「神との平和」

及川 信

       ルカによる福音書 24章36節〜49節
   
24:36 こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。24:37 彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。24:38 そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。24:39 わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」24:40 こう言って、イエスは手と足をお見せになった。24:41 彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。24:42 そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、24:43 イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。24:44 イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」24:45 そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、24:46 言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。24:47 また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、24:48 あなたがたはこれらのことの証人となる。24:49 わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」

    3・11の被災教会

 いきなり自分のことを語るようで申し訳ないのですが、報告の意味もあるので申し上げます。私は三角形の歩行器のお蔭で、一月からバスに乗って病院に行き、二月から電車にも乗れるようになり、漸く会員のお年寄りの方や入院している方などの訪問をほんの少し始めました。昨日は3・11大震災の記念の日でしたけれど、先週私は六年前の東日本大震災に合わせるようにして被災地の二つの教会をお訪ねしました。それは皆さんが顔の見える伝道と牧会として沢山献金を捧げてくださったり、特別伝道礼拝やコンサートに行ってくださった石巻山城町教会や福島教会です。
 石巻山城町教会には、死の悲しみの次に来る復活の喜びを表すステンドグラスがあります。福島教会は、ヴォーリズの設計による会堂の第一号ですけれど、大震災によって町の文化財でもあった由緒ある会堂を壊さざるを得ませんでした。石巻山城町教会は新卒の牧師(関川祐一郎)が結婚をし、今は小さな可愛い子どもが二人います。福島教会は震災で牧師を失い、会堂を失いました。しかし、その年の暮れに来てくださった牧師(似田賢司)夫妻や信徒の皆さんの頑張りで新会堂が建ち、去年で三人目の牧師(保科隆)を迎え、その地で懸命に伝道しておられます。
 石巻市は人口が一万人も減りました。教会は増えたそうです。二年ぶりに伺ってみると道路が広がり、もちろん美しくなり、空き地だらけの土地のあちらこちらに団地のような復興住宅が建設されています。日和山の上から海までを最初に見た時は、家も車も滅茶苦茶な瓦礫のままでした。しかし、今は海から離れた崖沿いは盛り土をされ、その上に少しずつ復興住宅が建っています。そういう意味では、ここに「新しい町」が建ち始めていると思いました。そうでなければ困ります。
 でも、人間の心はそういうものではありません。その時受けた損失は心の傷となり、ある人にとっては今も塞がらず、ある人にとってはむしろ広がっているのです。
 石巻の郊外の仮設住宅に長く住み、漸く完成した復興住宅に入った高齢の会員宅に関川先生に連れて行って頂いてお会いすることが楽しみの一つだったのですが、その方は真っ暗な夜に溝に落ちたらしく低体温症で急逝されてしまいました。牧師や会員の皆様にとって、そして私にとっても本当に悲しいことです。行政のやれることとは違う教会の使命は何であるかを強く思ったことです。
 福島市は微妙な所です。目に見える被害は少ないかもしれませんが、福島市内に避難してくる人がいる一方で、福島市から避難する人がいます。内陸ですから津波の被害はありません。しかし、天気予報の時間に県内各地の大気中の放射能の量をテレビで告げています。私など素人はそれを見ても何も分からないし、地元の人も分かったところでどうすることも出来ないことでしょう。でも関心のあることに違いないのです。
 また、「福島県出身者」ということで「奴隷だ」「馬鹿だ」「放射能に汚染されている」と言われ、学校や社会において、いわゆる「いじめ」や「差別」の対象になったりする。そういう現実が県外だけでなく、県内でも沢山ある。悲しいことです。
 被災地には何処にでもプレハブの仮設住宅があり、今もって行方が分からない人が二千人以上います。大震災とそれに伴う原発事故は、六年経った今も少しも過去になっていないばかりか、様々な形で大きな禍根を残し、その禍根が大きくなっていることを、今更ながらに思いました。そういう現実の中で、その現実をしっかりと見ながら、その奥底にある叫びを聞き取り、主イエスがそこでなさっていることを見つめ、自分に与えられていることをなす者でありたいと思います。

  全てが終わった?

