「十二人は」

及川 信

       ルカによる福音書 18章31節〜34節
   
18:31 イエスは、十二人を呼び寄せて言われた。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子について預言者が書いたことはみな実現する。
18:32 人の子は異邦人に引き渡されて、侮辱され、乱暴な仕打ちを受け、唾をかけられる。
18:33 彼らは人の子を、鞭打ってから殺す。そして、人の子は三日目に復活する。」
18:34 十二人はこれらのことが何も分からなかった。彼らにはこの言葉の意味が隠されていて、イエスの言われたことが理解できなかったのである。

  これが最後


 今の季節は、教会暦では復活節(イースター)を終え、5月15日の聖霊降臨節(ペンテコステ)に向っています。また、これは日本独特かもしれませんが、先週から新年度の2016年度は明けました。4月1日から2016年度の始まりで、それは来年の3月31日まで続きます。教会の予算や行事計画は4月1日から始まります。そういう意味では、中渋谷教会は新年度早々、土曜日に午後には佐古純一郎名誉牧師の埋骨、OSさんの突然の召天、聖餐礼拝と年度最初の長老会、そして火曜日にはOSさん(満九十歳)の葬儀と、いかにも教会らしいことが続きました。そして、OSさんは、遺体となってではありますが、日曜日には約五十年振りに母教会で皆さんと共に礼拝出来たことは、本当に良かったと思います。
 皆さんも「新年」とか「新年度」と聞くと、思いも少し新たにされることがあると思います。私も今年度が中渋谷教会における最後の年ですから、何かにつけて「これが最後」という言葉が浮かびます。今日の箇所を中渋谷教会における説教で取り上げることは最後でしょう。これからの一つ一つの行事がそうです。そうやって「自分に気合を入れているのだ」と言えばそうなのですが、皆さんはどうなのでしょう。
 いつかもお話をしたことがありますが、皆さんは誰も、ある時の礼拝が最後になります。その週に入院をしてそれきりになることもあるし、その週に突然亡くなることさえあるのです。先日のOSさんも、年齢から言えばそれなりの年齢ですが、大動脈の破裂は本人も家族のものも意識していなかったのです。誰も予想していませんでした。そして、予想しないことが起きるのは説教者も同じです。だから、「これが最後」、でも良い説教をしているのかがいつも問われます。「今週は駄目だった。来週はしっかりやるから期待してくれ」では、駄目なのです。いつでもしっかりやっていなければいけない。私が今ここに立っていること自体、当たり前のことではないからです。それは皆さんも同様だと思います。

  聖書が書いていること

 そこで考えるのは、「一回と継続」の関係です。主イエスのご生涯は一回きりです。十字架による死も復活も昇天も既に起こったこと、一回きりの出来事です。来るべき再臨、生ける者と死ねる者とを裁く再臨も未来のことですが、一回の出来事です。しかし、主イエスの生涯という一回きりの出来事は書かれ、編纂されて一冊となり、書き写され、世界中の人々の言葉に翻訳され続けています。つまり、繰り返し読まれ続けている。
 そして私たちは、その都度、羊になったりコインになったり、弟や兄になったりしています。つまり、繰り返し読んでいるのです。それはその都度、発見があるからだし、その時の自分が違うからでもあります。そして、なによりも、あの十字架と復活の出来事はすべての人の罪の赦しに関係し、悔い改めに関係し、新しい命に関係するからです。そして、その言葉はすべての人が聴くべき言葉なのです。それは、いつも新しい現実だと思います。だから私たちは繰り返し読むのです。少なくとも、ルカ福音書はそのことを書いているでしょう。そして、読んでいく中で、あるいは聴く中でそのことが分かった者は、そのままではいられないはずです。

