「権威とは何か」

及川 信

       ルカによる福音書 20章1節〜8節
   
20:1 ある日、イエスが神殿の境内で民衆に教え、福音を告げ知らせておられると、祭司長や律法学者たちが、長老たちと一緒に近づいて来て、20:2 言った。「我々に言いなさい。何の権威でこのようなことをしているのか。その権威を与えたのはだれか。」20:3 イエスはお答えになった。「では、わたしも一つ尋ねるから、それに答えなさい。20:4 ヨハネの洗礼は、天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。」20:5 彼らは相談した。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と言うだろう。20:6 『人からのものだ』と言えば、民衆はこぞって我々を石で殺すだろう。ヨハネを預言者だと信じ込んでいるのだから。」20:7 そこで彼らは、「どこからか、分からない」と答えた。20:8 すると、イエスは言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」

  この世の権威

 私たちの日常は権威に囲まれており、また自らある種の権威をもって生活しているものです。他人のことを言うよりは、まずは自分のことを言うべきでしょうけれども、私の今の日常生活の一面はリハビリ生活です。多くの仕事を辞めましたけれども、教会の仕事の合間にリハビリをしています。病気をする以前と、その点は全く違います。その中で感じることの一つは、医療が関係することでは医者が絶対的な権威者だということです。薬の出し入れにしろ何にしろ、医者が「〜〜しなさい」と言わなければ、看護師であれ薬剤師であれ、患者も介護する者も、良いと思うこともやってはいけません。それは病院でも自宅でも同じです。看護師や患者は、日常で見たり、感じたりすることを医者に告げることが仕事です。それを読んだり、聞いたり、患部を見たりしながら、自分の所見をまとめて処置をするのが医者の仕事です。他の者は、医者が自分の仕事をきちんと出来るようにすることが重要なのだと思います。そういう意味で、彼ら医者は、病院を初めとする医療現場では自由ですし、その場は彼らの力を発揮できる場所です。そうでなければ、彼らだけでなく、患者も困るのです。でも、医者がやたらと権威を振りかざす時、それは無用な権力になり、横柄にしか映らない場合もあるでしょう。そういう時は、必要な権威が困った権力になることもあります。権力と権威ではまるで違いますけれど、言葉だけでなく、よく似ています。
 学校教育現場でも、そういうことが見られる場合がしばしばあります。また、家庭の子どもに対しては、良くも悪くも母親が実権を握っており、父親が時に権威者ぶって出ていっても「時、既に遅し」ということもあります。体力的に子どもにはかなわなくなっていることもありますし、妻にも認められていなければ、子どもに認められるはずもありません。これは、もともと夫が妻を認めていないことに原因がある場合が多いのです。
 また、現在の夫婦や恋人同士であるカップルの五人に一人は、所謂DVの被害に遭っているというアンケート調査もあるようです。DV加害者は、昔は大体の場合は男でしたけれども、最近の報道によると女が加害者である場合も多いようです。女の場合は身体的な暴力よりも、相手に対して精神的暴力をふるい続ける精神的圧力が多いそうです。「それならその人から別れたり、逃げたりすれば良い」と思うこともありますが、実際には、二人は別れぬまま暴力が続く場合が多いようです。そこには、「支配と被支配の共依存関係」があるのかもしれません。男であれ女であれ、被害者にとって、相手は、「『加害者』と言うだけでは割り切れない何か」があるのでしょう。
 人間は誰しも、誰かに必要とされていると思いたい。そう思うことで生きていける、生きる意味を見出せる。そういうことがあると思います。それは、逆から言えば、「誰彼のことは私が一番分かっている。」「だから私は生きている意味がある」ということでもあります。どんなに苦しみに満ちていても、「この人には私が必要だ」「この人を理解できるのは私しかいない」。そう思うことによって、「私は生きていける」。そういうことがあるでしょう。それは、被害者は同時に加害者である場合もあるということでしょう。しかし、果たしてそうなのか?

