「今はあなたたちの時」

及川 信

       ルカによる福音書 22章47節〜53節
   
         22:47 イエスがまだ話しておられると、群衆が現れ、十二人の一人でユダという者が先頭に立って、イエスに接吻をしようと近づいた。22:48 イエスは、「ユダ、あなたは接吻で人の子を裏切るのか」と言われた。22:49 イエスの周りにいた人々は事の成り行きを見て取り、「主よ、剣で切りつけましょうか」と言った。22:50 そのうちのある者が大祭司の手下に打ちかかって、その右の耳を切り落とした。
22:51 そこでイエスは、「やめなさい。もうそれでよい」と言い、その耳に触れていやされた。22:52 それからイエスは、押し寄せて来た祭司長、神殿守衛長、長老たちに言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってやって来たのか。22:53 わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいたのに、あなたたちはわたしに手を下さなかった。だが、今はあなたたちの時で、闇が力を振るっている。」

  「時」と「時間」

 前回も最初に「時」に関して語りましたけれど、今回も「時」には二種類あるということから始めます。前回は、満ち欠けするカイロスとしての「時」と、ずっと続くクロノスとして「時間」がある。前者は「ついにその時が来た」とか言われますし、後者は時計が記すように「今は何時何分である」と言われたりします。そう言いますと「時」と「時間」は別物のようですが、そうではありません。そういう「時間」の中に「時」は隠されているものです。この世における出来事を見ながら、「時間」の流れの中に「時」を見ることが大事なのです。それが聖書を読む、ということでもあると私は思っています。

  アドヴェントと受難物語

 教会では今、アドヴェントの時を過ごしています。先日の夕礼拝の説教の中で、秋葉恭子先生は最後にこういうことを言われました。
 「教会の暦では、今はアドヴェントであると言われる。アドヴェントとは、元来『待つ』という意味である。私たちクリスチャンにとって『待つ』は二種類ある。もちろんイエス・キリストのご降誕、クリスマスを『待つ』ということ。それともう一つ、世の終わりに人の子イエス・キリストが再臨することを『待つ』ということだ」。
 そうおっしゃった。私は、その通りだと思います。私たちは今、アドヴェントの時を過ごしています。そういう中で、私は礼拝の中では、もっぱらルカ福音書の所謂「受難物語」を読んでいます。そうすることで、神の子イエス・キリストが天から地上に降ったのは何故かということが分かる気がするのです。前回の説教にある私の言葉を使えば、「犯罪」の中に人間の「罪」を見るということかも知れません。「神の子」である主イエス・キリストが地上に生まれたクリスマスがあって初めて、主イエスが受けた誘惑、試練の意味が分かり、十字架、復活、昇天、聖霊降臨と教会の誕生、そして神の国を完成する再臨がある。別の言い方をすれば、アドヴェントと主イエスの十字架の死、それを繋ぐものとしての受難物語があり、すべて罪人にすぎない人間は、罪を赦してくださる主イエス・キリストを皆で待ち望んでおり、最後は再臨なのです。私たちがこの地上で受ける誘惑、試練のすべてを最も深いレベルで受け、私たちが負わねばならぬ神の怒りによる罰を十字架で一身に受けて死に、葬られた後に復活する主イエス・キリストを、実は罪人である全人類が待ち望んでいたのだし、今も待ち望んでいるのです。新約聖書はそのキリスト、メシア、救い主こそ、イエスだと言っているのです。

