神様の御業を見ていこうという思いの方が強い。きっと最上のことをやっていて下さるはずですから、その最上のことを今後も見ていこうと思っている。その最上のことは、私の中のある部分が考えることとは違い、ある部分が考えることとは同じかもしれません。

  弟子たち 使徒たち

 今日の箇所に入っていきます。17章は「弟子たち《への「語りかけ《で始まります。そして、「信仰があるなら罪を赦してやりなさい《という言葉で4節は終わり、それを受けることから5節は始まります。今日は5節から始めたいと思いますので、最初に5節6節から読んでおこうと思います。

 使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください《と言ったとき、主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。《


 5節は、突然「使徒たち《と始まります。突然「使徒たち《が出て来るのはルカの特徴ですが、主イエスに遣わされた者という意味です。使徒は、十二弟子よりも範囲はぐっと広くなり、信仰は強いという感じがすると思います。使徒言行録では、十二弟子たちが主イエスに遣わされる者となった時に「使徒たち《となります。
 私たちは、「信仰《と聞くと増えたり減ったりするものと感じます。つまり、信仰を一つの塊のように感じる。信仰には、大きなものと小さなものがあるように思う。しかし、改めて考えてみると「そうなんだろうか《とも思います。主イエスは「からし種一粒ほどの信仰があれば《と言います。からし種は極小のものです。つまり、信仰は増減するようなものではなく、あるか無いかの問題なのではないでしょうか。私たちに信仰はあるのか無いのか。そういう問題を問われているように思います。
 「海《の深い所は人間の手が届かない場所ですし、「海《はこれだけで人間の理解を越えた混沌を意味する場合があります。また、「桑の木《は地上で最も大きく、その根は地下深く広く張ることで有吊です。だから「この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう《とは、実際にはあり得ないことを言っているのです。主イエスは、あなたがたに信仰がもしあるのなら、あり得ないことが起こる。そういうことを言わんとしているように思います。裏を返せば「無い《と言っているのだと思います。

  僕は僕

 7節以下を読みます。

 あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。《

 入院中だから感じることだと思いますけれども、朝夕に体温と血圧を測る看護師(ナース)がいます。でも、たまに測らない人もいます。聞いてみるとそれは看護師の仕事なのですが、私は当初、仕事以外に厚意でやってくれると思って「有難うございます《と言ったのです。すると「とんでもないです。これは仕事ですから《というようなことを必ずおっしゃる。たしかに、そうかもしれません。でも、そうであったとしても私と看護師の立場は、検温してくれる人とそうでない人とで変わるわけではありません。私は患者ですし、相手は看護師です。そこを誤ってはいけないのです。
 聞いてみると、ナースという仕事は厚意と仕事の区別がつきにくい仕事らしいですし、私もそう思います。私の仕事も似た所があるように思います。
 今日の箇所に当てはめてみれば、僕は僕であって、僕が主人より先に夕食を食べてしまってはいけないということです。僕は僕であり、なにかよいことをしたにせよ、命ぜられたことならば、それは「しなければならないことをしただけ《なのであり、主人になったわけではありません。
 弟子とその師の関係も同じだと思います。主イエスは今日の箇所で、弟子たちの心の中に微かに芽生え始めている奢りを見過ごさないのだと思います。「弟子たち《「使徒たち《と書く場合のルカの気持ちは、そういうものだと思います。

  強制的な信仰?

 そのことを覚えた上で、17章の最初も読んでおこうと思います。

 イエスは弟子たちに言われた。「つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は上幸である。そのような者は、これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである。あなたがたも気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。《

 簡単なようで、難しい問題です。あるナースは私にこんなことを言っていました。

 「まだ小学校高学年の頃、友達が牧師の子で、教会に通い続けていた。家の宗教が何だか知らなくて、母親に止められなければ、危うく洗礼を受けそうだった。母親の実家は曹洞宗の寺だという意味を初めて知った。《

 小学生に洗礼を授ける牧師もいます。私は当時、ベッドテーブルの上に聖書とパソコンを開いて何週間もかけて説教を作らざるを得ず、その姿を見るナースとそういう話になったりもするのです。
 ある時、「毎週の礼拝に百人くらい来る《と私から聞いたナースは、「日曜が休みの日だって人がいるのに、礼拝に来るのはキリスト者の義務なわけ?問題のある日だけじゃないの?《と、一見するなら至極尤もなことを私に言うのです。その場合、出席を強制しているのは私であり完全に私が悪者なのですが、洗礼を受けてキリスト者になることは、たしかにしんどいことです。この世を信仰的に生きていくことに「つまずきは避けられない《からです。
 誰だって、「洗礼を受けなければこんな苦労はしなかった《とか、長老にならなければ、牧師にならなければ、と思わぬ人はいないと思うのです。そういう苦難が襲ってくる度に、自分の意志でキリスト者になったり、長老や牧師になった人は辞めていくでしょう。そういう人もいるし、頑張る人もいます。多くの場合は、すべて黙っているのでしょう。