  19章との関連

   この件についてはまだまだ言いたいのですが、この辺りでルカ福音書を読んでいきたいと思います。19章を読むと、「毎日、イエスは境内で教えておられた。祭司長、律法学者、民の指導者たちは、イエスを殺そうと謀った」とあります。何故、彼らが「イエスを殺そうと謀った」かと言えば、主イエスが所謂「宮清め」をして、その後、「民衆」らを教えたからです。
 どういうことかと言うと、神殿の境内で犠牲に捧げる動物を売っている商売人や、一般社会で使われるローマの貨幣(デナリ)を神殿に捧げるイスラエルの貨幣(シェケル)に換える両替商を、主イエスは「強盗」呼ばわりして追い出したのです。彼らはちゃんと祭司長らの許可をとっていたのですから、彼らを「強盗」呼ばわりしたとは、祭司長たちをも「強盗」呼ばわりしたということです。祭司長らにしてみれば、そんなことは、昨日今日エルサレム神殿にきた新参者に言われることではありません。神殿は、彼らの牙城であり、言ってみれば古い価値観の象徴みたいなところです。その価値観のピラミッドの頂点にいたのが彼らであり、彼らはそこでは「権威者」なのです。その場で彼らは力を持っており、自由に振舞え、人を支配できるのです。そして、当時のユダヤ人社会は神殿を中心とした祭政一致社会であり、言ってみれば祭司長らはその社会のトップだったのです。

  民衆

 そこで、神殿の権威者であった祭司長たちは、殺意を内に秘めつつ、主イエスの所にやってきました。彼らが来たのは、主イエスが民衆に「福音を告げ知らせて」おられた「ある日」のことであり、主イエスの日常のことです。
 彼らは、「何の権威でこのようなことをしているのか。その権威を与えたのはだれか」と問いました。「お前がそんなに自由に振舞える力を与えたのは誰か。ここは、私たちが力をもっている場所だ。その私たちには一言の断りもないのだが」と、脅しているのです。彼らがそうなる理由は、19章の終わりにあるように、民衆が皆、「夢中になってイエスの話に聞き入っていたから」です。まるで、主イエスが社会の中心であるかのように、です。それは、祭司長たちの許せることではありませんでした。それまで社会の頂点あるいは中心にいて民衆の心をつかんでいたのは、彼らだったからです。彼らの教えに従って生きていた民衆が、彼らから離れつつある。それも、商売人や両替商、そして彼らを利用する自分たちを含む人々を「強盗」呼ばわりするイエスという男に、民衆の気持ちが向きつつある。それは、祭司長らにとって耐え難いことでした。

  福音を告げ知らせ

 主イエスはこの時、いつもと同じように神殿の境内で民衆に「福音を告げ知らせておられ」(ユウアンゲリゾー)ました。「福音を告げ知らせておられ」は、注目しておいた方が良い言葉でしょう。というのは、クリスマスの夜、羊飼いたちに主イエスの誕生を告げる天使の言葉にこうあるからです。

 「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」(2章10節〜11節)

 「大きな喜びを告げる」が、原文では先ほどの「福音を告げ知らす」と同じ言葉です。神は、この日に新しい王、「主メシア」を立てたのです。言葉をかえて言えば、これまで人が見たことのない新しい「権威」を立てた、と天使は言っているのです。それが、当時、人の数にも数えられなかった羊飼いに、いの一番に告げられた「大きな喜び」であり、「救い主」が生まれたという知らせなのです。そこに神の「権威」があると言っているのです。
 ある神学者はこう言っていました。「神こそが自由なる主であり、私たちこそ僕である」。神とは聖なる方であり、そうであるからこそ「人間を罪から贖い、ご自分の民にするのである」(芳賀力『神学の小径U』346〜347頁)。
 神の権威、それは罪人の罪を赦し、ご自分の民にする所に完全に現れる。神の聖なる性質は、こういう所に現れる。この点が、私たちに分かっていないことだと思うのです。普通、聖い方(きよいかた)は自分と同じ聖い人を好むからです。聖い方が罪人の罪の汚れをその身に負う形で赦し、新しい聖さを創造まですることは通常あり得ないことだからです。

