「主は振り向かれた」
22:54 人々はイエスを捕らえ、引いて行き、大祭司の家に連れて入った。ペトロは遠く離れて従った。22:55 人々が屋敷の中庭の中央に火をたいて、一緒に座っていたので、ペトロも中に混じって腰を下ろした。22:56 するとある女中が、ペトロがたき火に照らされて座っているのを目にして、じっと見つめ、「この人も一緒にいました」と言った。22:57 しかし、ペトロはそれを打ち消して、「わたしはあの人を知らない」と言った。22:58 少したってから、ほかの人がペトロを見て、「お前もあの連中の仲間だ」と言うと、ペトロは、「いや、そうではない」と言った。22:59 一時間ほどたつと、また別の人が、「確かにこの人も一緒だった。ガリラヤの者だから」と言い張った。22:60 だが、ペトロは、「あなたの言うことは分からない」と言った。まだこう言い終わらないうちに、突然鶏が鳴いた。22:61 主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われた主の言葉を思い出した。 22:62 そして外に出て、激しく泣いた。 22:63 さて、見張りをしていた者たちは、イエスを侮辱したり殴ったりした。22:64 そして目隠しをして、「お前を殴ったのはだれか。言い当ててみろ」と尋ねた。22:65 そのほか、さまざまなことを言ってイエスをののしった。 クリスマス、おめでとう 今日は「待つ」ことを意味するアドヴェントが終わり、キリストのご降誕を迎えいれ、賛美するクリスマスの礼拝です。太陽暦を採用して以来ですけれども、教会では来週迎えることになる「新年」よりも大きな祝いで、しばしば「クリスマス、おめでとう」と言い交わします。何故かと言えば、クリスマスは私たちの「救い主」が生まれた日として教会が定めた日だからです。つまり、神を知らないままに創造者である神に背を向けて生きている私たちのために、ご自身の独り子を送ってくださったのです。その独り子主イエスは、私たちを「振り向いて見つめ」、神に背を向けて生きる私たちの罪を赦し、ご自身の十字架と復活によって神に向かって生きる者にしてくださったのです。教会は、その日を私たちの「救い主」、キリストが生まれた日として十二月二十五日に定めたのです。今日の日曜日はまさにその日に重なります。ロシア正教会以外のカトリック教会やプロテスタント教会が、この日をクリスマスの日として礼拝を捧げているのです。プロテスタント教会の一つである私たちも、そのことを覚えておきたいと思います。 クリスマスと受難物語 今日私たちは、受難物語の中の「ペトロの否認」と呼ばれる個所をご一緒に読んでまいります。直接の理由は、私の中渋谷教会における任期が今年度で終わり、来年度の四月からは新たな地で牧師をするので、三月末までにルカ福音書の説教を終わらせるには一回も無駄に出来ないことにあります。誰に頼まれたわけでもありませんが、私はそう思っているのです。もう一つの理由は、前回も言いましたように、受難物語を読むことによって、主イエスがこの世に生まれてくださったことの意味を、前以上に深く感じることになるからです。クリスマスと十字架・復活に向かう受難は、深い関係にある。そのことを最近は実感しています。アドヴェントやクリスマスに向け、中渋谷教会で語った何回かの説教は本として最近出版したことも一つの理由です。 主イエスの本質は見えない 夜中に剣や棍棒をもってイエス様を捕まえた人々は、イエス様をオリーブ山の祈りの場所から大祭司の家まで連れて行きました。そこには中庭があり、夜が明ければ長老や祭司長、律法学者らが集まってイエス様の裁判のために最高法院がひらかれるからです。ルカ福音書によれば、イエス様は中庭に拘留されています。63節以降に出てくるイエス様の「見張りをしていた者たち」の姿は、まさに自分のしていることがどういうものであるか分からない人間の姿を現しているでしょう。自分たちが言葉や行いで侮辱している相手は、これからの裁判を通して犯罪が立証され、死刑囚になるのが確実な人物であると思っているのです。