「神の国が来るまで」

及川 信

       ルカによる福音書 22章14節〜23節
   
22:14 時刻になったので、イエスは食事の席に着かれたが、使徒たちも一緒だった。 22:15 イエスは言われた。「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた。22:16 言っておくが、神の国で過越が成し遂げられるまで、わたしは決してこの過越の食事をとることはない。」22:17 そして、イエスは杯を取り上げ、感謝の祈りを唱えてから言われた。「これを取り、互いに回して飲みなさい。 22:18 言っておくが、神の国が来るまで、わたしは今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」22:19 それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」22:20 食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。22:21 しかし、見よ、わたしを裏切る者が、わたしと一緒に手を食卓に置いている。22:22 人の子は、定められたとおり去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。」22:23 そこで使徒たちは、自分たちのうち、いったいだれが、そんなことをしようとしているのかと互いに議論をし始めた。

  家族というのは難しい

 最近の報道による障害や殺人事件などを見て思うことの一つは、「家族関係はどうなっているのだ」ということです。昔、家族関係が滅茶苦茶で、ある施設に入っている少年と話したことがあります。彼が求めていることは、一つの食卓を囲んで、テレビから流れてくるおかしな一言に、家族の誰かがクスッと笑うと他の誰かも笑う。そういうことでした。ある家にとっては当たり前のことでしょうけれど、それが当たり前ではない家は幾らでもあります。人を傷つけたり、殺したりという恐ろしいことをする人の多くは、それまでに既に家族の中で傷ついていたり、精神的に殺されたりしたことがある場合が多いのです。最近は乳幼児や幼児、児童の虐待もどんどん増えており、そのことが原因である場合もあります。
 先日は、覚醒剤の依存症になってある施設にいる人たちのことをテレビで観ました。その人が立ち直るきっかけはアパートの壁の向こう側から、いかにも幸せそうな家族の団欒が聞こえたことにあるそうです。その幸せそうな家族に引き換え、自分の部屋には薬のための注射器とかライターなどがゴロゴロとし、汚れ放題汚れている。壁一枚隔てて全く違う世界がある。精神病院と刑務所を行ったり来たりしている自分は、一体どっちの世界で生きたいのだと思ったというのです。しかし、彼がそうなってしまう前に、家族の者が滅茶苦茶にされているのです。彼は血の繋がった姉から、「お願いだから死んでちょうだい。もう電話をしてこないで」と言われた、と言っていました。どっちが先か、どっちが悪いのかは、分かりません。
 どちらにせよ、家族というのは実に難しいものです。人を生かしもし、殺しもするからです。人から愛されているという実感や、人を愛することを習うのは、基本的には家庭だろうと思います。「基本的な人格は、家族の中で養われる」。たしかにそうでしょう。しかし、早死にする人もいれば、子を愛せない親もいるし、他人から見ればしっかりしている家族だって色々あるのです。問題が人を成長させることだってあるのですから、問題がなければ良いというものではありません。また、家族以外の関係の中でちゃんと育った人もいます。とにかく、家族というものは考えれば考えるほど難しいものである。それは確かなことです。

  弟子たち 使徒たち

 今日はパスカ、「過越の食事」の場面です。これは家族、親族の食事です。残してはいけないのです。全部食べ切らなくてはいけない。小羊も種入れぬパンも苦菜も、全部食べなくてはならない。そういう食事を、主イエスは弟子たちと一緒にした。それは、主イエスは弟子たちを家族とした。つまり、父なる神を中心とした家族としたということです。その家族がどういうものであるかは、その時、「弟子」たちは分かっておりません。それが分かるのは、彼らが後に「使徒」になってからです。しかし、今はその問題はさておいて先に進みましょう。

  主イエスの主導性

 今日の箇所は、「時刻になったので」という言葉で始まります。これは、22章1節の「さて、過越祭と言われている除酵祭が近づいていた」と、7節の「過越の小羊を屠るべき除酵祭の日が来た」に繋がります。そこで私が語ったことの一つは、主イエスの主導性です。祭司長たちもユダも、民衆も、ペトロもヨハネも、誰もこの時、自分がやっていることが何であるかが分かってはいないのです。分かっているのは、主イエスだけである。そう語ったのです。
 そのことは、「時刻になったので」という言葉に始まる今日の箇所にも繋がります。主イエスだけなのです。今ここで何が起こっているのか、これから何が起ころうとしているのか分かっているのは、主イエスだけなのです。そのことを頭に入れておいてください。