  接吻

 今日の箇所には「イエスがまだ話しておられると」とあります。舞台は、通常は「油を搾る場所」を意味するゲツセマネと呼ばれるオリーブ山の麓です。そこで主イエスが弟子たちに「誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい」と言われたのです。ここで「誘惑」と訳された言葉は「試練」とも訳される言葉です。「起きて」も「新しい人に甦る」という意味でもあります。 その「試練」が、これまでとは違う形で主イエスと弟子たちに襲ってくるのです。
 その時、主イエスの弟子の一人であったユダが、親しい者同士の挨拶の時にする接吻をしようとして、主イエスに近づいたのです。そうすることで、これから捕まえるのが誰であるかを一緒に来た「群衆」に知らせるためでもありますし、接吻は相手を油断させる手段でもあります。この時のユダには、そういう思いもあったかもしれません。
 私たちも経験的に知っていますけれど、誘惑者や試練を与える者は、少なくとも当初は怖い顔や姿をしていませんし、親し気に振舞うものです。「驚くには当たりません。サタンでさえ光の天使を装うのです」(Uコリント11:14)という言葉が聖書にはあります。そして、そういう人の誘惑に陥ったことがない人は、多くはないと思います。また、時に私たち自身が誘惑者になってしまうこともありますから、気をつけなければいけません。それもサタンの仕業です。
 しかし、主イエスは「ユダ、あなたは接吻で人の子を裏切るのか」と言われました。誘惑は誰でも受けます。しかし、誰もが誘惑に陥ったり試練に負ける訳ではありません。主イエスは、私たちと等しい人間です。しかし、誘惑に陥ったりしない。試練には勝つ。その点は私たちと違うのです。でも、その勝ち方は、後でも言いますように、ご自分の死で私たちの死に打ち勝つというものでしたから、その点でも全く違うと言うべきです。

  ユダの思い

 ユダは、主イエスがローマ帝国の総督ピラトの裁判に掛けられ、群衆の怒号に押し切られる形で、最後は国家に対する反逆の罪で死刑である十字架で殺されることになるとは思っていなかったでしょう。この「裏切る」と訳されたパラディド―ミは、「引き渡す」という意味でもあります。ユダとしては、主イエスをしばらくの間、留置しておきたかったのかもしれません。ルカは使徒言行録まで書きませんが、マタイ福音書によれば、ユダはこの直後に後悔して祭司長たちの所に帰って行き、受け取った金を返そうとしたのです。けれども、時は既に遅いことを知り、自ら命を絶ってしまったのです。彼は様々なことに「恐れ」たのでしょう。そして、主イエスのおっしゃる如く、まさに「不幸な」終わり方をしたと思います。しかし、神にあっては、それが最後ではありません。
 それは今はともかくとして、ユダはユダなりに主イエスを愛していたのです。でも、彼は主イエスの弟子である自分をもっと愛していたでしょう。主イエスの危険は彼の危険でもあります。その危険を察知して、ユダは祭司長たちの所に行き、主イエスを引き渡すことを相談した上で、ずっと主イエスと共にいた人間は良く知っているオリーブ山の祈りの場所に来たのです。でも、彼を支配していたのは「恐れ」です。彼は、ペトロたちを初めとする他の弟子たちと同様、主イエスに出会って選ばれたのに、サタンの誘惑に陥ってしまったことによって生じた「恐れ」が、彼を支配し最後まで付いていくことができなかったのです。

 「恐れ」

 しかし、その「恐れ」に支配されていたのは彼だけではありませんでした。他の弟子たちもそうなのです。彼らは、その前の食事の時から主イエスの様子が変なのは分かっていました。でも主イエスの言葉の真の意味、あるいは裏の意味は分かっていなかったのです。「別れること」は「出会うこと」であるとは、分かっていなかった。無理もないことです。
 「剣」に関しても、主イエスのおっしゃった意味は分かりませんでしたし、次の言葉は尚更です。主イエスは、こう言われたのです。

 「言っておくが、『その人は犯罪人の一人に数えられた』と書かれていることは、わたしの身に必ず実現する。わたしにかかわることは実現するからである」。(22:37)

   彼らは、その時、主イエスのおっしゃっていることの本当の意味はほとんど分かりませんでした。
 彼らはこの時、「事の成り行きを見て取って」、ある者が大祭司の手下に剣をもって打ちかかり、その耳を切り落としました。彼らは、「主よ、剣で切りつけましょうか」と言っていますけれど、その返事を待ちはしません。思わず、剣や他の武器になるものに手をやったのです。それは主イエスを守るためのように見えます。でも、実際には自分を守るためなのではないでしょうか。
 世の中に「軍事パレード」なるものが無くならないのは、それを見て私たちが心のどこかで安心するからだと思います。「国際紛争の解決に軍事力は使わない」と内外に約束をしている国においてそうなのですから、「紛争の解決には軍事力を使うのが当然」のこの世の国々において、軍事パレードは抑止力だけでなく、安心のためにも必要なのは言うまでもありません。車でも自分の身を守るためには大きな方が良いと思う私たちは、大きな武器を持つと安心するものです。周囲に大きなものを持っている人が大勢おり、誰しも自分を守るものを求めるからです。

