「生きている者の神」

及川 信

       ルカによる福音書 20章27節〜40節
   
20:27 さて、復活があることを否定するサドカイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに尋ねた。20:28 「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。20:29 ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、子がないまま死にました。20:30 次男、20:31 三男と次々にこの女を妻にしましたが、七人とも同じように子供を残さないで死にました。20:32 最後にその女も死にました。20:33 すると復活の時、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」20:34 イエスは言われた。「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、20:35 次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。20:36 この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。20:37 死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。20:38 神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」20:39 そこで、律法学者の中には、「先生、立派なお答えです」と言う者もいた。20:40 彼らは、もはや何もあえて尋ねようとはしなかった。

   昭和


 最近妻と話していて自分で言いながら「そうだな」と思ったのは、「昭和」という言葉は、いつの間にか「古き良き時代」を表す言葉なんだなということです。「昭和の風景だね」と言えば「昔の懐かしい風景」と言う意味だし、「昭和の味だね」と言えば、「古き良き味」として、ケチャップだけとかソースだけの味付けのスパゲッティなどが出てきます。「昭和」と言っても、それは戦後のことで、「戦前」となれば、それは「時代」を超えて、たまに思い出すべき「歴史」という感じがします。
 時代とか歴史の話と言えば、今の天皇が、「象徴天皇」の職務を果たすために「生前退位」の希望を持っているという報道もありました。でも、大喪の礼とか大嘗祭とかをやって天皇を現人神(あらひとがみ)にして、戦前のような宗教を作り出し、天皇を政治利用したい人たちにとって、生前退位とはとんでもないことです。その人たちにとっては、天皇は黙って死んでもらうのが一番だし、新しい元号のもと新しい時代にふさわしい「自主憲法」などに備えていくのだろうと思います。

  冥土?唯物論?

 そう言えば、今月は、戦後のラジオやテレビ番組のパイオニア的存在の二人の芸能人が立て続けに死にました。その報道においても「昭和を代表する」という言葉が何度も使われていましたけれど、その内の一人が「俺は唯物論者だから死ぬことに文句はない。誰だって死ぬんだから。だから生きている時に精一杯のことをするんだ」と言っていました。私は「なるほどな」と思いました。でも、「俺は唯物論者だ」というのは日本人では珍しいかもしれません。日本人の多くは、死んだら「千の風」になってお墓の周りを初めとして、そこら中を自由に飛び回っているのかも知れないし、お盆と正月以外は歳をとらずに冥土に暮らしているのかもしれません。いずれにしろ、それは私たちには分からないのではないでしょうか。今言ったことは、勝手な想像だと言うべきでしょう。

  私たちにとっての天国

 キリスと教の葬儀などに出ても感じるのですが、亡くなった先生はそのままの姿でいて、天国から私たちを見守ってくれる。そして、私たちも天国に行ったときに、「やあやあ、よく来た」と言って迎えてくれると思っている。あるいは、死んだおばあちゃんは、おじいちゃんが来るのをお茶を入れながら待っている。大体、そんなことを考えているのです。
 自分が死んだ時に、その「先生」や「おばあちゃん」の歳を超えていたらどうするの?その時は寝たきりで右も左も分からない老人だったらどうするの?と考えないではないのですけれど、私たちの「天国」は大体自分中心なのです。おばあちゃんにも母親とか祖母とかがいるのだし、生き別れた人だっているのだし、色々ある訳です。それらすべてを捨象して、私たちキリスト者も自分に都合の良い「天国」を勝手に思い浮かべている。そうではないでしょうか。
 ある神学者は、「死んだら天国で、私は母親に会えますよね」とある婦人からしつこく訊かれた時、「会えます。でも、あなたはあなたの会いたくない人とも会います」と答えたそうです。この答えは意味深です。皆さんはどう考えるでしょうか。私は、「死んだ後、最も会いたくない人に今の私は会えるのか?!」と考えることがあります。そしてその時、偉そうなことを言っている自分が見事に打ち砕かれるのです。

