「気を落とさずに絶えず祈れ」

及川 信

       ルカによる福音書 18章1節〜8節
   
18:1 イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。18:2 「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。18:3 ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。 18:4 裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。18:5 しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』」18:6 それから、主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。18:7 まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。18:8 言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」

  私たちは何も知らない

 私たちは、2月10日(水)から3月26日(土)までレント(受難節)を過ごしています。レントとは、主イエスのご受難を覚える日です。そのことによって我と我が身を振り返える、そういう日々を送る。最初にそのことを覚えておきたいと思います。
 私たちは、悪いことが続いたりすると「世も末だ」と言ったり、「生きているのが嫌になった」とか言ったりします。大体は冗談なのですけれども、そういう所にも、私たちが普段考えていることが現れているようにも思います。つまり、世の終わりとか人生の終わりとかには悪いことが立て続けに起こる。私たちは、心のどこかでそのように考えているように見えます。しかし、世の終わりにしろ、人生の終わりにしろ、それがいつどこでどのような形で起こるか、誰も知らないのです。知らないからこそ、「世の終わり」だとか「生きているのが嫌になった」とか言えるのでしょう。私たちは、その時が「明日、このような形だ」と決まれば、慌てふためくものです。

  主イエスの言葉

 前回の主イエスの言葉も、分かったようで分からない言葉でした。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」も、「しかし、見ることはできないだろう」も、「死体のある所には、はげ鷹も集まるものだ」も、分かったようで分からない言葉です。「いつ、どこで?」と問うたファリサイ派の人々や弟子たちも、分からないのです。彼らは「右を向け」と言うから右を向いたら、「左を向け」と言われるような感じがしたと思います。それは、私たちも同じです。私たちも分からない。主イエスは、そういう言葉をお語りになるのです。「神の国」とは、一面ではそういうものなのでしょう。

  神学者の言葉と私

 今、ある神学者の「神の国理解」に関する本を読んでいます。例によって、ほとんど分かりません。しかし、彼はこんなことを言っているようです。そのさい、彼は神の国を「恵み」と理解していると思いますが、こういうものです。

 「恵みがこの世界に押し入る。しかし、恵みはいかなる意味でもこの世に縛られない。恵みはつかんだり、とりこんだりすることのできないもの、指さすことだけができるもの、そして分析不可能なものだ。」

 聴衆を前にして、聴衆が意味を把握したり納得できる話をすべく努力する者として、私は生きています。そういう私は、この言葉には激しく合点がいきます。神の国は、つかんだり、とりこんだりすることは出来ないのです。「これでは話たってしょうがないじゃん」と思わざるを得ません。神の国は確かにこの世に押し入っては来ているのだけれども、いかなる意味でもこの世には縛られないし、この世の理屈や価値観では分析不可能なのです。この世では、指さすことしかできないのです。そのことを踏まえておいてください。その上で、私は語るのです。そのことは、良く覚えておいてください。

  彼らに

 そこで今日の箇所ですが、1節を見ると、主イエスは「弟子たち」に語りかけた、とあります。新共同訳聖書ではそうなのですが、原文では「彼らに」です。他の翻訳でも「彼らに」となっています。新共同訳が「彼らに」「弟子たち」とするのは、直前の部分が弟子たちへの言葉だからでしょう。でも、私は、ファリサイ派の人々と弟子たちが互いに異なる人種だと思っていることに対して、主イエスが「ある面では一緒である」としているのだと思います。つまり、「彼らに」とは、ファリサイ派も弟子も含む主イエスの周りにいる人々のことを意味しているので、原文のまま、「彼らに」で良いと思います。

  今日の箇所の問題

 その「彼らに」、分かったようで分からない言葉を、主イエスは語ってきました。「神の国」の将来性、また不可視性、見ることができない性質について語ってきたのです。しかし、神の国とは確かに目には見えないものだし、将来的なものではあるけれども、それだけではない。そのことについても、語って来ました。その点は、今日の箇所からより明らかになります。
 今日の箇所で、主イエスは「気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教え」られます。一面から言えば、神の国の到来はずっと先の事ではないということです。すぐに来る、いや今既に来ている。だから「気を落とさずに絶えず祈らなければならない」のです。

