「神殿とやもめ」

及川 信

       ルカによる福音書 21章1節〜6節
   
21:1 イエスは目を上げて、金持ちたちが賽銭箱に献金を入れるのを見ておられた。21:2 そして、ある貧しいやもめがレプトン銅貨二枚を入れるのを見て、21:3 言われた。「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。21:4 あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである。」 21:5 ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話していると、イエスは言われた。21:6 「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。」

 全く思いがけないことですが、今日の礼拝は金曜日の夕方に召され、今週の火曜日30日の午後一時半から葬儀を行うNOさんのご遺体を囲むようなかたちになりました。NOさんは88歳に成られましたが、白血病に近い病気で十日程入院され、最後はここ数年入所されていた近所の高齢者施設で息を引き取られました。ほんの数年前に当教会で洗礼を受け、訪問聖餐でも共にパンやブドウ液を共にした夫人を初め、二人のお嬢様やご親族の皆様と最後の日々にお会いできたことは、本当に良かったと思います。そして、ホーム帰った最期の日に、ご長女の教会の廣田新吾牧師が、大きな声で讃美歌312番を歌ってくださり、ヨハネ福音書の「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(3章16節以下)という御言に「アーメン」と言えたことは、本当に良かったと思います。そして、今日の礼拝において、成瀬さんがこの世を生きた徴であるご遺体を囲みながら礼拝していることを、言葉は相応しいかどうか分かりませんが、幸いなことだと思っています。夫人のNTさんは、今日はやんごとなきご用事で来られませんが、来週はご挨拶くださいます。

  主イエスとその共同体

 前回の説教で、主イエスは、当時も今も人間が考えるような「ダビデの子」でも、「主」でも「メシア」でもないと言いました。それらをはるかに超えるのです。と言うことは、主イエスがもたらそうとしている共同体も、人間が考えるものとは異なるものだということです。先日もある人の手紙に、「人間は『人を上の人間とか下の人間』と見たがるけれども、神様の見方は違う」とありましたけれど、その通りだと思います。私は、それに外の人間や内の人間を付け加え、どんな人でも主イエス・キリストに対する「信仰」によって入る共同体を主イエスは考えている。つまり、選民の上であろうが下であろうが、さらに選民であろうがなかろうが、主イエス・キリストに対する「信仰」によって一つとなる共同体を主イエスは考えているのです。さらに言うと、それはこの世の中に生きていようと、成瀬治さんのように、既にこの世の行程は走り終えてしまった人も、主イエス・キリストに対する「信仰」において一つになることです。それはこの世がすべてだと思っている人々には、なかなか理解してもらえないことです。しかし、私たちキリスト者はそう思っている。

  共同体のこの世性

   また、隣の寺は、「義理の跡取り息子の家を増築するために、檀家一家あたり〜十万の献金をするよう」に住職が言ってくると、ある檀家さんはぼやいていました。
 私たちの教会も今、会堂建築の業を継続中です。新会堂とは、教会に新しい時代が来ることの外形的な徴です。「幸い」、私たちの教会では会員に向かって献金の割り当てなどはしません。でも「漸く」と言うべきかもしれませんが、時宜にかなう形で献金の形は変わりましたし、今、新しい時代に向かって新しい牧師の招聘に向かって歩んでいることは喜ばしいことです。それらの件は皆、長老会で話し合いますし、総会で「事業」として「計画案」が出されたり、「報告案」が出されたりします。牧師はその時は「議長」となります。つまり、教会にもこの世性はいくらでもあるのです。その中で気を付けるべきは何であるかを、私たちは常に自覚していなければなりません。この世性イコール悪ということではないからです。

