「見たら、悟りなさい」

及川 信

       ルカによる福音書 21章29節〜38節
   
21:29 それから、イエスはたとえを話された。「いちじくの木や、ほかのすべての木を見なさい。21:30 葉が出始めると、それを見て、既に夏の近づいたことがおのずと分かる。21:31 それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい。21:32 はっきり言っておく。すべてのことが起こるまでは、この時代は決して滅びない。21:33 天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」
21:34 「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。21:35 その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである。21:36 しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」21:37 それからイエスは、日中は神殿の境内で教え、夜は出て行って「オリーブ畑」と呼ばれる山で過ごされた。21:38 民衆は皆、話を聞こうとして、神殿の境内にいるイエスのもとに朝早くから集まって来た。

  九十九周年創立記念礼拝、「牧師招聘とは何か」講演


 今日は九十九回目1の創立記念礼拝ですし、午後には主任代務者である大住雄一先生による「牧師招聘」に関するご講演があります。来年の記念すべき創立百周年と、近づいてきた新会堂建設を新しい牧師と迎えるであろうことは今の中渋谷教会にとって本当に相応しいことだと喜んでいます。この八月には私の新しい任地が甲府の山梨教会に決まりました。大住先生は、原則第一日曜日と第三日曜日にテサロニケの信徒への手紙一によって「終わりの日」に関する説教をしてくれていますが、私もルカ福音書二一章を通して、「終わりの日」に関して、皆さんと一緒に主イエスの言葉に聞けることを喜んでいます。聖書は、手紙も福音書も、十字架と復活では終わらず、世の終わり、神の国の完成、人の子の来臨のことを記しているからです。

  心と命の言葉

 「私は自分の目で見たもの、手で触ったものしか信じない」という言葉をよく聞きます。それは、私は迷信など信じない、宗教など信じない、目に見えず手で触れることができないものなど信じないということでしょう。「現実」しか信じないのです。私も大いに賛成する面がないわけではありません。しかし、自分が「見ている」とされる所謂「現実」にも多いに疑問を感じます。私たちの目が見ているものは「現実」のごく一部ですし、所謂「目の錯覚」も沢山あります。真後ろのものは見えないし、少し角度を変えただけで全く違うものが見えてくることもしばしばです。手で触ることも同様です。ですから「見たこと、触ったことしか信じない」ということは、誠実そうに見えながら、実は自分を神格化しただけの場合もあります。
 そもそも人間の「心」などは、見たり触ったりできる「現実」として存在するのでしょうか。存在しないでしょう。それでは、「心」は存在しないのかと言えば、そんなことはありません。目に見えなくても、手で触れなくても存在する。人間というものの中には「心」と呼ぶほかにないものがあると思います。そういう意味で、精神に障碍を持っている方のための施設で起きた大事件の首謀者が言ったように、「生きていてもしょうがない人間」など存在しないのです。人間は障碍を持っていようといまいと、目に見える効率だけで生きているのではありません。「地の表のあらゆる所に住む人々すべて」に生きている意味はあるのです。それを他人が否定したり、自分で否定することは間違っていると、私は思います。ヨハネはその手紙の冒頭に「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について」と、言っています。「命の言」と無関係な人はいません。誰もが関係している。しかし、そのことを知っている人は多くはない。「命の言」は目には見えず、耳には聞こえないからです。説教は、聖霊によって「心」に知らされた「命の言」を、一人でも多くの人と共有したいと思ってやっていることです。

