「主、ダビデの子、メシア」

及川 信

       ルカによる福音書 20章41節〜47節
   
20:41 イエスは彼らに言われた。「どうして人々は、『メシアはダビデの子だ』と言うのか。20:42 ダビデ自身が詩編の中で言っている。『主は、わたしの主にお告げになった。
「わたしの右の座に着きなさい。
20:43 わたしがあなたの敵を
あなたの足台とするときまで」と。』
20:44 このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか。」
20:45 民衆が皆聞いているとき、イエスは弟子たちに言われた。20:46 「律法学者に気をつけなさい。彼らは長い衣をまとって歩き回りたがり、また、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを好む。20:47 そして、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。

  人とは

 病気をしてからは入院やリハビリなどで忙しく、映画は全く見ていないのですけれど、新聞やテレビの映画の広告や映画評などは関心をもってよく見ます。その中で、「未来の人間対〜〜」が戦う映画のようですけれども、キャッチコピーが「最後の敵は神」というものがありました。「最後の敵は神」という言葉を聞きながら、またもや人間に関していろいろと思いました。しかしそれは私だけのことではないでしょう。たまたま少しずつ読んでいた本の一〇章の題が「人間、この未知なるもの」で、ある神学者は「人間は定義され得ない」と記したようです。私も同感します。
 以前の説教で、私は、永遠を思う心を人間は神に授けられながら、永遠は人間には分からないというコヘレトの書の言葉や、人間は神にかたどられ神に似せて造られたという創世記1章の言葉を引用しつつ、人間は神の願ったことを実施することが出来ないことを語りました。
 今日は、詩編8編の言葉を引用したいと思います。それはこういうものです。

 人の子は何ものなのでしょう
あなたが顧みてくださるとは。
神に僅かに劣るものとして人を造り
なお、栄光と威光を冠としていただかせ
御手によって造られたものをすべて治めるよう に
その足もとに置かれました。
(詩編8編5節〜7節)

 神は、人間をご自身よりも僅かに低く造り、人間に「御手によって造られたものをすべて治めるように、その足もとに置かれ」たのです。被造物の支配を神は人間に任されたということです。しかし、そこで間違ってはならないのは、神は被造物を人間に与えたのではなく、その「支配の仕方」を人間に任されたということです。つまり、被造物は神からの借り物であって人間の所有物ではない、ということです。借り物に対する「責任」と借り物を「所有」することとは、まったく違います。しかし、私たち人間は何もかも自分の物にしたがります。つまり、私たちは神になりたがるのです。

  すべてを自分のものにしようとする人間

 今日の話の前にありました、神殿の境内を自由に使える権威だとか、ローマ皇帝に服従することの徴に税金を払うか否か、人間には死後の世界があり、そこで人間は復活するのかどうかということは、もろにその問題と関係します。もちろん、福音書の文脈では祭司長や律法学者や民の指導者、正しい人を装う回し者、復活を否定するサドカイ派の人たちが、主イエスに対する直接の聞き手なのです。しかし、彼らは絶えず「民衆」と共におり、彼らを利用しながら、彼らを恐れていることが分かりますし、今日の箇所には「民衆」の中に「弟子たち」がいたことも分かります。つまり、誰も彼も「民衆」の中にはいるのです。
 その権威、税、復活の話の中間に、「僕」を痛めつけたり「跡取り息子」を殺したりして、本来は自分の物ではない「ぶどう園」を自分のものにしてしまう農夫たちの譬話を、主イエスは入れます。結局はすべてを自分のものにしようとする人間の姿を示しているのです。しかしそれは、逆から見れば、人間は神をどのように考えているか、だと思うのです。最後の敵として神を「殺してしまえ」と考えているか否かです。問題は、そのように神を亡き者にし得るかなのですが、定義し得ないのは人間だけではなく、実は、神も分からないのです。

  神は見えない

 先日、ブラジルのサンパウロ郊外にある密儀宗教のテレビ番組を見ましたけど、そこにはヨーロッパの白人に無理矢理連れてこられたアフリカの奴隷や、キリスト教にも起源するであろう様々な偶像が置かれていました。そこは色々な人が来る所です。夫が浮気をしている人だとか、両親が子どもへの教育の責任を放棄し、ぐれにぐれた子供と祖母とか、とにかく色々です。そして、少なくともテレビカメラの前で人々が「私に必要だ」と口にするものは「愛」なのです。皆が口々に「私が求めるのは愛だ」と言う。夫からの愛、夫への愛、家族からの愛、家族への愛、恋人からの愛、恋人への愛。それが時に、豚の頭などの犠牲を伴う邪魔者への呪いになります。そこには、ある種のいかがわしさがあると思います。
 でも、私たち人間に必要なものは「愛」であることは正しいのではないでしょうか。それは変わりありません。私たちにも神は見えず、そのお考えは俄かには分からない。その点も変わりはないのです。私たちの中の愛は枯渇しますし、愛が欲しくても誰に頼んだらよいか分からないのです。神は見えないからです。

  ダビデの子?