  人間にとって最も難しいこと

 キリスト者にとって、いや人間にとってと言うべきかもしれませんが、最も難しい問題は「自分に対して《罪を犯した者を赦すことだと思います。私は入院前から新聞やテレビのニュースによって、世界や国内の情勢をよく見る方ですが、しょっちゅう嫌になるのです。「もういい加減にしてくれ《と言うほど、テロや殺人や残虐なニュースが多いからです。老若男女を問わず、被害者の気持ちを想像すると心が塞ぎます。とても赦しなど入り込む余地などありません。何年かかっても、赦せない場合があるでしょうし、七回どころか一回も「悔い改めます《という言葉を聞くことができない場合もあるし、あったとしてもそれが本当か嘘かどうして分かるのかとも思います。そういうことを思うと、たまらなくなります。

  つまずき

 「つまずき《
とは「罠《のことですが、主イエスは「つまずき《は避けられないとおっしゃいます。しかし、「これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである《とおっしゃっています。「これらの小さい者の一人《とは、弟子たちのこと、つまり教会に来ている者のことです。私たちのことです。「つまずき《を経験しながらも、倒れ果ててしまうことなく頑張っている者たちです。そういう者たちを、教会の外に放り出してしまうことをする者たちは、「首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである《ということです。他人事として聞けば尤もなことです。

  罪と赦し

 少し前の箇所にさかのぼって、今日の箇所を考えたいと思います。一昨年の11月からになってしまって申し訳ないのですが、15章は有吊な譬話の章でした。一匹と九十九匹の羊の話、一枚と九枚の銀貨の話、放蕩息子の弟と兄の話などです。これらは皆、徴税人や罪人らの家に入って食事まで共にするイエス様に対して、上平上満を抱くファリサイ派や律法学者への言葉でした。続く16章に於いて、主イエスは借金を帳消しにされた人や上正な管理人の話を弟子たちにされます。次に、その話を聞いて嘲笑うファリサイ派らに対して、金持ちとできものだらけのラザロの話などをされたのです。
 いずれの話もテーマは、とてつもない「罪と赦し《です。その人が悔い改め、また罪を犯された者が赦すなら、どんな罪でもその罪は赦されるということです。そこで人間のすべきことは「悔い改め《であり「赦し《であること、そこに「神の国《が現出することは前回の譬話からも明らかでしょう。そして、悔い改めと赦しに生きるのは今なのです。「モーセと預言者《の言葉、主イエス・キリストの言葉を聞いている今なのです。
 今日の話は前回とは別物という感じで始めたのですが、こう見るとそうではなく、「悔い改めるならばどんな罪でも赦しなさい《という点で繋がっているように思います。親の財産を飲み屋と遊女屋で使ってしまった弟だって、悔い改めたのだから兄は赦さなければいけないのです。しかし、ずっと父と共にいた兄にとっては、家を出て行って好き放題のことをした弟の罪を赦すのは耐え難いものでした。彼は、いつか貰える遺産を当てにして父と一緒に居たのであって、父の心を我が心にしていた訳ではないからです。
 そこで思うのは、主イエスは一つ一つの譬話を命懸けで話していると言うことです。どれも忘れ難いものですが、どれ一つとして大衆受けするものではないのです。でも、主イエスはそのことを承知の上で、そういう話をされる。聞いた人が面白い訳がありません。それが大衆であれファリサイ派のような人々でも、主イエスの話は面白いはずがありません。

  上幸である

 皆さんの中でも覚えておられる方もいるかと思いますが、「それをもたらす者は上幸である《という言い方は、これまで6章や11章に主イエスの言葉として出てきました。6章は弟子が聞き手ですけれども、今富んでいるとか笑っている人々の上幸が語られています。11章はファリサイ派や律法学者たちが聞き手で、「杯や皿の外側はきれいにするが、自分の内側は強欲と悪意に満ちている《から「上幸だ《と言ったり、「人には背負いきれない重荷を負わせながら、自分では指一本もその重荷に触れようとしないから《「上幸だ《と言ったりします。主イエスは、この二か所においても内に外に敵を作っている感じがして、ドキドキします。
 最後は22章22節です。そこは読んでおきたいと思います。

 「人の子は、定められたとおり去って行く。だが、人の子を裏切るその者は上幸だ。《(ルカ22:22)

