「何をすれば?」

及川 信

       ルカによる福音書 18章18節〜30節
   
 18:18 ある議員がイエスに、「善い先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と尋ねた。18:19 イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。18:20 『姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証するな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」18:21 すると議員は、「そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。18:22 これを聞いて、イエスは言われた。「あなたに欠けているものがまだ一つある。持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」18:23 しかし、その人はこれを聞いて非常に悲しんだ。大変な金持ちだったからである。
18:24 イエスは、議員が非常に悲しむのを見て、言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。18:25 金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」18:26 これを聞いた人々が、「それでは、だれが救われるのだろうか」と言うと、18:27 イエスは、「人間にはできないことも、神にはできる」と言われた。18:28 するとペトロが、「このとおり、わたしたちは自分の物を捨ててあなたに従って参りました」と言った。18:29 イエスは言われた。「はっきり言っておく。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子供を捨てた者はだれでも、18:30 この世ではその何倍もの報いを受け、後の世では永遠の命を受ける。」

  イースターと私たち


 今日はイースター礼拝です。主イエスが十字架の死から三日目の日曜日の朝、甦ったことを記念する日です。しかし、この日は太陽暦で冬至の祭りにぶつけた12月25日のクリスマスのように決まっている日ではなく、春の祭りである「過越の祭り」を起源としています。ユダヤ人の過越の祭りは月の満ち欠けが基本となりますから(太陰暦)、新約聖書以後に誕生したキリスト教会では、春の春分後、満月に一番近い次の日曜日がイースター(ドイツ語の「東」に由来。ギリシア語由来は「過越祭」を起源とするパスカ)となって、3月だったり4月だったりします。来年は4月ですから、私にとっては、今日が中渋谷教会で祝う最後のイースターということになります。
 けれども、今回も相変わらずルカ福音書の御言に聴きます。理由はいくつかありますけれど、クリスマスにしろイースターにしろ、日本ではどこか他人事のような気がしてならないということがあります。しかし、そんなことがある訳がありません。これが一つの理由です。
 この問題にこだわっていきますが、聖書とくに新約聖書は、イエスが死人の中から甦えらなければ書かれなかった書物です。イエスを救い主、キリストと信じる者は「救われる」と言っているのです。そして、その「救い」の内容を、今日も出て来る「永遠の命」とか「神の国」に生きると言っている。それは、肉体をもって生きている今、罪の支配から脱却させられ、死人の中からの復活に本質的に与っているということです。それは大問題です。決して他人事ではありません。しかし、そのことを抜きにしたイースターはない、と言わざるを得ないと思うのです。
 だから、パウロはローマの信徒への手紙の中でこう言っているのです。

 わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。(ロマ書6:4)

 洗礼によってイエス・キリストの死と新しい命に与るキリスト者は、それまでの命に死に、新しい命に甦るのです。これは大問題です。どうして他人事のように「イースター、おめでとう」と言えるでしょうか。
 ある聖書学者は、それを「すべてが新しくなる」経験であるとして、「それが起こる時、いつでもそれは驚きであり、いつでも恵の賜物であり、いつでも感謝の思いが湧き起こって来るような経験」だと言います(W.ブルッゲマン『詩編を祈る』p.40)。そして、「それは、わたしたちがまったく予想していなかった時に、受け取る」「神の賜物」だと言います(同書p.70)。
 私は全く同感します。イエス・キリストとの出会いは、人間が計算できるものではないのです。それはいつも思いがけないものであり、恵みなのです。そしてそれは、それまでの命の死であり、新しい命の始まりを意味します。どうしてこれが他人事になってしまうのかと思います。何でも日本化してしまう日本では、イースターは「七夕」まで続く春の祭りの一つのようになりつつあるようですが、それは違います。
 そのことを覚えた上で、私たちが復活すること(イースター)に関して、今日の箇所から聴き取りたいと願ったのです。