  神の国と受難の人の子

 そういう意味で、今日も出てくる「神の国」もそうでしょう。「神の国」は、キリストによる神の支配のことですが、この世が存続している限り見える形では来ないのです。しかし、人の間に既に存在している。分かる人には分かる。主イエスは、そうおっしゃっているのです。しかし、弟子たちだけに、「あなたがたが、人の子の日を一日だけでも見たいと望む時が来る。しかし、見ることはできないだろう。(中略)しかし、人の子はまず必ず、多くの苦しみを受け、今の時代の者たちから排斥されることになっている」と、言われます。
 今日の箇所と同じく、ここでも「神の国」「人の子」が平行関係で出てきます。「人の子」と主イエスがおっしゃるときは、主イエスご自身のことです。神の国を完成するキリストです。「人の子」は旧約聖書のダニエル書に、神の栄光を表す雲に乗って世の終わりにやって来る「人の子」として出てきます。「人々」は、「人の子」は「栄光の人の子」であると信じていました。しかし、主イエスは、すべての人に分かる「栄光の人の子」を語りつつも、「多くの苦しみを受け、今の時代の者たちから排斥される」という「受難の人の子」を、弟子たちにだけは分かってもらいたくて語っているのです。
 つまり、「栄光のキリスト」だけでなく、多くの人々には受け入れることが出来ない「受難のキリスト」を語るのです。ある者は信じるでしょう。その時、神の国は「ここにある」とか「あそこにある」と言えるものでないし、目に見える存在ではありません。しかし、しっかり存在している。そういう存在を語る。説教もそういうものです。そして会衆と共に今に生きるキリストを見る。触れる。そこに礼拝が生じるのです。

  昼は神殿(教会)の境内

 主イエスは、北の端まで行って、それから南にある首都エルサレムへの旅を始めました。そして、人々の質問に答えた後、最後の説教を始めたのです。その説教の場所は「神殿の境内」で、聴衆は様々な人を含む「民衆」です。朝から夕方までは神殿の境内で民衆に教え(20:1)、夜は家だか外だか分かりませんが、「オリーブ畑」と呼ばれる山で弟子たちと共に過ごされた。それが、エルサレムに着いてからのイエス様の行動パターンでした。

  たとえ

 そのことを確認した上で、29節に入ります。そこでイエス様は「たとえ」を語られました。「たとえ」は、イエス様の説教でしばしば使われるものですけれど、最後の説教とも言うべき今日の箇所にも「たとえ」が出てきます。礼拝における説教や聖餐はそれ自体が「たとえ」ですし、その言葉も「たとえ」ですけれども、「たとえ」は、目に見えることを指し示しながら目には見えない、しかし確かに存在するものを語る場合に使います。今日の場合は、それが「神の国」「人の子」なのです。これらは、たとえでしか語られないものです。言うまでもなく、「神の国」はイエス様の説教で中心的な主題ですし、「人の子」も大事な言葉です。

  見たら、分かる

 マルコやマタイとは違って、ルカだけは「いちじくの木」だけではなく「ほかのすべての木」を入れます。イエス様の語っていることは、ユダヤ人だけでなく、この時代に住むあらゆる「人々」に関係すると言いたいのだと思います。その上で、「見て、分かる」とか「見たら、悟る」という言い方をしています。ここで「分かる」も「悟る」も原語では同じです(ギノースコー)。「見る」はブレポーとホラヲーと違いますけれども、両方とも、「目で見る」のほかに、「心で見る」とか「注意する」という意味もあるのです。主イエスは「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない」(21:8)と、言われます。その時の「気をつけなさい」「見なさい(ブレポー)」と同じ言葉です。です。また、ぶどう園の譬え話の中で、ぶどう園の主人は、「わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう」(20:13)と言います。そこでは「見る」ホラオーが「たぶん」と訳されているようですけれども、「僕ら」と私が「愛する息子」とでは、農夫たちも違う扱いをするはずだという主人の思いがあったことは言うまでもありません。そういう経験に基づいた思いが「見る」とか「分かる」の中には在る。その事だけは、覚えておこうと思います。

  弟子たちが見たこと、聞いたこと

 そこで、今日は初めに10章を見ておこうと思いますけれど、そこは、七十二人の弟子たちを各地の町や村にイエス様が派遣したところです。そこで弟子たちは、各地で病人を癒しながら「神の国は近づいた」と福音を告知するのです。「神の国」の方に私たちが近づくのではなく、「神の国」の方が私たちに近づいて来るのです。病人の癒しはその徴です。神の支配は、神に見捨てられたと言われている人に近づいて来るのです。弟子たちは、その現実を見て、主イエスのもとに帰って来ます。そして、「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します」と言います。その後、主イエスは「あなたがたの見ているものを見る目は幸いだ。言っておくが、多くの預言者や王たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである」と、弟子たちに言ったのです。
 ここにホラオーとブレポーが出てきます。「預言者や王たち」は、弟子たちが見たものを見たかったし、聞いたものを聞きたかったのです。しかし、彼らは見聞きできなかったのです。