 イエス様がエルサレムで十字架に磔にされて死んでしまった後、「全てが終わった」と思い、この出来事を語り合いつつ故郷のエマオに向かう二人の弟子たちがいました。イエス様は、その二人を追いかけ、なんの話をしているのかと聞いたのです。彼らの目は遮られており、目の前にいる人がイエス様だとは分からず、ナザレのイエスは「神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者」だったのに、神の民ユダヤ人の代表である「祭司長たちや議員たちは」、イエス様を死刑にするために異邦人であるローマの総督ピラトの手によって「十字架につけてしまった」ことを語りました。彼らはナザレのイエスこそ、「イスラエルを解放してくださると望みをかけて」いたのです。
 しかし、そのイエス様が十字架の上で息を引き取り、埋葬されてから三日目の今日、週の初めの日曜日の朝、イエス様の体に香料を塗るために婦人たちが墓に行くと、天使が現れ「イエスは生きておられる」と告げたと言うのです。そこで弟子たちが慌てて墓に行って見たのに、イエスの遺体は見当たらなかったのです。
 全てが終わった。なにもかも死で終わってしまった。そう思わざるを得なかった時、その終わり、死の終わりを象徴する墓から、イエス様はかねて言われていた通り甦ったと天使たちは言うのです。しかし、彼らは信じられなかった。それは無理もないことです。

  二人の弟子たち

 しかし、主イエスは、弟子たちの愚かさや鈍さを嘆きながらも、そういう彼らに、聖書全体にわたって説明し、メシアは苦しみを受けた後に栄光に入るはずであることを語ったのです。そして、私たちが言うところの旧約聖書は、キリストの死と復活が書いてあると告げたのです。その聖書の言葉をイエス様はこれまで何度も引用したし、彼ら弟子たちも幼い頃からシナゴーグ(会堂)で聞いたことがあるでしょう。
 その後、一行は彼らの家で食事を摂ることになり、何時のまにか主イエスがこの家の主人のようになって感謝の祈りを捧げ、パンを裂いた後に、二人の弟子たちの目が開き、目の前におられる方が主イエスであることが分かった。その途端、主イエスの姿が見えなくなったのです。しかし、弟子たちは、この人が道々聖書を説き明かしてくださった時に心が燃えたことを思い出し、主イエスが生きておられるのだと信じたのです。そしてエルサレムに取って返し、弟子たちの集合場所であっただろう家に入ると、復活の主イエスがシモン・ペトロにも現れてくださったと話しており、彼ら二人も「道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した」のです。

  礼拝で起こること

 今日はその先の36節です。しかし、考えてみるとルカ福音書の24章は全て同じ日に起こったように記されています。週の初めの日の朝早く婦人たちが墓に行き、そこで天使たちに主イエスの復活を知らされた。そして故郷であるエマオ途上の説教とエマオの家における食事を通して、二人の弟子たちが主イエスの復活を知らされ、ペトロが違う場所で復活の主イエスと出会った。今日の箇所で、復活のイエス様は弟子たちの真ん中に立ち、焼いた魚を食べ、エルサレムから始めて全世界の人々に対して宣教するように弟子たちに命令する。その時に弟子たちに神から力が与えられる。それまでは都に留まっていなさい、とイエス様はおっしゃった。それから弟子たちをオリーブ山の方のべタニア辺りまで連れて行き、祝福しつつ天に挙げられる。その時、愚かで、心鈍かった弟子たちがイエス様を伏し拝み、大喜びし、エルサレムの神殿に帰り、神を賛美するのです。素直に読めば、これが全部、一日の出来事のように書かれています。
 でも、客観的事実としてはそうではないでしょう。ルカ福音書の続きだと言われる使徒言行録の最初を読んでも、主イエスが天に挙げられる書き方は違います。天に挙げられるまでは復活から四十日、それから十日経ってから弟子たちの上に聖霊が降った。つまり、復活から弟子たちへの聖霊降臨まで使徒言行録によれば五十日掛かったのです。
 ルカ福音書は、礼拝の一日を書きたくて、そして主イエスの生涯の意味を総括したくて、こういう書き方をしたのだと思います。そして私はその線で読んでいきます。ここは礼拝の場面です。

  あなたがたに平和がある

 今日も主イエスは、私たちの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われました。「平和があるように」という願望を表す言葉でも良いのでしょうけれど、私はむしろ「あなたがたに平和がある」という断言の方が良いと思います。原語ではエイレーネ― ヒューミーン 平和を、あなたがたに ですし、そのままpeace to you(あなたがたに平和を)としている英訳聖書もあり、私たちの礼拝の終わりにある派遣の言葉も「平和のうちにこの世へと出て行きなさい」という言葉です。
 主イエスがその十字架の死と復活、そして顕現で造り出してくださったことは、何よりも神様と私たち罪人との間の「平和」なのです。御子主イエス・キリストの十字架の死と復活の命なくして、そして復活の主イエスとの出会い、信仰による出会いなくして、神に背いて生きるほかにない罪人にこの「平和」はない。そのことを復活の主イエスが明らかにしてくださったのです。

  幽霊?

