「神の国に入るのは誰か」

及川 信

       ルカによる福音書 18章9節〜17節
   
  18:9 自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。18:10 「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。18:11 ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。18:12 わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』18:13 ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』18:14 言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
18:15 イエスに触れていただくために、人々は乳飲み子までも連れて来た。弟子たちは、これを見て叱った。18:16 しかし、イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。18:17 はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」

  今日の主題


 今日は9節から17節までやります。私は任期中の来年の3月一杯でルカによる福音書を終わらせたく思い、それまでは色々なことで私が説教を出来ないこともありますから、今日は二カ所を続けてやります。と言いましても、よく読んでみると、今日の箇所は続けてやった方が良いかもしれません。前回辺りから、「神の国はどういうものか」から、「神の国に入る人はどういう人か」に関心が移っているのです。そこで、主イエスは前回、裁判官とやもめの譬話を通して、「選ばれた人たち」に対して神は裁きをなさるに違いないという話をなさったのです。そこで今日は、その「選ばれた人たち」とはどういう人たちなのかを論じているのだと思います。

  三月十一日

 来週の20日は、受難週礼拝です。3月の第三週ですから、午後には大住雄一代務者による2015年度の第二回総会が開かれます。同じ日の午後、既にポスターが貼ってあり先週の礼拝後にご案内しましたように、福島教会の献堂一周年記念コンサートが皆さんの献金によって催されます。皆さんの中で、何人もが行ってくださったコンサートです。本来は私が説教の予定でした。でも、体がこうですし、総会の日ですし、なにより似田兼司先生が新会堂を土産にするように辞めることもあり、KNさんと準備だけして、当日は似田先生とチェロの井上とも子先生にお任せしました。
 また、言うまでもないことですが、5年前の3月11日は東日本大震災の日です。あの大地震に大津波、それに原子力発電所の爆発がこの国にどういう影響を与えたのかは、私たち外部に住む国民は正当には理解し得ないと思います。5年を経た今、生まれ育った故郷に様々な理由で住めない多くの人々がいるのです。家を建てたばかりの人もそうです。海の「う」の字も見えない高い防潮堤が建設中の所もありますし、そうでない所もあります。それぞれの所で支払う代償は大きいだろうと思います。私は当日前後の祈祷会で、石巻や福島の牧師や教会員の皆さんと会い、少しでも震災の影響を知ろうとしていましたが、今年は行くことが出来ずに残念です。

  地位や身分と人間

 今日は、総会資料が会員のボックスには入っているはずです。その中に長老候補が掲載されています。その候補選びは、長老候補選考委員会のメンバーや牧師が、毎年頭や心を悩ませることです。会員の皆様も、それぞれの会員の立場として同様だと思います。この教会では、長老になるためには受洗や転入会後三年以上であるとか、献金はしているかなど色々と基準がありますが、要するに、真面目で熱心な方に長老になって貰いたいのです。そして、長老になることが教会生活の妨げにならないようにということも考慮に入れます。しかし、これは所詮人間がつくった基準に過ぎず間違いがしばしばある、と思うこともあります。けれど、基準は基準で大事なことです。だから、今年は今年でその基準に従って候補を決めました。
 でも、牧師や長老になったりすると、一日で何もかもが変わることがあります。この世で言えば、その真面目さや熱心さ、あるいはその能力などによって社長とか役員になったりする。それと同時に、何か人間まで偉くなったりする場合があるように思います。人間としては少しも変わらないのに、周りも本人も勘違いしてしまう。そういうことが起こることもあります。確かに、地位や身分が人を作る。そういうこともあります。しかし、えてしてそうではない。時間が掛かる場合もある。だから、私のこともよく見ておいて頂きたいのですが、皆さんも自分自身を注意しておいてください。しかし、人はえてして自分のことは分からないものです。

  ファリサイ派的な人

 今日の箇所では、イエス様は「人々」に対して譬話を話されたとなっています。イエス様が譬話をしたのはどういう「人々」かと言うと、「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々」です。「うぬぼれて」は、「自分自身を信頼して」という感じだと思います。「他人を見下している人々」と言うと如何にも悪そうですが、こういう人は一般に「ほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者」ではありません。でも、これは当たり前のことです。長老に限らず、真面目で熱心なキリスト者であるなら当然のことです。さらに、この人は「この徴税人のような者でも」なく、「週に二度断食し、全収入の十分の一を献げ」ている人なのです。そして、神殿に祈るために坂を登って来る人です。誰だって「あなたこそキリスト者だ。牧師だ、長老だ」と言いたくなるような真面目で熱心な人です。私だったら、こういう人を会員や長老に欲しいです。
 しかし、主イエスは、こういう人を「ファリサイ派の人」に譬えられる。聖書の中では悪者です。でも、この譬えは「ファリサイ派の人とはこういうものである」と示していると考えるなら、それは短絡です。弟子を含めたすべての「人々」に、主イエスは語られたのです。私たちキリスト者は、誰だってファリサイ派的なものを持っているものです。それは良きにつけ悪しきにつけです。それは覚えておいた方がいいでしょう。

  クリスチャンは皆?