  やめなさい この件は許せ

 「やめなさい。もうそれでよい」
と、主イエスは言われたことになっています。でも「そこまでで十分だ」と訳しているものもあります。両方とも、主イエスの言葉は弟子たちへの言葉として受け取っているのです。しかし、主イエスはご自分を捕らえに来た人たちに言ったのだと受け取った人は、「この件は許せ」と翻訳しています。翻訳も様々です。皆さんはどう思われるでしょうか。
 この後、主イエスは「その耳に触れていやされた」とありますから、主イエスは弟子の行動を全面的には肯定されていないことは確かでしょう。主イエスは、「剣」で自分の体を守ったり、「神の国」を建設したり、守ったりすることには反対なのです。そして弟子たちの行為の中に、ご自分を命がけで守ろうとする意図を見つつも、実際には弟子たち自身を守ろうとしており、彼らも「恐れ」に支配されていることを、主イエスはご存知だったと思います。その「恐れ」からくる行動がなんであれ、主イエスは評価されないと思います。

  民衆に対する恐れ

 そして、「恐れ」に支配されているのは、ユダと弟子たちだけでなく、イエス様を捕らえに来た「群衆」や、彼らを引きつれてきた「祭司長、神殿守衛長、長老たち」も同じです。彼らは、「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってやって来たのか」と、主イエスから言われてしまうのです。彼らが「民衆」を恐れていたことは、ルカ福音書の一九章以降に何度か記されています。だから彼らは、エルサレム神殿の境内で言葉じりを捉えて主イエスを捕まえようとしたのですけれども、すべてに失敗しました。しかし、弟子の一人であるユダのお蔭で、主イエスを夜陰に乗じて捕らえる機会に恵まれ、彼らの口車に乗りやすい「群衆」を引き連れてやって来たのです。剣や武器にもなる棒を持ってです。
 権力を持った者たちが恐れるものの一つは「民衆」とか「群衆」と呼ばれる人たちです。そのデモとか選挙とかを恐れる。今の韓国を見れば分かりますが、数えきれないほど多くの人々が集まって自分たちが選んだ大統領の即刻退陣を求めています。その声が大統領に届かないはずはないし、政治家たちも与野党を問わず、世論がどうなるかについて戦々恐々でしょう。それに対して、我が国の国会では多くの国民に支持されているらしい与党による強行採決のオンパレードです。推進する人たちは、何を恐れているのか私には分かりませんし、日本の民衆は私を含めておとなしいものです。

  闇が力を振るっている

 主イエスは「だが、今はあなたたちの時で、闇が力を振るっている」と続けられました。「闇が力を振るっている」は良い訳だと思います。でも原文は「暗闇の支配」あるいは「暗闇の権力」と言い切っています。原文は「暗闇のエクスーシア」と言い切っているのです。エクスーシアは「権力」とか政治的な力としての「支配」と訳されたりもします。20章20節には、「機会をねらっていた彼らは、正しい人を装う回し者を遣わし、イエスの言葉じりをとらえ、総督の支配と権力にイエスを渡そうとした」とあります。この中の「権力」がエクスーシアです。祭司長らは、ローマの総督ピラトが持っている支配と権力の中に、主イエスを引き渡そうとしたのです。ピラトの手でローマに対する反逆罪によってイエスを殺させようとした。そのために、「民衆」の前で、主イエスの言葉じりを捉えようとして「ローマの皇帝に税金を払うべきか」という論争を吹っ掛けます。ユダヤ人なら誰も異邦人であるローマの皇帝に税金など払いたくないのです。でも、主イエスは皇帝の顔が彫られた貨幣をもって来させて、それを見せながら、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と、おっしゃったのです。主イエスの言葉の真の意味が分かったかどうかは別にして、主イエスの答えの見事さに、彼らは「驚いて黙ってしまった」のです。