  呼び寄せられた

 そこで「呼び寄せられた」(パラランバノ―)から考えたいと思います。この言葉は、弟子たちを「側近くに呼び寄せる」という意味で使われることがあります。主イエスの側近くに弟子たちを来させて(パラランバノ―)受難の預言を聞かせたり、ペトロ、ヨハネ、ヤコブの三人を山上まで連れて行き(パラランバノ―)、栄光の姿に変えられ、エルサレムで遂げられる最期について聞かせたりします。その時は、モーセとエリヤが一緒でした。
 そういう意味で、今日の受難と復活の預言は、主イエスにとって十二弟子に対する特別な言葉だと思うのです。十二人を呼び寄せた上で語る受難と復活の預言なのですから。少なくとも、何度も言う言葉ではないと思います。私たちも今日、この会堂に来たからこの言葉を聞いている、その意味を考えざるを得ません。そこで「私たち」とは、十二人と同じくきわめて少数者を意味します。

  隠されていた

 しかし、最後の「この言葉の意味が隠されて」いたから、十二弟子たちには分からなかったとは、いかにも寂しい言葉ではないかと思うのですが如何でしょうか。イエス様は大事なことを一生懸命に語ったのに、弟子たちには分からなかったのです。しかし、ルカはそう書かざるを得なかったのでしょう。と言うのは、これよりもずっと前の9章45節に、今日の箇所と同じく、「弟子たちは分からなかった」とあり、「彼らには理解できないように隠されていたのである。彼らは、怖くてその言葉について尋ねられなかった」と、あるからです。
 主イエスはそこで、「この言葉をよく耳に入れておきなさい。人の子は人々の手に引き渡されようとしている」と、ご自分の死を予告されたのです。大変な言葉です。だけれど、弟子たちには言葉の表面的な意味は分かったにしても、その深い意味は分からなかったのです。隠されていたからです。神によって、主イエスの言葉の意味は弟子たちに「隠され」ていたのです。こういうことがあります。今だってしょっちゅうあるでしょう。キリスト者になる前の私たちは勿論のこと、なって以後も分からないことはしばしばあるのですから。
 弟子たちにも、表面的な意味は分かっていたに違いないのです。主イエスはユダヤ人の高官のみならず、人々によって殺されるらしい。しかし、弟子たちにその死の意味は分かっていなかった。いや、彼らは怖くて分かろうとしていなかったのです。その状態は、ずっと続くことになります。皆、表面的な意味は分かっているのです。しかし、何も感じない。今はそれだけ覚えておいてください。

  エルサレム

 主イエスに「呼び寄せられる」弟子たちですらこうなのです。「ましていわんや」ですけれども、主イエスは弟子たちに「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く」と、言われます。初めて、「エルサレム」という地名が明言されます。エルサレムとは神殿があり、イスラエルの首都です。そのエルサレムが出て来るのです。イエスの口からは初めてですし、十二弟子全員という意味では最初です。主イエスが苦しみを受ける地、その後、復活する地はエルサレムであること。「侮辱され、乱暴な仕打ちを受け、唾をかけれ」、「鞭」で打たれ、「殺」され、「復活」するのはエルサレムであることが、ここで明言されたのです。
 ご記憶の方もいると思いますが、旅の始まりである9章51節には、「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた」と、あります。ここから、主イエスの「エルサレムへの旅」は始まったのです。そして、主イエスの中では、十字架に上げられ、復活して天に上げられるのはエルサレムであることが徐々に明確になりつつあったことでしょう。

  預言者が書いたこと


 そこで主イエスは、「人の子について預言者が書いたことはみな実現する」と言われました。ここで「預言者」とは旧約聖書全体の意味で、その「預言者が書いたこと」とは、旧約聖書に書かれたことという意味です。
 コリントの信徒への手紙一の15章3節以下にも、聖書にはキリストが、「わたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと」「三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたこと」が書かれているとあります。
 ここで「聖書」とは、私たちが「旧約聖書」と呼んでいるものですが、こんなことは文字通りには「旧約聖書」には書かれていません。でも「旧約聖書」は全体としてこういうことを書いているのだという信仰、それがここにはあるのです。ルカは、同じ信仰をもってこの福音書を書いているのです。

