「私たちのために祈る主イエス」

及川 信

       ルカによる福音書 22章24節〜34節
   
22:24 また、使徒たちの間に、自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか、という議論も起こった。22:25 そこで、イエスは言われた。「異邦人の間では、王が民を支配し、民の上に権力を振るう者が守護者と呼ばれている。22:26 しかし、あなたがたはそれではいけない。あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。22:27 食事の席に着く人と給仕する者とは、どちらが偉いか。食事の席に着く人ではないか。しかし、わたしはあなたがたの中で、いわば給仕する者である。22:28 あなたがたは、わたしが種々の試練に遭ったとき、絶えずわたしと一緒に踏みとどまってくれた。22:29 だから、わたしの父がわたしに支配権をゆだねてくださったように、わたしもあなたがたにそれをゆだねる。22:30 あなたがたは、わたしの国でわたしの食事の席に着いて飲み食いを共にし、王座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。」
22:31 「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。22:32 しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」22:33 するとシモンは、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言った。22:34 イエスは言われた。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」

  人間の二面性

 今週はいつにも増して人間の二面性を見させられた週だと思います。お隣の国もいろいろ大変のようだし、我が国の現状も嘆かわしいものですが、優に一年間もやっていたある国の大統領選は、「史上最低のけなし合い」だとか「政策なき論争」とか「憎しみによって分断される国民」とか言われてきました。しかし、「女性」であること以外はこれまでとあまり変わらぬ候補が選ばれると思っていたのが、当初は「泡沫候補」と言われていた暴言王にして、政治経験が全くない候補が、恐らくその故でしょうけれど、次期大統領に選ばれました。すると今のところその候補の威勢の良い前言は鳴りを潜め、「彼が大統領であることは災いだ」「史上最低の大統領だ」と言っていた現大統領と会い、「大統領と会えて光栄だ。偉大な功績につていろいろ聞いた。また会いたい」とリップサービスを言う。そういうことは、形は違っても対立候補や現大統領も本質は同じかもしれません。今後その国や、我が国を含めた世界がどうなっていくのかは、私には分かりません。
 次期大統領になる方は、先日、女性に対して、今で言うところの、パワハラとかセクハラまがいのことを言ったと公にされました。でも、「私ほど女性に対して尊敬の念をもってる者はいない。それは皆が知っていることだ」と、多くの人が見ているテレビ討論では言うのです。つまり、「私は女性ばかりではなく、この国の労働者、ひいては私が国民と考えるすべての人の『守護者』となる」と言っているのだと、私は思います。
   25節にある「守護者」と訳された言葉は、主イエスの時代の権力者の自称だったようです。「恩人」という意味もありますが、とにかく「良い」ことをする人です。しかし、ある人にとって「良いこと」は、他の人にとって「悪いこと」です。でも、そんなことを気にしていたら「守護者」はやっていられません。しかし、間違ってはならないことは、彼らは「使徒たち」ではないということです。この世の人です。この違いは大きいのです。

  使徒たち=教会の現実

 今日の聖書箇所で問題になっているのは、十二弟子、後の十二使徒です。教会の中で、重んじられるべき人です。前回の過越の食事、最後の晩餐、最初の聖餐式の場面において彼ら「弟子」たちは突然「使徒」たちと呼ばれ、この福音書を書いたルカは、イエスの復活、昇天以降に誕生した「教会」を意識して書いています。「あなたがたキリスト者が重んじている『使徒たち』の現実は、こういうものだ」という意味で書いているのです。しかしそれは、十二使徒の現実を公にして人々の歓心を買おうとしているわけではありません。教会の現実を書こうとしているのです。

  聖ヶ丘教会との合同礼拝

 先日の聖ヶ丘教会と中渋谷教会との合同礼拝後の茶話会において、合同礼拝の起源の話になり、私は大体こういう趣旨のことを言いました。
 「この種の祈り会は信徒のものです。大体、牧師はいつ辞めるか分かりません。三〇年位前から洗礼と聖餐の関係が問われてきました。その頃から、この祈祷会は始まりました。長らく『祈祷会』と言ってやって来たのです。しかし、それでは全員が祈るようだし、聖餐式もあるのだから『礼拝』と呼ぼうということになり、『合同礼拝』と呼ぶことになったのです。聖ヶ丘教会と中渋谷教会とでは、あらゆる面でタイプが違いますけれど、洗礼と聖餐の関係に対しては一致しているのです。でも、教会の中で『先生』と呼ばれる人間は、何でも相手より上だと思いたがる傾向があるから、こういう祈りは信徒が中心にやらなければ駄目です」。
 私は、そう思っています。