  裁判官とやもめ

 そのことを覚えるために、2節以下を読んでおこうと思います。

 「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。」

 ここには当時の権力者を代表して「裁判官」が登場し、惨めな者を代表する「やもめ」が登場します。権力者とは多くのものを持っていますが、実は怯えているものです。私たちは今年も、大臣までやった人の辞任を目の当たりにしました。彼は今、睡眠障害に陥っているそうです。眠れないのです。色々と考えると、無理もないことだと思います。
 「やもめ」とは、旧約聖書にも他国の寄留者や孤児と共によく登場します。ルカ福音書にも何回か登場するのですが、彼女らは法的な保護がない人々です。しかし、彼女らは何も持っていないかわりに、失うものがない強さがあります。
 こんな人を訴えて「何の得があるのか」と思わない訳ではありませんけれど、「相手を裁いて、わたしを守ってください」という女の言葉に注目したいと思います。直訳は「わたしを訴える者から、わたしに義を与えてください」とでもなるでしょう。「義を与えてください」は、原文ではエクディケオーです。それが、ここでは「わたしを守ってください」に当たるだろうと思います。それと同じ言葉(エクディケオ―)が、5節の「彼女のために裁判をしてやろう」という所に使われます。これらは同じ言葉なのです。つまり、彼女を義としてやろう、ということです。裁判で義とされる、「お前の方に正義がある」と言われれば、勝ちです。
 彼女はその勝利を目指して、毎日、「裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と」言うのです。放っておくと「ひっきりなしにやって来て」は、裁判官を「さんざんな目に遭わすにちがいない」のです。裁判官は、「自分は神など畏れないし、人を人とも思わない」けれども、彼女を恐れるようになっていき、彼女のために裁判をする気になった。そういうことです。ここまでが譬えの内容です。

  まして神は

 ここでルカは、おもむろに「主は言われた」と言います。「これからの言葉は、時代を越えた神の言葉だ」と、言わんとしているのかもしれません。

 それから、主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。」

 主イエスは、この裁判官を「不正な」とおっしゃいます。つまり、不正な裁判官ですらそうなのだから、「まして神は」、不正ではない神は正しい裁きをしてくださるに違いない、ということです。
 ここで「ひっきりなしにやって来る」「やもめ」と対比されているのは、やはり深刻な問題を抱えて、「昼も夜も叫び求めている」「選ばれた人たち」です。彼らの昼夜を問わない叫びが、深刻なものであったことは確かです。この人たちが、やもめと対比されているのです。

  選ばれた人たち

 ここで私たちが注目しなければいけないのは、「選ばれた人たち」という言葉でしょう。直訳は「彼自身が選んだ人々」となると思いますが、彼らは神様自身が選んだ人々です。今日の司式者の祈りを聞いても分かりますし、奏楽者任職式を見ても分かりますが、私たちは皆それぞれに賜物は違いますけれども、神に選ばれて今ここにいるのです。私たちの中に、その資格があるわけではありません。私たちが、神を選んだのではないのです。神が私たちを選んで、今私たちはここにいるのです。
 私は、今もなお牧師としてここにいる。神様が、「そういう者として、そこにいろ」と言ってくださるからです。そう信じなかったら、私は牧師としてここにいることは出来ません。それは確かなことです。私たちは、それぞれに賜物を与えられたキリスト者として選ばれたのです。そのことを忘れないでください。
 しかし、私たちは何のために選ばれたのでしょうか。人生の土台を知らされて、安心して暮らすためでしょうか。そういうことも確かにあると思うのです。しかし、今日は今日の箇所を読まねばなりません。
 そこには、こうあります。

 「まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに」

   「昼も夜も叫び求めている」
とあります。何を叫んでいるのかは分かりません。でも、文脈を見るならば、「神の国」の到来でしょう。その到来を、「昼も夜も叫び求めている」ことです。その一つは、端的に言って、目の前の人と「愛と赦しの関係」を切実に求めている、自分の目の前に主イエスが立って欲しいと昼も夜も願っているということです。この人にとって、頼りは主イエスだけなのです。その主イエスだけに依り頼むために、彼らは選ばれているのです。私たちも同じです。違うでしょうか。