 先程、ここでの問題は結局、「人間は神をどのように考えているか」なのだと言いました。少なくとも、主イエスはそう見たのです。そして、前回までで人からの問いは終わり、今日の箇所から主イエスの問いが始まります。
 その第一声に「どうして人々は,『メシアはダビデの子だ』と言うのか」と、主イエスは言われます。それは最後の44節でも繰り返されます。要するに、「メシアとはどういう存在なのか」ということです。その件に関して、「人々」の中では大差ないということでしょう。「彼ら」とか「人々」という言葉は、その事を表していると思います。
 しかし、「どうして」という訳は誤解を生むと思います。これは「どのようにして」、あるいは「どういう意味で」という意味です。人々は「メシア」「ダビでの子」の関係を分かっているのか、と主イエスは尋ねているのです。
 「ダビデの子」の一つの意味は、ダビデの家系に属するという意味です。イエス様の育ての父であるヨセフがダビデの家系に属し、そういう意味でダビデの子孫であることはルカ福音書の前提です。ヨセフの子とみられていたイエス様も、ダビデの子孫となります。しかし、「ダビデの子」にはそういう家系的な意味だけでなく、政治的、民族的な「救い主」、「メシア」、「王」という意味もありました。つまり、当時の人々のイメージの中にあったダビデ王のように、異邦人を追い出して、ユダヤ民族の国を作り上げてくれる「王、「メシア」です。イエス様にそういう期待をする人々もいたのです。しかし、イエス様はそういう「王」、「メシア」ではありません。イエス様は、人々が期待するような「王」や「メシア」ではなく、何かの肩書に入り切ってしまう方ではないのです。それでは、イエス様はどういう方なのか?それが問題になります。

  主 わたしの主

   そこで主イエスは詩編110編を引用されます。当時、「詩編はダビデの作だ」と言われていたので、「ダビデ自身が詩編の中で言っている」と、主イエスは言うのですけれども、こう言われます。

 「主は、わたしの主にお告げになった。,br> 『わたしの右の座に着きなさい。
わたしがあなたの敵を
あなたの足台とするときまで』と。」

 この場合、最初の「主」は冠詞付きのキュリオス、主、主人です。それは、「神」を表します。次の「わたしの主」は冠詞のないキュリオスですけれど、後の文書を見るまでもなく、「メシア」「救い主」のことで、ギリシア語で言えばキリスト(クリスト)のことです。「わたしの」は「ダビデの」ということですから、「ダビデがメシアを主と呼んでいる」となるのです。つまり、二番目の「主」「メシア」と同じです。
 これまで言ってきたことでも明らかなように、「メシア」は元来人間なのです。しかし、ここでは、「メシア」「主」です。でも「主」、それも冠詞付きのものは「神」なのです。マリアに対する天使の言葉の中に、「神である主は」という言葉があります。ここでは「主」「神」です。「主」は人間なのか、神なのか。そういう二者択一的な問いが間違っているのか。

  ニケア信条

 そこで、今日も「讃美歌21」にも出ているニケア信条を見ておこうと思います。そこでは、主イエス・キリストに対してこう告白しています。

 「主は神の御子、御ひとり子であって、(中略)真の神からの真の神、(中略)主は人間である私たちのために、(中略)天からくだり、人となり云々」。
 主イエス・キリストは、この世の誰とも違って、「真の神でありつつ真の人」なのです。元々の居場所も天です。つまり、神の御許です。だから「主」という呼び方も「ダビデの子」「メシア」も、主イエスの登場によってその意味が変わってくるのであって、当時の誰も分からないのは無理もありません。祭司長たちや復活を否定するサドカイ派、主イエスの弟子たちや民衆が、主イエスは誰であるのかが分からないのは無理のないことなのです。

<   キリストの敵は?

