「盲人は神をほめたたえた」
18:35 イエスがエリコに近づかれたとき、ある盲人が道端に座って物乞いをしていた。18:36 群衆が通って行くのを耳にして、「これは、いったい何事ですか」と尋ねた。18:37 「ナザレのイエスのお通りだ」と知らせると、18:38 彼は、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫んだ。18:39 先に行く人々が叱りつけて黙らせようとしたが、ますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。18:40 イエスは立ち止まって、盲人をそばに連れて来るように命じられた。彼が近づくと、イエスはお尋ねになった。18:41 「何をしてほしいのか。」盲人は、「主よ、目が見えるようになりたいのです」と言った。18:42 そこで、イエスは言われた。「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った。」18:43 盲人はたちまち見えるようになり、神をほめたたえながら、イエスに従った。これを見た民衆は、こぞって神を賛美した。 エルサレムを目指して 私たちは私たちなりに、色々な変遷をしながら生きているものです。住んでいる家もかわってきたでしょうし、人によってみな違いますが、職業の変遷や伴侶や子どもの有無など、それぞれに変遷があるだろうと思います。主に東北地方の太平洋岸や熊本、大分の一地方であったような大震災に遭えば、死んでしまう人もおり、生きていても震災前と後では全く違う人生が待っているだろうと思います。とても同じ人の人生とは言えないでしょう。そして、私たちは、漸く今日の礼拝後から教団の社会委員会を通して募金を始めます。また今日の「会報」には、東北の震災で会堂を壊さざるを得なかった福島教会の新会堂建設一周年記念礼拝やコンサートの様子が記されています。今日の箇所は、そういったことを色々と考えさせるところです。 最初に、今日の箇所を含めた主イエスの移動について考えておきたいと思います。章や節は省きますが、イスラエルの北方にいる時に、主イエスは南方にあるエルサレムで天に上げられることを覚悟なさいました。そして、北部のガリラヤ地方を後にして、一路南下し、南にあるユダヤ地方の首都エルサレムを目指し、今日の箇所で西方にある「エリコにまで近づかれたとき」となります。以後、イエス様は「エリコに入り」、「エルサレムに近づいておられ」、「エルサレムに上って」行き、ついに19章45節では、エルサレムの中にある「神殿の境内に入り」と記されるのです。つまり、エルサレムに近づくと、ルカは極めて慎重に場所を指定しながら、主イエスの動きについてその筆を進めて行くことになります。 つまり、主イエスの地上の旅路はいよいよ終盤に入って行く。しかしその旅路は、エルサレムにおける十字架の死に終わるのではなく、エマオにおける復活の顕現やベタニアにおける昇天に向っており、ルカ福音書の続編である使徒言行録における「地の果て」にまで繋がっているのです。全世界の民の賛美、生ける者と死ねる者の賛美、それが主イエスの目指していることなのです。それは主イエスに始まり、弟子たちに続く旅路であり、私たちはその旅路を共にしていることを意味しているのです。そのことを、私たちは忘れないでおこうと思います。そのエリコの入り口に、一人の「盲人が道端に座って物乞い」をしていました。 ヨハネ福音書9章 この箇所を読んで、ヨハネ福音書9章を思い出す方もおられると思います。そこでは弟子たちが、「この人が盲人なのは、両親の罪のせいか、自分の罪のせいか」と主イエスに訊きました。すると、主イエスは「神の業がこの人に現れるためである」とお答えになり、彼が見えるようになることは、「『主よ、信じます』と言って、ひざまずく」ことであると言われました。そして、「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる」と、続けられたのです。「神の業がこの人に現れるためである」とは、そういう意味であると主イエスはおっしゃったのだと思います。 それらを見て、「我々も見えないということか」と不平、不満を感じているファリサイ派の人々に対して、主イエスは、「今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る」と、言われました。自分たちは「見える」と思っていることと、罪の問題がここに出てくるのです。今は、そのことだけ覚えておいてください。 メシアの仕事 ルカ福音書において主イエスのご生涯を考えるには、4章を見ておかねばなりません。そこは故郷のナザレの会堂で、イエス様がイザヤ書の言葉を読まれた上で説教された所です。預言者イザヤの言葉を、少し飛ばしながら読みます。 「主の霊がわたしの上におられる。 貧しい人に福音を告げ知らせるために、 主がわたしに油を注がれたからである。 