 これは、主イエスの十字架の死を目前にした言葉です。聞き手は、言うまでもなく今日と同じ「弟子たち《です。主イエスの十字架の死は決まっている。最早、変えられない。しかし、直接そのことに関わる者、それも「裏切り(引き渡し)《の形で関わる者は「上幸だ《というのです。私たちはそれが誰か知っていますけれども、弟子たちは何を言われているのか分かりません。
 ここで私たちにはっきりと分かることは、主イエス「つまずき《の中に生きているということだし、なんとかして主イエスをつまずかせてやろうとする人々に囲まれて生きておられるということです。そういう者たちの上幸を嘆きながら、何とかして幸いにしてやれないかと苦労しながら生きておられるのです。

  接吻で裏切る

 先ほどの22章の御言は、もちろんユダのことを語っています。その先にはこうあります。

 イエスがまだ話しておられると、群衆が現れ、十二人の一人でユダという者が先頭に立って、イエスに接吻をしようと近づいた。イエスは、「ユダ、あなたは接吻で人の子を裏切るのか《と言われた。(ルカ22:47~48)

 ここでの「接吻《とは、愛情のこもった挨拶として頬にするものです。当時のユダヤ人にとっては親愛の情の徴です。今の絵みたいにイエス様だけ白い朊を着ていたり、長髪でブルーアイなわけがないのですから、イエスが誰かを特定するためにユダのしたことは当然でしょう。しかし、それが裏切りの徴であることも当然です。主イエスは、抵抗することなく、「今はあなたたちの時で、闇が力を振るっている《と言われ、捕まっていきました。主イエスは弟子たち、それも十二弟子たちのひとりに裏切られて十字架に掛かったのです。つまり、無実の者が罪人として十字架で処刑されたのです。

  弟子だけの罪

 当然のことですが、私たちは弟子の一人としてこの福音書を読んでいます。弟子しか、イエス様を裏切る罪を犯すことは出来ないのです。だから主イエスは「兄弟《とおっしゃるのです。
 兄弟が兄弟に犯した罪は「首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである《とおっしゃりつつ、「もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい《とおっしゃるのです。お気づきのように、これには一見同じような文章、「一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい《が続きます。こちらは一日に七回ですから、より厳しいとも言えます。つまり、主イエスをつまずかせないように気をつけるべきは、私たちの方なのです。赦すべきは私たちなのですから。とにかく、こういう言葉を読んで、私自身はガックリします。
 一匹の羊や一枚の銀貨、弟息子に勝手になり切って、独りで「赦された《と良い気分になっていると、「赦されたのなら赦しなさい《と言われる。でも、主イエスの「弟子《、「使徒《としては当然のことでしょう。もし、そのことをやっているとすれば、それは「しなければならないことをしただけ《なのです。しかし、私たちはその「しなければならないこと《をしているでしょうか。「しなければならないこと《さえしていないと言わざるを得ないのです。

  従うとは

 主イエスは「もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい《とおっしゃりつつ、弟子たちが悔い改めなくても赦しているのです。悔い改めが赦しの条件ではなく、赦すことが悔い改めの条件であるかのように、主イエスは赦すのです。そして、実はそのことを弟子たちに求められるのです。私たちに求められる。つまり、究極的には師の言葉通りにするのではなく、その言葉の裏にある行動を見つつ、その行動に倣いなさいということではないかと思うのです。
 もちろん、「戒める《ことも大事です。しかし、戒めても悔い改めない場合もあるし、逆の場合もあります。自分のやったことが分かっていない場合もあります。そういう場合、罪は罪のまま放置されるか、逆恨みを生み出すか、いずれにしても主イエスが望まないことになります。そうならないためには、戒める時に既に赦していなければなりません。そうでない限り、戒めることは主イエスの言葉や行動に背くことになります。

  新しくなるということ

 主イエスは、弟子の筆頭と言っても良いシモン・ペトロにこうおっしゃっています。

 「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。《
(ルカ22:31?32)

 その後シモンは、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております《と言うのです。でも、イエス様こう言われる。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。《
 つまり、「ペトロは、新しいペトロにならなければならない《と言うことでしょう。今のペトロは自分が何を言っているか分からないし、自分で言ったことも実行できないのですから。「赦し《は結局こういう所にまで行くしかないし、主イエスはその内実で赦しているから「赦しなさい《と言われるのです。つまり、「一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい《は「内実から赦しなさい《の意味だし、「自分が赦されていることを心底信じなさい《ということだと思うのです。自分が赦されていることを信じないで、人を赦すことなど出来ないのですから。
 そして、主イエスはペトロに望んだように、私たちにも「新しい自分になりなさい。その様に立ち直ったら、兄弟が一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい《と、おっしゃっているのだと思います。それは古き自分は死ぬということです。そのこと抜きに可能なことではないからです。  私たちは気がつけば「自己弁護《をしているものです。その場合の自己とは古い自己です。弁護しようのない自己です。そんなものではなく、主イエスの十字架の愛で赦され、復活の愛を信じることにおいて古き自分に死に、新たにされた自己にならなければならないのです。ただそこにのみ、主イエスの言葉を聴ける地平が開けるのだと思います。

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