  マウンティング

 そもそも24節の言「偉いだろうか」は「誰が人々から一番偉いと思われているか」が原文の意味です。私たち人間にとっては、自分で思うことと同時に人にどう思われているかが大事なのです。
 それは「議論も起こった」という言葉にも表れています。この「議論」という言葉も、「争うことが好きだ」という言葉です。「好き」と「争い」が合わさった言葉なのです。私たちも、気が付けば好きなことをしているということがあります。使徒たちも、例外ではないのです。イエス様は、首都であるエルサレムに入り、そろそろご自分の国を造るのではないかと弟子たちは思っている。その弟子たちの中で、誰が一番偉いと思われているか。今で言う「世論調査の結果」が、彼ら使徒たちの関心事だったのです。
 この世においては、名刺に記されている役職で、人の見方やお辞儀の角度が変わったりします。また先日のワイドショーでは、これまで動物にしか使わなかったマウンティングという言葉を人間にも使って、「女のマウンティング」が特集されていました。それは、子どもに習い事をさせているか、どのメーカーの乳母車に乗せているか、着物はどのブランドかなどを何気ない会話などで探るというものです。人は人に対して、どこまでも上から目線を持ちたがるということです。人は、そういう二面性を持っているので、恐いものです。

  異邦人と主イエスの食事

 主イエスは、「使徒たち」をいきなり「異邦人」に譬えます。「異邦人」とは結局「この世の人」のことですけれども、主イエスとの食卓を共にしていないということで「契約」とは何の関係もない人のことです。「使徒たち」は、主イエスと食事をしているのです。でも、その「使徒たち」「偉い人」になりたいし、上に立ちたいし、食事の席について給仕をしてもらいたいのです。その点で、この世の人と全く変わりはないのです。
 しかし、主イエスの食事においては、主イエスご自身がすべて給仕したのではないでしょうか。杯やパンをご自身の血や体として、つまりご自身の命として、主イエスは「使徒たち」に与えたのです。主イエスは、最も低きところに降って、「神の国」たる新しい共同体、「教会」を建てる契約を使徒たちに与えたのです。その「契約」の最初の受け取り手が、彼ら「使徒たち」なのです。しかし、その使徒たちが、気が付くと「契約」とは無関係の「異邦人」、「この世の人」になってしまう。
 そういう中で、主イエスだけは違う。彼らは、その事実を見ていたはずです。彼ら使徒は、主イエスの言葉と業、そして「新しい契約」の目撃者であり、体験者なのです。しかし、この世の人でもある。彼らはそういう意味での二面性もあるのです。

  試練 誘惑

 主イエスは当初から様々な「試練」に遭いました。主イエスは、褒められ、感嘆もされましたけれど、その最初から殺されそうにもなったのです。そして、彼ら弟子たちを選んだのは主イエスです。そして、弟子たちは尽きることのない魅力を持つ主イエスに従いながら、主イエスの言葉と業を見ていました。
 しかし、主イエスは弟子を選ぶ前に、ルカによる福音書ではサタンとも呼ばれますけれども、悪魔の誘惑を受けられました。この「誘惑」「試練」も同じペイラスモスという言葉です。主イエスは、悪魔からの誘惑に御言葉によって打ち勝たれました。それから宣教を開始されたのです。
 弟子たちは違います。主イエスが教えてくださった祈りにも「わたしたちを誘惑に遭わせないでください」(11:4)とありますし、もうすぐ出てきますオリーブ山における祈りにおいても、主イエスから「誘惑に陥らないように(起きて)祈りなさい」と二度も言われるのです。つまり、彼らは主イエスによって祈られなければならない人なのです。その点は、後程語ります。ここで私たちが覚えておかねばならないこと、それは主イエスが彼らを選び、彼らが主イエスの言葉と業を間近に見聞きし、主イエスに祈られ、後に教会の使徒になって、主イエスの言葉と業、新しい契約の食事、十字の死と復活、そして自分たちの裏切りの事実を伝えたことです。そういう意味で、彼らは使徒なのです。