  狐と鷲 目と耳

 少し個人的なことを言いますが、私の部屋にはアフリカにいる長い耳の狐と鋭い眼を持つ鷲の大きな写真が二枚あります。狐は一メートルも地下にいる虫の音を聞いて掘り当てて食べるのだそうですし、鷲は一キロだか二キロだか遠くにいる餌になる小動物を見つけて地面すれすれの所を飛んでいくのだそうです。私は信仰にとって最も大事なのは「目」と「耳」だと思っているので、写真を見せていただいた時にお言葉に甘えて頂いたのです。鼓膜を震わせず、肉眼には見えずとも、「ここに神の国は来ている、神の支配は現実のものになっている」という「神の言」を聞き取る目や耳が必要なのです。信仰においては、聖書の言葉は言うまでもなく、通常の出来事を見たり聞いたりする時の目や耳が大事なのです。通常の出来事の中に「神の国」の現実や、それとは逆行する現実を見聞きすることが大事なのです。

 「見る」ことと「聞く」こと

 それと関連してもう一つ個人的なことを言いますけれど、私は、病気になる前までは、教会員の皆様の一人ひとりの誕生カードを書いていました。申し訳ないことですが、今年度は健康に自信がないものですから、続くか分からないことはなるべくやらないようにしております。しかし、退院後、「最後」と言っては何ですが、前から気になっていた讃美歌の歌詞(II編83番)を1節ずつ書いていただき、パソコンでカードを三枚作って頂きました。思いがけず沢山作ってくださったのですけれど、出来栄えが良かったこともありますし、「牧師からこんなものを貰ったら、その方は気詰まりになるかなー」とも思い、今はまだあまり使っていません。それは、それぞれこう書いてあるのです。

「呼ばれています、いつも
聞こえていますか、いつも」

「問われています、いつも
こたえていますか、いつも」

「召されています、いつも
気づいていますか、いつも」

 自分が呼ばれていること、問われていること、そして召されていることは、特別な場で特別な言葉が使われるわけではありません。誰の言葉かも分かりません。しかし、ある人にとっては、確かに神の語りかけの言葉なのです。

  見ること、聞くことは怖いこと

 また、今は説教をしている牧師にとっても、聖書を読み始める時、それはただの言葉にしか見えません。そこから今日私たちに語りかける神の「御言」を聞き取り、神の支配がここに来ているのだと分かるためには、かなりの時間がかかります。しかし、決定的なのは「時間」ではなく、「聖霊」の働きです。それは、「神の業」なのです。その点は皆さんも同様です。自分の力で信仰に入った人はなく、信仰は誰にとっても今に働く「神の言」を聞くことに始まるからです。
 多くの預言者や王たちが望んだにもかかわらず、見ることや聞くことが出来なかった言葉を、聖霊によってある者たちは今見ることが出来るのだし、聞くことが出来るのです。そして、そこに「神の国」到来の徴を見ることが出来る。それは「呼ばれて」いることだし、「問われ」「召されて」いることですから、怖いことです。その招きに応えてしまえば、それまでの自分ではいられないことです。
 だから「見る」ことや「聞く」ことは怖いことなのです。「怖いもの見たさ」という言葉もありますけど、「神の言」の内側、自分自身の内側を見ることは怖いことです。普段は全く見ることがありませんし、自分の力で見るわけではないからです。そしてそれは、そのまま他者に受け入れられるわけではないからだし、自分でも到底受け入れられないことだからです。

  キリスト者の目と耳

 今日の箇所では木の枝に「葉が出始めると、それを見て」夏が来たと分かるのと同じように、「これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい」と、あります。「これらのこと」や、32節の「すべてのことが」とは、イエス様の説教でこれまで語ってきたことです。つまり、「戦争」や<「暴動」の勃発、キリストを名乗る者の登場、迫害の到来、エルサレムに象徴されるものの崩壊や惑星の崩壊などです。人間が「永遠」と思っていたものがすべて崩壊する。人間の目に見えるものは、それがどんなに「永遠」に見えるものであっても「いつかは必ず崩壊する」と、主イエスは言われる。その時、人々は逃げまどったり、怯えたりする。それが「これらのこと」「すべてのこと」の内容です。
 しかし、キリスト者はそこに「神の国が近づいている」ことを「悟る」のです。つまり、同じものを見ても、一切のものの破滅ではなく、神の国の完成を見ているのです。どうしてでしょうか。

