「人の子を見る時」
21:7 そこで、彼らはイエスに尋ねた。「先生、では、そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こるときには、どんな徴があるのですか。」21:8 イエスは言われた。「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない。21:9 戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである。」21:10 そして更に、言われた。「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。21:11 そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。21:12 しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。21:13 それはあなたがたにとって証しをする機会となる。21:14 だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。21:15 どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである。21:16 あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる。21:17 また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。21:18 しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。21:19 忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」 21:20 「エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、その滅亡が近づいたことを悟りなさい。 21:21 そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。都の中にいる人々は、そこから立ち退きなさい。田舎にいる人々は都に入ってはならない。 21:22 書かれていることがことごとく実現する報復の日だからである。21:23 それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ。この地には大きな苦しみがあり、この民には神の怒りが下るからである。 21:24 人々は剣の刃に倒れ、捕虜となってあらゆる国に連れて行かれる。異邦人の時代が完了するまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされる。」 21:25 「それから、太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。21:26 人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。 21:27 そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。 21:28 このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。」 先生 彼ら 今日の箇所は一般に「小黙示録」と呼ばれる個所です。私は、私の任期である来年三月までにルカ福音書を語り終えたいし、説教をする機会は私の健康の問題もあって月に二回ですから、今日の説教は七節から一気に28節までやっていきます。今後も今までだったら分けるところを一緒にします。そこで、早速始めます。 そこで、彼らはイエスに尋ねた。「先生、では、そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こるときには、どんな徴があるのですか」。 今日の箇所は、こういう言葉で始まります。ルカはあえて「民衆」の中にいる「弟子たち」を考慮しつつ、「ある人たち」(5節)が「彼ら」(7節)として尋ねたとしています。そのことを通して、主イエスの話の聞き手を拡大しているのでしょう。 ここに出てくる「先生」は、ルカ福音書においては主に弟子たちだけが使う「先生」(エピスタテース)ではなく、誰もが使う「先生」(ディダスカロス)であることからも、それは分かります。 自分が死ぬ時 私たち人間の誰もが強い関心を持ちつつ、誰も分からないのは、自分がいつどのようにして死ぬかです。つまり、自分の人生の終わりについてです。今は寿命が長くなりましたので、私たちは自分が死ぬ時期を「八十五歳を越えたら」とか「九〇歳を越えたら」とか勝手に言っていますけれど、誰もその時を知りません。その前に病気や事故に遭うかもしれず、事件や災害に遭うかもしれないのです。死ぬ場所が自宅か病院か、それ以外の場所か誰も分かりません。つまり誰もその時その場を知らず、その前にどんな徴があるか知らない。皆知りたがっているけれど知りません。 私がこのことを考える時にいつも思い起こすのは、数年前に聞いたある芸能人の言葉です。