  あなたがたにゆだねる

 今日の27節から30節までに、「あなたがた」が実に四回も出てきます。新しい契約に与ったのは、そして主イエスを裏切ったのは、イスカリオテのユダやペトロだけではないのです。使徒たち全員なのです。そして、29節に二度出てくる「ゆだねる」は、ディアティセーミという言葉です。その名詞形はディアテーセーで、20節に出てくる「新しい契約」の「契約」という言葉です。主イエスが、自分がやっていることの意味も分からぬまま、神を抹殺してしまう私たち人間のために、神の罰として十字架に磔になって死んで、墓に葬られて、神がそこを復活の場にして下さることによって、神を抹殺してしまう罪に対する罰を受け、彼らの罪を赦す。主イエスは結局そのことを語り、その業をなさってきたのだし、新しい契約を神とそして使徒たちと結んできたのです。彼ら使徒たちは、主イエスの復活、昇天、聖霊降臨を通してそのことを知ったのだし、主イエスはそのようにして「神の国」を打ち立て、それを彼らに委ねたのです。

  国と支配

 主イエスは、そのことを「あなたがたは、わたしの国でわたしの食事の席に着いて飲み食いを共にし」と言われます。今回初めて知ってビックリしたことは、この「わたしの国」「国」と29節に出てくる「わたしの父がわたしに支配権をゆだねてくださったように」「支配権」は同じ言葉、バシレイアという言葉だということです。ですから、主イエスが「使徒たち」と一緒にした食事は、単なる食事ではなく、「新しい契約」を結んだ記念の食事なのです。  前回、私は出エジプト記24章9節以下を引用しましたけれど、そこは今日も引用しておきましょう。それはモーセを初めとするイスラエルの長老たちとの食事、シナイ山における契約締結を記念する食事の場面です。その直前に、モーセが民と祭壇の両方に犠牲の血を振りかけたりするのですが、そこに「神はイスラエルの民の代表者たちに向かって手を伸ばされなかったので、彼らは神を見て、食べ、また飲んだ」(出エジプト24:11)と、あります。神を見て食事をするとは、そういうことです。
 神は、信仰に生きることに失敗したイスラエルを含む形で、しかし、全く新しい契約を使徒たちと結ぼうとしているのです。それは、自分が何をしているかも分からぬままに、主イエスを裏切る弟子たちに命まで与える食事を通してです。この主イエス・キリストを通して、神はご自身を現わされたのです。「使徒たち」は、その神と聖餐式に繋がる最初の食事をしたのです。

  主イエスの愛

 30節後半の「あなたがたは・・・王座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる」は、「すべての教会は使徒たちの信仰に基づいて『使徒的教会』と呼ばれる」という意味以外のものではないでしょう。彼らが「神の国」で人々を治めるわけではありません。それは「神の国の秩序」ではありません。彼らが示されたのは「罪の赦し」なのです。どんなに高い地位にある人も、犯された罪も自分が犯してしまった罪も赦せません。先日アメリカの大富豪と政治献金の番組を見たのですが、彼は自家用の大きな舟の上で寛ぎながら、浜辺で遊ぶ庶民を見ながら、「彼らよりも私が幸せなのかどうか、私も分からない」と、言っていました。大金を使っても、人間の罪はどうにもならないのです。
 しかし、イエス・キリストに愛されていること、その愛は自分の命を与える愛であることを知った者は、「罪の赦し」という愛に突き進んで行くのです。主イエスは、こう言われました。

 「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」(ヨハネ20:21〜23)

 使徒の仕事とはキリストの仕事であり、それは即ち「罪の赦し」なのです。「使徒たち」は最初にそのことを知らされた人たちなのです。そしてそれが「神の国」であり、聖餐と説教は、そのことを表しているのです。

  自分が欲しいのは憐れみだけだ

 皆さんの中にもご覧になっている方もおられるかもしれませんが、日曜日の夜に、トルストイ原作の『戦争と平和』というテレビドラマがあります。ナポレオンとの戦争が描かれ、舞台は主にモスクワです。登場人物の一人にアンドレイという軍人がいます。彼は父親の言いつけ通り、婚約者であるナターシャを一年間だけおいて遠くに行ってしまうのです。その間に、ナターシャは、本当は妻がいるアナトールという色男にあの手この手で誘惑され、「一緒に駆け落ちしよう」ということになる。しかし、その駆け落ちは寸前に止められるのですが、ナターシャは家に引き籠るしかなくなり、アナトールはモスクワにはいられなくなるのです。アナトールもナターシャも決して赦せないアンドレイは、自殺願望を内に抱えながら、ナポレオンとの戦場に向かいます。
 その前に、主人公でもあるピーター(ペテロ)に、アンドレイは「赦しは女の美徳で僕にはできない。そして、僕はアナトールに会ったら、殺す」と言っているのです。
 アンドレイは戦場で半死半生になり野戦病院に運ばれます。その隣のベッドに、なんと片足がノコギリで切り落とされたアナトールがおり、泣きながらこう言うのです。