  「古いものの方がよい」

 「救い主」
の誕生、これは聞こえは良いのですけど、私たちはこういうことを歓迎しないものです。「古いぶどう酒を飲めば、だれも新しいものを欲しがらない。『古いものの方がよい』と言うのである」(5:39)と、あるところで主イエスは言っていますが、そういうものです。私たちは、何やかやと言っても慣れ親しんだものが好きなのです。現状が変わるのは好まない。まして自分の生活、自分自身をかえたくはないものです。
 ここで覚えておかねばならないこと、それは、主イエスの誕生は、「新しい王」、「新しい権威」の誕生だと言うことです。その王は、人の数にも数えられない羊飼いを、真っ先に神の国に招く王なのです。先ほどの神学者の言葉を使えば、「人間を罪から贖い、ご自分の民にする」王なのです。新しい人間を造り出す王なのです。そんな王はこれまでいません。その王の僕になるためには、古い自分に一旦死ななければなりません。でも、それが私たちには嫌なのです。だから、主イエスは人々に一時は歓迎されながら、次第に排斥され、ついに十字架に付けられたのです。でも、そこに神が立てた新しい「権威」があるのです。それは、死から命を呼び出す権威です。その権威に生きるためには、一旦死ななければならない。それ抜きに、新しくはなりようがありません。そこには、この世にはない「自由」や「力」が必要でしょう。

  彼らの問い 主イエスの問い

 主イエスが、その力や自由をもって神殿の境内で民衆に話している最中に、祭司長たちはやって来たのです。主イエスは今、彼らに殺意を抱かれ、謀略をかけられようとしている。彼らの狙いは、人々の前で主イエスの愚かさを露呈させ、今は夢中になって主イエスの話を聞いている「民衆」の気を引くことです。「やはり、イエスは祭司長らの権威にはかなわない」。そう思わせることです。彼らは、そのために躍起になっている。
 その彼らが逆に「ヨハネの洗礼は、天からのものだったか、それとも、人からのものだったか」と、主イエスに問われることになりました。これは、彼らには意外な問いでした。彼らは、私たち同様に水平にしかものを見ていないし、そのように生きているからです。しかし、主イエスは垂直の中で生きているのです。天からの指示に従って生きており、主イエスが発する言葉は天からのものだからです。それに従う時に、主イエスは地上の制約から自由にされ、その制約から解き放たれるのです。主イエスは、そういう意味で完全に自由でした。それが、祭司長ら自身も気づいていないけれど、彼らの癪に障るのです。主イエスは、自分たちにはない「自由」を生きており、自分たちが持ってはいない「力」を持っている。それが許せない。民衆も持つかもしれない。彼らは、実はそう思っているでしょう。私たちも、洗礼を受けてキリストに結ばれることを通して、この世から自由にされ、力を持って生きることが出来るようになります。

  洗礼とは

 洗礼は基本的に神が授けるものです。洗礼とは第一義的には「神」のものです。主イエスが、「ヨハネの洗礼は、天からのものだったか、人からのものだったか」とおっしゃったのは、「ヨハネの洗礼は神のものか、人のものか。神の権威を有しているものと、あなたがたは考えるか」と、訊いているのだと思います。
 でも、祭司長たちは、相変わらず水平の中を生きています。公私混同が指摘されているある知事の会見や答弁は、聞くに堪えないほどの言い訳に満ちており、どこまでも水平の世界で生き延びようとする姿が見える気がして、私は嫌になりました。でも、気持ちは分かります。私たちは誰だって、楽な道を選びとりたいものですから。