彼は、「自分がいつ死ぬかを知ったと思った途端に自分の生き方を変える奴がいる。それじゃあ、駄目なんだ。それは今までの自分の生き方を否定していることと同じだ。俺たちは、いつ死んでも良いように今を生きていなけりゃダメなんだ」と、言っていました。その通りだと思います。 戦争や暴動 今後もこの地上では、不幸にして戦争や暴動が起きるでしょう。そういう時代に、「我こそはメシアなり」と名乗る人が出てきます。「私を信じなさい。私はメシアだ。救い主だ」という人が出てくるのです。分かりやすく言えば、第一次世界大戦後におけるドイツのヒットラーのような存在がまた出るでしょう。多くの人が支持するのです。私たちの国は、隠れた形で「戦争は善だ」と国民に思い込ませ、敗れたことも美談にしてきたのだと思います。そのことによって、国の体制は戦前の「鬼畜米英」から戦後は「ギヴ ミー チョコレート」に見事に変わる。つまり、強烈な反英米国家から親英米国家、特に親米国家に変わったのです。個人的には、親ソビエト国家よりも良かったと思わないわけではありません。善し悪しは別にして、とにかく国家の体制は変わるのです。 また、近隣諸国との関係がどんどん悪化していけば、所謂「平和憲法」は次第に化石化してきて「変えるのが当然」となってくるかもしれません。そういうことは、五十年百年という時代の変遷の中であり得ることです。私たちが「絶対」と思っていたものは、変わり得るものなのです。 終わり そういう時代の中で、主イエスは「世の終わりはすぐには来ないからである」と言われる。「じゃあ、いつ来るんだ」という問題は後で触れることにして、今は「こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである」という言葉の、「終わり」テロスという言葉に触れておこうと思います。 「終わり」には「目標」とか「目的」とかいう意味もあります。しかし、ローマの信徒への手紙6章20節以下では同じ言葉が「行き着くところ」と訳されています。そこでパウロは、私たちが「罪の奴隷」であった時にやっていたことの、「行き着くところは、死にほかならない」と言い、信仰によって「神の奴隷」になった私たちの「行き着くところは、永遠の命」だと言っているのです。つまり、復活です。 誰も認めたがりませんが、人間は結局「罪の奴隷」か「神の奴隷」かのどっちか、なのです。それは、人間の人生は結局「死」で終わるか、「永遠の命」に行き着くかのどっちかだということです。人生の目標が「死」で終わるのか、それでは終わらず「永遠の命」に行き着くのか。それは大きな違いです。しかし、その違いを戦争や暴動のあるなしに見ることは止めよと、主イエスは言われる。そういうことは歴史の中で繰り返されていくことであり、いつが終わりか人間は決めることが出来ないし、何が起こったとしても、それは所詮部分的な戦争や暴動に過ぎないからです。 迫害は証しの時 11節以下には「天変地異」の現象が起こります。しかし、それを世の終わりの「徴」と見ることも主イエスは止められます。 今は、その問題よりも「迫害」について語るべきだと思います。 「これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く」と、主イエスは言われます。ここでは、「わたしの名のために」と、二度(12、16節)も主イエスはおっしゃる。 かつての戦争中は、「天皇よりもキリストの方が偉い。だってキリストは復活したし、国籍を越えている」と、彼らとしては当たり前のことを言った牧師たちが、当時の私たちの国の制度の中では「非国民」とされ、牢屋に入れられたりしましたし、獄中死した人もいるのです。つまり、一切の自由は奪われたのです。 また、「王や総督」のような身分の人ばかりではなく、ごく普通の人や家族にも「非国民」呼ばわりされた人も少なくないのです。今言ったように、国やそこに生きる人たちも時代が変われば変わります。でも、キリストの国は変わらないのです。そして、そこに生きる私たちキリスト者の歩みも「死」で終わるわけではなく、洗礼と共に既に与えられていた「永遠の命」に行き着く。つまり、朽ちない体における復活に行き着くのです。そのことに、変わりはありません。私たちは根本的には国民として生きているわけでも、死ぬわけでもないからです。 私たちキリスト者は、約二千年以上も前に書かれた「聖書」を、今に生きる神の言葉として読んでいるのです。そして、天地は滅びても、主イエスの言葉は決して滅びないからです。主イエスの言葉こそ、私たちキリスト者の道しるべなのです。その言葉に属している私たちは、今でも永遠の存在なのです。 しかし、主イエスはかつて、私は平和ではなく分裂をもたらす、とおっしゃいました。 「父は子と、子は父と、 母は娘と、娘は母と、 しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、 対立して分かれる」(12:53) と、おっしゃったのです。 その時も、「今から心配しないがよい」と、主イエスはおっしゃいました。そして、迫害や分裂は「証し」の機会になるとおっしゃったのです。それはどういうことでしょうか。 ルカは、福音書の続きとして使徒言行録を書いたと言われます。福音書にしろ、使徒言行録にしろ、「初代教会」が建って以後エルサレム陥落以後に書かれたと思われます。