 ここを読むと、前任地のある会員を思い出します。その人は高齢の女性でしたが、私が運転する時、車の後部座席の真ん中に座って、私に向って話し続けるのです。大体は旦那さんのことです。その旦那さんが如何に好い人かということなのですが、その時に彼女は決まって「クリスチャンじゃないのがもったいないくらい。ねー、先生」と言うのです。そうなると、私もいちいち返事をしなければならず、最後には「今、運転しているから、少し黙っていてくれない?」と私が言うと、「おおー、恐い」とか言うのですが、五分もするとまた話し始めるという感じでした。
 その時も私は思っていたことですが、「クリスチャンじゃないのがもったいないくらい。ねー、先生」と言うのは、「クリスチャンは皆、品行方正にして清廉潔白だ」ということでしょう。私は当時も、「そんなことあるわけないだろ。そもそも、あんたはそうなのかい。私はこれでもクリスチャンだけど、私はどうなんだい?!」と思いました。それと同時に、「自らをクリスチャンという者は、自分を含めて大体こういうことを考えているものだ」と思ったのです。つまり、心の中では周囲の人を差別しているのです。しかし、考えてみれば周囲の人も同じです。その点では、少しも変わらないのです。申し添えておきますが、彼が寝たきりになってから、夫人の変わることのない信仰の姿を見たからでしょう、私を呼ぶようになり、最後には信仰を告白して洗礼を受けました。彼もまた、神の御手の中にあったのです。

  選ばれた人たち

 先日、「選ばれた人たち」という主イエスの言葉を聞きました。これを私たちは心のどこかで勘違いしていると思います。大学受験に合格したとか、入社や昇進試験に合格した際には「君たちは選ばれているのだ」とか言われるでしょうし、それなりに準備もしてきたはずですから、そう言われても当然でしょう。
 しかし、パウロはこう言います。ほぼ毎回、少なくとも私が聖餐式の司式をする度に読みますから、ご記憶の方も多いかと思います。

 「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。(テモテへの手紙一 1:15)

 私たちは、こういう意味で「選ばれた」のであって、それ以外の者ではありません。その点を勘違いしてはならないのです。しかし、キリスト者こそ、往々にしてファリサイ的なのです。弟子たちも同じです。私たちもです。自分たちの性格だとか、生活の有様によって自分は選ばれたと内心では思っているのです。つまり、キリスト者になる前から自分は清いのです。その御褒美として、キリスト者、クリスチャンの称号を与えられている。そう考えている場合が多い。どうでしょうか。でも、神様の基準は、私たちのそれとは全く違います。神は、私たちが重大視する瑣末なことではなく、根本的なことを御覧になるのです。

  徴税人

 ここには「徴税人」が登場します。彼らは外国人であるローマ人のためにも税金を取るし、様々な不正を犯して私腹を肥やしているとされていたので、まともなユダヤ人にしてみれば社会的には犯罪者であり宗教的には完全な罪人です。そういう徴税人の中にも色々いたと思いますが、この譬話に登場する徴税人は、「遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った」人です。彼は「祈った」わけでもない。「言った」だけです。それも「胸を打ちながら」です。「胸を打ちながら」とは、人の死を前にした時、その死を我がことのように悲しむことだと言われます。主イエスの十字架の死を目の当たりにした群衆の場面にこの言葉はもう一度使われますが、この徴税人は祭壇にも近づかず、胸を打ちつつ、つまり自分は死んだも同然の如く、呻くようにこう言ったのです。

 「神様、『罪人のわたしを憐れんでください。』」

 彼は、自分を信頼することなんて出来ません。自分のことを「罪人」と自ら言う他にないからです。あの罪、この罪ではありません。存在自体が罪なのです。つまり、神から離れて生きている。それは、神と共に生きる命という意味では死んでいるということです。彼がここ、つまり神殿にいる理由はそれだけなのです。その死の意識抜きに、彼はここにはいないのです。
 これを読むと、ペトロを思い出します。大漁の奇跡を見た時、彼は、「イエスの足もとにひれ伏して、『主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです』と言った」とあります。彼は、その時それを知ったのです。自分の罪深さを知るとは、自分は主の前に立てないことを知ることです。しかし、そういうペトロが主の前に出て行ってひれ伏す。言葉とは裏腹に、体は近づく。自分の罪を知るとは、そういうことなのかも知れません。心とは反対に体は、「生かしてください」と言っている。それと同じことが、この徴税人には起こっているような感じがします。