 私たち日本人は「霊魂不滅」という言葉はよく知っているし、しばしば使うのではないでしょうか。誰もが知っているように体は変化するし、いつかは必ず死にます。しかし、体は死んでも霊はずっと変わることなく生きている。その霊が人間の目にも見える時、「幽霊」となるのでしょう。その幽霊には手足はない。それは万国共通なのかもしれません。  当時、弟子たちが見たものは「幽霊」だったという人々がいました。それに対して、弟子たちの真ん中に現れたのは、十字架に磔にされたイエスであることをルカは告げているのです。人間の力で終わりを告げられ墓に葬られた方が、そこを新しい命の始まりとしてくださった。主イエスにとっては、人間の終わりは終わりではない、始まりなのだ。そのことを知ったからこそ、弟子たちには「喜びのあまりまだ信じられず」ということが起こるのです。

  使徒的教会

 私たちの教会のことをしばしば「使徒的教会」と言います。それは、私たちの教会は十二使徒の証言の上に建っているということです。使徒の証言、目撃したことの上に建っている。彼らの目の前に復活の主イエスが現れ、魚を食べたと信じているのです。しかし、それは朽ちる肉体は死を越えて肉体として永遠に生きることを主イエスが彼ら使徒たちに知らせ、彼らの証言を聞いた者がそれを信じるようにということではありません。
 ルカ福音書よりも前に書かれたコリントの信徒への手紙一の中でパウロは、復活の主イエスはペトロに目に見える形で現れたと書いた後、朽ちる体で蒔かれた肉体は死に、朽ちない体で甦ると言っています。その朽ちない体がどういうものであるかを私たちは知らない。しかし、私たちがいつでも「主と共にある」ことに変わりはないと言っているのです。そして、ルカもエマオの食事の場面を通して、復活の主イエスは肉眼では見えないことを告げています。見えたら大変です。
 主イエスが復活したとは、弟子たちが幽霊を見たに過ぎない。そんなことなら他にもあることだ、と言う人が大勢いたのです。そういう中で弟子たちが会ったのは、十字架に磔にされ、墓に埋葬されたイエスであること、苦難から栄光に入ったイエス、十字架の死からの復活、昇天という栄光へ入った方だ、とルカは書くのです。そして、私たちはそのことを信じている。

  聖書と私が言っていること

 その方がこう言われます。

 「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである」。

 「モーセの律法」
以下の言葉は、まだ完成はしていませんけれど、私たちが「旧約聖書」と呼ぶ書物のことです。もちろん当時は一巻一巻の巻物としてあったのですけど、そこに書いてあることは主イエスが弟子たちと同じく地上に生きていた頃に語っていたことなのです。主イエスは突拍子もないことを語っているのではありません。すべては聖書に記されていること、さらに言えば、神様のご計画なのです。
 主イエスはこれまでに「人の子は、定められたとおり去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ」とか「『その人は犯罪人の一人に数えられた』と書かれていることは、わたしの身に必ず実現する。わたしにかかわることは実現するからである」と、おっしゃっていました。いずれも旧約聖書の預言が実現するという意味です。それも、救い主であるキリストは必ず苦しみを経験する、その苦しみが死に行きつくこと、それも人間の罪の結果である死に行きつくことを語っているのです。
 でも、主イエスに罪はないのです。しかしだからこそ、主イエスは人間の罪の結果である神の裁きとしての十字架に磔にされなければならない。そのこと抜きに復活、昇天という栄光はあり得ないのです。