 「今、自分が欲しいのは憐れみだけだ。」

 アンドレイはその言葉を聞きながら、静かにアナトールの手を握るのです。「殺す」と言っていた相手です。
 そして、ひょんなことから特権階級の伯爵になってしまったピーターは、戦争というものはどんなものであるかを知りたくて、戦場に行きました。そこで彼が知ったことは、戦争の悲惨さで、戦争とは結局人殺しに過ぎないことを知ります。そして、彼は分かったのです。

 「世界は愛されたがっている。」

 「私が世界を愛している」ではないのです。「神が世界を愛している。その愛を人は現して欲しい」。神はそう言っているのです。
 来週の朝礼拝には入会式があります。クリスマス礼拝では、試問会の結果ですが洗礼式が予定されています。当然、試問会では祈ってもらいます。受洗してキリスト者になるとは、垂直の言葉を使う、神からの言葉、神への言葉を持つということだからです。キリスト者は人間同士の間で使う水平の言葉だけでなく、垂直の言葉も使うのです。でも、誰だって最初は赤ん坊ですから、そういう言葉を使えばよいのです。しかし、神はその独り子を通して私を愛してくださっている。その事さえ、知ればそれで良いのです。その愛の極みが、ここで言う「憐れみ」、「罪の赦し」なのです。

  ペトロの愛、主イエスの愛

 最後にペトロのことを語ります。ここでは彼の本名である「シモン、シモン」と出てきます。このように二度の呼びかけは「アブラハム、アブラハム」「サウル、サウル」など、重要な箇所で出てきます。ここには訳されていませんけれども「見よ」という言葉も出てきます。
 ペトロもユダも他の者たちもエルサレムに入って、これからが本番だ!と張り切っていたでしょう。その時にサタンに誘惑されたのです。神は、これから信仰に生きようとしている人間に、信仰は人間のものではないことを教えるために、サタンを使うことがあると思います。「ふるいにかける」とは、その信仰の真贋を見分ける方法だと思います。
 ペトロは自分の信仰はまともだと思っていますから、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と、豪語します。しかし、ほどなく「わたしはあの人を知らない」と、鶏が鳴く前に三度も言うことになります。34節にありますように、主イエスの預言通りです。その時、岩(ペトロ)のような彼は、自分を裏切ったのです。裏切りとはそういうものではないでしょうか。彼は主イエスを裏切るのですが、裏切りとは自分を真っ先に裏切るものです。彼の自分への愛、主イエスに対する愛はその程度だったのです。
 しかし、「必ず最後に愛は勝つ」という歌がこの国でも数年前に流行りましたし、アメリカでは有名な歌手が「love trump hate」(愛は憎しみを打ち負かす)と次期大統領の名をもじったプラカードをその候補の自宅前で掲げていました。
 主イエスは言われたのです。

 「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ22:32)

 岩(ペトロ)のような人でも挫けること、失敗することは幾らでもあります。しかし、主イエスはそういう人を見捨てることなく、祈ってくださるのです。この主イエスの祈りは、ペトロ個人に対するものでないことは、言うまでもありません。

  神が立ち直らせてくださる

 先々週、ATさんが急逝し、私はATさんが『桜通信』や「会報」に書き残してくださったものを何度も読みました。そして、「信仰(受洗)五十年」のお祝いの時に私が必ず言う言葉が、ATさんにとっても意味あることだったと思いました。私は必ず「信仰五十年とは、五十年の長きにわたって神様がお見捨てなく導いてくれたことを感謝する会だ」と言うのです。そしてそれは、「キリスト者」と呼ばれることや「長老」と呼ばれることに、多少危惧があったATさんの踏ん切りになったようです。
 信仰は神様の賜物なのです。決して自分のものではありません。最後に勝つのは、主イエス・キリストを通してご自身を現し、契約を立てられた神です。十字架と復活の主イエス・キリストを通して、神の国の基礎を据えた神なのです。

 最後にこの箇所に関する注解者の言葉を引用します。

 「ペトロが弟子の手本とされるのは、彼が決して失敗しなかったからではなく、立ち直ったからである」。

 これは本当のことだと思います。ペトロのために、主イエスは祈ってくださっているのです。そのことを忘れないで生きていきたい。私たちが生きているのでなく、私たちは生かされているのです。ご自身の十字架の死と復活を通して、神と人との間に「平和がある」と言われた主イエス・キリストとの出会いを通して、「神の国」は私たちを通して証されていくのですから。

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