まさか、死刑が実行された時に自分たちの上司が「本当に、この人は正しい人だった」と告白するとは思っておらず、真の意味で「神の子」と呼ばれるようになるとは思っていなかったのです。だから、彼らは平気で主イエスを侮辱しているのです。 まったく逆の現象ですが、意味も分からずにサンタの格好をしたり、クリスマスツリーなどを使ってクリスマスのお祝いをすることも同じことだと、私には思えます。しかし、クリスマスの意味を世に伝えてないキリスト教会の責任の方が重いことは言うまでもありません。 主イエスは、そういう意味でいつも隠れており、人間の肉眼ではその本質は見えないのです。しかし、そういう者たちのためにイエス様は天から来られたのだし、あの十字架にお掛かりになって死なれたのです。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と、祈りながらです。そのことを、私たちは忘れてはいけないでしょう。 光 今日は、過越の食事前後には「使徒」と呼ばれる弟子のペトロの話です。彼は、捕まった主イエスとその一行のあとから「遠く離れて従った」のです。そして、中庭の中央に焚かれた「たき火」の周りに腰を下ろした周囲の人の「中に混じって腰を下ろし」<ました。ここに、その時のペトロの現実が、そして私たちの多くの現実が表われているのだと思います。ペトロは、そして私たちは、往々にして「半分弟子であり半分この世の人」だからです。しかし、彼も私たちもそれがなかなか分かりません。 55節と56節には「火」と「たき火」とあります。私たちの肉眼では両方とも「たき火」にしか見えなくても、原文では「たき火」は「光」とも訳されるフォースという言葉です。それにわざわざ「あの光」と言って良い定冠詞がついているのです。ペトロの顔は、その「光」に照らされたのです。 イエス様はこの直前に捕まった時、「だが、今はあなたたちの時で、闇が力を振るっている」と言われました。そこに出てくる「闇」を、「その時は夜だったから」とは誰も言わないでしょう。この「闇」は夜の闇ではなく、昼日中にもある「闇」です。その「闇の」中で、私たち人間は実は見えないのです。自分の姿は分からないし、自分が何をしているのか分からないのです。見えないからです、 人は、主イエスの「光」に照らされなければ、本当の自分の姿を見ることは出来ません。人間には、「光」に照らされて初めて見える姿があると思います。ペトロもそういう人間の一人だったのです。庭にいた女中も、彼のことを「じっと見つめて」から「この人も一緒にいました」と言ったのですから、彼が誰であるか、その「光」の中でじっと彼を見つめて分かったのです。「ペトロは主イエスの仲間である。それが彼の本当の姿である」と、分かった。だからペトロは動揺したのです。人は、見ず知らずの人に自分の本質を見抜かれたり、言い当てられると動揺するものだからです。 わたしは罪深い者なのです 今日は この点をもう少し深めてから先に進みたいと思います。そのために、もう一箇所読みます。それは一介の漁師だったペトロが、主イエスの弟子になる5章に記されている場面です。 「神の言葉」を聞くためにガリラヤ湖の畔にいる主イエスの所に押し寄せてきた群衆を見て、主イエスはペトロの舟を借り、そこに座ってお話しになりました。その後、徹夜で漁をしたのに一匹の魚もとれなかったペトロたちに向かって、主イエスは「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われました。ペトロは「お言葉ですから」と言って、イエス様の言葉に従います。その時、信じ難いことに大漁になって舟が沈みそうになったのです。その時の情景を、ルカはこう書いています。 これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。(ルカ5:8) ここで彼は、体は主イエスに近づきつつ、言葉では「離れてください」と言っているのです。彼はこの時初めて自分は「罪深い者」であることを知り、主イエスの御前にくずおれたのです。この方以外には、彼の罪を赦せる方はいないと瞬間的に知ったのだと思います。