  議員

 今日の箇所は、ある議員がイエスに、「善い先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と尋ねた、と始まります。
 新共同訳聖書は「議員」(アウトス)と訳しました。元来は「役人」とか「会堂長」とか、その地域の「長」とか「お頭」的な人を表すようです。新共同訳聖書は、それを「議員」と解釈したのです。もしそうであるとすれば、彼は後に主イエスに「十字架刑」を言い渡す最高法院の議員の一人にもなるわけで、面白い訳かもしれません。
 その彼が、最初に「善い先生」と言います。すると、主イエスは即座に「目を天に上げよ」と言わんばかりに、「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない」と、おっしゃいました。主イエスは、全てのことは神様から来る。自分が語ることも神様の思いとずれているなら意味がないとおっしゃりたいのだと思います。あなたの言うことも同じだ、と言ってらっしゃる。そのことが分かっていないなら、これから聞くことも何の意味もないと、議員や私たちに分からせようとしているのでしょう。

  何をすれば

 お気づきの方もおられるかもしれませんが、前回の「子供」(ルカだけは「乳飲み子」)の記事と今日の「議員」の箇所の順番はマタイやマルコと一緒です。「子供」は、当時の社会の中では無価値な存在でした。それに対して「議員」は、言うまでもなく社会の中で価値ある者の代表みたいな人です。後を見ても分かるように、この人は「大変な金持ち」でした。神様からの祝福を受けるだけ受けた人なのです。そういう見方は、ごく自然なものです。議員は、ユダヤ人の祭政一致社会では、今のように世俗的なものだけではなく、宗教的な権威を帯びていたからです。その上に金持ちであった。
 しかし、そういう議員自身は自分に納得していなかった。「まだ何か足りない」と思っていたようです。自分自身に欠乏感を抱えていたのです。そこで、彼は主イエスに近づき「何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と、尋ねます。
 ファリサイ派や弟子たちは「いつ、どこで?」と、「神の国」の見える形を尋ねてきました。しかし、「議員」は、「何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と尋ねる。つまり、神の国に生きるための行動の基準を訊いているのです。「何をすれば」です。子供や乳飲み子には尋ねようがないことです。
 「永遠の命」とは、24節から29節では「神の国」と言われていますし、その他を見ても基本的には同じだと思いますので、説教の中では両者を区別しません。

  受け継ぐ

 ここで注目すべきは「受け継ぐ」という言葉でしょう。これは、ルカ福音書の10章25節以下の「善いサマリア人」という箇所を参考にすべき所です。そこで律法の専門家が立ち上がって、「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と、主イエスに同じ質問をするのです。
 その場合も、「受け継ぐ」とは「神から授かる」という意味だと思います。永遠の命は、自分の行動によっては獲得した気になれない。そういう感じが、彼にはあるだろうと思います。主イエスは、「主なる神を愛すること」と、「隣人を自分と同じように愛する」ことを命じられました。言葉の上ではすべてを知っていた彼は困ってしまって、「では、わたしの隣人とはだれですか」と尋ねたところから、例の譬話が始まります。
 今日の箇所では、議員に対して、十戒の二枚目の板に記されていることを「知っているはずだ」と主イエスは言います。これでも良いのですが、原文は単純に「知っている」です。議員は、隣人愛に関して知っていて当然ということでしょう。そこに記されていることは、姦淫、殺人、窃盗、偽証であり、父母を敬うことですから、彼が「子供の時から守って」きたのは当然なのです。彼の答えは、主イエスも予想通りだったと思います。その点で、律法の専門家も議員も同じなのです。

  行動の根っこにあるもの

 そこで、主イエスは、「あなたに欠けているものがまだ一つある。持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」と、言われるのです。
 これも一見すれば行動を言っているようだし、事実その通りでもあるでしょう。しかし、その根っこの所で違うのだと思います。主イエスは、持てる物をすべて売り払うだけでなく、その金を今日食べるのにも困っているような人々に分けなさい、と言われる。実際にやるかやらないかを問われている。そのことは確かだとも思います。しかし、そういうことを言って本当は何を言っているのかと言えば、「あなたの行動はすべて富の上に立ったものだ。あなたが、富を心の拠り所としていることは良く分かった。しかし、そういうものから解放されなさい。そして、口先だけでなく、ただ神のみを頼りとしなさい。闇雲に私のところにくる乳飲み子のように」ということではないでしょうか。私たち人間の行動の根っこには、心の在り方があるのです。そのことを良く覚えておかねばなりません。
 その主イエスの言葉を聞いて、彼は「非常に悲しんだ」(ペリルポス)のです。これは、領主ヘロデが大勢の来客の前で義理の娘であるサロメからヨハネの首を要求されて「非常に心を痛める」(マルコ6:26)とか、ゲツセマネの園で主イエスが「わたしは死ぬばかりに悲しい」(マタイ26:38)と言われたと訳される言葉と同じです。つまり、心が張り裂けんばかりになる。心が分裂しそうになる。そういう意味なのです。

