「十字架につけろ」
23:13 ピラトは、祭司長たちと議員たちと民衆とを呼び集めて、23:14 言った。「あなたたちは、この男を民衆を惑わす者としてわたしのところに連れて来た。わたしはあなたたちの前で取り調べたが、訴えているような犯罪はこの男には何も見つからなかった。23:15 ヘロデとても同じであった。それで、我々のもとに送り返してきたのだが、この男は死刑に当たるようなことは何もしていない。23:16 だから、鞭で懲らしめて釈放しよう。」23:17 (†底本に節が欠落 異本訳)祭りの度ごとに、ピラトは、囚人を一人彼らに釈放してやらなければならなかった。23:18 しかし、人々は一斉に、「その男を殺せ。バラバを釈放しろ」と叫んだ。23:19 このバラバは、都に起こった暴動と殺人のかどで投獄されていたのである。23:20 ピラトはイエスを釈放しようと思って、改めて呼びかけた。23:21 しかし人々は、「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫び続けた。23:22 ピラトは三度目に言った。「いったい、どんな悪事を働いたと言うのか。この男には死刑に当たる犯罪は何も見つからなかった。だから、鞭で懲らしめて釈放しよう。」23:23 ところが人々は、イエスを十字架につけるようにあくまでも大声で要求し続けた。その声はますます強くなった。23:24 そこで、ピラトは彼らの要求をいれる決定を下した。23:25 そして、暴動と殺人のかどで投獄されていたバラバを要求どおりに釈放し、イエスの方は彼らに引き渡して、好きなようにさせた。 紀元 私たちは誰でも、自分の歩みを振り返ることがあると思います。そういうことをする時、私たちには「紀元」となるべき日があると思います。自分の歩みなのですから、生まれた日が重要なことは言うまでもありません。その日から始まって、ある学校に入ったとか、働き始めたとか、結婚した、子どもが出来た。様々ことがありますけれども、「自分はあの日から変わった」ということがあると思います。それは大事なものであるに違いありません。 しかし、それらはこの世のことです。それも大事には違いありません。でも、それが「紀元」かと言えばそうではないと思います。ここでは「キリスト者としての私たち」に限定しますけど、「キリスト者としての私たち」にとっては、「洗礼」を受けた時が決定的だと思います。私たちにおいては、「洗礼」を受ける前と後では全く違う日々が始まったのです。最近はキリスト教で言うところを表す起源前BCEとか紀元後ACEと言う場合もありますけれども、歴史においても紀元前(BC)と紀元後(AD)に分けます。紀元前と紀元後は見た目には同じ日々が繰り返されていながら、主イエス・キリストが生まれた日々が始まったということで、ADの日々はそれまでのBCの日々とは全く違うのです。でも、その違いは人間の目には見えません。それは水平の出来事ではなく垂直の出来事だからです。 それと同じように、私たちも「洗礼」を受ける前と後では同じでありつつ、全く違うのです。そういう意味で、キリスト者とは「新しく生まれた者」(ニューボーンアゲインナーズ)と言われます。肉体は同じなのに、もう一度新しく生まれたのですから。 私たちの視点 しかし、私たちは得てして過去の事物に捕らわれがちだし、この世の事物に捕らわれがちであり、そういう意味で古い自分を持ったままなのです。だから、私たちはピラトを初めとする人々のことも良く分かるのです。彼らは、自分に与えられた身分とか地位を大事にしますし、目の前に広がっている自分たちの秩序を守ることに精一杯なのです。言ってしまえば、彼らはこの世とそこに生きる自分を大事にしているのです。私たちも同じです。そういう意味で、私たちキリスト者は彼らのことが良く分かる。私たちもこの世を生きていますし、なんやかんやと言っても、この世における地位や身分そして秩序は、ある意味で私たちにとっても大事なものだからです。 でも私たちは彼らとは違い、主イエスがその命を犠牲にして造ったもの、つまり十字架の死と、蘇生ではなく全く新しい命としての復活の命を通して造ったものを体感的に知っています。私たちは目の前に赤ペンキしかなければ、その色が「赤」とも名付けられませんけれど、そこに違う色のペンキがあれば、私たちはその違いによってそれまでのものを「赤」と名付けられるでしょう。それと同じように、私たちは聖書に出てくる人たちと同じ面を持っているのです。しかし、「洗礼」を受けた時から違った面も持っている。