主がわたしを遣わされたのは、 (中略) 目の見えない人に視力の回復を告げ、 圧迫されている人を自由にし、 (ルカ4:18〜19) ここに「油を注がれた」が元来の意味であるメシアの仕事が、少し書いてあります。つまり神に聖別された人は、神様に霊を注がれながら、「目の見えない人に視力の回復を告げ」ること。それがメシアの一つの仕事なのです。「視力の回復を告げる」とは、単に視力の回復を与えれば良いということではないでしょう。バプテスマのヨハネから洗礼を受けた主イエスが、メシアとしてこの地上に来られた。主は私のことを忘れた訳ではない。主イエスはそのことを言おうとしているのだと思います。 また、洗礼者ヨハネが牢獄から弟子二人をイエス様の所に遣わした場面も重要です。そこでヨハネの弟子たちは、イエスは「メシア」なのかどうか尋ねました。そこで主イエスは彼らにこうお答えになり、ヨハネに告げるように言ったのです。7章21節から、少し飛ばしながら読みます。 そのとき、イエスは(中略)多くの人々をいやし、大勢の盲人を見えるようにしておられた。それで、二人にこうお答えになった。「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、(中略)福音を告げ知らされている。」 ここでも、イエスは「メシアであるか否か」が問題になっており、「目の見えない人」「盲人」の癒しが一つの問題になっています。そして、イエス様はそのことをしておられるのです。盲人一人ひとりに出会っておられるのです。そういう意味で、ここは「イエスはメシアである」ことを表している。そう言えるでしょう。 変わることなき旅の目的 今日の問題は、「目の見えない人」ですからそれに集中しますけれど、彼らは「メシア」によって初めて視力の回復や自由を与えられ、メシアの姿が見えるようにされるのです。その時、見えなかった者が見えるようになり、見えると思っていた者が実は見えていない者であることがはっきりする。そこにメシアの裁きがあり、その裁きは、気づく者は気づくし、気づかない者は気づかないものなのです。つまり、「見える」と「見えない」は、私たちが通常考えるものと違うのです。 主イエスが「エルサレムに上る」とは、主イエスが人間に対する「裁き」をする旅です。そのことは変わりありません。それは、私たちの生涯が、結局、自分が自分になるためのものであるのと同じです。これは変えようがないのです。 今回の話の直前は、主イエスの受難と復活の預言でした。そして、その前は金持ちの「議員」の話です。そして今日は、物乞い以外にすることがない盲人の話です。つまり、この世における上下の極端、これ以上ない身分の者とこれ以下はない身分の者が、十字架と復活の預言を挟んで対比されているということになります。「裁き」とは「分ける」こと、二者を分断することです。「あなたを神の国に生かす」と言えば、他の人に関して「あなたは神の国に生かさない」ということなのです。「一人は連れて行かれ、他の一人は残される」(17:36)。それは、聖書が書いていることであって、仕方がないことです。ただ、連れて行かれる一人になる道は誰にでも残されているのです。 ダビデの子イエスよ 盲人は群衆が通って行くのを聞き、「これは、いったい何事ですか」と彼らに尋ねました。彼らは「ナザレのイエスのお通りだ」と答えました。これは名字のない時代、イエス様の出身の村を教えたということでしょうが、「ナザレのイエス」は奇跡行為者として既に有名になっていたのでもあると思います。物見高い群衆は、かねて噂に聞いていたイエスの奇跡をこの目で見られるかもしれないと、浮足立っていたのだと思います。 しかし、この盲人は違いました。彼も、これまでも「ナザレのイエス」の噂を聞いていたし、その点では群衆と変わりないのですが、彼はここで「ナザレのイエスよ」ではなく、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫びました。 細かいことは省きますが、「ダビデの子」には「ダビデ」と同じ「メシア」という意味があると思います。マリアに受胎告知をする時、天使ガブリエルは「神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる」と、マリアに言いました。ここで「ダビデの王座」とは「メシアの王座」と同義ですから、「ダビデの子」とは、ダビデを相続した存在のことです。盲人は通りすがりの大行列の音を聞いて、「ナザレのイエス」ではなく、「ついにダビデの子がやって来たのだ」と感じとったのです。「ついにメシアが自分のところに来た」と。だから「ダビデの子イエスよ」と叫んだのです。ここで「叫んだ」は、ボアヲ―と滅多に使われない言葉が使われており、そこにも意味があるのかもしれません。 憐れんでください そして彼は、「憐れんでください」(エレエオー)と叫びました。それは、ルカ福音書においては、主イエスの代名詞のような言葉です。有名な「マリアの賛歌」には、主イエスをご自分の胎内に送り給うた神の「憐れみは限りなし」と、あります。