  祈り

 でも結局、主イエスはこの世においては一人の政治犯、つまり「犯罪者」として殺されていくことになります。そういうことが雪崩をうつようにして進んでいくのです。誰もそうなるとは思わなかったのですけれども、実はその中で、主イエスに関して記された神のご計画は進んでいるのです。
 主イエスだけが、イスカリオテのユダや他のペトロを初めとする他の弟子たち、そしてイエスを捕らえるために群衆を引き連れてきた祭司長らとは違って、人を「恐れ」てはおらず、神に向かってこう祈られたのです。

 「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」(22:42)

 これは天使に力づけられねばならない祈りであり、この祈りを通して、主イエスは、神様に完全に信頼する道(畏れ)を歩まれたのです。この時、主イエスにとって、自分の命を奪うかもしれないという人への「恐れ」は関係なくなったのです。ただ神だけに向かったからです。その時、人は関係なくなります。「祈り」は、最初は人の目や耳が気になってはいても、繰り返すうちに次第にただ神だけが問題になってくるものです。その時こそ、私たちの「祈り」が深まっていく時でしょう。

  犯罪人 罪人

 主イエスは、その祈りを捧げるオリーブ山に行く直前に、弟子たちに「言っておくが、『その人は犯罪人の一人に数えられた』と書かれていることは、わたしの身に必ず実現する。わたしにかかわることは実現するからである」(22:37)と、おっしゃいました。これは、先ほど言った通り、神様がその独り子である主イエスに対して決めておられることは必ず実現し、神様が決められた通りに歩むことを主イエスが決意されていることを表しています。
 この中に「犯罪人」という言葉があります。これはイザヤ書53章の「苦難の僕」と呼ばれる個所の言葉ですけれど、「律法無き者」という意味です。だから「罪人」の意味でもあります。パウロが、すべての人は皆「罪の下にあるのです」と言って、「正しい者はいない。一人もいない」という詩編の言葉をローマの信徒への手紙の中で引用しています。彼はその中で、「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなって」いるけれども、それは「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされる」(3:23〜24)ためのことだと言っています。ここで「犯罪人」とは、誰もが「罪の下にあり」「ただキリスト・イエスによる贖いの業」によって、神の恵によって無償で義とされる人のことです。つまり、彼にとってすべての人は「罪人」であり、そのすべての人のために、主イエスは十字架に掛かって死に、罪の赦しという贖いの業を実行されたのです。今や、私たちキリスト者はパウロと同意見なのです。

  罪の赦し

 先週の日曜日、午後の試問会で三人の方の受洗が決まり、来週の朝礼拝に於いて私が洗礼式を執行します。その試問会に対する備えを、私は先週一人ずつしました。その中で、「私たち日本人にとって最も分かり難く承服しづらいのは『罪の赦し』という言葉だろう」と言いました。私たち日本人は、「私はそんなに悪くない。許されなければならぬほどの罪など犯したことはない。私は警察の厄介になどなったことはない」。そう思っている人は多いと思うのです。それは「罪」と「犯罪」を混同しているからです。「罪人」とは、法を犯すということではなく、創造者である神に向かって生きていないということです。自分を神とし、その判断を絶対としていることです。神も自分の基準で選んでいるに過ぎないのです。だから、神よりも自分の方が上だったりする。でも本人は全く気付いていない。そういう意味で、人は皆罪の下にいる。罪人なのです。
 そのことによって、人は神の栄光つまり新しい命、永遠の命を受けられなくなっているのです。しかし、神はご自身の独り子であるキリスト・イエスの十字架の死と復活による贖いにおいて、罪人を神に向かって生きるという意味で義とし、神の栄光を受けられるようにしてくださった。今既に、人は信仰と洗礼によってその命を生き始めているし、終わりの日には御子イエス・キリストの復活に与るのだ。パウロは、そう言っているのです。
 しかしそれは、闇が支配しているこの世の中では見えないことです。時間の流れの中では見えないのです。でも、御子イエス・キリストと出会った者は、神の子イエス・キリストが、自分でも訳の分からぬままに罪を犯している罪人たちの罪の赦しのために、二千年前に十字架に付けられて死んだこと、罪人に代わって罪に対する神の刑罰を受けてくださり、それ故に復活されたことを知るのです。その時に、私たちは洗礼を受けて、古き命に死に、新しい命になったのです。