つまり、聖書を書いた人、そして神様の視点からも、彼らを、そして私たちを見なければならないと思います。その「違い」が大事なのです。 神の国の王 ローマ帝国によってユダヤの総督として立てられたピラトは、「祭司長たちと議員たち」と共に、「主イエスに説得された」と彼らが言う「民衆」を呼び集めました。「民衆」と「群衆」に関しては前回語りましたので、今日は触れませんけれど、ピラトは「民衆」を自分の判決の証人として呼んだのかもしません。祭司長らは、「民衆」あるいはすべての人を含むユダヤ「民族」を惑わす者として、主イエスをピラトに訴えたのです。その内容は、2節にある如く、「ローマの皇帝に税金を納めなくても良い。何故なら、あなたたちの王であるメシアは私だからだ」と、主イエスが言ったというものです。 しかし、税金に関しては、皇帝の顔が刻印されている銀貨を持って来させて、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と主イエスはおっしゃったし、「王たるメシアだ」と言ったのは、主イエスが「この世の王」とは違うという意味です。主イエスは、「この世の王」ではなく、紀元と共に始まり、世の終わりに完成する「神の国の王」なのです。しかし、それは信仰者にしか見えない事実であるが故に、ピラトは勿論、最高法院のメンバーもそこにいた「全会衆」も分からないのです。 鞭で懲らしめる ユダヤ人から見れば異邦人であるピラトは、主イエスを訴えてきた人々の前で主イエスのことを取りしらべました。しかし、死刑にするような理由は、主イエスにはなかったのです。その点においては、ガリラヤ地方の領主であるヘロデもピラトと同じでした。彼にして見れば、主イエスは「ユダヤ人の王」を自称して捕まってしまった滑稽な人物に過ぎません。だからヘロデは、王を自称していた男に相応しい派手な服装を主イエスに着せて、ピラトの下に返したのです。先程も言いましたように、主イエスが「ユダヤ人の王」を自称していた滑稽な男という点では、ピラトもヘロデと同感でした。だからピラトは、「死刑に当たるようなことは何もしていない」として、主イエスのことを「鞭で懲らしめて釈放しよう」と、祭司長や議員たち、そして民衆に提案します。 「鞭で懲らしめる」は、ピラトの教育的配慮と同時にユダヤ人に対する気配りの表れでしょう。ピラトはユダヤ人の指導者兼権力者の手前、何もしないで主イエスを釈放するわけにはいかないのです。彼の目の前には、ユダヤ人の指導者たちと彼らに扇動されつつある人々がいるのです。「鞭で懲らしめる」は、日本語で言うところの、「世間を騒がせたから悪い」という意味でしょうけれど、自称にしろ何にしろ、ユダヤ社会をこれほど騒がせたことに対して何かをしなければ暴動が起こりかねないということでしょう。ピラトはこの場合、司法官でもあり同時に行政官でもあります。その両者とも、実は世論と無関係ではなく、民衆に暴動を起こされでもすれば、総督として彼の能力を疑われるに決まっていますから、彼は何としても何事も無かったようにしたいのです。 二重の皮肉、真実 だけれど「人々は一斉に、『その男を殺せ。バラバを釈放しろ』と叫び」ました。ここで16節から18節に飛んでいますし、間に短剣マークがついていることに気づいた方もおられると思います。17節はルカ福音書の終わった後に書いてありますけれど、新共同訳聖書の翻訳の基になる底本にはないのです。他の写本には「祭りの度ごとに、ピラトは、囚人を一人彼らに釈放してやらなければならなかった」とあります。同趣旨の記述がマルコ福音書やマタイ福音書にはありますけれど、ルカ福音書の場合ないのです。そのことだけ、覚えておいてください。 この国では今は聞きませんけれども、私たちはたまに「恩赦」という言葉を聞きます。たとえば、祭りで人々が集まる時に、民の上に立つ者は「恩赦」によって人気のある囚人を釈放したりして人々の気を引くものです。だから人々はピラトに向かって「その男を殺せ。バラバを釈放しろ」と、言ったのです。 このバラバは、エルサレムで起こった暴動と殺人のかどで投獄されていたのです。ピラトが尋問の上、死刑にすべき男はこのバラバです。バラバとは、元々バルアッバであり「父の子」という意味だそうです。そして、マタイ福音書によりますと、バラバは「イエス(主は救い)」とも呼ばれていたようです。ですから、ここには二重の意味で皮肉というか、真実が込められているのです。