 主イエスの言葉は滅びない

 今日の箇所では、「人の子」「神の国」は平行関係です。「人の子」が再臨する「世の終わり」の時にこそ、既に到来しつつあり、未だ完成していなかった「神の国」は完成するのです。その完成に、私たちキリスト者は与る。だから、私たちは「身を起こして顔を上げ」ることができるのです。
 主イエスの言葉は、天地が滅びても滅びないからです。この「滅びる」という言葉は、「過ぎ去る」という意味です。人間は常に永遠のものを作りたがりますけれども、そんなものはないのです。真の人であり神であるイエス様と、イエス様をこの世に送り給うた父なる神様、そしてその交わりに私たち罪人を招き入れ、私たちにそのことを知らせてくださった聖霊、そういう三位一体の神様だけが永遠なのです。しかし、その神様は、見て触れることが出来る「命の言」によって、私たちにご自身を示し、今も永久に生きてい給うのです。
 私たちは、この方の「命の言」でもある御子イエス・キリストに属している時に永遠に過ぎ去ることがないのです。滅びないのです。私たちは、そのイエス・キリストの言葉を信じる信仰によって、肉体を越えて「永遠の命」に生きるのです。そこに、聖霊の働きがあることは言うまでもありません。
 これは、主イエスが「はっきり言っておく」とおっしゃったことです。「確かに(アレーセオス)言っておく」と並んで、「はっきり(アーメン)言っておく」は、私が大好きな言葉です。イエス様は、最後の説教でこの言葉を使いました。聞き手、特に「弟子たち」には信じて貰いたかったのです。私たちも同様です。

  心が鈍くならないように

 そこで、主イエスは「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい」と、言われます。「さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる」のです。「その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるから」です。「しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい」と、言われる。説教を聴いている者に言われるのです。
 言うまでもないことですけれど、「世の終わり」は全地に「住む人々すべてに襲いかかる」のです。それも、「不意に罠のように」襲いかかってくる。つまり、人間は自分の力で「世の終わり」をもたらすわけではなく、そのことに対して人間は完全に無力なのです。私たち人間が「神の国」の完成をもたらすわけではありません。それは神の業であって如何なる意味でも私たちの業ではありません。しかし、私たちキリスト者がしなければならないことがあります。それは「心」を鈍らせないことです。

  目を覚まして祈る

 皆様の中にもご覧になった方もおられると思うのですが、テレビコマーシャルでお笑いコンビの一方が借金で頭が一杯になり、公園のベンチで頭を抱えているのです。その時、脳内を表す半円グラフが出て、そのグラフの中で「仕事」や「趣味」と並んで「借金」が出てくるのですが、「借金」の割合がグーンと大きくなるのです。その時、コンビのもう片方が出てきて、「そういう時はナントカ法律事務所に行って相談するように」と勧めるのです。そこで、相談すると脳内の半円グラフの借金の比率が小さくなる。そういうコマーシャルです。借金の額が変わらずとも、返済計画の有無で割合が変わると言いたいのでしょう。
 「放縦や深酒や生活の煩い」というものは、得てしてこういうことを引き起こします。心の中が鬱積して、正確な考えをすることが出来ないのです。何かと追われている私たちの日常生活は、借金をしなくても大切なものをないがしろにしがちです。
 主イエスは、そういう日常生活をしている私たちに、きちんと見るべきものを見、聞くべきものを聞くことを求めるのです。そうすれば、戦争や暴動が起きようが、迫害がやって来ようが、「永遠の都」と呼ばれるものが滅びようと、天体が焼け落ちようとも、慌てふためくことはないのです。それは私たちが、「栄光の人の子」だけでなく、「受難の人の子」、十字架の死と復活の命に甦り、天に挙げられていつの日か再臨して神の国を完成される「人の子」を知っているからです。私たちキリスト者も、「人々すべてに襲いかかる」ことは経験するのです。そのことに変わりありません。しかし、「心が鈍く」ならないように、「いつも目を覚まして祈って」いる私たちキリスト者は、世の終わりの時に神の国を完成する「人の子の前に立つ」のです。その完成に与るのです。