  それから

 主イエスは、「それから、わたしに従いなさい」と言われました。「それから」(デルウト)と訳された言葉は、これまでの土地から新たな土地へ出かける時に「さあ、行きなさい」とか「さあ、来なさい」という感じで使われる言葉です。「さあ」と一言で訳されている箇所もありました。つまり、人が新たな次元に行く時の呼びかけ、そういう言葉なのです。
 丸裸になって主イエスに従うということ、それは全く新しい次元に旅立つことです。それまでの自分の命に死に、全く新しい命に生きるということなのです。それは、自力で出来ることではありません。他人事ではないのです。だから、その言葉を聞いて、議員は非常に悲しんだ。心が張り裂けんばかりになりました。主イエスのおっしゃることが、嫌と言うほど分かったからです。彼は、自分の心の欠けが、どこにあったかが分かったのです。そして自分の行動が、その根っこに於いて、すべて富の上に立っていたことが分かったのです。そして、その生き方を今更捨てることは出来ないと思った。だから、彼は悲しんだのです。自分ではどうすることも出来なかったのでしょう。分かる気がします。自分で自分の命を捨てること、それ以上のことはないのですから。私たち人間は、気がつけば身についてしまった悪習やしがらみを完全に捨て去ることは中々出来ないものです。

  行動の基準

 ルカでは、彼が帰ったかどうかは分からない形になっています。「イエスは、議員が非常に悲しむのを見て」とあり、彼が帰ったとは書いていないのです。先ほどは議員の言葉を「聞いて」でしたが、今は言葉にならない彼の苦悶の表情を「見て」、主イエスは「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」と、言われたのです。そこで主イエスは、人間の限界を感じたのでしょう。これを感じることが出来るのは、主イエスだけかもしれません。主イエスは私たちと同じように「聞き」、そして「見る」のですが、それは私たちが聞いたり見たりするのとは違う次元で起こっていることではないかと思うのです。
 弟子たちは、主イエスの言葉を聞いて天地がひっくり返るほど驚きました。神様の祝福を溢れるほど頂いているこの議員すら救われないのか?!「それでは、だれが救われるのだろうか」と言わざるを得なかったのです。すると、主イエスは、「人間にはできないことも、神にはできる」と、おっしゃいました。人間の救いは人間の業ではなく、神の業だということでしょう。
 人間の救いは、人間の予想を全く超えた神の御業なのであり、人間の行動によっては、「永遠の命」を得るとか「神の国」に入るという権利を獲得出来ないということです。

  弟子たちと主イエス

 そのやり取りを聞いて、弟子の代表たるペトロが、「このとおり、わたしたちは自分の物を捨ててあなたに従って参りました」と、言いました。
 それに対して、主イエスは「はっきり言っておく。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子供を捨てた者はだれでも、この世ではその何倍もの報いを受け、後の世では永遠の命を受ける」と、言われたのです。どういうことでしょうか?
 弟子たちが、主イエスに従うために家や財産を捨てたことは間違いありません。しかし、主イエスとの最後の夕食をとった後、ペトロを初めとする弟子たちは「自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか」という議論を始めたのです。もちろん、彼らにしてみれば、これが主イエスとの最後の夕食となるとは思っていなかったし、彼らは等しく財産を捨て、家族の誰かを泣かしてきたのです。しかし、彼らは偉い順に主イエスからご褒美を貰えると思っていたのです。
 だからシモン・ペトロは最後の晩餐の後、「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた」と、主イエスに言われたのです。シモンとはペトロ(ギリシア名)のユダヤ名であり本名です。そのペトロが「サタン」にふるいにかけられて落ちたのです。そして、彼は「あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう」と、主イエスに言われてしまうことになります。つまり、夜明けが来る前に三度、主イエスを否認するのです。それは現実となりました。それが、ペトロを初めとする弟子たちの姿です。主イエスは、既にそのことをご存知でした。
 ここで主イエスがおっしゃっていることは、やはり二心の問題だと思うのです。弟子たちが、本当に地上の報いを望まないで、「神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子供を捨てた」のであるなら、彼らは「この世ではその何倍もの報いを受け、後の世では永遠の命を受ける」でしょう。しかし、彼らが地上において報いを望んでいるならば、それは無理と言うものです。実際、ペトロを初めとする弟子たちの心は、地上における報いを望んでのものだったのです。彼らも、「議員」「人々」と同じなのです。だから、ここで「非常に悲しんだ」のは、心が張り裂けんばかりに悲しんだのは、議員や弟子たちではなく、実は主イエスの方だったのではないかと思います。