 ここでもう一つ注目しておかねばならぬことは、コリントの信徒への手紙一の第15章でパウロが復活について論じている言葉です。そこで彼はこう言っています。

 「キリストはすべての敵を御自分の足の下に置くまで、国を支配されることになっているからです。最後の敵として、死が滅ぼされます。『神は、すべてをその足の下に服従させた』からです」(コリントの信徒への手紙一 15章25節)

 何を言いたいかと言うと、キリストにとって「最後の敵は神」ではないということです。キリストの最大の敵は、私たち人間を支配している罪であり、その結果である死なのです。つまり、真の人でもあるイエス・キリストにとって戦うべき敵は、私たちがすべてを我が物とするために、いつしか神を敵としてしまうことなのです。そして、罪と死に勝利するのは神しかいないのです。私たちにとって、人間の罪や死を敵とする神であり人である「メシア」など想像すら出来ないものなのですから、イエス様が誰であるか分からなくても無理もないことです。
 イエス様は、「このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアなのか」と言われます。つまり、「ダビデがメシアを我が主と呼んでいるのだから、メシアはダビデの子孫ではあり得ないし、所謂メシアでもないだろう」ということです。彼は、それまで人々が呼んでいたような「主」でも「メシア」でもなく、人々を神から遠ざける罪と死を滅ぼすために天から来た独り子、「真の神、真の人」である、「主メシア」だと言っているのです。

  主メシア

 私たちは、「主メシア」という言葉は聞き覚えがあるのではないでしょうか。ダビデが生まれたという意味で「ダビデの町」と呼ばれたベツレヘムの町で主イエスがお生まれになった時、天使は羊飼いたちにこう言いました。

 「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」(ルカによる福音書2章10節〜11節)

 「主メシア」という言葉がここに出てきます。そのしるしが飼い葉桶に寝かされている赤ん坊にある、と天使は言うのです。人間が寝る所ではない飼い葉桶に寝かされている赤ん坊、その赤ん坊とメシアの関係は、当時誰も分かりませんでした。マリアと羊飼いが心に留めたくらいです。それは無理もないことです。

    聖霊と使徒の証言

 でも、ルカはこの福音書を書いた後、続編と言うべき使徒言行録を書きました。ペトロを初めとする弟子たちは、イエス様の十字架の死を知って絶望しました。最後に勝つのは死なのだと知ったからです。そして、イエス様は自分たちが期待したメシアではないと知ったからです。でも、イエス様は復活しました。そのイエス様の復活を目の当たりにしても、彼らにはイエス様が「主メシア」であるとは分かりませんでしたし、昇天を目の当たりにしても分かりませんでした。でも、彼らはイエス様に言われた通り、エルサレムで祈って待っていたのです。そして、ちょうど復活から五十日目の日、ユダヤ人にとっては過越祭の後の五旬祭で多くの人が都エルサレムに集まっている日、彼らの上に「聖霊」が降ったのです。その時、初めて彼らも分かったのです。イエス様が「真の人であり真の神である」こと、これまで誰も聞いたことがない意味で「主メシア」であることの意味が。つまり、天使の言葉の意味が分かったのです。そして、人間に向かって彼らは説教をしだしたのです。
 「聖霊」は何よりも主イエスは誰であるかの証言を生み出し、礼拝共同体である教会を生み出します。
 ペトロは言いました。「ダビデは人間であるから死んで墓がある。しかし、神はイエス・キリストを復活させ、ご自身の右に挙げられ、聖霊を弟子たちに注いでくださった」と。その聖霊に導かれた説教の最後で、彼はこう言うのです。そこにも今日の箇所が出てきます。

   主は、わたしの主にお告げになった。
「わたしの右の座に着け。
わたしがあなたの敵を
あなたの足台とするときまで。」
だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。
(使徒言行録2章34節〜36節)

 人はイエス様を殺したけれど、神様はそのイエス様を復活させて完全な意味で「主」とし、全く新しい意味で「メシア」となさったのです。イエス様を復活させ、弟子たちに現し、ご自身の右に座らせ、弟子たちに聖霊を注いでくださったのです。それによって、ペトロを初めとした弟子たちは、イエス様が誰なのか分かったのです。そして、イエス様が、本来は私たちの敵である罪と死を滅ぼした「主メシア」であると言えるようになったのです。神は、イエス・キリストの十字架の死と復活の命において、神様との愛と信頼の交流を妨げる罪と死を敵として滅ぼしてくださったことを知ったのです。その時、彼らは新しい命を生き始めたのです。そして、聖霊の励ましを受けて私たちは、ペトロと同じく「イエス様こそ、我が主、メシアです」と証言するようになったのです。私たちは、聖霊と教会によって世々の聖徒たちと同じくキリスト者になったのですから。そして、私は牧師になった。