その使徒言行録にあることですが、弟子たちはユダヤ人の最高法院(サンヘドリン)から弾圧や迫害を受けたにもかかわらず、「イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び」、「神殿の境内や家々で絶えず教え、メシア・イエスについて福音を告げ知らせていた」(5:41〜42)のです。彼らにとって、「迫害」は引きこもりや沈黙の時ではなく、むしろ「証し」の時だったのです。そういうことを、主イエスは語っている。驚くべきことです。 キリスト者の命 しかし、ここで一つの問題があります。16節に「中には殺される者もいる」と言われています。使徒言行録に記されていることですけど、ステファノに対する民衆の石打ちの刑があったし、弟子ヨハネの兄弟であるヤコブがヘロデ王によって首を切り落とされ、エルサレムのユダヤ人がそれを見て「喜んだ」とあります。迫害や分裂で死んだのは、ステファノやヨハネだけではありません。ある人を現人神に仕立て上げて、民衆に拝ませ、「お上」の言うことを聞かせようとする制度は、特に戦争や暴動が吹き荒れる時には威力を発揮するでしょう。その中で、「私が信じ従う方はイエス・キリストだけです」と告白して、そのように実行する人間は許し難い「非国民」です。それは無理もないことです。そして、為政者の宣伝に乗ってしまう人はいつの世にも掃いて捨てるほどおり、彼らは親族や家族にキリスト者がいた場合、「早く目を覚まして貰いたい」と思っているのではないでしょうか。「密告」というのも、そういう「善意」が動機になっている場合が沢山あります。その密告によって捕らえられ、殺されてしまう者もいるのです。 忍耐 そういう中に在って大事なのは、「忍耐」でしょう。主イエスは、「しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい」とおっしゃっているのです。 最近も私は、「百メートルを八秒で走りなさんな。三十分位かけてゆっくり歩いた方が色々なものが見えるもんだ」ということを、手紙を通してある方から言われたのですが、正しいと思います。ただ本人は、百メートルを八秒で走っている自覚はないので困ったことですけれど、病気をして以来、体も心も嘗てのように動けなくなり、「黙って待っていれば、そのうち全貌が見えてくる」ということが前よりも分かってきたことは事実です。「言いたいことを言わずに我慢する」と「忍耐」とは少し違うかもしれませんが、「忍耐」を意味する「ヒュポモネー」という言葉は「重荷のもとでじっと耐え忍ぶ」という意味もあるみたいですから、当たらずとも遠からずかも知れません。とにかく、キリスト者にとって「忍耐」は大事なことです。それは、「神様に対しては何でも言う」という祈りとも関係するからです。 命を勝ち取りなさい 問題は「命をかち取りなさい」です。その少し前に、「中には殺される者もいる」と言っているのに、ここでは「あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい」となっている。忍耐していれば、誰だって命を勝ち取ることができるのか、死んだ人は皆、忍耐が足りなかったのかという問題です。問題は「命」という言葉は何を意味するかです。 「命」と訳された語は原語ではプシュケーで、「命」の他にも「魂」とか「人間そのもの」という意味もあるようです。主イエスは「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない」(14:26)と言い、「人の子」が人々の前に出現する時、「自分の命を生かそうと努める者は、それを失い、それを失う者は、かえって保つのである」(17:33)と、言っておられます。両方とも、主イエスの弟子たち、つまりキリスト者の「命」について語っておられるのです。 「憎む」というのは、ここでは感情的なことではなく選択的なことです。「自分の命を生かそうと努める」は、感情的に自分の命にしがみつくのではなく、主イエスと共にいる方を選ぶことです。そういうことをする者の中には、ステファノやヤコブのように殺される弟子もいる。しかし、彼らの「命」は神様によって守られているのです。 私たちの命 それは、「体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない」という、弟子たちに対する主イエスの言葉を見れば分かります。続いて主イエスは、五羽で売られている雀一羽は人間から見れば価値がないけれども、神から見れば価値はあり、あなたがたの「髪の毛までも一本残らず数えられている。恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」と、言うのです。 私たちキリスト者の「命」は、今や肉体だけのものではなくなり、そういう意味で、その行き着く先は「死」ではなくなったのです。神は、イエス・キリストに対する信仰によって神様との霊の交わりを生きる私たちを価値ある者とし、私たちの全身全霊を永遠に守ってくださるのです。その交わりの中を生きる「命」の行き着くところは、「死」ではなく「永遠の命」なのです。私たちにその「命」を与えるために、神の独り子である主イエスは神の御許からこの世に降りてきてくださったのだし、十字架に掛かって死んでくださったのだし、神の力によって三日目に復活して、昇天し、聖霊を注いでくださったのです。 