そして、「その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません」とあるのです。それ以外にもいくつもありますが、主イエスは神の憐れみを体現する形で現れているのです。そして、この「憐れみ」は罪の赦しと関係するものです。目が見えないことも、当時の人々にとって、神と共に生きていけない罪に関わることであり、盲人が頼んでいることも、罪の赦しなのです。 先に行く群衆は、弟子と同じく盲人を「叱り」ました。彼らは、自分たちはそうする権利を持っていると思っているのでしょう。彼らに自分の罪は見えないのです。その彼らがどれ程必死になって盲人を黙らせようとしても、盲人は罪を赦す権威をもつメシアに出会えるかもしれない喜びを抑えることは出来ず、ますます大きな声で「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫ぶのです。 見えるようになれ その叫び声が、主イエスに届きました。彼は主イエスの側に呼び寄せられて、「何をしてほしいのか」と尋ねられました。そこで彼は、「主よ、目が見えるようになりたいのです」と答えたのです。 お気づきのように、ここで盲人は「主よ」と言います。これは「ご主人様」という意味もありますが、ヨハネ福音書9章と同じく、ここでは神から遣わされたメシア、神と等しい方としての主イエス、という意味だと思います。彼は、その「主」に向って、「目が見えるようになりたいのです」と言いました。「ご主人さま、金貨を三枚ください」ではなく、「目が見えるようになりたいのです」と言ったのです。メシアは、「目の見えない人に視力の回復を告げ」「大勢の盲人を見えるようにしておられた」からです。彼がそのことを知っていたかどうかは知りませんが、彼はメシアに頼むべきことを頼んだのです。それは、「私の罪を赦してください」と同じ意味です。単なる視力の回復ではありません。 ここで、ルカの言葉は「聞こえる」から「見える」(アナブレポー)に変わります。この言葉は、18章の41、42、43節に三度も出てきます。「もう一度見える」「視力が回復する」という意味と同時に、イエスを奇跡行為者としてではなく、「ダビデの子」「主」として見ていたと考えると、「主よ、目が見えるようになりたいのです。私を憐れんでください」は、「私の罪を赦してください」と頼んだことだと思います。今、目の前にいる方はそういう方だと信じたからです。だからこそ、彼は、主イエスに「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った」と言われたのでしょう。 神を賛美した すると、たちまち彼の目は見えるようになり、「ナザレのイエス」とは誰かが真実に分かる人間になりました。もちろん、彼はこれまでもイエス様のことは群衆より分かっており、イエス様は単なる奇跡行為者ではないことを知ってはいました。でも、今やイエス様は彼にとって神と等しい「主」なのです。主イエスを通して、神が自分のところに来たのです。そのことが、はっきりしたのです。 だからこそ、彼は「神をほめたたえながら、イエスに従った」のだと思います。「神をほめたたえる(賛美する)」という言葉は、これまでも何回か出てきますが、主イエスの十字架の下にいたローマの百人隊長に使われる言葉だけ読んでおきたいと思います。そこで彼は、十字架上で息を引き取られるイエス様を見てこう言います。「本当に、この人は正しい人だった」。そう言って「神を賛美した」と、あります。 「神を賛美した」とは、これまで主イエスとの関わりを持った人間のすることです。これまで出てきた所によれば、それは男であり、女であり、ユダヤ人であり、異邦人です。位の高い人もいれば低い人もいる。つまり、すべての人間ですが、いきなり神を賛美する人間はいないのです。百人隊長以外は、そういう意味で、主イエスに癒して頂いた人です。 最後の百人隊長は、十字架の主イエスを見上げていただけです。でも彼は「この人は正しい人だった」と言って、「神を賛美」しました。主イエスの何が正しかったのでしょうか。彼は癒されたのでしょうか。 そのことを知るためには、もう何度も読んできた主イエスの言葉を読まねばならないと思うのです。主イエスは、十字架上でこう祈られました。 「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」。(ルカ23:34) 主イエスの十字架の死、それはこの「罪の赦し」のためにあったことです。復活は、罪の赦しに対する結果です。盲人の「癒し」もこの十字架と復活がなければ何の意味もなさないし、そこで湧き起こる「賛美」もまた意味がないことです。 主イエスの十字架の祈り、それはすべての人のための祈りです。その祈りを聞き、すべての人の罪の償いの供え物にご自身の命を神に捧げた主イエスを見て、百人隊長は「本当に、この人は正しい人だった」と言って、「神を賛美」したのでしょう。彼はどこも癒されてはいないけれども、人間として全く別次元の人を見た。