  Cさんのこと

 病気をする前では考えられないことですが、今は一ヶ月ほど前に説教の準備を始めます。こんな体になって、仕事が極端に遅くなったし、次回に説教が出来るかどうか不安なのです。そして、繰り返し読みつつ直しますが、それ以外に燃えることがないからかもしれません。
 それはともかくとして、ある日に「信徒の友」という月刊誌が届きました。そこで、いつものように俳句や短歌の欄を見たら、たまに出ている知人のCさんの歌が出ていました。八十歳を優に越えたご主人を歌った歌です。また、偶然同じ日に、彼女が会員である前任教会の会報が届いたのでパラパラとページを捲っていたら、彼女の原稿がありました。その原稿によって、ご主人が病院の病床で洗礼を受け、クリスマスの日に亡くなり、教会で葬儀を行ったことを知りました。私はすっかり驚いてしまって、慌てて電話しました。
 と言うのは、もう二十五年位前のことですけれど、彼女が面倒を見ることになった彼女の叔母に当たる人の葬儀をしたのです。一時期、彼女とその人との関係が悪かったのですが、訪問を繰り返し、彼女も毎日叔母さんと一緒に「主の祈り」を祈るようになり、遂に叔母さんは九十七歳で洗礼を受けたのです。ご自宅のベッドの上でのことです。お二人の間に主イエスが立ってくださらなければ、お二人の部屋が神の国にならなければ、やって行けなかったのです。そんなある日、ついに叔母さんが主イエスを「我が主」とされたのです。大勢の教会員と共にお訪ねして、ベッドの上で洗礼式をしました。その時、彼女は「これで、ようやく人間になれたような気がした」と言いました。忘れることができません。それから叔母さんに当たる人は、一〜二年後に亡くなりました。そして、生まれ故郷である木曾の開田村の仮のお墓には、ご主人が作ったという白木の大きな十字架が立ったのです。
 私が牧師として赴任した時、彼女の家は、叔母さんとご主人と三人暮らしです。その三人は、共に礼拝に通うことは出来ず、それぞれバラバラの価値観を生きていたのです。しかし、最期には三人とも洗礼を受けてクリスチャンになりました。三人ともイエスを「我が主」と迎え入れたのです。私が驚いた理由はそこにあります。彼女は控えめな人です。ご主人は豪快な人で、「我が道を行く」という感じの人です。だから私は、ご主人がキリスト者になるなんてことは、とうの昔に諦めていたのです。でも、彼女は諦めてはいなかったのです。そのことを知らされて、私は思わず電話をしたのです。私は諦めていたけれど、彼女は諦めていなかった。そして、神様も。彼も「選ばれた人」だったのです。私は恥を感じました。

  救う

 この「選ばれた人」は、ルカ福音書ではあと一箇所にしか使われません。それは23章35節です。そこにはこうあります。

 「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」

 ここは、言うまでもなく、イエス・キリストが十字架に磔にされた場面です。議員たちが、自分たちの判決で十字架に磔になったイエスという男を嘲笑いながら言った言葉です。ここの問題は「救う」ことです。自分も他人も救う、それが神に選ばれたメシア、神からのキリストのなすべき仕事です。
 その通りだと思います。しかし、イエス・キリストはその時、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と、祈られたのではないでしょうか。彼らは、よく分かって謝っているのではありません。分からないから、謝りようがないのです。主イエスはそのことを重々ご承知の上で、十字架にお掛かりになったのです。手に釘を打たれたのです。主イエスの救い方は、そういうものだからです。
 彼らの罪を代わりに身に受けて、裁きを受けるのです。こういう者たちへの裁きを、主イエスは代わりに受けてくださったのです。そのために主イエスは選ばれてくださったのです。

  代わりに裁きを受ける

 この場面で思い出すのは、主イエスが洗礼を受ける場面です。罪人が悔い改めて罪を赦してもらうための洗礼を、罪なき神の独り子である主イエスが受ける必要はありません。しかし、主イエスは受けられた。その場面を読みます。

 民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。
 「心に適う」
とは「喜びとする」とも訳せる言葉ですけれど、罪のない神の独り子が、全ての罪人たちの罪をその身に負うことを、神は喜びとしたのです。ご自身の子が罪人の代わりに十字架刑で裁かれる。それこそが、神の心に適うこと、神の喜びなのです。主イエスは、そのことをはっきりと知ったのです。
 それから、悪魔の誘惑を受け、宣教を始められました。