  私たちにとって「分からないこと」

 それにしても、私たち人間は「分からないこと」を嫌うものです。それがあるから所謂「進歩」もしているのですけれど、どんなにひっくり返っても私たちにとって分からないのは死後のことです。死後はどうなっているのか、死後の世界はあるのか、ないのか。あるとして、人間は死後すぐに甦るのか、それとも終末の時に一斉に甦るのか。聖書もその点では色々な書き方をしていると思います。
 唯物論者は、死後の世界は考えず、生きている時がすべてだと考えます。死んだ人間は無になると考える。でも、 
 死の直前のことは誰にも分かりません。死の直前に信仰を告白したとか若き日の信仰に立ち返ったという話はよく聞きますし、何も喋れなくとも神様と和解していることだってあるでしょうし、その逆もあるでしょう。誰も、本人でさえも生の最期の時のことは分からないのです。まして死後のことは、誰もが想像するしかありません。その時、元気なころに言っていたことは、一つの参考に過ぎず、私たちは分かったようなことを言いながら、ただ私たちの「不安」を取り去っている時がしばしばあるものです。


 皆さんの中にご記憶の方もおられるかと思いますけれども、私が六月までの礼拝の「招詞」としたのは「神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる」というコヘレトの言葉でした。しかし、その直後にあるのはこういう言葉です。「それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない」。つまり人間には「永遠」を思う心が与えられているけれど、「永遠」は分からないということです。その直前には「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。生まれる時、死ぬ時」という言葉があります。私たち人間は、神の定めた時の中を生きているに過ぎません。誰も自分の生まれた時を知らないし、死ぬ時も知らないのです。しかし、私たちは「自分の人生だ」とわがもの顔に生きているものです。人生に責任を持つことと所有することは全く違います。

  今日の箇所

 ここで、今日の箇所がこの位置にあることの意味が分かります。
 私たちは、本来自分の物ではないぶどう園を自分の物にしようとするのです。権力をもって自分の物にしようとする。そのぶどう園の譬えが神殿を我が物とする「権威」と、ローマ皇帝に対する「納税」と関連し、今日の「復活」に関連します。元来神のものである神殿や命すらも我が物にしようとする私たちに、主イエスは語っているのです。もちろん、福音書の文脈の中では、聞き手は律法学者や祭司長、それに民の指導者であり、今日のサドカイ派の人々ですが、彼らはいつでも民衆を利用しつつも恐れており、付かず離れずの関係を生きているのです。それは9節や19節を見れば明らかです。彼らは皆、本来自分のものではないものを、自分のものにしているのです。しかし、彼らは人間の死後の世界に関しては意見が対立していました。私たちも同様です。

  サドカイ派

 「サドカイ派の人々」とは、ルカ福音書ではここにしか出てこないので、どういう人か分かり難いのですけれども、エルサレム神殿の祭司階級や、保守的な貴族階級に属している人々のようです。ローマの支配も、自分たちの支配体制さえ壊さなければ文句は言わない。民衆も神殿税さえ納めていれば良いということでしょう。そして、神の言はモーセが書いたとされる「モーセ五書」、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記だけを認める。そこに記されていないから復活は認めない。そういう人々のようです。庶民からなるファリサイ派の人とはことごとく対立している人々です。しかし、イエスという男が打ち負かすべき敵であるとする点では同じなのです。

  彼らの問い

 その彼らが、長男が結婚して子を残さず死んだ場合の、現実にはあり得ないことを、主イエスに吹っ掛けるのです。背景にあるのはレビラート婚と呼ばれる申命記の25章です。少し飛ばしながら読みますけれど、そこにはこうあります。

 兄弟が共に暮らしていて、そのうちの一人が子供を残さずに死んだならば、(中略)亡夫の兄弟が彼女のところに入り、(中略)彼女の産んだ長子に死んだ兄弟の名を継がせ、その名がイスラエルの中から絶えないようにしなければならない。

 生まれるのが男とは限らないだろうと思うのですけれど、それは置いておいて、男の子を残さずに死んでしまった長男の責任は次男がとり、長男の嫁が産んだ子に長男の名をつけ長男の名を残さねばならないと申命記は言っているのです。問題は、長男の「名」と同時に「土地」の問題のような気がするのです。しかし、サドカイ派の人は、問題をすり替えます。彼らは、息子を残すことなく結婚とほぼ同時に死んだ七番目の息子とまで長男の嫁は結婚した。しかしついに、その女も死んでしまった。復活があるとすれば、元々長男の嫁だった女は「だれの妻になるのでしょうか」と、主イエスに言うのです。もちろんこれは、実現はほぼ不可能なことであり、人間の復活を否定するための議論のための議論です。

