「父よ、御心なら」
22:35 それから、イエスは使徒たちに言われた。「財布も袋も履物も持たせずにあなたがたを遣わしたとき、何か不足したものがあったか。」彼らが、「いいえ、何もありませんでした」と言うと、22:36 イエスは言われた。「しかし今は、財布のある者は、それを持って行きなさい。袋も同じようにしなさい。剣のない者は、服を売ってそれを買いなさい。22:37 言っておくが、『その人は犯罪人の一人に数えられた』と書かれていることは、わたしの身に必ず実現する。わたしにかかわることは実現するからである。」22:38 そこで彼らが、「主よ、剣なら、このとおりここに二振りあります」と言うと、イエスは、「それでよい」と言われた。 22:39 イエスがそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った。22:40 いつもの場所に来ると、イエスは弟子たちに、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われた。22:41 そして自分は、石を投げて届くほどの所に離れ、ひざまずいてこう祈られた。22:42 「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」〔 22:43 すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた。 22:44 イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。〕 22:45 イエスが祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに戻って御覧になると、彼らは悲しみの果てに眠り込んでいた。 22:46 イエスは言われた。「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい。」 「時」と「時間」 「時」というものも、均質に流れているわけではありません。皆さんもお感じになっているように、グッと凝縮していたり、ダラダラと時間だけが流れていくという感じの時もあります。新約聖書が書かれたギリシア語にも、満ち欠けする「時」を表すカイロスや均一に流れる「時間」を表すクロノスという言葉があります。 受難物語の「時」 22章から始まる受難物語を読んでいると特になのですが、「時」が迫っていることを感じます。明らかにこれまでのこととは違うことが始まっている。そう感じます。主イエスも「使徒たち」にそのことを感じて欲しかったのだと思います。主イエスは、食事をしたところで使徒たちに尋ねるのです。 それから、イエスは使徒たちに言われた。「財布も袋も履物も持たせずにあなたがたを遣わしたとき、何か不足したものがあったか。」 彼らの中にはイスカリオテのユダのように主イエスを直接大祭司に渡す者がおり、ペトロを初めとする弟子たちが自分たちの「偉さ」や、人より「上に立つ」ことを願っていることを、主イエスは知っているのです。しかし主イエスはそういう彼らと共に食事をし、彼らに「新しい契約」を与え、彼らに「支配権」、つまり「神の国」を与えたのです。主イエスはそのために天から降り、その言葉と業をしてこられたのです。弟子たちは、その意味が分からぬままにもそれらを直接見聞きしてきた人たちだし、主イエスに従ってきた人たちです。 その彼らに、十二人の弟子の派遣や七十二人の弟子の派遣の時を、主イエスは思い出させているのです。その時主イエスは、弟子たちに「何も持っていくな」と命じられたのです。弟子たちは、それでも「不足したものは何もありませんでした」と答えました。 ガリラヤとエルサレム それに対して、主イエスは「しかし今は、財布のある者は、それを持って行きなさい。袋も同じようにしなさい。剣のない者は、服を売ってそれを買いなさい」と、おっしゃったのです。NHKで放送している『真田丸』や戦国時代ものの番組を見ても分かりますように、親玉に対する謀反の疑いや、反乱などを起こして失敗したら大変です。処刑されるのは本人だけではないのです。「一族郎党」という言葉がありますように、妾や子どもまで含めて処刑されることもあります。 主イエスは、「ここはガリラヤではなく、エルサレムだ」と、おっしゃっているのです。使徒たちは、「いよいよ主イエスは大祭司に代わって国の最高権力者になり、自分たちも人々の上に立つ日が近い」と思っている。しかし、主イエスは全く違うことを考えているのです。「祭司長たちは、このエルサレムで自分の命を狙い、弟子の中に裏切る者が出るし、皆が逃げ去ることになる。そうなる前に、私は彼らのために『新しい契約』をたて、彼らのために祈らねばならない」。そう考えているのです。 