  主イエスにとっての過越の食事

 ルカ福音書には、よく似ていると言われるマルコ福音書やマタイ福音書とは違い、「杯」の場面が17節と20節で繰り返されており、使徒たちの議論もあり、細かく見るとその他にも色々と違いがあります。ある学者は、過越の食事には三度の杯の時があるから、ルカの方が史的には正しいと言いますし、その他の点でも色々な説明があります。
 私は、彼らが守り続けてきた「過越の食事」が、主イエスの十字架の死により、弟子たちとの「最後の晩餐」となり、それが現在の教会の「聖餐式」に繋がる。主イエスはそのことを表し、ルカはそのように受け取ったのだと思っています。それは次第に明らかになってきます。今日は、その点に絞って読んでいきたいと思います。

  使徒たちも一緒だった

 今日の所で、主イエスの「弟子たち」がいきなり「使徒たち」となっていることにお気づきになったと思います。「使徒」とは「遣わされた者」という意味で、ルカ福音書の続きと言われる使徒言行録では「弟子」「使徒」となっています。新しく誕生した主の民であるキリスト教会の中で、かつて主イエスの「十二弟子」と呼ばれていた者が主イエスの「十二使徒」と呼ばれるようになったのです。教会は肉眼には見えないキリストの体だからです。
 ここにおける「使徒たちも一緒だった」「一緒」(スン)は、この先に出てくる女中の言う「一緒」と同じです。主イエスが群衆に捕らえられ、大祭司の屋敷に連れて行かれた時、ペトロはひそかに付いていき、人々に交じって中庭で焚火に当たりながら周囲の様子を見ていたのです。その時、ある女中がペトロをじっと見て「この人も一緒にいました」と言ったのです。つまり、「イエス様とペトロはいつも一緒にいる仲間だ」ということです。この「一緒」とは、そういう意味です。

  切に願っていた

 「使徒たち」
というのは、言ってみれば教会の代表者たちであり、彼らの信仰が教会の信仰なのです。そういう意味で、教会は何処の教派であっても「使徒的教会」と呼ばれ、当然、中渋谷教会も「使徒的教会」です。だから使徒と共なる食事は教会の食事であり、その食事をとることを、主イエスは「切に願って」いたのです。この「切に願う」も、原文では「願い」と「願う」が重なっており、主イエスの必死さが伝わってくる言葉です。
 「過越の食事」は、ヘブライ人が奴隷であったエジプトを脱出して、神の民イスラエルが誕生したことを記念する「救いの食事」であることは、前回語りました。その食事を主イエスは弟子たちとの「最後の晩餐」として守りながら、主イエスの十字架の死による新しい契約の食事、聖餐の食事の出発にしようとしているのです。

  苦しみを受ける前に

 そして、「苦しみを受ける前に」、主イエスは「使徒たち」とこの食事を共にしたいと切に願われたのです。この「苦しみ」はパスカに似てパスコウという言葉ですけれども、主イエスの言葉の中では、いずれも十字架の死を暗示する場面で出てきます。最初の受難予言(9章)や復活のイエス様の言葉(24章)も、主イエスは苦しみを受けつつ、十字架で殺され、三日目に復活することを指していることは言うまでもありません。すべては使徒たち、つまり私たちの救いのためなのです。

  神の国が来るまで

 福音書に書かれていることは、すべて一回的な出来事です。今から数えれば、約二千年前に起こった出来事です。その時以来、主イエスは過越の食事だけでなく、肉体の命をもって食事をとることはないのです。「神の国で過越が成し遂げられるまで、わたしは決してこの過越の食事をとることはない」とか、「神の国が来るまで、わたしは今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい」とは、一義的にはそういう意味です。しかし、そのことを知っているのは、この時、主イエスのみなのです。
 主イエスは、繰り返し「感謝の祈りを唱え」ます。それはユダヤ人の習慣なのですけれど、主イエスだけはやはり特別な意味を込めて祈っておられると思います。
 ここで主イエスは、杯を「取り上げ」とあります。これは「取り上げ」と言うより「受け取る」(ディクソマイ)を表す言葉です。主イエスは、ご自分の定めをここで受け取っておられるのです。主イエスだけは、この食事が人々の救いが決定するが「最後の晩餐」になることをご存知であり、それが後の教会の「聖餐式」に繋がることをご存知だったのです。
 「弟子たち」いや「使徒たち」も、最初は何も知りませんでした。彼らがこの食事を特別な食事として守るようになったのは、この時に主イエスから頂いた一つの「杯」は、自分たちの罪のために十字架で流される主イエスの血であり、罪に対する死の罰を下す神の使いが、イスラエルの家を過ぎ越すために犠牲となる小羊の血であることが分かったからです。この食事を守ることを通して、彼らはそのことが次第に分かってきたのです。しかし、ご自分が犠牲になることを、主イエスだけはご存知であり、洗礼を受けた時に私たちも信仰において知るべきなのです。その時、主イエスの十字架の死と復活の命は自分の救いのためであったという信仰によって、私たちの命は肉体の死を越えた永遠の命になるからです。それが実際に起こるのは世の終わり、主イエスの再臨によって「神の国で過越が成し遂げられ」「神の国が来る」時のことです。私たちキリスト者は、誰でもその望みを抱いて生きているのです。
 そして、教会の聖餐式はこの終末に完成する「神の国」を証し、その国、つまり神の支配が肉眼には見えない形で、しかし確かにこの地上に来ていることを証し、この国に人々を招くものなのです。主イエスと弟子たちとの「最後の晩餐」は次第に使徒たちとの「聖餐式」になり、このようにしてすべての人々を神の国に招くものとなっていくのです。