その赦しの仕方がどういうものであるかなどは、この時のペトロには全然分からなかったでしょうけれど、彼がこの時、自分自身と出会い、主イエスと出会ったことが大事なのです。今日の言葉を使えば、この時、彼は初めて主イエスの「光」に照らされたのです。 ペトロの福音 先週の礼拝で、三人の方が洗礼を受けました。誰も聖書のことやイエス・キリストのことをすべては分かっていないのだし、「すべて」ということに関しては、キリスト者を何年もやっている私たちだって同様です。誰もすべてなど分かってはいないし、そもそも「聖書の言葉はそういうものではない」とも言えます。しかし、主イエスはそういうペトロを見て、「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」と言われたのです。この言葉が実現するのは、彼が「使徒」になってからのことです。何年も先のことです。「言葉」というのは、そういうものでもあります。でも、彼はその「言葉」を忘れることなくずっと覚えていたでしょうし、使徒になって以後、何度も自分が語ったことや主イエスに語られたことを、その説教の中で語ったのでしょう。 若い頃から思っていたことですけれども、ペトロは自分の経験を何度も語ったに違いありません。自分が真夜中に、主イエスのことを「知らない」と言ってしまったことも何度も語るしかなかったでしょう。これは本当に辛かったと思うのです。私たちは、自分の成功談を自分で語ったり,人から語られることは好みます。失敗談も自分が心から信頼する人の前で自分でしたり、その人にされることも堪えられるでしょう。しかし、ここにあるのは成功や失敗を越えている出来事です。ここにあるのは、人には決して知られたくはない自分の罪のことです。 しかし、そうであるからこそ、彼は何度も自分で語ったのです。このことを抜きに、すべての人間の罪を赦す神の愛、主イエスの十字架と復活を通した神の愛を語ることなど、ペトロには出来ないからです。使徒になって以後、彼はこの福音、私たちに幸福を与える話を死ぬまで語り続けたのですけれど、その福音と個人的な経験は切り離せないものなのです。 愛された弟子 「罪」、それは結局「愛の裏切り」に行き着くものだと思います。だから自分をも裏切ることになるのです。愛は、それが誰のものであれ、固定的なものではなく、いつも他者に向かう方向性をもっているものです。愛はいつでも「愛する」とか「愛される」、そして「愛せない」というものです。そして、自分という存在も単体ではなく、「遠く離れ」ながら主イエスに「従う」こともあるし、体と思いが分裂していることもあるのです。 ペトロは、主イエスに愛された弟子です。主イエスに派遣されていつの日か、「人間をとる漁師になる」ように愛されたのです。しかし彼は、31節にありますように、他の弟子たち同様にサタンにふるいにかけられて、落ちてしまいました。試練に負けたのです。主イエスの愛を裏切って、オリーブ山では悲しみのあまり眠ってしまったのだし、大祭司の家の中庭にまで従い、証しをするのではなく、さっきまで一緒にいた主イエスのことを「わたしはあの人を知らない」と言ってしまったのです。そのようにして彼は、主イエスからの愛を裏切り、自分自身の信仰を裏切ってしまったのです。 言葉は偽れない 先日のテレビ番組でもある人が言っていましたけれど、「人間は一回嘘をつくと、その嘘を本当に見せるためにまた嘘をつくしかなくなる。そのうちに、行動や口で言ったことの間に矛盾や辻褄が合わないところがいくつも出てくる」ものです。彼も二回目は「お前もあの連中の仲間だ」と言われたのですけれど、「いや、そうではない」と、答えました。そうでなければ、最初の「あの人は知らない」が、嘘になってしまうからです。 焚火を囲んでいる人たちは今後の裁判の行方などを話しているのでしょうけれども、一時間ほど経ってある人が「確かにこの人も一緒だった。ガリラヤの者だから」と、ペトロのことを言ったのです。 私は、大学時代に京都に四年間住んでいたことがあります。