    昼も夜も

 ここを読んで思い出すことがあります。以前は大阪の暴力団の組員として博打打ちでしたが、色々あってほうほうのていで東京に逃げ出し、今は牧師をしている人がいます。その人が東京に逃げた頃、ある大きな町の韓国系の大教会に入り、早朝、下を向きながら自分の悪癖が治らんものかと悩んでいたそうです。その時、ふと顔を上げるとホステスたちが、目の下に塗ってあるマスカラが涙と共に流れ落ちて行くのも構わず、大声で「神様、助けてください」と叫んでいるのだそうです。化け物のような顔をして叫んでいるのです。その姿を見て、自分が神様だったら、下を向いてボソボソと何か言っている俺よりも、他人の目も気にしないで「助けて」と喚いているこの女を助けるに決まっていると思ったそうです。うるさくてかなわないからです。
 もちろん、私は心の中でいろいろ理屈を付けましたけれども、それを恥としました。彼の言うことに、一理も二理もあると思ったのです。他人の目も憚らず、大声で叫び求めている「選ばれた人たち」。神は「裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか」、「神は速やかに裁いてくださる」のではないかと、「ホステスは神に選ばれていない」などと決して言えない私も思ったのです。もちろん、神様は彼女らだけを選ばれたのではありません。下を向いてボソボソと言っていた者も選ばれたのです。その者を通して、私に語りかけてくださったのです。
 ただ、神は、ご自身が選んだ者をほうってはおかれないのです。ここで、弟子たちは勿論のこと、ファリサイ派の人々にも、主イエスは呼びかけていると思います。つまり、あのサマリア人のように、「清め」の中に「いやし」を見て、主イエスに立ち帰り、その足元で喜び叫ぶ信仰を与えられたなら、誰であってもその人は救われるのだと教えるためです。「神は速やかに裁いてくださる」のです。そのことを信じて、「昼も夜も(主イエスに)叫び求めている」人々こそ、神ご自身が「選んだ」人なのです。そして、それが信仰なのです。主イエスはそう叫んでおられる。「あなたがたにその信仰があるか」と。

  信仰を見いだすであろうか

 主イエスはこう言われます。

 「しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」

 これは主イエスが再臨される時、地上に神の国が完成する時、地上に信仰を見いだすだろうかと言っている言葉です。もちろん、主イエスは信仰を見いだしたいと思っているのです。  ファリサイ派の人も主イエスの弟子たちも、自分たちには信仰があると思っているのですから。しかし、まさにその故に、彼らに信仰はないからです。

  祈り求めているか

 ここで最初に戻ります。

 イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちに(彼らに)たとえを話された。

 絶えず自分のために祈り求めていなければ、やもめのために裁判をすることは裁判官にとっては決して易しいことではなかったでしょう。やもめはやもめで、自らを恥とせず昼も夜も裁判官の所に押しかけて、「私のための裁判をやれ」と叫ぶのです。そういうことをやらねば、やもめが裁判官から義をかち取ることは出来なかったと思います。彼女は気を落とすことなく、裁判官の所に通い続けたのです。
 この場合の「祈り」とは、何も正座して手を組んでの祈りのことを考える必要はありません。心の奥底で絶えず願っていること、それに伴って行動していることと考えた方が良いと思います。そういう二人の「祈り」があって、この二人の裁判があるのです。しかし、この裁判官は「不正な裁判官」です。彼の祈りは神の心を喜ばすことが出来るようにではなく、自分の心を喜ばすためのものです。このやもめも、自分のことしか考えていません。しかし、私たちの面前におられるのは「神」です。不正な方ではありません。祈りを聴いてくださるのは神です。

  信仰を見いだすだろうか

 神の国の実現は、全世界的、宇宙的に実現するでしょう。そういうことは、すべて神様にお任せしていても良いでしょう。妙な救いの確信をすることよりはましだろうと思います。しかし、主の祈りで真っ先に祈るべきことは、御名が崇められますように、御国が来ますように、御心が行われますように、です。「私たちの」ではなく、「神の」御心を喜ばすことなのです。そのことを私たちは忘れてはいけません。私たちの個人的な願いの実現ではないのです。私たちは、自分の人生の終わりがいつ来るか分からないし、いつ来ても可笑しくない人間なのです。そのことも忘れない方が良いでしょう。
 しかし、私たちはそれらのことを忘れて、神の国は見えないもの、ずっと将来のものと確信して祈ることもない。自分が生きるも死ぬるもイエス・キリストの証しになることを、祈り求めもしない。この人との間に、主イエスに立って貰いたい。そのことを祈りたい。そうではないかと思うのです。

  人の子が来るとき

 主イエスは、そういう私たちに今日の譬話をしているのだと思います。そして、「人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか」と締めくくられているのです。どうでしょうか。
 どうか、この御言とその説き明かしを聴いた私たちの一人でも、前々回の主イエスの最後の言葉、「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と言われる者でありますように。そして、神ご自身が選ばれた人として、心の奥底で絶えず神の国の到来を自分の周囲に求め続ける者でありますように。自分を頼みとするのではなく、ただイエス様だけを頼みとしてひれ伏す者でありますように祈ります。愛し、仕えることが出来ない隣人と自分の間に、主イエスが立ってくださるように、気を落とさずに絶えず祈る者でありますように。神様は、ご自身が選んだ者の祈りを聞いてくださるのですから。そのことを信じ、気を落とさず絶えず祈る者でありたいと思います。

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