  聞き手と舞台としての神殿

 今日の箇所における主イエスの話の聞き手は「民衆」であり、舞台は神殿の「境内」であることは21章の終わりを読めば分かります。そして、主イエスは、「最後の説教」を神殿でなさった。つまり、現代で言うところの教会でなさった。そのことを、私たちは忘れてはいけないと思います。
 しかし、「民衆」「神殿の境内」も漠然としていますけれど、それは福音書記者のルカの手によるでしょう。ルカ福音書の中で「民衆」(ラオス)は、「群衆」(オクロス)とは違って主イエスに好意的なことが多いのですけれども、「民衆」の中には色々いるのです。直前には「民衆が皆聞いているとき、イエスは弟子たちに言われた」とありますから、「弟子たち」「民衆」の中にいたのでしょうし、そういう意味では5節の「ある人たち」というのは、「民衆」であると同時にその中にいる「弟子たち」と言っても良いのかもしれません。ルカは敢えて特定しないのです。すべての人を聴衆にしたいからだと思います。
 今日は、「民衆」の中にいる「弟子たち」に主イエスは語りかけているという線で考えたいと思います。周りにいる民衆も弟子たち同様に聴衆なのです。彼らは皆人間で、6節にあるように、人間が捧げた献金からなる見事な石や奉納物に「見とれる」ものです。「この建物はずっと残るものだ」と思うのです。それは無理もないことです。
 ヨセフスという人は『ユダヤ戦記』という書物の中で、「(エルサレム神殿の)外面は、見る者の心や目を圧倒するばかりであった」と記し、続けてこう言っているようです。

 「すべての側面が厚い金で覆われているため、太陽が昇ると燃え盛る炎のような輝きを反射させ、そのため、それを強いて見ようとする者は、太陽の光から眼をそむけるように、眼をそらさざるを得なかったのである」。

 ちょっと想像しただけで、目がくらむような情景です。権力を持った者は、自らの権力を誇示しつつ民衆から金を集め、もっと集めるためにこのような豪華な神殿を作るものです。政治と宗教は、いつの時代も何らかの関係を持っているものです。それは祭政一致の時代だけのことではありません。政教分離が進んだと言われる国々でも宗教に利用価値があることは、政治家たちが靖国神社や閣僚たちが年に一回伊勢神宮に参るこの国に生きていればよく分かることです。

  人間の作ったものは

 しかし、主イエスは二千年前に、神殿は「一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る」と、言われるのです。何十年も建設工事にかけ、豪華な石や献げ物によって完成したこの神殿は、紀元七〇年にはローマ軍によって滅茶苦茶にされてしまいます。完全に崩壊する。何故、そういうことが起こるのかと言えば、「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」(21:33)からです。主イエスの言葉以外は、天地であれ滅びるのです。まして、人間が作ったものは、イタリア中部の地震を見るまでもなく、自然災害や戦争などによっていつか無くなるものです。それは次回からご一緒に読むことになります。しかし、やもめの話に戻る前に、今日触れておきたいことがありますので触れておきます。

  主イエスにとってのエルサレム

 主イエスは、9章51節以来エルサレムに向かって旅をしました。その旅の中で、主イエスはエルサレムに向かって「見よ、お前たちの家は見捨てられる」(13:35)と予言し、「(敵は)お前の中の石を残らず崩してしまうだろう」(19:4)と繰り返されます。何故かと言うと、神の民であるべきイスラエルの人々、それも都であるエルサレムの人々が「神の訪れてくださる時をわきまえなかったから」(19:44)です。つまり、イエス様がエルサレムに入ったのに、神が訪れてくださったと思わなかったのです。彼らの目は見るべきものを見ていない。いや、目に見えるようにしか見ていないということかもしれません。それは、私たちも全く笑えない話だと思います。
 その「エルサレム」に、「神殿」が入っていることは言うまでもありません。そして、これからも出てくるエルサレム滅亡の預言は、主イエスが喜んでしていることではなく、「都のために泣いて」(19:41)していることです。主イエスにとっても、神の民イスラエルの象徴であるエルサレムの滅亡は、悲しむべきものなのです。それは、主イエスがエルサレムに入って最初に何処に行ったかで分かります。
 主イエスは、エルサレムに入った途端に神殿に行ったのです。しかしそこで、神殿の現実を見て幻滅し、所謂「宮清め」をしたのです。主イエスは、両替商や犠牲を売っていた商売人を神殿から追い出し、「『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にした」(ルカ19:46、エレミヤ7:11)と、おっしゃった。しかしその行為と言葉は、両替商や商売人に許可を出していた祭司たちや、その他の人々に受け入れられず、結果として十字架刑による死に至るのです。しかし、人々に受け入れられない行為と言葉が神には受け入れられ、十字架刑の死から三日後の復活、昇天と聖霊降臨が続くのです。ルカは、それに向かってこの福音書を書いている。それは確実なことです。
 これらの言葉を見て思うことは、「主イエスは最初からすべてお分かりだったんだな」ということです。それは、21章の1節以下のやもめの箇所を読んでも分かります。