  与える

 今言ったことから分かりますように、分けることは無意味なのですけれど、以上が主イエスと使徒たちの「最後の晩餐」であり、19節から最初の「聖餐式」が始まります。そこで重要なのは19節と20節の両方に「あなたがたのために」とあることです。パンに象徴される主イエスの体は「あなたがたのために与えられ」た主イエスの「体」なのだし、杯は「あなたがたのために流される」主イエスの「血による新しい契約」の象徴なのです。この両方とも主イエスの命を表しますが、主イエスは使徒たちにその命を「与えた」のです。使徒たちは、この時はその意味が分かりません。しかし、主イエスは使徒たちのために、そして私たちのためにその体と血を与えてくださったのです。
 それは、主イエスが、私たちのために死んでくださり、私たちのなかに生きてくださっていることを表しているのです。私たち人間は、自分のしている事がどういう事なのか分からない、そして私たちの命の源である神様からどんどん離れていってしまう。そういうことしか出来ない罪なる私たちのために、主イエスは十字架上で死んでくださった。そして、三日目に復活させられて「あなたがたに平和があるように」(24:36)と言って、私たちに出会ってくださった。二度繰り返されている「与える」という言葉は、そのことを表していると思います。

  わたしの記念として

 しかし、毎週の礼拝に於ける司式者の祈りにあるごとく、私たちは忘れやすい者です。だから、そういう私たちに御言を与えてくれる御言による礼拝と聖餐式を伴う礼拝が与えられているのです。その度に主イエス・キリストの十字架の死と復活の命、そして昇天と天からの統治、そして再臨による神の国の完成を、御言と聖餐のパンと葡萄酒を通して、私たちは思い起こすのです。「わたしの記念として、このように行いなさい」とあるとおりです。
 教会は、世の終わりまでこの礼拝を捧げます。この礼拝の中で、私たちは生きているのです。なんと幸いなことかと思います。

  旧い契約

 「わたしの血による新しい契約」
と、20節にはあります。「新しい契約」と言う限り「旧い契約」もあるはずです。それは、出エジプト記の過越の食事が書かれている12章の続きにあります。この食事の後、イスラエルはエジプトを脱出し、十戒と契約の書を与えられたと出エジプト記に記されています。その後、24章になりますけれど、新共同訳聖書の小見出しでは「契約の締結」となっているところで、モーセは民の前で十戒と契約の書を読みました。そこで民は「わたしたちは、主が語られた言葉をすべて行います」と言うのです。その上で、モーセはイスラエル十二部族を表す十二個の祭壇を建てて、その祭壇に犠牲の雄牛の「血」を捧げ、契約の書をもう一度民に読み聞かせます。すると、民が「わたしたちは、主が語られた言葉をすべて行います」と繰り返します。そこでモーセは、「血」を取り、民に振りかけて「見よ、これは主がこれらの言葉に基づいてあなたたちと結ばれた契約の血である」と言ったのです。
 その契約締結の式を見届けてから、モーセは兄のアロンやイスラエルの長老七十人たちとシナイ山に登り、そこで「神を見て」の食事をします。これは、神の前で新しい民が誕生したことを記念する食事です。もちろん「過越の食事」を経ての出エジプトが前提のことですが、ここで十戒と契約の書を与えた上での「血」による契約締結が終わり、彼らはその徴である「神を見て、食べ、また飲」む食事をしたのです。このように、言葉と血をもって、神の民イスラエルは誕生したのです。
 私たちは、ルカ福音書22章の「血による新しい契約」の前に、主イエスの長い説教があったことを思い起こさねばなりません。その言葉の後に、使徒たちを伴う神と主イエスとの契約締結があるということ。そのことは大切なことです。