  祭司長らの答え

 祭司長らもそれは同じです。彼らは互いに相談して、「天からのものだ」と言えば、なぜ「ヨハネを信じなかったのか」と言われ、「人からのものだ」と言えば、ヨハネを神から送られた預言者だと信じている民衆に殺されることを恐れて、結局、「どこからか、分からない」と答えたのです。彼らはそういう人です。神の権威に従うことではなく、神殿に象徴される世界に権威者として生き続けること、それだけが彼らの目的なのです。それが分かったので、主イエスは「何の権威でこのようなことをしているのか、わたしも言うまい」と、おっしゃいました。これは痛切な言葉です。分かるでしょうか。

  「この世」と「神」

   問題は、この世の権威と神の権威です。これまで「古いと新しい」、「水平と垂直」と言ってきたことは、「神と人」と言って良いでしょう。私たち人間は、詩編によれば、神よりも少し低く造られただけだし、「コヘレトの言葉」によれば、永遠を思う心を与えられたものです。創世記によれば、禁断の木の実を食べてエデンの園から追放された存在です。それらに共通していることは、「本質的に神と人は違う。でも似ている。だから難しい」と言うことではないかと思うのです。人は神と似ている者だから善いことも出来るのですが、えてして私たち人間はその場の神になりたがるものです。今日の言葉を使えば、その場の「権威」を持ちたがる。でも、私たち人間の場合、その「権威」は限定的だし、何よりも「権力」になりがちです。「権力」とは、水平の世界、古い世界の中で自分の力に頼みながら自分だけ生き延びようとすることです。私たち人間の世界にはそれしかないから、その中で頑張るしかないのでしょう。そして、私たちはこの世にはびこる権力を適当に利用しながら生きていると思うのです。  最近、私はリハビリに来てくれる若い看護師に、「なぜこの仕事をするようになったのか」と訊きました。すると彼女は、親戚のお婆ちゃんや、お爺ちゃんが倒れて以後寝たきりになって、最後は肺炎で亡くなってしまった話をしてくれました。「私が生まれ育ったのは栃木の中でも田舎の方で、こういったリハビリの施設もなかったもので。その時、自分は高校生だったのですけれど、何にも言えなかったから」と言っていました。彼女は、講壇に上がる練習だとか、聖餐式の練習だとかを私と一緒にしながら、「聖餐式」とは漢字ではどう書くのですか?洗礼式とは?と質問したりしますから、水平の中に垂直が混ざっている、少なくともそのことを信じている人間がいると感じ始めているのかもしれません。
 そこで思い出したのですが、自分のことは滅多に話さないある牧師が、「世の中は年寄りに向って、やれゲートボールだ、カラオケだと死から目を背けることばかり言いたがる。しかし、年寄りにとっての問題は死だ。死んでも大丈夫だということを、ちゃんと言ってくれなくては困る」と、説教の中で言ったそうです。
 私たちが生きている世界、この世は、「年寄りにとっての問題は死だ」という言葉に一瞬は拍手するでしょう。しかし、程なく「古いものの方がよい」と言い始めるのです。「年寄りはそのうち死ぬなんて、そんな縁起でもないことを言うもんじゃない」「あの人は変わり者だ」と言い始めるのではないでしょうか。