    やもめと金持ち

 そこで漸く1節から4節までに行きますが、そこには「金持ち」と貧乏人の代表でもあった「やもめ」が登場します。日本の神社でも同じだと思うのですけれど、献金額が多い人は少ない人よりも発言権は断然強かったでしょう。神社の石の柱の名前はその印だと思います。いずこの社会でも、発言権の強い人と弱い人がいます。前回登場した律法学者は、今日の金持ちたちと並んで当然発言権の強い人でした。そして、前回も登場したやもめは孤児や外国の寄留者と並んで、この世的には何の権利も持たない人々です。当然、援助がない限りは極度に貧しい人々であり、明日生きるにも困った人もいたのです。当然、発言権などありません。
 細かく見ると、2節の「貧しい」と、主イエスの言葉である3節の「貧しい」は原語では違う言葉が使われています。2節の方はペニクロスという言葉で新約聖書の中でここにしか使われていないのですけれど、「生活のために毎日働く」が語源のようです。このやもめは生活に余裕などないのです。そもそもレプトン銅貨というのは貨幣単位の中で最小のもので、ある人は「十円かそこらの小銭」と言っていましたけど、そうなのでしょう。ついでに言っておくと、「賽銭箱」というのはラッパ状のもので神殿のあちこちに十三個もあり、それぞれに用途が記されており担当者がいたようです。献金者は用途と額をその担当者に言ったようですから、誰でも近くにいれば額も用途も聞けたそうです。「神殿のこの世性ここに極まれり」という感じです。このやもめに、発言力がある訳がございません。彼女らはこの社会の最底辺の人々です。つまり、人には相手にされない人々です。
 主イエスが、わざわざ「目を上げて」見ているのは、そういう光景です。金持ちたちが「皆、有り余る中から献金」をし、自分の発言力や権力を誇示しつつ高めていたのです。その中で、貧しいやもめが「乏しい中から」「レプトン銅貨二枚を入れたのを見て」、主イエスは「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである」と、言われたのです。

  たくさん???

 「確かに(アレーソース)言っておく」
は、「はっきり(アーメーン)言っておく」(18:21他)と同様、私の好きな言葉ですけれど、「私は、あなたがたに確かなことを言っておく」という感じだと思います。私は自分の人生の最後に「私はあなたを確かに愛してきた」という主イエスの言葉を聞き、私も「そのとおりです。それは確かなことです」と言いたいなと思うので、この言葉が好きなのです。先程も、NOさんのご長女が通っている教会の牧師さんの読む御言に、「アーメン」と言えたことは「なんと幸いなことだろう」と言いました。
 ここで、イエス様は「弟子たち」を始め「民衆」に確かなことを言おうとしている。そのことを覚えておきたいのです。この世のことは確かではないことが沢山あるからです。しかし、この「たくさん」という言葉の意味は深遠です。誰にでもすぐに分かる、というものではないのです。
    「この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた」という主イエスの言葉を、どう受け止めたらよいのでしょうか。「たくさん」を献金の「額」と考えれば分からなくなります。やもめは精々二十円か三十円を入れたのですから、「額」としては金持ちの方がはるかに多いのです。では、どういう意味なのか?「有り余る中からの献金」よりも「乏しい中から持っている生活費全部」の方が貴重なのだと、主イエスはおっしゃっているのでしょうか。