  かの世の結婚

 主イエスは、例によって彼らの「たくらみを見抜いて」「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない」と、言いました。言わなくても分かると思います。結婚は、この世の秩序なのです。
 先日、四人だか五人の美女を連れたメキシコ人の母親が関西空港にいましたが、皆父親は違うそうです。「YOUは何しに日本へ」というテレビ番組でしたけど、彼らは観光に来たそうです。そして母親は「そろそろ日本人の旦那が欲しいわ」とかおっしゃっていました。色々言いたいことがないわけではありませんが、こんな例を出すまでもなく、結婚とはこの世の秩序であることに間違いはありません。
 「次の世」とは「この世」に対する「かの世」です。そこで嫁ぐことも死ぬこともない「死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々」とは、最早「死ぬことがない天使に等しい者」「神の子」とも言われますけれども、誰がそうなるかは、私たちが決めることではありません。主イエス・キリストの父なる神が決めることなのです。

  私たちにとっての救い

 そこで、「救い」について少し考えていきたいのです。私たちキリスト者は自分の「救い」の体験を何と言うのでしょうか。文字通り「救われた」という場合があります。しかし、その「救い」は「この世」の中に留まることなのか、それとも「かの世」に入り込むことなのか。「この世」から始まって「かの世」に続くことなのか。それが良く分からないのです。また、救いの体験を「新しい命を与えられた」とか「永遠の命を与えられた」とか言う場合もあります。しかし、その「命」と、私たちが今生きている肉体の「命」との関係はどうなるのでしょうか。その辺りは、混在していると思います。ある意味では「それで良い」とも言えるのですが、ある意味では「それでは困る」と言わねばならぬことです。


 それではどうなるのか。思い出して頂きたいのですけれど、洗礼式の時に私が必ず読むのはローマの信徒への手紙6章3節〜4節です。少し長いのですが引用しておきます。

 それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。

 洗礼を受けるとは、キリストに繋がることです。それは、キリストと共にそれまでの自分の命に死ぬことであり、キリストの御父の栄光によってキリストが死者の中から復活させられたように、私たちも「新しい命」に新たに生きるということです。この「新しい命」はこの世において既に始まり、肉体の死を超えて復活の日まで続くのです。そういう意味で、見える形では来ない「神の国」と同じなのです。神の国は既にこの世に来たのだけれど、完成は世の終わりの日なのですから。
 私たちはキリストと出会い、聖霊によって「イエスは主である」と告白を開始したのです。その時、私たちのそれまでの命はキリスト共に葬られ、その死に与り、世の終わりの復活に向けて「新しい命」をもって新たに歩み出したのです。

  主イエスに繋がる

 主イエスは「死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している」と、言われます。細かいことを言うようですが、この場合の「復活」(エゲイロウ)は、これまでの「復活」(アタナシオス)と日本語の言葉は同じですけれど、原文では「死人の中から立ち上がる」という意味での復活で、どちらかと言うと死者の国を前提にしていると思います。新約的な意味で言えば、キリストに結ばれた者は死者の中から復活させられ、そこで生きているということです。「モーセも『柴』の箇所で」云々という記事は出エジプト記3章の記事ですけれど、主イエスにとってアブラハム、イサク、ヤコブたちは過去の時代とか歴史上の人物ではないのです。この世において死んだことは確かなのですから、「この世」と「かの世」と場は違いますけれど、彼らも今生きている人なのです。それは彼らも、今生きる神である「主」と信仰において繋がっているからです。その「主」とは、私たちが信じている「主」です。死して後、復活し、天に上げられ、聖霊に於いてこの世に生きつつ、世の終わりの日に神の国を完成するために、天にいます神の右の座からやって来る「主」です。
 そこで問題になるのは、38節の「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである」という主イエスの言葉です。前半は、「神」という言葉に関係しますけれども、聖書において神は永遠だし、その神と信仰による交わりを持った者の命は永遠なのです。その者の肉体の命は滅んでも、永遠に生き給う神との交わりを信仰において生きる命は死んではいないのです。

  すべての人

 先週の礼拝の後に、私は、ある方からいきなり「息子は神のものですよね?!」と訊かれたというか言われました。私は思わず「そうですとも」と答えたのです。
 私たちは誰だって洗礼を今はまだ受けていない家族を持っているし、洗礼を受けた後に教会を離れた家族や親族を持っているのです。
 問題は「すべての人」をどう解釈するかですけれども、先日たまたま読んでいた本にこういうことが書いてありました。