  問題はそこから

 しかし、問題はそこから始まります。ルカがこの福音書を書いた時期は、最初の弟子はいなくなり、「教会」と呼ばれるものが各地に誕生したころでしょう。その当時の教会の指導者は、いわゆる「弟子たち」でした。もちろん、肉体をもって地上を生きていた主イエスの初代の「弟子たち」ではなく、二代目三代目の弟子たちです。でも、それが教会の中では、ユダヤ教の律法学者と同じ地位を持っていたのです。
 話は変わるようですけれども、私は、6月26日に山梨教会の礼拝に説教に行かせていただき、午後は教会員の皆様と懇談しました。先ほど挙げたニケア信条は山梨教会の礼拝で月に一回告白しているものでした。私は以前から、使徒信条だけでなくニケア信条も、日本基督教団の教会が「基本信条」としていることの意味を考えていましたから、説教でも積極的に引用しているのです。
 ついでに言っておくと、7月31日の朝夕の礼拝後に報告はしておきましたけれど、7月24日の山梨教会の臨時総会で「2017年4月1日からの及川信牧師招聘」が決まり、先日「招聘状」が届き、私が受諾状を出したので、2017年度から私は山梨教会の牧師になります。今は残りの期間、中渋谷教会で精一杯の仕事をしようとして私なりに頑張っています。
 それはともかく、6月末の懇談の席で会員の一人ひとりが自己紹介と思うところを語ってくださいました。その時、私の隣で司会を務めてくださった方が、何度も小声で「あの方も学校の先生です」と、少し恐縮したように私におっしゃるので、「教会の中では、『先生』は牧師だけにしておいた方が良い」というようなことを、思わず言いました。前の任地である松本の教会も、赴任した当時は会員の大半が教師出身でしたから、お互いを「〜先生」と呼ぶのが普通でした。でも、それでは新来者は困りますし、「先生」とは「先に生きている」と書きますし、何でも知っているという感じがして、当時の私もそう呼ばれるのが嫌でしたので、なるべく変えてもらいました。
 私は個人的には「〜牧師」という職務名が一番相応しいと思い、講壇の上ではお祈りの時なども「先生」と言わないように長老たちには言ってあります。教会の会員の皆様がする献金のお祈りも、「敬愛する〜先生」という言い方は止めてもらいました。

  弟子たち

 しかし、どんな組織でも専門家は必要だし、その技術なり言葉が必要です。主イエスが生きた祭政一致の社会もある面ではそうでしょう。当時は「聖書の律法のことはよく知っている」、「〜先生に習った」ということが、幅を利かせていただろうと思います。それは現代社会にも通じます。彼らはそれを良いことに、次第に人からの歓心を買うことに腐心し始めたのです。ファリサイ派や彼らを気にした民衆を指した主イエスの言葉に、「彼らは、神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだのである」(ヨハネ12章43節)という言葉がありますけれど、現代もそういうことだらけだと思います。私なども、神の方を向いて仕事をしているのか、人の方なのか分からない面があるし、律法学者を笑えない面がたくさんあるのです。当時の教会の指導者になっていた「弟子たち」もそうではなかったかと思います。「民衆が皆聞いているとき、イエスは弟子たちに言われた」とは、そういう意味でしょう。その後の文章は、読んで字のごとくです。受けた恵が大きければ、与えられる裁きも大きいのです。

  やもめ

 次回は,「やもめ」の献金が問題になっていますけれども、律法学者が長い衣をまとって広場を歩き回りたがったり、「会堂では上席、宴会では上座」を好んだり「やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする」ことは、当時の人々に良く知られていたようです。
 「律法学者は今日で言えば法律に詳しい弁護士である」と、ある人は言っていました。夫との死別をしたやもめは、土地の割り当てもなく、明日食べることにも苦労するかもしれないのです。だから律法は「周囲の皆が、残されたやもめのことを思いやれ」と、言っている。しかし、律法学者は見せかけだけの長い祈りをしながら、結局、やもめの家を食い物にしている。葬儀の時に、物知り顔に儀礼的な行為を見るとげんなりすることがたまにありますが、専門家とはそういう人間になりがちなのです。自分を顧みて背筋が寒くなる思いがしますけれども、誰しも自戒すべきだと思います。主イエスは、「キリスト者なら安心だ」などとは決して言われないのです。弟子たちだって危ういのです。そのことを誰しも己が腹に明記しておく必要があるでしょう。