剣 主イエスの言葉も業も、人間の目や耳で見たり聞いたりすることが出来ます。でも、そこにはいつも裏の意味、象徴的な意味が隠されているのです。私たちは、その意味を読み取らなくてはなりません。 ここに「剣」という言葉が出てきます。その「剣」を、服を売ってでも買えと、主イエスはおっしゃっている。しかし、主イエスは「剣」に象徴されるような武力には反対であることは四七節以下の段落を見れば明らかです。それでは、なぜ主イエスはここで「服を売ってそれを買いなさい」と言われたのか。 たとえばエフェソ書の中に「救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい」(エフェソ6:17)と、あります。ここで「剣」は「神の言葉」です。ここもそういう意味があると思います。でも、教会で重んじられるべき「使徒たち」は、「主よ、剣なら、このとおりここに二振りあります」と言います。彼らは、イエスを「主」と、正しく呼びながら、「剣」を文字通りにしか受け取りません。つまり、主イエスの国は剣二振りで建つと思っているのです。 この言葉を聞いて、主イエスでなくても「それでよい」と言わざるを得ないのではないでしょうか。この「それでよい」の意味は、「あなたがたの分かっていることがその程度だということは、よく分かった。この話はここまでにしよう」ということだと思います。 犯罪人 罪人 それは、37節の主イエスの言葉を見れば分かります。主イエスは、「その人は犯罪人の一人に数えられた」とあります。これはイザヤ書53章12節の言葉で、新共同訳聖書の翻訳では、「罪人のひとりに数えられたからだ」となっています。新約聖書の原語であるギリシア語や旧約聖書のギリシア語訳では、両方とも「律法を持たない人々と一緒に数えられた」という意味です。祭政一致社会の中で神が教えたとされる法を持たないことは即「犯罪者」となり、同時に神の御心を知らぬ「罪人」となります。 しばしば日本語では、犯罪者と罪人が同様の意味で使われるので面倒なことになりますが、犯罪=罪ではありません。現代では、神の御心に背いた法だっていくらでもあるでしょう。しかし、大祭司をトップとする祭司長たち権力者にしろ、権力なき民衆にしろ、神の御心など関係のないローマの総督ピラトにしろ、主イエスを「犯罪者」として殺そうとしたのです。しかし、主イエスは犯罪があろうとなかろうと関係なく、人間の「罪の赦し」のために十字架に掛かったのです。 問題はここで主イエスは、犯罪を含めた人間の罪をすべてその身に背負ったということです。それが、主イエスに関して神様が持っていた計画なのです。そして、主イエスは次に出てくる「祈り」を通して、その計画の通り歩むのです。二度も出てくる「必ず実現する」「実現するからである」は、「神が私に対して定めておられることは、目的を持っているが故に、そして神が実行者であるが故に、必ず実現することになっている」ということです。 悪魔 サタン 主イエスは、罪人の一人に数えられるために天から降ってきたのです。その最初が主イエスの受洗の場面です。そこで主イエスは「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という神の声を聴きました。それから宣教を開始されるのですが、その前に悪魔の「誘惑」を受けたのです。その三つの誘惑に対して、イエス様は御言、神の言葉で戦いました。そして、勝利なさったのです。その時、「悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた」と、あります。 ルカ福音書では「サタン」が「悪魔」の言い換えのように登場します。そのサタンがイスカリオテのユダの中に入り、ペトロを初めとする弟子たちをふるいにかけて彼らの信仰の欺瞞性を吹き飛ばし、主イエスを孤立させていくのです。 山 そういう中で、主イエスは「そこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれ」ました。その主イエスの後に「弟子たちも従った」のです。昼間には神殿の境内で人々に教え、夜は「オリーブ山」と呼ばれる場所に行かれることは21章の終わりに記されていることです。そこでマルコやマタイ福音書では「ゲツセマネの園」であるとか「ペトロ、ヤコブ、ヨハネ」ら三人の弟子たちが呼び出されたとあるのですが、ルカは主イエスがしばしば祈ったと言われる「山」(6:12、9:28など) のままにしますし、主イエスに語りかけられたのは十二人全員であったとしていると思います。 誘惑 そこで主イエスは「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われました。「誘惑の中に入っていかないようにしなさい」ということでしょう。