私たちが「命」を考える時、神が主イエスを通して私たちに何をしてくださったかを考えるべきなのです。この「命」は、この世の如何なる地位にある人も与えることが出来ないものです。ただ神のみが、イエス・キリストの十字架と復活、そして聖霊によって与えることが出来るのです。「迫害」は、この命を証しするという意味では絶好の「証し」の時です。しかし、そのために準備する必要はなく、私たちは、迫害があろうがなかろうが、普段から自分のやるべき「証し」をしていることが大事なことです。 エルサレム 20節以下は地上の町エルサレムのことですし、その次は天上の天体のことです。両者は意識的に対照されていると思います。 多くの国に「永遠の都」と呼ばれるものがあります。日本でも天皇がいる「帝都」東京、特に皇居があるところは神聖不可侵であり、「ここだけは爆撃されない」と、言われていたのでしょう。当時の人々にとってのエルサレム、特にその神殿は異邦人が入れない神聖不可侵な場所とされていました。この町だけは、そして神殿だけは神の選びの民であるユダヤ人のものであり、その民の「選び」はずっと続くと信じられていたのです。 しかし主イエスは、そのエルサレムにユダヤ人も忠誠を尽くす必要はないと言われるのです。そこが異邦人に滅ぼされる日は、「書かれていることがことごとく実現する報復の日」であり、「この地には大きな苦しみがあり、この民には神の怒りが」下り、エルサレムの人々は、「剣の刃に倒れ、捕虜となってあらゆる国に連れて行かれる」のです。つまり、エルサレムも、主イエスにとっては少しも永遠ではないのです。 イエス様は喜んでこんなことを言っているのではありません。涙を流しながら、神殿が建つエルサレムの滅亡を告げられたのです。エルサレムは、これから「異邦人の時代」になり「異邦人に踏み荒らされ」、多くのユダヤ人は「捕虜となってあらゆる国に連れて行かれる」、と。エルサレム神殿の現実を見て、イエス様は、そう告げざるを得なかったから告げたのです。 注意しなければならないのは、ユダヤ人の「選民思想」がある中で、イエス様がユダヤ人に向かって神殿の境内でこういうことを語っていることです。つまり、公然と、です。そう思いますと、イエス様の最期は「非国民」としての十字架の死にならざるを得ないよな〜と思います。イエス様はユダヤ人から憎まれて排斥され、異邦人である総督ピラトの命令による十字架刑に「非国民」として掛からざるを得ないのです。最後まで、証しをしながらです。 選民と異邦人 しかし、ユダヤ人は神の独り子であるイエス様をメシアとして受け入れなかったが故に、神に完全に捨てられたのかと言えば、「そんなことはない」ということを語っておかねばならないと思います。 パウロはローマの信徒への手紙の中で「では、尋ねよう。神は御自分の民を退けられたのであろうか。決してそうではない」(11:1)と言い、最後に「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン」(11:36)と、神を賛美して終わるのです。 私たちも異邦人キリスト者も、神にとって代わってはいけません。聖霊が降ることによって始まった歴史は続いたのです。だからこそ、聖書が書かれた地域を中心とすれば「地の果て」とも言える日本にキリスト者が生まれて、今に至ったのです。そして、この国ではまだイエス・キリストのことを聞いたことがない人は幾らでもいるのですから、私たちがやるべきことは自分に与えられた賜物を活かして、主イエス・キリストを「証し」して生きるということです。誘われた人の中には教会に来る人もいるだろうし、その中には続ける人もいるでしょう。しかし、時代が時代なら、「非国民」とされ、牢屋に入れられたりする人もいるし、中には殺されてしまう人もいるのです。 人々 そこでいよいよ25節以下ですけれども、ここは前の箇所とは対照的に天上の異変が語られます。もちろん、現象として考えなくても、「永遠不変だ」と誰しもが思っていたものが、そうではなかった。「終わりなどない」と思っていたものが、そうではなかったということです。目に見えるものは永遠ではないからです。この地球という星だって、人類が生き始めたのは最近のことだし、人口問題、食糧問題、地球温暖化問題などを叫び始めたのは、つい最近のことです。> ここでは、ユダヤ人や異邦人が問題ではなく、「人々は見る」ということが問題になっています。つまり民族が問題ではなく、人間が問題なのです。人々が、「天体が揺り動かされる」のを見、「この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失う」、「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る」と、主イエスは言われる。それは一万年後かもしれないし、そんな遠い未来ではないかもしれません。いずれにしろ、私たちが分かることではないし、決めることでもないでしょう。 使徒信条が言う如く、神の右の座におられる主イエスが、「生ける者と死ねる者とを裁く」ために天から降って来るのを「人々は見る」のです。ユダヤ人とか異邦人という問題ではなく、「人々は見る」のです。この「人々」は、当然、私たちを含む「人々」です。 身を起こし、頭を上げなさい 「このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい」と、主イエスはキリスト者に向けて言われます。