  私たちの本当の敵

 私たち人間は誰しも水平の世界に生きており、その中で、何でも自分のものにしようとしています。神殿の境内や税金や復活に象徴されることも、みな自分のものにしようとするのです。そして「最後の敵は神」なのです。貸し与えられた「ぶどう園」の行き着く先は「自分の命」であり、「自分の人生」なのです。それは逆から言えば、真の神であり真の人である「主メシア」を抹殺して、自分たちが理解可能な人間にしてしまうことです。メシアを、人間であるダビデの子孫にしてしまうとはそういうことです。それは一種の破壊であり、本来神のものを、人間がその能力で受け入れ可能なものにしてしまうことです。
 洗礼を受けてキリスト者になるということは、聖霊なる神を信じ受け入れて、神の御子イエス・キリストを、「真の神、真の人」、そういう意味で「救い主」、「メシア」として信じ受け入れることです。ニケア信条の言葉を使うまでもなく、神の独り子であるイエス・キリストは、私たちの最大にして最後の敵である罪と死に、十字架の死、復活の命、昇天、神の右に座すこと、そして聖霊によって打ち勝つために、人となってくださったのです。そのことを信じる。それは理性では不可能なことです。
 何故、神が敵となってしまった私たちに対して独り子まで与えてくださるのか。それは理解不可能なのですし、私たち人間が神を頼みつつ神を敵としてしまうことも理解不能です。でも、神は敵である私たちをそのように愛してくださったのだし、私たちキリスト者は選ばれて御子を愛することを知り、御子を愛することを通して神を愛しているのです。そして御子がそうであったように復活に与るのです。それは信仰を与えられた日に始まり、世の終わりの時にキリストは私たちの敵を完全にご自身の足台となさるのです。そして、キリストを受け入れる時、私たちは本当の敵は誰であるかを知るようになるのです。でも気が付くと自己中心に陥り、神を敵としているので気を付けなければいけません。

  主メシア

 先程はコリントの信徒への手紙一の15章26節までを読みましたけれど、その先で、パウロはこう言っています。

 「神は、すべてをその足の下に服従させた」からです。すべてが服従させられたと言われるとき、すべてをキリストに服従させた方自身が、それに含まれていないことは、明らかです。すべてが御子に服従するとき、御子自身も、すべてを御自分に服従させてくださった方に服従されます。神がすべてにおいてすべてとなられるためです。(コリントの信徒への手紙一 15章27節〜28節)

 神である主は、キリストつまりメシアを地上に送り、ご自身の御心を行わせました。その極みが、十字架の死と復活であり、昇天と聖霊降臨です。弟子たちは、その御業に触れたことでイエス・キリストが「主メシア」であることが分かったのです。そして、彼らの言葉を聞いた者たちが、後に「聖書」として編纂される手紙や福音書などを書いたのです。そして、私たちはそれを読み、また説教を聞いて信じてキリスト者になったのです。そのすべてに聖霊の働きがあったことは言うまでもありません。
 その聖霊の働きによってキリスト者になった私たちにとっての敵は神ではなく、私たちの罪と死でした。そして、イエス・キリストこそ十字架の死と復活の命、昇天と聖霊降臨で私たちの敵である罪と死を完璧に打ち破ってくださったことを知ったのです。そして、キリストは世の終わりに神の国を完成して神に渡される。その時、「神がすべてにおいてすべて」になられるのです。だから私たちは、自分に与えられた賜物を活かしながら、「主メシア」を現し、神を証していく以外にはありません。
 一人でキリスト者をやるわけではありません。先週の大住先生の説教ではないですが、神の愛を受けつつ互いに愛し合う姿を通して、私たちは「主メシア」を現していくのです。皆さんが教会に来た時のことを考えてくだされば良いのです。お互いにいがみ合っている教会には、誰も二度と来ません。しかし、神の愛にあふれて互いに愛し合う喜びに溢れている教会になら、また来てみようかと思うものです。だから私たちは儀礼的にではなく、互いに愛し合いながら、自分たちの「主メシア」は主イエス・キリストであることを喜びいさみつつ、証してまいりたいと思います。

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