  心が燃えていたではないか

   しかし、そうなるためには「聖霊」が必要です。今日は「心」に関してだけ語ります。
 「心」という言葉は、この福音書の最後の章である24章に出てきます。女たちは、最後の奉仕のつもりで、主イエスが葬られた墓に行きました。そこで「人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている」という主イエスの言葉を、天使たちは女たちに伝えたのです。そして彼女らは弟子たちに伝えた。しかし、弟子たちはその言葉を信じることができませんでした。
 そして、二人の弟子はエマオという故郷に帰っていきました。彼らは、受難のキリストを信じられなかったのです。そういう弟子たちを復活した主イエスは追いかけ、話を聞きました。そして、ついに彼らに「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか」と、言われたのです。ここに「心」が出てきます。しかし、もう一回出てくるのです。
 「メシアは、苦難を受けた後に栄光を受けると、私は言ったではないか」と、主イエスは言うのです。しかし、弟子たちは、それが主イエスだとは分かりませんでした。主イエスは、その後、モーセから始めて聖書全体について歩きながら語りました。しかし、彼らの目は遮られていて、目の前にいるのが主イエスだとは分からなかったのです。
 その後、夕方になったので勧められるままに彼らの家に入り、食事の時になったのです。

 一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。(24:30〜32)

 「イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった」道で、主イエスから聖書全体の話を聞いていた時、それが復活の主イエスだとは分からなかったのです。しかし、その時、彼らの「心」は燃えていたのです。その現実が、その後の彼らの行動、つまり使徒として、どんなに迫害されても全世界に福音を宣べ伝えることにおいて決定的なのです。彼らは、受難の主イエスこそ、人間では決して打ち破ることができない死の壁を打ち破った栄光のキリストであることが分かったのです。
 復活のイエス、再臨の人の子は肉眼で見るものではないし、その言葉も主イエス時代のユダヤ人の言葉や今の英語や日本語であるわけではないでしょう。そういう意味で私たちも分かるわけではないのです。しかし、聖書の言葉、説教の言葉に、あるいは讃美歌の言葉に私たちの心が熱くなったことがあるのではないでしょうか。その時がなければ、私たちはキリスト者になっていなかったと思うのです。
 私たちは、「世の終わり」が来れば、恐らく肉体的には死して後ですけれども、「身を起こして頭を上げ」「いつも目を覚まして祈る」者として、「心」を燃やされた者として、「神の国」の完成に与り、「人の子の前に立つ」のです。いや、信仰において今既に立っているのです。肉体の目には見えず、耳には聞こえず、その「心」でしか分かり得ない主イエスが、今も生きておられることを私たちは知っているのですから。だから、肉体が生きている今も、その死の姿をもっても、私たちの主、受難と栄光のキリスト、再臨の人の子によって世の終わりに完成する「神の国」の完成を証しする者でありたいのです。
 主イエスは、ご自身の受難に入る前の最後の説教で、本当の言葉として私たちにこう語りかけられたのです。だから、「アーメン、その通りです。主よ、信じます」と、告白する者でありたいのです。

  九十九周年礼拝と講演

 信仰の証しは誰も一人でやれる訳はなく、教会全体でやるのです。私たちは自分に与えられた賜物で自分が出来ることやるしかないし、それでよいのです。ただ私たちは聖書を読んでいる人間として、良い目と耳を持つ者でありたいと思います。しっかり見るべきものを見、聞くべきことを聞き、そこで見たものや聞いたものを語りたいと思います。
 これから主任代務者である大住雄一先生による「牧師招聘とは何か」のご講演をお聞きする前、教会創立九十九周年礼拝に於いて、教会に与えられている恵と使命に関する、主イエスの言葉をご一緒に聞けたことを神様に感謝したいと思います。

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