  メシアの苦しみと栄光

 それが「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する」という言葉の意味です。旧約聖書に、文字通りこのように書いてあるところはありません。ここに「心の目」とあります。原文には「目」という言葉はなくて分かり難いのですが、「心の目」全体が「理性」(ヌース)という言葉だと思います。
 言葉というものは面白いもので、語らないことで語ると言うこともよくあります。そして「分かる」ということは、しばしば言外で語っていること、あるいはその言葉の奥で語っていることである場合が多いものです。目に見える言葉だけが言葉ではないと言いましょうか、私たちが旧約聖書と言っている書物は、イエスはメシアである、キリストである、十字架の死を経て復活、昇天をするメシアであるという信仰は知りません。そんなことはどこにも書いていないのです。しかし、旧約聖書は、そういうメシアを様々な所で待ち望んでいる、そして証しをしている。
 旧約聖書が何を告げているかを探求した上で、メシアの苦しみや復活の栄光を探しつつ読むことを通して、旧約聖書がより深く「分かる」。それは本当のことだと思います。

  今やあの弟子たちが

 主イエスはさらに続けます。

 「また、(旧約聖書に書かれている)罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」

 説教の中では何度も言い、先程も言ったことですが、罪=悪ではありません。神に背を向けて、すべて自分のものにするのが罪です。私の家、私の命、私の神…。私たちは、何でも自分のものにしてしまうのです。「すべては自分のものだから、どう使おうが私の勝手でしょ」と思ってしまう。それが罪です。そして、そういう意味で、私たちは皆罪人なのです。
 その罪の赦しを得させるのが、悔い改めです。イエス様の先駆者であるバプテスマのヨハネも「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝え」(3:3)たし、イエス様はごく初期に「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」(5:32)とおっしゃいました。
 つまり「罪の悔い改め」とは方向転換のことであり、自分の方を向いて自分のために生きていた人間が、神の方を向いて神のために生きることです。そういう意味で、人が全く新しくされたのです。それは自分の「決断」とか「決心」とかいうものとは全く違うのです。「その名によって」とあるように、新しい命とは私の罪のために十字架に磔になり、私が神に向かって生きるために復活して、「あなたがたに平和がある」と言ってくださった主イエスと出会うことによって与えられるのです。「私は、あなたの罪を背負い、あなたの代わりに完全に罰せられ、復活した。今、あなたはそのことを信じた。これまでの自己から飛び出して洗礼を受けた。私の胸元に飛びついた。だからあなたは、新しく造られた」。主イエスは、そうおっしゃるのです。
 「宣べ伝える」ということも、これまでは主イエスの業でしたけれど、これからは弟子たち、いや使徒たちが主イエスに従いつつやる仕事になっていきます。彼らは「あらゆる国の人々に宣べ伝える」のです。神の民であるべきユダヤ人の枠を越えて、全世界の人々に対する宣教を復活の主イエスと共に始めるのは彼らです。

  高い所からの力

 更に主イエスは続けます。彼らはその宣教をエルサレムから始めねばなりません。エルサレムがルカ福音書では世界宣教開始の場所です。続けて主イエスはこうおっしゃる。

 「あなたがたはこれらのことの証人となる。わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい」。

   ここに「高い所からの力に覆われる」という言葉が出てきます。自分のことである意味申し訳ないのですけれども、最近になってよく言われることは、「先生は御言を語るために選ばれている」と言うことです。それは、自分では良く分かりません。でも先週伺った二つの教会でも「奨励」は準備して行きましたが、次々に思いもかけない言葉が出てくるのです。原稿にはない言葉が出てくる。でも内容は、「イエスは今も生きておられる。私たちはそのことを信じているキリスト者である」ということに尽きます。主イエスは罪の赦しを与えるために十字架に掛かり、復活して、私たちの傍らにおられる。私たちはそのことを信じている。復活の主イエスの十字架の死を信じることによって、死を越えた力が自分に与えられていることを信じているのです。そしてそのことを信じて語る時に神の力を与えられるのか、神の力を与えられるから信じるのか分かりませんが、今生きておられるイエス様のことを語るために自分がいることを強く思わされることは事実です。

  それぞれの賜物を活かして

 皆さんも、それぞれの賜物を与えられています。その賜物を神のために捧げてください。あなたのために、愛する独り子を十字架につけ、復活させ、天に挙げられた方が、御子と共に聖霊を降し、洗礼を授けてくださったのです。御子と同じように、罪人である私たちを「アッバ、父よ」と呼びかけることが出来る者にしてくださったのです。ご自身との間に「平和」を造り出してくださった。御子の十字架の死と三日後の復活によってです。私たちは、御子を信じる信仰によって御子と共に生きることが出来るのです。死を越えて生きることが出来るのです。こんな幸いなことがあるでしょうか。
 与えられた賜物を活かして、「イエスは生きておられる」という信仰を証して生きることが出来ますように。

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