    実現する  異邦人

 それはともかくとして、「実現する」とは、「旧約に書かれたことは、新約でその目的に達する」ということだと思います。
 それは「異邦人」についても言えます。第一回目の9章22節に出て来る第一回目の受難預言は、「長老、祭司長、律法学者たち」とあるように、全員がユダヤ人、それもユダヤ人の代表のような位の高い人々です。しかし、第二回目の44節では、すでに述べましたように「人々」でした。限定はつけていません。すべての人々です。当然、弟子たちは逃げ隠れ出来ません。そして、次が「異邦人」です。  「日本人と外国人」と言えば全世界の人と同じです。それと同じ、「ユダヤ人」に対する「異邦人」です。もちろん、ここではローマの総督ピラト、そして諸国の民がいる傭兵に「異邦人」を代表させているのですが、主イエスの十字架の死と復活の出来事はすべての人々に関係すると言いたいのです。この「異邦人」に、私たちも入って来ることは言うまでもありません。この三回を通して、主イエスの十字架の死と復活の命に無関係の者などいない、と言うことをルカは明らかにしているのです。

  乱暴な仕打ちを受け

 今日は、もう少し言葉の意味を解明していきたいのですが、次の「侮辱され」から彼らは「殺す」までは決まり切った述語みたいな感じで、さらっと読んでしまいがちです。でも考えてみると、メシヤ(キリスト)が侮辱され、乱暴な仕打ちを受け、唾をかけられ、鞭打たれてから殺されるというのは、本来はあり得ないことなのではないでしょうか。メシヤは人々に待ち望まれ、熱狂され、尊敬されて然るべきものです。主イエスの言葉で言うなら、メシヤは「なんと幸いなことでしょう、あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は」(ルカ11:27)と言われて当然なのです。それが、メシヤです。でも、主イエスご自身にとっては、旧約聖書は「メシヤはこういう苦しみを受けて、栄光に入る」(ルカ24:26)べきことを、言っているのです。メシヤと受難は、主イエスにとっては切っても切れない関係なのです。
 何故なのかを考えるために、今日は「乱暴な仕打ちを受け」(ヒュブリゾー)と訳された言葉に注目したいと思います。元々は「間違った扱いをしている」、それも上から目線で見て間違った扱いをしている。そういう時にこの言葉を使うようです。
 人の子であるイエスは異邦人に引き渡され、そこで間違った扱いを受ける。メシヤが本来は受けてはならない扱いを受ける。そういうことです。なぜそういうことになるのかを考えてみると、それは結局人が自分自身のことを思い違いしているからではないかと思うのです。
 例えば、幼児虐待に走る同居男性とか実の両親がいます。満足な食事を何ヶ月も与えないとか、ウサギのケージに入れておくとか、殴るとか蹴るとか、最後までニュースを見ることができない虐待が沢山あります。皆、自分の内部にそういう残虐性が巣食っているとは思っていないでしょう。それが出てくる環境がないからです。でも、環境が整うとそういうものが出てしまう。そういうことがあります。ひょっとしたら、自分が幼い時にそういう目に遭ってきており、知らず知らずのうちに仕返しをする相手を作り出しているのかもしれません。そして、気づかぬうちに残虐性が加速していき、いつしか取り返しのつかないことになってしまう。覚醒剤や違法賭博などそのごく一部が報道されているのでしょう。とにかく、それらの報道を見る度にいたたまれない気がします。特に虐待の場合、その親たちに「自分を何様だと思っているんだ」と言いたくなるのです。「あなたがたは勘違いをしている。自分はそういうことをしてよい人間だと思っている。高ぶっている。そして、幼い子どもにしてはならないことをしている。」そう思うのです。そういう高ぶった人間の、憐れな末路を思わないわけにはいきません。しかし、「高ぶり、自分のことを勘違いしている」という点において、彼らと私自身は同じではないかとも思うのです。そして、やりきれなくなります。姦淫を実際にすることと、情欲をもって異性を見つめることは同じだと言われる方(かた)から見れば、そんな違いは胸を張れることではないはずですから。