私の学校は広い意味で関西圏から人が来るところで、私はごちゃまぜの関西弁を話していたと思います。でもキリスト教書店の小さなレジカウンターで「及川さんはきれいな東京弁を話さはるから、すぐ東京の人やって分かる」とか言われて、ビックリしたことがあります。人は顔かたちの変装は出来ても、言葉は隠せないものです。生まれ育った場所のイントネーションはどうしても残ります。 今ペトロがいるのは、イスラエルの南に位置するユダヤ地方の首都エルサレムです。主イエスとその弟子たちは、ずっと北のガリラヤ地方の出身であり、彼らの言葉はガリラヤの人々が使っていたものなのです。その中でペトロは「(人よ、)あなたの言うことは分からない」と言ったのです。ガリラヤ弁で。 人の計画と神の計画 その時です。即座に主イエスが「振り向いて」、ペトロを「見つめ」、「鶏が鳴き」ました。「即座と」か「いきなり」と訳される言葉をルカは好みますけれど、この時明らかになったことは、自分で生きているつもりで、ペトロは神の計画の中を生きていたということです。 この少し前に、ペトロは「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言いました。そのペトロに対して「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう」と、主イエスはおっしゃいました。その言葉が、この時実現し、主イエスが放つ「光」が、彼を照らし、彼は初めて自分に出会ったのです。 ペトロは、彼のことを疑い始めた焚火の周囲にいる人々を後にして、「外に出て、激しく泣き」ました。彼はこの時、主イエスの愛を裏切り、自分の信仰を裏切ることを通して、自分の「罪深さ」を知ったのです。でも彼は、その後、涙を拭いて塀の中に入ったわけではありません。焚火の周囲に座って、自分が主イエスの弟子であることや、主イエスの素晴らしさを語ったわけでもなく、まして、悔い改めを迫ったわけでもありません。だから彼は、このあとしばらく聖書の中に登場しません。彼が本格的に登場するのは、主イエスが死人の中から復活して、「あなたがたに平和があるように」と弟子たちに語りかけるところからです。その時、「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」という、主イエスの言葉も実現したのです。 主は振り向いて ルカ福音書には「主は振り向いて」という言葉が何度か出てきますけれども、振り向くのはいつも主イエスなのです。私たちは、そのお陰で今もキリスト者なのです。主が私たちのことを顧みてくださる、憐れんでくださる。そのことで、私たちは今もキリスト者なのです。私たちの信仰がしっかりしているからではありません。 今日の午後の祝会で二名の若い方たちの「入会」の祝いをし、三人の方たちの「受洗」のお祝い、そして四名の方たちの「信仰(受洗)五十年」のお祝いをします。皆、同じ食卓を囲む兄弟姉妹だからです。今年は人数が多いだけでなく、二十代初頭から八十代初頭まで年齢も様々だし男も女もいて、私は喜んでいます。受洗した方はこれから本格的に知っていくことですけれども、信仰は自分のものではありません。自分の信仰は、どんなに良いものであっても、いつか塀の外で泣いて終わります。「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」という言葉は、なかなか言える言葉ではありませんけれども、結局嘘になるのです。 しかし、そういう私たちを主イエスは「振り向いて見つめて」くださる。その十字架の死で私たちの罪を赦し、復活を通して「あなたがたに平和があるように」と祝福してくださることによって、私たちは新しく信仰に生きることができるのです。信仰とは、そうやって主イエスに新たに与えられるものなのであって、決して自分のものではありません。誰も自分で自分の罪を赦すことは出来ず、自分の力で新しく生きることは出来ません。十字架と復活の主イエスに結びついた時にのみ、私たちは古き自分に死に、新しき命に生きることができるのです。 聖餐式 私たちはこれから聖餐の食事に与ります。