そのことで、彼はそれまでの罪が赦されて新しい人とされた。そこに彼の癒しがあるのだと思います。その意味で、「この人は正しい人だった」と、百人隊長は言ったのです。そこに彼の悔い改めと賛美があったとも言えると思うのです。 従う 百人隊長と同じように神を賛美したこの盲人は、本当の意味で見えるようになり、「イエスに従った」のです。ただの奇跡を見て神を賛美したのではありません。 「従う」はペトロの召命記事に出てきます。彼は、主イエスの説教を聴いた後、大漁の奇跡を見て、思わず主イエスの前に跪いたのです。そして、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と、言いました。しかし、主イエスはその彼に「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」と言いました。彼はその言葉を聞き、「舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った」と続きました。これが弟子の最初です。次の徴税人のレビも、主イエスの招きに応え、「何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った」のです。境遇は全く違いますが、主イエスの招きに応えて、すべてを捨てて従った点では同じです。 これらのことから分かるように、主イエスの弟子になるために必要なものは物品ではなく、心身ともに主イエスに「従う」ことです。おそれながらも、主イエスに捕えられ、裸一貫で従うのです。そのことによってしか、主イエスが与える心身にまたがる救いに与ることは出来ないのです。そのための必要なもの、それが物品である訳がないでしょう。 この元盲人は、もちろん何も持っていません。でも、主イエスを送ってくださった、あるいは主イエスを通して自分の所にまで来てくださった「神をほめたたえ」ながら、主イエスに「従った」のです。つまり、彼は神の祝福を受けて来た「議員」がなし得なかったことをなしているのです。三回目の受難と復活預言が間に挟まって並べられている「議員」とエリコの「盲人」は、こういう対象を見せているのです。何もかも持っている議員は、何も持っていない盲人に見えるものが見えず、結局主イエスに従わない。そのことの故に、実はすべてを失う。そういうことが起こっているのです。これが礼拝だし、これが証の生活でしょう。 見える 私たちの多くは、所謂「視力」はあるでしょう。でも、「見える」とは、自分が分かることなのであり、主イエスが誰であるか分かることなのです。自分は、主イエスに体も心も依り頼んでいる存在である。それ抜きでは生きてはいけない。そのことが分かること。そして、メシアである主イエスを賛美しながら、主イエスに従う。それが「見える」ということなのです。その点では、私たちは誰も違いはないでしょう。 神をほめたたえていた そして、礼拝は賛美で終わります。これは大事なことだと思います。私は中渋谷教会に着任した当時、ローマの信徒への手紙の連続説教をしていたのです。しかし、そこでは自分の罪をえぐり出すことに精一杯で、とても「賛美」には行き着きませんでした。その点で、その頃の信徒の皆様には本当に申し訳なく思います。それから、ヨハネ福音書や創世記に取り組む中で、私は少しずつ変えられていきましたし、一昨年に病気をする前と今では色々な面で相当に違うように自分でも思います。 そこでルカなのですが、ルカ福音書は最初と最後が神殿なのです。この福音書は、礼拝から始まり礼拝で終わるとも言えるし、賛美で始まり賛美で終わるとも言えます。今日は最後だけを見ておきたいのですが、弟子たちは、天に上げられる主イエスを伏し拝んだ後、「大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた」とあります。これが福音書の最後の言葉です。彼らは、礼拝したのです。 ここで見ておきたいのは、ルカ福音書の最後は「神をほめたたえていた」という言葉であり、「神への賛美」だということです。ルカ福音書は賛美で終わる。そのことは忘れないでおきたいと思います。 ここで「賛美」とは、主イエスの手を上げての「祝福」と同じ言葉です。主イエスの十字架の死と復活の命によって、人は罪を赦されて神を賛美(祝福)出来る人間になるのです。主イエスは自分自身の命を生贄として捧げることによって人間の罪を赦し、復活によって神と人間を繋いだのです。罪によって分断されていた神と人を繋げたのです。その意味で、主イエスは「メシア」であり、「正しい人」なのです。 盲人は、イエスの中に自分のところに来てくださった神、「主」「メシア」を見ました。だから彼は「神をほめたたえ」、神に「従った」のです。これが礼拝であり、その後に続く証しの生活です。 今日、私たちの誰かがそういう礼拝を捧げる一人になれますように祈ります。そして、その姿を通して、誰かが主イエスこそメシアであることを証し出来ますように祈ります。 |