  ファリサイ派の人と徴税人

 これからは全くの想像になりますが、このファリサイ派の人は、周囲の人を見下しながら、これ見よがしに神殿に上ったと思います。そして、自分は神殿で祈って来たぞ、と帰ってきたに違いないのです。行きも帰りも自分の姿を人々に見せびらかすようにして、神殿の上り下りをしたに違いありません。
 しかし、徴税人は、人目につかないようにこっそりと神殿にやって来たに違いない。そして、胸を打ち、押し殺すような声で「神様、罪人のわたしを憐れんでください」とだけ言って、人目を忍んで帰っていったでしょう。いつもは虚飾に塗れた彼は、この時は罪人である自分の本質を誰にも見せたくはないのです。だから、彼を見ていた者は一人もいなかった。でも、神は見ていたのです。そして、その祈りを聞き届け、この徴税人を「義」とされたのです。つまり、神の国に招き入れたのです。新しい命を与え、その国に招き入れたのです。その上で帰した。でも、彼はそのことを知らない。そういうものです。

  憐れんでください

 ここで、「憐れんでください」と訳された言葉に注目したいと思います。「憐れんでください」と聞くと、ミサ曲の最初である「キリエ エレイソン」「主よ 憐れみたまえ」を思い出す方がいると思います。私もそうでした。でも、この言葉は、エレイオオ―の命令形ではありません。この言葉は、イラスコマイという極めて珍しい言葉です。
 ここ以外ではヘブライ人への手紙2章17節にしか出てきませんので、そこを読んでおこうと思います。

 「それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。」

 ここでイラスコマイは「憐れみ深い」ではなく、「民の罪を「償う」と訳されています。民の罪を償う大祭司です。名詞形でも、全世界の民の罪を償う生贄とか供え物として、神がイエスをキリストとして立てたということです(ローマ3:25,Iヨハネ2:2)。つまり、「憐れんでください」とは、「どうかキリストを私のために立ててください、私の罪の償いとしてください」という意味なのです。ただそのことだけを言いたくて、徴税人は神殿に来たのです。
 主イエスが再び来る日、即ち「人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか」と言われる時、主イエスが捜し求めていたのは、この徴税人の信仰なのです。
 主イエスは、こう言われました。

 「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

 人間の罪が赦されて義とされるためには、つまり、人間が死を経て新たに生きるためには、イエス・キリストの償いとしての十字架の死と復活の命が必要なのです。そして、信仰によって主イエスの十字架の死と復活を共にすることが必要なのです。
 私たちは、どういうつもりでこの会堂に来ているのかと考えざるを得ません。

  子供  乳飲み子

 ここまで読めば、次の箇所との繋がりが分かるでしょう。しかし、そのことに入る前に、言語に関して少し整理しておいた方が良いかもしれません。
 「乳飲み子」(ブレホス)とは、ルカだけが書き換えていることです。「乳飲み子」とは、16節や17節の「子供」(パイディオン)とは言語的には違います。ルカは、「子供たち」が自分では来られないことを強調したかったのでしょう。そして、「イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われた」とあるのは間違いで、「イエスは彼らを呼び寄せて言われた」が直訳です。つまり、「イエスに触れていただくために」乳飲み子を連れてきた親たちを含めた「彼ら」を、弟子たちは叱ったのです。乳飲み子が、ひとりでに主イエスに従う訳がありませんから。