 「キリストは単に信仰者にとっての主ではない。信者であれ未信者であれ、キリスト者であれ非キリスト者であれ、知っているか知っていないかは別として、万物の隠れた根拠はキリストである」。
 「やがてそのことが万人にも分かる日が来るであろう。信仰はそのことを先取りする認識である。キリスト信仰が骨抜きになる万物再興説が言われているのではない。ただ恵の選びを人間が限定することのできない、キリストの恩寵の広大無辺さを述べているのである」。 (芳賀力著『神学の小径V』178,179頁)

 これは唯物論者が読めば腸が煮えくりかえるような文章ですけれど、今の私にはそう思うしかない文章です。ある人は、「次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々」こそ「すべての人」であると解釈します。つまり、主イエスに「かの世で復活する」と選ばれた人です。他の人は、地上に生きる「すべての人」と解します。誰であってもということです。
 でも、私は両方だと思います。何故なら、キリストこそ万物の隠れた根拠だからです。人間の最後のことは誰も分からないし、その先のことはさらに分からないからです。そういう意味で、誰も彼もキリストのもの、神のもの、は正しいのです。しかし、信仰者は「そのことを先取りして認識」しているのです。先取りして認識しているだけだ、とも言えます。

  神によって生きている

 問題は、後半の文章です。「すべての人は、神によって生きているからである」は、あくまでも新共同訳聖書の解釈です。口語訳聖書では「人はみな神に生きるものだからである」と、なっています。新改訳聖書では「というのは、神に対しては、みなが生きているからです」となっている。どうとでも訳せるのでしょうが、原文の直訳は「というのは、皆が彼に(神に)向かって生きている」というものです。そういう意味では口語訳が近いのかなと思いますけれど、そのことを考えるために、ローマの信徒への手紙の6章10節11節を読んでおこうと思います。先ほど読んだ個所の少し先ですけれども、そこにはこうあります。

 キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。

 ここには「神に対して生きている」が二度も出てきます。そうなるために、イエス・キリストが、私たちの罪をすべて背負ってくださったということです。その罪に対する神の裁きを、キリストが私たちの代わりに十字架の死によって受けてくださったということです。そして復活して罪の贖い主として私たちと新たに出会ってくださった。そのようにして、キリストは「神に対して生きる」なんて分からなかった私たちを、「神に対して生きる」者にしてくださったのです。キリスト者は、神の恵によって「イエスは主である」と告白することが出来るようになったからです。聖霊を与えられて、信仰の告白を与えられたのです。私たちがそうなったのは、ただ恵によって「キリスト・イエスに結ばれた」からです。信仰によって結ばれたのです。つまり霊によって結ばれた。広大無辺な神の選びによって私たちはキリスト・イエスに結ばれたのです。ただそのことによって、この命この人生は本来神のものであることを知り、自分に対してだけ生きていた者が「神に対して生きる」者になったのです。神を知っている、知っていないに関わらず、人間は本来神に向かって生きるべきなのです。その中で私たち信仰者は、聖霊によって信仰を与えられ、キリスト・イエスに結ばれた者として「神に生きる」者、「神に対して生きる」者とされたのです。

  立派なお答えです

 そして、最後の文章です。多分、民衆の中にいた「律法学者」はファリサイ派の人でしょうが、「先生、立派なお答えです」と言い、サドカイ派の人を主イエスがやっつけたことに快哉の声を上げたのでしょう。しかし、自分たちの質問に対しても主イエスは言葉じりを取らせることがないことを思い出し、「彼らは、もはや何もあえて尋ねようとはしなかった」のです。しかし、それで彼らが、主イエスをローマ総督に対する反逆者としてピラトのところに突き出すことを諦めたわけではありません。それは、この先を読めば明らかです。

  キリストと共に生きる

   私たちキリスト者は、神の独り子、キリスト・イエスによって、「神に対して生きる」者にされたのです。信仰によってキリスト・イエスに結ばれたのです。そのことによって、この世にある時既に「新しい命」、「永遠の命」に生かされ、「救われた」のです。私たちの努力によって「キリスト者になった」訳ではありません。神の恵によってしていただいたのです。今日は、そのことだけを覚えてお帰りください。
 最後にパウロの言葉を読んで終わります。

 わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。  

 私たちは、キリストと共に新しく生まれ変わったのですから、今日から始まる日々もそういう日々でありますように。その時、私たちは永遠に神に対して生きる者なのですから。

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