「父の子」バラバを死刑にするのか、神を「父よ、アッバ」と呼ぶ「神の子」を死刑にするのか、そして人間にとっての「救い」(イエス)とは何なのかです。ある人は、バラバは当時「熱心党」と呼ばれた反ローマ勢力のリーダーの一人であったのではないかと言いますけれど、私もそう思います。個人では、エルサレムで「暴動」など起こしようがないからです。「殺人」だって、もちろん自分の味方を殺す理由は彼らにはなく、ローマ側の人間でしょう。だから、ピラトは死刑にする理由が見当たらないイエスを釈放したいのです。ピラトだけでなくバラバも最高法院のメンバーも皆、「救い」とはこの世のことと考えているのです。 十字架につけろ しかし、そこにいる「人々」は口々に「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫びました。「十字架につける」。これは、ここで初めて出てくる言葉です。ピラトの前にいる人々はちょっと前には「殺せ」と言っていたのに、今は「十字架につけろ」と、言っています。ユダヤ人は「恩赦」の権限など持っていませんでしたし、皆の前で裸にしてぶっとい釘で手足を十字架に打ち付け、人々の見せしめにする十字架刑などやりようもありませんでした。十字架刑とは、当時の支配者である異邦人ローマの極刑なのです。ユダヤの最大の祭りである過越しの祭りの中で、ローマに反逆すればこうなることを人々に見せつける十字架刑と恩赦を執行できるのはローマだけです。つまりピラトの前に集められた「人々」は、「バラバを釈放しろ」「十字架につけろ」という言葉で、この祭りの中で恩赦とローマの極刑をせよと叫んでいるのです。 異邦人に死刑によって殺される。それも裸で殺される、人々の前に晒し者にされる。そのいずれも、私たちは絶対に避けたいものです。最大の恥辱だからです。当たり前のことですけれど、当時の人もそれは同じです。でも、人々はイエスを十字架につけるようにピラトに求めた。それだけ、自分たちが作り上げた秩序を破壊してしまう主イエスが憎かったのでしょう。ある人は積極的に憎んだし、ある人たちは自分を守るために憎んだのです。 ピラトは再度「この男には死刑に当たる犯罪は何も見つからなかった」「だから、鞭で懲らしめて釈放しよう」と言ったのです。でも、人々の「十字架につけろ」という声はますます大きくなっていきました。そして、ついにピラトは「暴動と殺人のかどで投獄されていたバラバを要求どおりに釈放し、イエスの方は彼らに引き渡して好きなようにさせた」のです。直訳風に言うと、ピラトはイエスを「彼らの意志(セレ―マ)に引き渡した」のです。 旧い契約 そこで思い起こしておきたいのは、所謂主イエスと弟子たちとの「最後の晩餐」です。そこで主イエスは、一つの杯を手に取りながら「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である」と、言われました。主イエスは、この晩餐とその後に起こることを、世の終わりに神の国を完成させ、その神の国に「新しい神の民」として世界中の人を迎え入れるために必要なこととしているのです。そのために、主イエスの血は流されなければならないのです。 それは、出エジプト記24章に記されていることですけれど、シナイ山の裾野における雄牛の血を伴った契約と、イスラエルを代表した七十人の長老たちと神との食事が意識されたことです。そこにおいて、十戒と契約の書を守る「神の民イスラエル」が誕生したのです。つまり神は、十戒と契約の書の中にご自身の御心を表し、イスラエルの民はそれを見たということです。だから、イスラエルを代表するモーセと七十人の長老たちがシナイ山で、神を見ての食事をするのです。 新しい契約 主イエスは「弟子たち」、つまり裏切りの後、教会の信仰を代表する「使徒たち」と「新しい契約」を結ぶために食事をなさる。奴隷としてこき使われていたエジプトの支配から解放され、シナイ山で神の民が誕生したことを記念する過越しの祭りの中で、主イエスの十字架の死と復活の命を通して罪と死の支配から解放される新しい契約を、神とそして新しいイスラエルの民と結ぶためにです。その中で、主イエスは、裂かれてしまうご自身の体と流される血をパンと葡萄酒に託して新しい契約の徴になさったのです。神を愛することと、隣人を自分と同じように愛することに命を懸ける。その愛は、主イエスの場合、十字架の死と復活に行き着きます。そのようにして、すべての人間を支配している罪を赦し、死から解放し、ユダヤ人だけでなく異邦人をも神の国へ招く。