  貧しい人

 そこで、主イエスの言葉にある「この貧しいやもめ」「貧しい」プトーコスという言葉を調べてみると、この言葉は主イエスにとって重要な言葉なのだということを今回初めて知りました。それは、主イエスの伝道開始と共に出てくる言葉なのです。
 ルカによる福音書において、主イエスの最初の言葉は預言者イザヤの言葉なのです。今日は、「貧しい人」にだけ注目して読みますけれど、そこにはこうあります。

「主の霊がわたしの上におられる。
貧しい人に福音を告げ知らせるために、
主がわたしに油を注がれたからである」。
(4:18)

 ここに「貧しい人」が出てきます。メシアは最初からその「貧しい人に福音を告げ知らせるために」遣わされた、のです。神は、そのためにメシアに聖霊をお与えになり、イエス様は神に遣わされたメシアとして地上に来たということです。
 そのことをよく覚えておいた上で、次の平野の説教と呼ばれるものの冒頭部分に行きますけれど、そこにはこうあります。

 「貧しい人々は、幸いである、
神の国はあなたがたのものである」。
(6:20)

 神から遣わされたメシアは、「神の国」つまり神の支配をこの地上にもたらすこと、それが仕事です。その「神の国」は、神しか頼れないことを自覚した「貧しい人」のものなのです。だから彼らは「幸い」なのです。この世において、神しか頼れないとは、実に心細いものです。でも、その貧しさの故に、神にのみ頼る者に、イエス・キリストを通して神の国、つまり生死を越えた命は与えられるのです。だから彼らは「幸い」なのです。
 もう一か所だけ挙げておきます。それは洗礼者ヨハネの弟子たちが主イエスのところに遣わされ、主イエスこそ「メシア」なのかを尋ねたことに対する主イエスの答えです。そこで主イエスは、こう言われました。

 「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである」。(7:22〜23)

 つまり、「貧しい人」というのは、経済的な貧しさだけでなく、この世の人には相手にされないが故に神に頼らざるを得ない人のことです。そういう人を神は主イエスによってちゃんと相手にし、ご自身の国に招き入れる。「福音」、つまり「良き知らせ」を告げ知らせる。永遠の命を与える。そうすることは、人に「つまずき」を与えることに違いないけれど、神から遣わされたメシアである主イエスは、最初からそれをし続ける。主イエスは、そう言われるのです。その結果が、この世の人、特に金持ちたちに嫌われ、その結果が十字架の死なのです。だから、主イエスによる終末の預言が終わった直後に、主イエスの十字架に至る受難の物語が始まるのです。

  献身の徴としての献金

 ここまで読んで分かるように、「たくさん」というのは「献金額」ではありません。それは「生活費」と訳された言葉からも分かります。これはビオスという言葉ですけれども、「生涯」とか「生活」という意味もあります。私たちの礼拝献金の場合、週報の式次第の欄には「奉献(献金)」と書いてあります。私が作った祈りの例文も、「献身の徴としてこの献金をささげます」という趣旨のことを書いています。献金は人間の団体に支払う「会費」ではないし、神様へのお願い料の「お賽銭」ではないからです。自分の「献身の徴」でないならば献金は、いくら捧げても意味がないのです。
 そういう意味で、詩編51編の18節以降は読んでおくべき御言だと思います。そこにはこうあります。

 もしいけにえがあなたに喜ばれ
焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのなら
わたしはそれをささげます。
しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。
打ち砕かれ悔いる心を
神よ、あなたは侮られません。