「誘惑」というのは確かにある。しかし、そこに入るのは人間です。それは人間が決める。しかし、人間は「誘惑」に弱いものです。 少し唐突ですが、十五日に親しくお交わりを持ってきたONさんが召され、十八日に葬儀を致しました。多くの会員の皆様がご参列くださいましたことを感謝します。後でご主人のOSさんがご挨拶をしてくださる予定です。そのOSさんから、火葬場でお聞きしたことです。 ONさんは、十一月四日に退院されたのですが、その退院後、「朝食の前に『主の祈り』を一緒に祈ろう」と提案されたそうです。次第にONさんの息が最後まで続かなくなったようですが、その祈りの中に、「われらの罪をも赦したまえ」というものがあります。その直前にあるのは、「我らに罪を犯す者を赦す如く、我らの罪をも赦したまえ」です。その後で、ルカによる福音書は「わたしたちを誘惑に遭わせないでください」です。 問題は「罪の赦し」なのです。自分の罪を赦し、他者が自分に与えた罪を赦すことが出来るのか。そして、神に対して犯した罪を赦せるのか。そのことに「誘惑」、あるいは「試練」の内容があるのです。 祈り 主イエスは、石を投げて届くほどの所に行って、普段は立って祈られたと思いますが、ここでは「ひざまずいてこう祈られた」のです。 「父よ、御心なら、この杯を取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」 「あなたが喜んで私の杯、つまり十字架の死を取りのけてくださるなら、そうしてください。でも、私の願いではなくあなたの願いのままに行ってください」。主イエスは、祈りのなかでそうおっしゃっているのです。 「祈り」には色々あって、ここで少し考えたことを語ることも出来ないと思うほどです。しかし、私たちは神様に向かって自分の願いを言うのが祈りだと思っている傾向があります。それも確かに祈りなのです。神様に言うべきことは言った。願うべきことは願った。今も願い続けている。神様が最も良い時に、最も良い形でその願いを適えてくださるだろう。自分の願いが神様の願ったことに反していれば、その願いは適えられない。そういう祈りはあります。私などは、その祈りが最も欠けていると思います。しかし、祈りとはそれだけではない。 主イエスの祈りの中にも「しかし」というかなり強い言葉がありますけれども、祈りとは自分の願いではなく、神様の願い、その意思を確かめ、その意思を知るためにあるのだとも言えるのです。 主イエスのここでの祈りは、後者のものだと思います。でも、人の歓心を買った方が良いとの「誘惑」、は主イエスが洗礼を受ける時から分かっていたし、悪魔から「誘惑」を受けた時に、これから受けることになる誘惑、試練は主イエスにはある程度分かっていたのです。 犯罪者(罪人)として数えられる しかし、それは主イエスにとっては受け入れがたきものなのです。耐え難いものなのです。それは結局「その人は犯罪者の一人に」数えられるということに行き着くからです。神の律法そのもの、神の御心そのものである方が、それとは正反対の罪人と同列になる。そんな酷いことはありません。 私たちも一緒にされたくはない人はいます。「いくらなんでもあの人と一緒にはしないでください」という人はいます。私にもいますし、私もある人からはそう思われているのでしょう。しかし、主イエスは律法を持たない人と一緒にならざるを得ないのです。そのようにしてしか、神は私たちの罪を赦すことが出来なかったからです。 43節、44節は採用した写本にはないのですが、それよりも古い教父の手紙などにありますから、元来の福音書にはあったはずだと括弧がついているのですが、神が支えてくださらなければ耐えられない「苦しみもだえ」というものがあると思います。 体と心 全然違うことですけれども、私のように脳に障害を負った人にしばしば見られる傾向は、他人から見れば荒唐無稽な作り話を脳が勝手に作って信じているということです。笑い話なのですけれども、私の場合、私は北朝鮮に拉致されており、隣の部屋にはアメリカ人の運転手が拉致され、病院の玄関には救急車が待っているというものです。だから何とかして脱出しなければいけない。一日のうちの数時間はそう思っていますから、周りの看護師たちも、その時は「日本語がやたらと上手いスパイだ」と思っていたのです。翌年の一月に初台の病院に一人の病人として転院し、妻に自分は一人の病人だと聞くまで、ずっとそう思ってきたのです。そうとでも思わなければ、自分の現状を受け入れられなかったのだろうと思います。 それからも色々なことがありましたけれど、病人は体が弱っているだけではなく心も弱っているので、やさしく接してもらう必要があります。最近、病気で病院に入っているのに、リハビリ師から厳しく指導されているという話を聞いたりしたので、私事ですが少し語りました。 