自分自身を神にして、結局は自分の欲望に従い、最後は死んでお仕舞いの人間の罪を赦し、永遠の神に向かって真っすぐに生きるようにする。それが神様の意志なのです。「真の人であり、真の神である」主イエスは、その国、その支配を地上にももたらすためにご自身の体が裂かれ、血が流されることを覚悟されたのです。「『その人は犯罪人の一人に数えられた』と書かれていることは、わたしの身に必ず実現する。わたしにかかわることは実現するからである」と言われたのは、その覚悟の表れだと思います。 罪人の一人に数えられた 「その人は犯罪人の一人に数えられた」はイザヤ書53章12節以降の文章です。少し長いのですけれど、そこは読んでおこうと思います。 それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし 彼は戦利品としておびただしい人を受ける。 彼が自らをなげうち、死んで 罪人のひとりに数えられたからだ。 多くの人の過ちを担い 背いた者のために執り成しをしたのは この人であった。 多くの人の過ち、その罪を一身に担い、自らの命をなげうち、神に執り成し、ご自身の命を犠牲として死ぬ。その結果、多くの人を取り分とし、戦利品として受け取る。それは、主イエスにとっては、ご自身の命を犠牲として十字架に捧げ、三日目の復活を通して地上にある国境線や生死の境を越えて、すべての人を「神の国」に招き受け入れるということです。その支配は、主イエスの十字架の死と復活の命という「新しい契約」に基づくものですから、この地の上のすべての民に留まらず、生死の境をも超えたものになる他にありません。その契約があればこそ、私たちが今、主イエスに対する礼拝を捧げ、この聖書を神の言として読むということがあるのです。 意志 主イエスだけは、今この時、神様がご自身の計画を進展させておられるということをご存知でした。ピラトはもちろん彼に呼び出された人々も、そのことは全く知りません。ピラトは司法官の仕事は放り投げて、とにかく人々が暴動を起こさないように、「暴動と殺人のかどで投獄されていたバラバを要求どおりに釈放し、イエスの方は彼らに引き渡して、好きなようにさせた」のです。 この後半は、先程も言いましたように、「イエスを彼らの意志に引き渡した」が直訳です。「引き渡す」(パラディド―ミ)はユダに使われると「裏切る」と訳されたりしますけれど、今は「意志」に注目したいと思います。 ルカ福音書には、オリーブ山に於ける主イエスの祈りの場面があります。一般にはゲツセマネの祈りと呼ばれます。そこで主イエスは、「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」と、祈られました。これでは「願い」と「御心」は別々に存在し、別に行われるようですが、そうではありません。「願い」も「御心」も先ほど言った「意志」という意味です。 主イエスの意志と神の意志は、ここで真っ向からぶつかっています。しかし、主イエスは苦しみ悶えつつ神の意志に従うことを決断したのです。神が、主イエスを地上に立てた時に「定めたこと」、主イエスに関して「書かれていること」は「必ず実現する」ことを、主イエスはこの時改めて確認したということでしょう。 「祈り」が持っている一つの意味はそこにあります。私たちは祈りの中で神の意志を知り、真実に祈る者はその意志に従うのです。「神はこのようにして新しい契約をお立てになる。その意志は変わらないのだ」。主イエスは、祈りの中でそのことを最終的に確認し、確信し、その意志に従う意志を固めたのです。地に跪き、悶え苦しみながらです。 ピラト ユダヤ人 それに対して、神の御前で跪くことのないピラトは、行政官と司法官という立場の間で揺れました。支配者でありつつ、ユダヤ人に暴動でも起こされたら自分が無能であったからだと、ローマの皇帝に思われてしまうことを恐れて、彼は主イエスをユダヤ人の意志に任せたのです。ピラトにとっての「紀元」は、まだこの世のものでしかありません。天来のものはないのです。 そして、ユダヤ人。彼らの中にも様々な人がいたことは言うまでもありません。当時と今では全く違いますが、男もいたし女もいました。権力者もいたし、権力など全く縁のない人もいました。主イエスと真っ向からぶつかり、主イエスを亡き者にしようと真っ先に思ったのは権力の側にいた人たちです。しかし、「十字架につけよ」と叫んだのは彼らだけではありません。女たち、民衆、群衆と訳された人々も皆、結局は主イエスをこの世から排斥したのです。