「身を起こして頭を上げなさい」という言い方は、詩編24編に「城門よ、頭を上げよ。とこしえの門よ、身を起こせ」と出てきます。何故、「城門」や「門」は身を起こして、頭を上げなければならないかと言えば、「栄光に輝く王が来られる」からなのです。その「王」とは「万軍の主、主こそ栄光に輝く王」だからです。ここに出てくる「主」は神であるヤハウェです。旧約聖書では皆、「主」と訳されていますがヤハウェです。新約聖書では「主」とは大体主イエスのことであり、世の終わりに再臨する主イエス、つまり「人の子」も「主」です。今日の箇所も、私はそういう形で読もうと思います。 解放の時 その時を受けて、主イエスは「あなたがたの解放の時が近いからだ」と、言われます。「解放の時」は、アポルツローシスという言葉ですけれども、これは「あなたがたの救いは近づいているのだから」と訳されたり、「贖いが近づいたのです」と訳されたりもします。日本語訳聖書では「救い」「贖い」「解放」などと訳されるのです。パウロは、ローマの信徒への手紙の中で「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」(3:23〜24)とか、「被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。わたしたちは、このような希望によって救われているのです」(8:23〜24)と、言っています。ここに出てくるキリスト・イエスによる「贖いの業」や、神の子となるために「体の贖われること」が、新共同訳聖書の「解放の時」なのです。 罪によって神様との交流が出来なくなった罪人である私たちに代わって、イエス・キリストは「彼らは自分がしていることが分からないのです」と祈りつつ神の罰を受けてくださったのです。私たちのために十字架の死を味わい、そのことの故に復活と昇天を神に与えられ、聖霊を与えてくださったのです。その聖霊によって信じる者の罪を赦して無償で義とし、神様との交わりを与え、終わりの日に神の子として復活させられるようにしてくださったのです。私たちは、生きているにしても肉体は死んだ後でも、その日に起こることを待ち望み、世の終わりの日に起こることに対する希望によって救われているのです。 四方に伝えん 8月30日には、全く思いがけないことでしたが、NOさんの葬儀がありました。その葬儀説教の中で、私はNOさんが1989年の修養会でお語りになった「生きること、死ぬこと」という説教を取り上げました。そこで成瀬さんは、宗教改革者ルターのことを取り上げ、「生きることは死の中に在り、死は生きることの中に在る」と言い、死の恐ろしさについて、こう言っています。 「我々が隣人との出会いにおいて、これまで自ら背負い込んだ一切の罪が神の目の前にあらわとなることこそが、本当の意味で恐ろしいのであります」。 この説教の中では、罪と死の関係が明瞭であり、生きているときにしか罪は犯せません。だから、死は生の中に在るのです。 しかし、主イエスが「人の子」として「生ける者と死ねる者とを裁き」、救いを完成する時、私たちキリスト者は身をすくめて神の前から隠れるのではなく、「身を起こして頭を上げ」ることが出来るのです。いよいよ自分たちが、神の子として体が贖われる希望が実現するからです。“霊”の初穂を頂いている私たちキリスト者は、生きている今、イエス・キリストによって無償で義とされたのですから、終わりの日を恐怖しながらではなく、人の子を迎える希望を持ちながら生きることが出来るのです。そのことを忘れてはいけません。 最近読んでいた本の中で、ある牧師がこう言っていました。 「聖書が語るのは(中略)『もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない』、キリストの再臨の希望を紡いでゆく物語である。説教と聖餐を通して、主の再び来たり給うを待ち望みながら、既に世に勝っておられる主を仰ぎ見ながら、キリストの愛から引き離す何ものも存在しないことを約束されながら」。(左近豊『3.11以降の世界と聖書』2016年.日本基督教団出版局。77頁) この本の中に出てくる「もはや死はなく」以下の言葉は、新約聖書最後のヨハネ黙示録21章の言葉であり、火葬場で私がご遺体を火葬する直前に読む言葉です。NOさんの時も読みました。その直前の言葉はこうなっています。 神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。(ヨハネの黙示録21:3〜4) 私はこの言葉を読んで、ご遺族に「最後のお別れです」と言います。ご遺族にとっては、ご遺体との最後のお別れだからです。私たち人間が出来るのは、そこまでです。しかし、主イエスは「人の子」として、世の終わりの日に再びやって来て「生ける者と死ねる者とを裁きたまわん」のです。その点において、地上に残っている私たちも何の変りもありません。 私たちは、肉体が生きている今も、肉体と言う意味では死んだ後も、この日に向かっているのです。だからいつも「身を起こして頭を上げて」いられるのです。いつも主イエスによって与えられた「救い」を、「体の贖い」を、罪からの「解放の時」の実現を待ち望むことができるのです。この一週間も、そういう一週間として歩む者でありたい思います。 |