主イエスの心 私は、主イエスの心は随分と弱っていると思うのです。語れば語るほど、主イエスの命を狙うものが出てくるのです。弟子たちも、主イエスに付き従ってきますが、「誰が一番偉いとされているか」という思いに捕らわれ、自分の罪を知らず、サタンに負けて主イエスを裏切り、誘惑に入ろうとしている。そういう弟子たちの現実を見ながら、主イエスの心は引き裂かれているのではないでしょうか。そして、頼みの神も「その人は犯罪人の一人に数えられた」という御心をお変えにならない。独り子の十字架の死と復活を通して罪人の罪を赦す。そのようにして、神の国を建てるというご計画は必ず実現させる。そのことを知って、イエス様の心はボロボロに傷ついていたと思います。 神様に力づけられなければ イエス様の「苦しみもだえ」はアゴニアという言葉ですけれど、新約聖書ではここにしか出てきません。イエス様の苦しみは、イエス様だけのものだと言いたいのかもしれません。また「汗が血の滴るように地面に落ちた」という「苦しみもだえ」は、神様から送られた「天使」に「力づけられ」なければ耐えることは出来なかったと思うのです。 立ち上がる主イエス その祈りの後、イエス様は「立ち上がり」ました。これはアニステーミという言葉ですが、時に「復活」の意味で使われます。18章33節には「彼らは人の子を、鞭打ってから殺す。そして、人の子は三日目に復活する」とあります。その「復活する」がアニステーミです。ここでは「人の子」が「新しい人」になったという意味だと思います。 主イエスは神に支えられながら、祈りに祈ったのです。そして、神の御心、その意思は変わらないと分かった。自分は、罪人の罪が赦されるために罪人の一人として十字架に磔になって死ななければならない。罪に対する神の罰を一身に受けなければならない。そのことが分かったイエス様は「新しい人」として「立ち上がった」のです。 眠る弟子たち しかし、そこで主イエスが発見したものは、弟子たちの眠りこけた姿です。ルカは、彼らは「悲しみの果てに眠り込んでいた」としています。そうかもしれません。彼らも、主イエスが自分たちと別れることを言っていることは分かってきたし、自分たちは結局、主イエスの言葉を分からなかったと思ったでしょう。そして、もう時刻は遅いのです。相当に疲れていたでしょう。そして、サタンにふるいをかけられたのです。限界でしょう。彼らは主イエスから「誘惑に自ら入らないように」と言われていたのですが、眠りこけたのです。 しかし、主イエスはここで「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい」と言われました。この「眠っている」は、先の「悲しみの果てに眠り込んでいた」とは違う言葉が使われています。主イエスが「なぜ眠っているのか」という場合、それは「自分の救いに無関心である」という意味だと思うのです。それは、エフェソ書にこういう言葉があるからです。 「眠りについている者、起きよ。 死者の中から立ち上がれ。 そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」(エフェソ5:14) 復活のキリストの光に照らされない人は、光を浴びていないという意味で「死者」に等しいのです。そこから「新しい人」として「立ち上がる」ために主イエス・キリストは祈ってくださったのだし、立ち上がってくださったのです。 起きる 主イエスはここで「誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい」と言われましたが、この「起きる」という言葉は、「復活」と同じアニステーミなのです。主イエスは、私たちに気づくべきことに気づいて欲しいのです。しっかり目を覚まして、私たちの罪こそ私たちの最大の敵であることに気づいて欲しいのです。その罪の赦しのために、主イエスがキリストとして、救い主としてこの地上に来られたことに気づいて欲しいのです。そのために主イエスは十字架に磔にされて死に、三日目に復活し、神の国をもたらしてくださった。そして私たちのために祈ってくださっているのです。今日はそのことを忘れないでください。私たちは、主イエスを主としキリストと信じた時に、聖霊によって新しい人にされているのです。 求めよ ONさんの愛誦聖句は、マタイによる福音書7章の「求めなさい。そうすれば与えられる」です。私たちが求めるべきは、主イエスの愛です。それは主イエスの十字架の死と復活の命による罪の赦し、そして私たちを聖霊によって「新しい人」として「立ち上がらせ」てくださることに表れています。この世は、そのことを忘れさせる誘惑に満ち満ちていますから、私たちは肩を組んで信仰から信仰へと歩んでまいりたいと思います。 |