この世に重きを置く者にとっては、命を懸けて神を愛し、隣人を愛するという主イエスの愛はうっとうしく、排斥するのです。目障りだし、耳障りだからです。これは私たちも良く分かるのではないでしょうか。 排斥 引き渡す しばらく「排斥する」とか「引き渡す」という言葉を考えていきたいと思います。ペトロが主イエスのことを「神からのメシアです」と告白した直後、主イエスは、そのメシアとはユダヤ人の長老や祭司長、律法学者という権力側にいる人々から「排斥されて殺され、三日目に復活することになって」いると言いました。しかしその後で、主イエスは「この言葉をよく耳に入れておきなさい。人の子は人々の手に引き渡されようとしている」(9:44)と言われました。ここには「人々」とか「引き渡す」という言葉が出てきます。つまり、主イエスを十字架につけるのはユダヤ人の権力者たちに留まらないということです。 18章で主イエスは「人の子は異邦人に引き渡されて、侮辱され、乱暴な仕打ちを受け、唾をかけられる。彼らは人の子を、鞭打ってから殺す。そして、人の子は三日目に復活する」(18:32)と言われました。ここには「異邦人」という言葉が出てきます。そして、過越しの祭りの中での主イエス逮捕の切っ掛けを作ったのは、主イエスの弟子の一人であるイスカリオテのユダの裏切り(引き渡し)です。 権力者であれ庶民であれ、神の民ユダヤ人であれ異邦人であれ、主イエス自身が選んだ弟子であれ、目に見える立場は違っていても、皆自分の「紀元」をこの世に置いていることに変わりありません。すべての基準が、「自分にとって良いか」なのです。すべての中心に自分がいる。聖書では、それを「罪」と言うのです。そして、その「罪人」が主イエスを引き渡すのです。 罪人の罪を赦すメシア 安息日が明けると同時に女たちは香料をもって主イエスが葬られた墓に行き、主イエスの遺体に対して最後の奉仕を捧げようとしました。彼女らに向かって輝く衣を着た二人の若者は「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか」と言ってから、「あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか」(24:6〜7)と、続けたのです。 主イエスはガリラヤ時代から、つまり最初から、「必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている」と、おっしゃっていたのです。この世の立場は色々ですけれども、私たちは皆自分を中心におく「罪人」だったのです。「紀元」はこの世にしかなかった。水平の次元しか持たなかったのです。しかし今や、主イエスが神の御許からやって来て、こんな私たちと出会い、神の愛がどういうものであるかを教えてくださったのです。それも学校の教室でのように教えられたのではなく、私のために十字架に掛かり、復活して「あなたがたに平和がある(ように)」と宣言してくださったのです。神の独り子である主イエスが、私たち「罪人」の罪を背負って神の裁きとしての十字架の死を引き受け、復活して私たちに新しい命を与えてくださったのです。私たちはその時、水平だけではなく垂直の次元が与えられたのです。そして私たちにとって、主イエスはそういう意味で「神からのメシア」なのです 私たちキリスト者は 様々な仕方でイエス・キリストと出会った私たちは、そのことを信じたのです。そして、「イエスは我が主、我がキリスト、救い主である」という信仰を礼拝の中で告白して「洗礼」を受けたのです。その日が私たちキリスト者の「紀元」です。この時から、私たちは神の御子イエス・キリストと同じく、神を「アッバ、父よ」と呼ぶようになったのだし、私たちの「救い」はイエス・キリストの十字架の死と復活の命によって基礎を据えられ、再臨の時に完成する神の国に招き入れられることにあると信じているのです。神の国は、この地上にあってしょっちゅう変わる国境線は勿論、普遍的な生死の境を越えているのです。ここに、罪と死の支配からの解放という新しい過越しの祭り、受難と復活、レントとイースターという「新しい契約」があるのです。神の愛は、説教と聖餐の食卓の中に主イエスの愛を見ることが出来れば分かり、私たちのために十字架で死に、三日目に復活してくださった主イエスを、「私のキリスト」と信じて洗礼を受けることによって、私たちは新しい契約に入るのです。そして、信仰から信仰に生きることを通して、私たちはその契約を生きる者となるのです。今日からも、そういう者として歩みたいと思います。 |