  わたしに従いなさい

 「神の国」
とか「永遠の命」というものは、目に見えるものではありません。目に見えるものとは異なる次元のものなのです。「報酬」とは全く違うものです。「それから、わたしに従いなさい」という主イエスの呼びかけに応えることによってしか、手に入れることが出来るものではありません。そういう意味で、それまでの命に死んで、新しい命に生きることなのです。
 誰だって、それまでの自分の命は惜しいものなのです。失いたくはないものです。しかし、永遠の命、神の国に生きる命を得るためには、失わねばならぬものもある。信仰によって与えられる命とは、そういうものです。それまでの命を失って、初めて得るものなのです。そして、主イエスはその命を与えるために、十字架の上で命を失ったのだし、その上で復活の命を与えられたのです。

  十字架のイエスのみ

 そのことを知るために、主イエスの「この世ではその何倍もの報いを受け、後の世では永遠の命を受ける」という言葉に注目したいのですが、ここで「受ける」(アポランバノ―)とは、全く新しく受けることです。ただ受けるのではなく、失ったが故に全く新しく受けるのです。
 それは、十字架上で喘ぎ苦しむ主イエスを嘲る犯罪者に向って、もう一人の犯罪者が言っている言葉に出てきます。彼はこう言っているのです。

 「我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」(ルカ23:41)

 ここで刑罰を「受けている」と訳された言葉が、18章のそれと同じです。彼は、この後、来臨される時には自分のことを覚えて欲しいと主イエスに頼み、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(ルカ23:43)と、主イエスに言われるのです。
 そこで「受ける」ですが、主イエスが受けている刑罰は、直接的には彼ら犯罪者の行道に対するものでもあると、私は思うのです。少なくともその一人は、自分のこれまでの行動が何を意味するのかを分かっていません。しかし、本当に罰を受けているのは主イエスであり、彼らではないのです。主イエスに死刑判決を下した議員を含めて、その行動に関する刑罰を受けているのは主イエスであり、罪人の罪を赦して救いを告げることが出来るのは、この方以外にはいないのです。この世の報いやかの世における永遠の命も与えることが出来るのは、すべてこの方、神の独り子なるこの方以外にはいないと思うのです。「何も悪いことをしていない」この方。この方以外にはいない。それが出来る唯一の方を、神はこの世に送った。それが、「人間にはできないことも、神にはできる」という本当の意味だと思います。こんなことは、神しか出来ません。人間は、自分を救い得ないのです。そのことだけは、どうか分かってください。

  私たちにとってのイースター

 私たちにとってのイースター、それはこのイエス・キリストを我が身に受け入れて、「それから、わたしに従いなさい」と言う主イエスの招きに従うことではないかと思います。もし、それが出来るのなら、その時、私たちのそれまでの命は終わるのですから。そして、その時、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」との言葉を、自分に対する言葉として聴けるのです。
 この方の「それから、わたしに従いなさい」との呼びかけを、自分に対する呼びかけとして聴き、それに応える時、つまり信仰に生き始める時、私たちのそれまでの命は死に、新しい命に甦るのです。それは決して他人事ではありません。私たちキリスト者は、聴いて信じたのです。そして、新たに生き始めたのです。その時、神様が救ってくれるのです。大変なことです。それが私たちにとってのイースターです。

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