 神は見ているのです。その人の「霊」「心」が打ち砕かれ、丸ごと自分の方に向かっているかどうかを。そして、犠牲あるいは献金が見せかけのものではないかと。私たちは人の目は誤魔化せても、神の目は誤魔化せないのです。
 だから、詩編51編の作者はこの後に言います。もし、人々の「霊」「心」が打ち砕かれたものになるならば、エルサレムの城壁は築かれ、犠牲も神に喜ばれると。私たちの献金や会堂も神に捧げるのですから、私たちはいつも神様の目を意識していなければいけません。

  ビオス 生活 生涯 命

 問題は、そこに私たちの全身全霊が込められているかどうかなのです。それは、先程も言いましたビオスという言葉の意味に関係があるでしょう。
 「生活費」も「明日の暮らし」という意味がありますから良いのですけれども、私は「生活」とか「生涯」の方が良いように思います。英語ではライフ(life)という訳があり、「命」とか「命と同じくらい大事なもの」という意味もあるようです。
 ルカ福音書では15章にも出てきます。そこは面白くて、弟息子が自分がいつの日か貰うべき「財産」を父に求めたのに対して、父も弟息子に分けるべき「財産」を差し出すというのです。両方とも翻訳は「財産」なのですけれども、父が差し出す「財産」にだけビオスという言葉を使うのです。つまり、弟息子にとっては金にしか見えなかったものが、父にとっては「全生活」、いや「命」までもかけたものなのです。しかし、弟息子には当初そのことが分からない。金持ちたちや祭司や周囲の者がやもめの献金を見たとき、誰もやもめの献金にビオスが込められていることを分からなかったようにです。そのことは、兄息子も分かりませんでした。
 弟息子がボロボロになって、「(わたしは)天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました」と思い、父が「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ」と言って抱きしめ、家に招き入れて祝宴を始めた時に、父の「財産」に父の「全生活」、「命」が込められていたことが弟息子に分かったのです。そしてその時、彼は新しい人間になったのです。
 父が自分の生涯、命をかけて弟息子をその共同体に入れたからです。そこに父の独り子、イエス・キリストの命がかかっていることは言うまでもありません。

  メシアの仕事 キリスト者の仕事

 神に霊を注がれ、神から派遣されたメシアである主イエス。主イエスが貧しい人に伝える良き知らせ、福音とはこのことです。主イエスは、気が付けば自己中心に陥り、神様を抜きに何でもしてしまおうとする私たちに神様との繋がりをつけるために、ご自身を十字架の上に投げ出されたのです。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と、祈りながらです。ご自分が代わりに死ぬから、彼らを赦してやって欲しいということでしょう。イエス様は、神様との交わりを失った私たち罪人に、神様との交わりを与えるために、ご自分が持っているビオスの全てを注いだのです。それが、神から遣わされたメシアの仕事だからです。
 私たちキリスト者一人ひとりは、イエス・キリストのビオスを受け入れることによって、それまでの自分は人の目にはいかに富んでいるように見えようとも、自分は貧しい者、死んだ者であることを認めたのです。命の源である神様との交わりを失ったからです。その時、私たちは神の目から見れば、いなくなっていたのであり、死んでいたのです。弟だけでなく、立派に父と共に生きていた兄も、少しも父を愛していなかったのですから死んでいたのです。私たちは、兄か弟です。そいう私たちを、神は憐れんでくださったのです。
 だから私たちは、神様が私たちのためにお遣わし下さったメシアである主イエス・キリストが喜ばれることをして生きるだけなのではないでしょうか。私たちの礼拝の最後にある「派遣の言葉」にある如く、神様との間に与えられた「平和」を壊すことなく、神と隣人を愛し、仕えることです。そこに自分のビオスをかけていく。何気ない一つ一つのことに全身全霊を傾けていく。神と隣人に仕え、愛していく。この一週間もそのことを目指して歩みたいと思います。

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