  主イエスが呼び寄せる

 しかし、弟子たちの行動に対して、主イエスは「彼ら」を呼び寄せて「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである」と、言われました。
 ここに出て来る「乳飲み子」とか「子供」とは、今の日本などのような先進国のそれではありません。今だって「後進国」と呼ばれる国々や地域は沢山あるのですが、それらの国や地域で、子供が大人になるまで無事に育つことは当たり前ではありません。今の日本では、千グラムしかないような子でも保育器に入って無事に育つことは幾らでもあります。それは貴いことだと思います。しかし当時のユダヤで、乳飲み子から幼児、幼児から子供、子供から成人に育つことは当たり前ではありませんでした。学校も病院もないし、多くの人々は貧しい生活なのです。人間は、働いてナンボという時代だったと思います。
 主イエスの周りには何とかして主イエスに触るか、触って頂くか、運が良ければ子供の頭の上に手を置いて祈って頂きたいと願う人は大勢いたでしょう。弟子たちも、そういう人々を見て必ずしも悪い気がしなかったと思います。「自分たちの先生は、これほど偉いんだ。有名なんだ」と思うことは、彼らにとっても悪いことではなかったと思います。しかし、無価値な乳飲み子を連れた親子が続々とやって来ては、子どもの頭をなでて欲しいとせがむ。そういう彼らに、主イエスがいちいち対応するのを見るのは、我慢が出来なかったのでしょう。分かる気もします。だから、彼らは叱った。止めろとたしなめた。そして、禁じたのです。そこに、彼らの優越感もあるでしょう。
 しかし、主イエスはそういう弟子たちを見て「妨げてはならない」と言いました。そして、「はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」と言ったのです。  ここで考えておかねばならないことは、「イエスは彼らを呼び寄せて言われた」です。「彼ら」とは、先ほど言いましたように、乳飲み子と彼らを抱いている親です。どちらにしても、彼らは自力では主イエスの許には来られなかったでしょう。赤ん坊は勿論のこと、親たちも乳飲み子がいなければ主イエスの手が届く所には来られなかったと思います。でも、彼らは来ました。それは、主イエスが彼らを「呼び寄せた」からです。彼らが勝手に来たのではないのです。主イエスが、呼び寄せたのです。

  受け身

 ここで振り返っておかねばならないことは、乳飲み子たちは完全な受け身だということです。主イエスに「触れていただく」のも、主イエスに「神の国はこのような者たちのものである」と言われるのも、彼らの意志ではありません。最初にあるのは主イエスの意志なのです。
 その上で彼らの意志として洗礼を受ける時は受けるのです。そのように「神の国」「受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」し、「神の国」とはそういうものです。主イエスが呼び寄せてくださらなければ、誰も入ることができないものなのです。神の国は、自分の基準で入るものではありません。私たちは誰一人、自分の基準で神の国に入るのではありません。主イエスに呼び寄せられて入ったのです。そのことを忘れてはいけません。
 「はっきり言っておく」とは、以前も言いましたように、アーメン レゴー ヒューミーンで、「アーメン、あなたがたに私は言う」です。主イエスは、ここではっきりと宣言しておられるのです。「神の国」は「神」の国なのであって、「人」が神を利用するものではない。そのことを宣言しておられるのです。

  どういう者として

 ここまでくれば、主イエスあるいはルカがここで言いたいことは明らかです。「高ぶる者」の正反対の者として登場するのが「子供」、それも「乳飲み子」なのです。人間社会の上に位置する者と下に位置する者、それも最底辺に位置する者を主イエスは比べている。そしてそれは単に上下の社会階層を比べるのではなく、「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している」人と、右も左も分からず、ただ主イエスだけを頼みとしている人々を比べているということです。そして「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」と、おっしゃっているのです。
 私たちは、どういう者としてこの礼拝堂に来ているのかが問われるのです。誰だってこの礼拝堂には来ます。高ぶる者もへりくだった者も来ます。しかし、義とされる者は少ないのです。義とされて家に帰る者は少ない。来ることと帰ることは、人目には同じでも全く違います。
 私たちは何も、この徴税人や乳飲み子にならなければいけない訳ではありません。でも、私たちにとって頼みは主イエスだけなのかと、自問しなければいけないとは思います。私たちは、心のどこかで自分の力で完璧な人になろうとしている。あるいは、自分は自分として立派だ。あの人より、この人より立派だ。そのことは、日曜日に神様を礼拝している今こそはっきりすると思っている。そういうことがあるかと思います。
 しかし、そういう私たちに主イエスはお語りになるのです。

 「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

 「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」

  気づいた時が始まり


 私たちの中に高ぶる者、すっかり大人になってしまった者はいないのかと考えると、心許ない気がしますがどうなんでしょうか。でも、そのことに気づいた時が始まりであり、それは遅すぎることではないのです。もし、自分の中に高ぶりや、弟子たちと同じように親子を叱るものを見つけたのなら、ただひたすらに主イエスだけを頼む人間になるべく励むしかありません。そして、主イエスに依り頼むのであれば、主イエスは誰をも受け入れることを感謝をもって認めなければなりません。そのためには、自分で努力するのではなく、主イエスの言葉の前に裸で立つしかないと思います。「一つの教えを覚える」とかではなく、一人の神に造られた人間として主イエスの御言葉の前に立つことで、体の隅々また内部を嫌が上にも見ることになるからです。一人ひとりがそうすることにおいてのみ、自分の姿を見るのだし、自分の言うべき言葉を教えられるのです。その時、自分は主イエスの憐れみによってのみ受け入れられていることを知るのです。そしてその時にのみ、主イエスの前に跪いて、ひたすらに賛美する者となり、義とされて家に帰る者となり、神の国に入る者とされるのです。

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