今日はたまたま月の第四週なので、久しぶりに私が聖餐式の執行をします。今は、バランスよく立てるか、パンやブドウ液を載せた皿や容器を長老たちに渡せるかや、発声の仕方など、色々練習しました。それはそれとして、前回の説教でも言いましたように、主任代務者である大住先生が、パウロの「制定の言葉」の最後の部分に触れられました。これは彼も教会で受け取ったものですが、パウロはこう言っています。 それによって、主がこられる時に至るまで、主の死を告げ知らせるのである。(Tコリント11:26口語訳) 先生は、私たちが聖餐式を守ることによって、私たちは「主の死」を告げ広めているのだとおっしゃったのです。そういう意味で、私たちは兄弟姉妹なのです。「主の死」とは、天寿を全うした死でもなければ、事故死でも病死でもありません。恐らく三〇代前半の十字架刑による死です。本来は、国家に対する重大犯罪を犯した者が掛かる刑の仕方です。しかし、神の独り子である方、神に背を向けることなく、ただひたすらに神の御心に従って生きた神の独り子である主イエスが、私たち罪人の罪を一身に背負い、私たちの身代わりになって十字架に掛かって死んでくださったのです。そのことで主は、私たちの罪を赦してくださったのです。 だから、「主の死を告げ知らせる」とは、「あなたの罪は主イエスの十字架の死によって赦された。あなたがこのイエス様をキリストと信じれば、あなたの罪は赦され、あなたは神に向かって真っすぐに生きていける。自分の信仰の不甲斐なさに、泣かなくても良い。この死の後に、イエス様は私たちに新しい命を与えるために復活したのだから」ということを宣べ伝えることなのです。もちろん、この後の、イエス・キリストの昇天や全能の神の右に座ったり、再臨して神の国を完成することも大事なことですけれど、すべての中心にあることは十字架の死と復活の命であることは言うまでもありません。そして、誰も一人でこんなことをする必要はなく、皆でするのです。でも牧師が御言葉を取り次ぎつつパンや葡萄酒を配る聖餐式を大事にすることには、こういう意味があることを覚えておくことは大事なことです。 主にあって一つ 私たちは一昨日、キャンドルライトサービスを捧げました。昨日知らされたことによると教会員が七二名、会員以外が八五名の出席だそうです。今回の「会報」巻頭言で、思いがけず大住先生がその礼拝の中の劇について書いてくださっています。そして劇の後は御言を読んで頂き、説教をします。今年はリハーサルの時の写真をスクリーンに写して語りました。 それは、赤ん坊である主イエスを中心としてあらゆる人が集まっている写真です。聖書のクリスマス物語にはありませんけれども、天使やヘロデたちもそこにはいます。金持ちも貧乏人も、男も女も、地位のある人もない人も、神の民としてあるべきユダヤ人も異邦人もいます。世界中の人が主イエスを中心にいる。いや主イエスに跪き、礼拝しているからこそ世界中の人は一つになれるのだと語ったのです。主イエスによって皆が神に向かって歩む民にならなければ、分裂と分断に満ちたこの世界は一つになれない。私たちの罪が赦されるために十字架に掛かってくださった「主の死」のお蔭で、私たちは初めて一つになれる。そういう救い主が生まれてくださったからこそ、私たちは「クリスマスおめでとう」と言える。そう語ったのです。 聖餐式は、その事実を信仰の目に、はっきりと見える形で表してくれるものです。イエス様が私たちを振り返って見つめてくださったお蔭で、私たちは今もなおイエス様の仲間、兄弟姉妹、一つ交わりに生かされる弟子なのです。ここで泣くことは、笑いながらの賛美へと変わることだからです。 神様の新しい業としてのクリスマス 神様はその御独り子を地上に誕生させ、異邦人に礼拝させるクリスマスを通して、私たちの罪を赦し、ご自身に向かって生きる道を開いてくださいました。私たちはその御業を感謝し、神様に賛美を捧げる新しい民なのです。洗礼を受けて教会に属した私たちは、新約の民です。説教と聖餐は、その救いの御業を現しているのです。今日はそのことを心深く覚えて、聖餐の恵みに与りたいと思います。 |