  三日目の復活

 しかし、「人の子は三日目に復活する」と、主イエスは最後に言われる。「人の子は三日目に復活する。」若い頃から最近まであまりそうは思わなかったのですが、今はなんとも言えない爽快な言葉だと思います。「これがあるからやっていける。」そう思うのです。
 おこがましいことですが、私とは全然違うレベルで主イエスもそうだったと思うのです。「こう言えるから、私は生きていける。」主イエスは、そう思ったに違いない。そして、そう思ったから十字架の死に向かえたと思うのです。
 何故かと言うと、これは「人間の罪と、その結果なる死に対する最終的な解決は神がつける」ということだからです。私たちではありません。復活は人間業ではないのです。人間は人の子を侮辱し、乱暴な仕打ちをし、唾をかけ、鞭で打ち、殺すことは出来ます。実際、こういう計画を立てて何人も殺してきたし、主イエスも殺したのです。でも、誰も死人を復活させることは出来ません。それは人間が出来ることではなく、ただ神だけが出来ることなのです。主イエスは、ただそのことを信じた。
 そして、その復活を通して、弟子たちは、主イエスの十字架の死とは、すべての人の罪の赦しのためであったことが分かったのです。主イエスの復活がなければ、十二弟子の誰も主イエスの十字架の死が、自分の罪の赦しのためであったとは分からなかったのです。彼らが復活の主イエスから、「あなたがたに平和があるように」と言われなければ、主イエスの十字架の意味は、彼らに分からなかったのです。彼らは、自分だけでは自分を突き詰めて見ることはなかったのです。

  信仰の行動
 それは、ルカ福音書を最後まで読めば分かりますが、今日はパウロの言葉を私の言葉に直すと次のような言葉を言っています。

 「主の方に向き直った私たちが、いつの日か主の栄光を映し出しながら、主と同じ姿につくりかえられていきます。」(コリント人への手紙二の3章14節以下)

 「栄光から栄光へと、主と同じ姿に作り替えられていきます」。本当に素晴らしい言葉です。信仰に生きる私たちの最後の姿がここにはあり、私たちはそこに向っているのです。
 私たちの人生は、棺桶に向っているかのようによく言われます。しかし、主イエスに対する信仰に生きる時、私たちの人生は棺桶の先、主イエスの栄光を現す世の終わりの復活まで続くのです。それは全く「受け身」のことです。あの乳飲み子のように「受け身」です。「受け身」であるということ、それは一面では情けないことですけれど、ただ主イエスへの信仰によるものです。主イエスに対する信仰、この世と後の世にまたがる「永遠の命」だけを求める信仰による。その時、主イエスによって、その命は与えられるのです。それが信仰による受身の正体です。

  隠されていた

 でも、既に述べましたように「十二人はこれらのことが何も分からなかった」と、あります。ペトロたちは、少し前に「このとおり、わたしたちは自分の物を捨ててあなたに従って参りました」と言いました。しかし、その目的はこの世で何か報いとなるものを貰いたいということでした。彼らは絶えず二心であり、乳飲み子のそれではなかったのです。いつでも、この世の富とかの世の富の二つを見ている。そういう者には見えないのです。主イエスはそういう彼らの中にあって、一つの出来事、ご自分の十字架の死と復活の命を見つめているのです。そして、この世とかの世をまたぐ永遠の命、神の国を見ているのです。しかし、弟子たちには、「この言葉の意味が隠されていて、イエスの言われたことが理解できなかった」のです。私たちはどうなのでしょうか。
 何度も言いますが、弟子たちだって、主イエスが言ったことの表面的な意味は分かったのです。主イエスはどうもユダヤ人や異邦人の手にかかって死ぬらしい、そして三日目に復活するらしい。そういうことを、主イエスは言っている。そのことは、もちろん分かったのです。しかし、その言葉の深い意味は分からなかった。神によって言葉の意味が隠されていて、主イエスが言われたことが理解出来なかったからです。そして、先ほど言ったように、誰もその意味を聞かなかった。聞くことが怖かったのです。無理ないなと思うのです。