  主の死

 先週は月の第一週ですから、礼拝の中で聖餐式がありました。そして、主任代務者である大住雄一先生が説教してくださいました。その中で先生は、パウロの制定の言葉を取り上げられました。パウロは、こう言いました。

 このパンを食し、この杯を飲むごとに、それによって、主が来られる時に至るまで、主の死を告げ知らせるのである。(口語訳Tコリント11:26)

 大住先生はこの「主の死を告げ知らせるのである」に着目されたのですが、私も同感です。「主の死」とは所謂天寿を全うされた幸せな死なのではありませんし、事故死でも病死でもない。主イエスの死、十字架の死は「贖い」の死なのです。私たちの死とは全く違い、すべての人の罪が赦されるための十字架の死なのです。その死によって、罪の結果である私たちの死が滅ぼされ、私たちはそのことを信じているのです。このことは世の権力者も全く出来ないことだし、ただ神のみが御子イエス・キリストにおいてなさったことなのです。

  キリスト者が属している場

 私たちキリスト者はどこに属しているのですか。キリスト者とは、洗礼を受けてキリストの者になったということです。パウロのローマ書の言葉を要約しつつ使えば、「キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたち」は、皆「キリストと共に葬られ、その死にあずかるもの」となったのです。それは「キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです」。(ローマ6:3〜4)
 洗礼と新しい命は、キリストの死と復活と同じく繋がっているのです。『ハイデルベルグ信仰問答』の「生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか」という第一問に対する答えの言葉を使うならば、「わたしがわたしのものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものである」ということです。キリスト者は主語が変わるのです。私たちは今や、私たちのために十字架で死に、復活させられた主のものなのです。

  教会とは

 私たちの教会の中には色々な者がいるし、私たちも変わり得るものです。ユダだってペトロだって、最初からこの時のようだった訳ではないでしょう。でも、彼らは神に選ばれて弟子になったのです。私たちも同様です。私たちも色々な人だし、私たちも変わります。でも神の選びは変わらないから、私たちは今もキリスト者なのです。
 来るクリスマス礼拝の午後の祝会の中で、「信仰五十年」のお祝いをします。それは洗礼を受けてキリスト者になってから五十年、主イエスが信仰を守ってくださったということです。今年は幸いなことに四人おられますが、皆今も礼拝生活をしておられる方なのです。主イエスの選びによって与えられた信仰と洗礼を重んじ、説教を聴いて、聖餐の食卓につくことで、今も信仰を守られたキリスト者なのです。キリスト者はその点では同様です。私たちは、今も闇の支配の中を生きながら、イエス・キリストの十字架の死によって与えられた罪の赦しを信じ、その支配の中を生きているのです。「時間」の中を生きながら、「時」を見つめているとも言えます。そういう者として、それぞれの賜物を活かしつつ、一人でも多くの人に「主の死」を宣べ伝える教会でありますように祈ります。
 コロサイ人への手紙の中で、パウロはこう言っています。

  御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。>(コロサイ1:13〜14)

           これは「今はあなたたちの時で、闇が力を振るっている」という主イエスの言葉の行き着くところだと思います。
 私たちキリスト者は、神の御子イエス・キリストの十字架の死を信じる信仰によって「贖い」、すなわち「罪の赦し」に与った者なのです。私たちは今や「闇の力」ではなくキリストの力に服している。真っ直ぐに神に向かって生きる者とされている。そのことを忘れないで生きていきたいと思います。

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