  主イエスの苦しみ

 主イエスは、ご自身の「苦しみ」(パスコウ)を、基本的に「使徒たち」あるいは「弟子たち」だけが聞いている受難予言の中で語ります。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」(9:22)というようにです。そこで「苦しみ」とは、主イエスの十字架刑の死を意味するものなのです。そこで裂かれる体や流される血はすべて犠牲の体と血なのであって、主イエスは単に死んだのではなく、十字架に磔にされて死んだのです。
 その時、主イエスが祈った祈りは「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(23:34)というものでした。私たちは自分が知らぬ間に、命の源なる神から離れてしまう罪を犯してしまう。その罪を赦して欲しい。主イエスは、ユダヤ人だけでなくすべての人間が陥る罪の赦しのために、十字架の上で死んでくださった、犠牲となってくださった、その体を裂き、血を流してくださったのです。そのようにして、私たちを新しい民としてのイスラエル、御言と聖餐の食卓を中心とした民とする契約を神と結んでくださったのです。だから、私たちキリスト者がこの食卓を囲む時に、いつも主イエスの血によって結ばれた契約、決して破られることのない契約の中に入れられるのです。

  しかし、見よ

 「しかし、見よ、わたしを裏切る者が、わたしと一緒に手を食卓に置いている」
と、主イエスは言われます。この「しかし」と22節の「だが」(プレーン)は、これまでのもの(デ)よりも強い意味です。さらにここでは「見よ」(イドゥ)が付いて、私たちが注目すべきことが何であるかが言われているのです。それは何かと言うと、新しい民が誕生する食卓、新しい契約の食卓に主イエスを「裏切る者」がいるということです。使徒たちは誰も分かりません。でも、主イエスだけは分かっている。それも最初からです。主イエスはこの食事を続けて来たし、それを止めはしないのです。
 つまり、主イエスの犠牲によって新しく誕生する民とは、これから「接吻」で主イエスを裏切るユダや、小麦のようにふるいにかけられるペトロを初めとした「使徒たち」なのです。主イエスの体は彼らのために裂かれ、その血も彼らのために流されるのです。それは自分の罪を知って悔い改めた者のためではなく、「自分が何をしているのか知らない」者のためです。そのようにして死ぬことが、主イエスに対して神が「定められたとおり」のことであり、主イエスだけはそのとおり歩んでいくのです。主イエスが主導する救いの道は、ご自身にとっては滅びの道だったのです。そして、主イエスはその最初からすべてをご存知でした。
 ユダは、いくつも可能性がありつつ「接吻」で主イエスのことを裏切る道を自ら選び取ったのです。だから彼は「不幸」(ウーアイ)なのです。私たちは、何でもかんでも神様のせいにはできません。主イエスだって、いくらでも神様が定めた道に背くとは出来たし、悪魔の誘惑も受けてきたのです。主イエスに与えられた道は、これまでもずっと苦しみに満ちたものでした。これからもそうです。主イエスは、「苦しみもだえ、いよいよ切に祈られ」(22:44)つつ、その道を歩んで行かれたのです。何とか道から逸れるようにと画策する悪魔と、主イエスは戦いつつ、神が定めた道を歩み通されたのです。
 しかし、ユダもペトロも結局自分の思いを優先しました。ユダは、マタイ福音書によれば、主イエスに対する有罪判決を知って後悔したのですが、時既に遅く、彼は首を吊って自殺してしまいました(マタイ27:3〜10)。そして、ペトロは主イエスのことを「わたしはあの人を知らない」(22:57)と言ってしまったのです。

  私たちは主イエスの家族

 しかし、主イエスはそういう者たちのために苦しまれたのだし、その苦しみの前に新しい契約のための食事を彼らと一緒にしたいと切に願われたのです。主イエスと一緒に食事をするのは、主イエスを裏切り、結果として死刑の手助けをすることになるユダと、ご自身を否認することになるペトロを含む使徒たちです。彼らを、主イエスはご自身の家族とされたのです。私たちも、その家族の一員です。私たちの中にも裏切る者、否認する者、いろいろいるでしょう。私たちは何も立派な人間ではありません。でも、主イエスはそういう私たちのために苦しんでくださった、体を裂いてくださった、血を流してくださった。そのことによって、私たちを新しい主の民イスラエルとする新しい契約を結んでくださったのです。その事実に変わりはありません。御言と聖餐は、今もそのことを伝えているのです。私たちは新しい主の民イスラエルなのです。今日はそのことを覚えたいと思います。
 そして、私たちはこれから始まるバザーに備えましょう。今は昔と時代は変わりました。奉仕の中心であった家庭婦人は減り、お中元やお歳暮の献品が華やかな時代は終わりを告げました。しかし、昔も今も私たちが神の家族の一員である事実は変わりません。私たちは目に見える形では物を売っています。でも本質的には物を売っているわけではなく、この教会の一員であること、主イエスの家族の一員であることの喜びを分かち合うのです。喜びは、分かち合う時こそ倍加するからです。この喜びを分かち合うためにこそ、バザーはあるのです。

ルカによる福音書説教目次へ
礼拝案内へ