  主 メシア

 主イエスが招いている世界は、そういう人々が支配する水平のこの世ではなく、垂直の「神の国」です。それは「この世」から見れば、全く新しいものなのです。当時、人の数にも数えられない羊飼いに天使が語った「福音」とは、神の子イエスが飼い葉桶の中の布にくるまれて寝ていることに、「神の国」は始まり、この方こそ「主メシア」「救い主」なのだということです。「人間を罪から贖い、ご自分の民にする」ということを、神はこの御子イエス・キリストを通してついに始められたのです。この方を通して、神は全く新しいことを始めた。神は、羊飼いを一人の人間として愛する。そこに「福音」があるのです。全世界の民が知るべき「喜ばしい知らせ」とは、そこにあるのです。
 ヨハネは、神の国の「福音」の備えをするために、神が選んだ人です。しかし、彼は領主ヘロデに殺されました。主イエスは、その「福音」をご自身の体をもって伝えるために、この世に来られたのです。その主イエスがこの世で行き着いたのは、十字架に磔にされて殺されることでした。十字架に磔にされながら、主イエスは、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と祈られたのです。
 自分が何をしているか分からない人間を赦す。禁断の木の実を食べた人間、永遠を思う心を与えられつつも永遠は分からない人間、神よりも少し低く造られたが故に神になりたがる人間を赦す権威、力、自由を、私たちは持っているでしょうか。こういう権威を持って口を開いているのでしょうか。そうではないと思います。私たちは、人間だからです。私たち自身が、神になりたがる人間だからです。しかし、主イエスはそういう人間の罪が赦されるために十字架に掛かって死に、復活されたのです。

  主イエスの招き

 そのようにして、イエス様は私たちを、「神の国」に招きます。神が与える「権威」で生きるように、と。それは口先の招きとは違います。私たちが、自分の罪の悔い改めをもってその招きに応えた時、私たちはこの世の力から解放されます。十字架のもとで、垂直の世界に生きる「力」と「自由」が与えられるからです。それは、今に生きる主イエスの霊である聖霊が与えられるからです。見た目も環境も、ほとんどの人の場合、変わらないでしょう。でも、見るもの聞くもの一切が変わるでしょう。愛おしくなるのです。イエス様は、その聖霊に支配された生へと私たちを招いておられる。
 イエス様は、私たちのことを愛してくださっているのです。その愛は、ご自身を十字架に捧げる愛です。そして、神様はそのイエス様を復活させ、私たちと共に生かしてくださいます。  その死を越えた愛によって、私たちは愛されている。それは、聖霊によってのみ知らされることです。私たちキリスト者は皆、聖霊を受けて「イエスは主である」と告白したのです。その「イエスは主である」という現実は、生と死を貫く現実です。

  私たちの頼むべき権威

 ただそこにのみ、私たちのより頼むべき「権威」、何ものを前にしても決して揺らぐことのない主イエス・キリストの「権威」があるのです。「人間を罪から贖い、ご自分の民にする」という神学者の言葉は、そういうことを言っているのです。これは、自分が愛しに愛した相手から「私はあの人のことは知らない」と言われても、「私はあなたを知っている。私はあなたを愛している。私を『知らない』というあなたの罪の赦しのために、私は十字架に掛かって死ぬ。そして、三日目に甦ってあなたと共に生きる。ここに私だけが持っている権威がある」と言うことであり、言った通りにイエス様は死に、そして復活したのです。そこに、私たちの主イエス・キリストの「権威」があるのです。
 私たちキリスト者は、信仰によってそのキリストと結ばれ、聖霊によりキリストの「権威」と共に生きるのです。それはどこまでも愛に生きるということです。時に、愛し得ない人をも愛して生きるのです。愛に生きるためです。その権威の僕となることが出来ますように。
 まだキリスト者になっていない方も、今日は何人もいらっしゃると思います。キリスト教に反発を感じていらっしゃる方も多いと思います。でも、愛に生きることに反対の方はいらっしゃらないでしょう。イエス・キリストの愛は、愛するに足る人にだけ向けられるものではなく、自分を愛する者だけに向けられるものではありません。大体、そんな人はいないのです。イエス・キリストの愛とは、相手が誰であっても悔い改め(方向転換)を迫り、イエス・キリストの愛を受け入れて、新しくなることを迫るのです。その愛は、十字架の死と復活に行き着きます。
 その愛を生きるところに得なことだけがあるのではありません。その逆の場合だって幾らでもある。でも、その愛の中にこそ権威があるのです。自由と力があるのです。本当の喜びがあるのです。キリストの権威だからです。どうか、そのキリストの権威を見つめつつ従う人になっていけますように。その時、この世の損得を越えた、真の権威の下に生きることになるのですから。

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