  彼らをお赦しください

 なぜ「無理ない」と思うかと言えば、私たちにとって一番分かりにくいことは自分の罪深さではないかと思うからです。弟子たちも同じです。それが分かってしまえばお終いなのです。私たちはどんな報道を見ても、自分は高みの見物をして、「自分はそれほど罪深くはない」と思っているものです。だからこそ、主イエスの「十字架と復活」という言葉は知っていても、それが自分のためであるとは思っていない。そういうことがしばしばあります。自分の罪深さを知ることほど怖いことはないし、理解しにくいこともないからです。私たちも弟子たちも、その点は少しも変わることはないと思います。
 しかし、主イエスの十字架の死や復活の命を、自分とは無関係なものとして受け止めることほど理不尽なことはありません。そのことを少数ではあっても分かって貰いたい。主イエスが、これまで弟子たちにだけ「長老、祭司長、律法学者」「人々」「異邦人」と言ってきたのは、ご自分の十字架の死と復活の命はすべての人間に関係するものだということを、弟子たちには分かって欲しかったのです。特に十二人に分かって貰いたかった。しかし、彼らには分からなかった。私たちはどうなのでしょうか。
 でも、主イエスは実際に十字架に磔になりながら、こうおっしゃいました。

 「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」

 いつも言うことですが、人間は自分がやっていることを良く分かっているわけではなく、自分で何をしているのかも分からないのです。すべては目先だけなのです。こういう謝罪会見は繰り返し見ているでしょう。
 しかし、主イエスはそういう者たちのために死んでくださった。償いの供え物としてご自身の体を捧げてくださった。一回的に命を捨ててくださったのです。そのことと無関係な人はいません。そして、私たちキリスト者は、そのことを知っている者たちのはずです。

  平和があるように

 そして私たちは、礼拝の最後に派遣の言葉をとおして「平和のうちにこの世へと出て行きなさい」と言われる者たちです。「主イエスの十字架の死と復活によって神と和解を受けたのだから、隣人の本当の姿を示し、神に仕えなさい。それが隣人を愛し、神を愛することだ」と言われるのです。
 「平和のうちにこの世へと出て行きなさい」とは、言うまでもなく十字架の死から三日目の復活の主イエスの第一声に由来します。逃げ隠れしていた弟子たちに対する第一声です。復活の主イエスは、驚き畏れる弟子たちの真ん中に立って「あなたがたに平和があるように」と、おっしゃったのです。
 この言葉は元々ヘブライ語のシャローム、「神があなたと共にいますように」「神が共にいます」と言うことです。これが主イエスによる、逃げた弟子たちに対する最初の言葉です。信じ難い言葉です。でも、これこそ私たちの毎日の生活の中で、そして人生の終わりに聞きたい言葉ではないかと思います。私は聞きたいです。
 「あなたがたと共に、神がいます。教会を生きて来たあなたがたと共に、神はいます。イエスの十字架の死によって罪赦され、復活の命に連なる者とされ、イエスを救い主と信じる限り、いつもイエス・キリストを通して、神はあなたと共にいてくださる。そういう意味で、あなたがたの命は永遠の命なのだ」。
 主イエスは、そう言っているのです。そして、主イエスに招かれて与るこの礼拝の最後に、私たちは毎週そのことを聞いているのです。私たちは、最早「分からなかった」では済まされないのではないでしょうか。私たちは感謝し、賛美しないではいられないのだと思います。

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