「祝福」

及川 信

       ルカによる福音書 24章50節〜53節
   
24:50 イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。24:51 そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。24:52 彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、 24:53 絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。

  ご挨拶

 今日でルカ福音書の連続説教が終わり、私は明日引っ越しますけれども、私の中渋谷教会における任期も今月末で終わります。私は、来週山梨教会の礼拝で説教をさせて頂きます。先日、来週の礼拝の式次第を送りました。変な言い方ですけれども、私はまだイエス様から離れたくないので、マルコ福音書を最初から始めようと思っています。皆さんは、もちろん中渋谷教会で礼拝です。
 ルカ福音書の連続説教は、2010年11月7日の召天者記念礼拝に始めました。その間、私の脳梗塞などの発病によって長期入院し、皆さまに大変なご心配を掛け、またご迷惑をお掛けしたことを申し訳なく思います。済みませんでした。ルカの連続説教は、回数にすれば今日で一四六回目です。因みに聖研祈祷会を始めたのが2007年4月ですから、丁度「十年」の長き間、ルカ福音書に関わったことになります。

  最初と最後

 この福音書は、ルカという人が書いたと考えられてきました。そのルカは、この福音書を「順序正しく書いた」と言っています。そして、主イエスの先駆者であるバプテスマ(洗礼者)のヨハネの誕生の次第から書き始めます。
 最初の舞台は「神殿」であり、二度出てくる言葉は「喜び」です。既に高齢になった父ザカリアが香を焚くために「神殿」に入っている時、天使ガブリエルが現れ、民の「喜び」として赤ん坊が彼の妻であるエリサベトから誕生することを告げたのです。でも、ザカリアはその言葉を信じることが出来ませんでした。夫妻共々、高齢だったからです。
 その後も色々なことがありましたけれど、この「神殿」「喜び」という言葉は、今読んで頂いた最後の箇所にも出てきます。このルカ福音書の最初と最後の言葉は、緊密に結び合っているのです。

  いと高き方の力、聖霊

 その件は、直前の四九節に出てくる「力」にも当てはまることです。弟子たちは、父なる神が御子イエス・キリストにおいてなさったことの「証人」となるべく、この後も都エルサレムに留まっていなければなりません。そこに留まる弟子たちに、主イエスは「父が約束されたものを送り」、弟子たちは「高い所からの力に覆われ」ます。その時、主イエスの言葉と業、十字架の死と復活の命、そして十字架に磔にされて生き返った方が天に挙げられ(昇天し)、人間の目には見えなくなったことを、彼らは知りました。しかし、人間の目に見えなくなったが故に、主イエスは全世界に生きておられること、そして主イエスが神との間に造られた「平和」を語る「証人」とされるのです。彼らはその時、主イエスを礼拝する者にかえられていったのです。
 弟子たちは神から送られる「力」としての「聖霊」によって、初めて主イエスを自分の中に受け入れることが出来たのです。それは、主イエスの母になったマリアに関しても言えることです。彼女も「力」としての「聖霊」に包まれることによって、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と言えたのです。彼女はこの時に自分を明け渡すことが出来た。イエス様を、自分の中に受け入れるとは聖霊の力によることであり、決して、自分の力で受け入れる訳ではありません。


 ルカ福音書によれば、主イエスはエルサレム近郊のべタニアに弟子たちを連れて行き、そこで「手を上げて(弟子たちを)祝福され」、そのまま「天に上げられ」ていきました。私たちがこの後も唱和する「使徒信条」の言葉を使えば、主イエスはそこで「全能の父なる神の右に」に就き、神様から一切の権能を授けられたのです。人間の目には見えない存在になることによって、世界中に「イエスは生きておられる」という存在になっただけでなく、世の終わりの時に神の国を完成される王になられたのです。

  伏し拝む、主を礼拝する

 今日の箇所に「彼らはイエスを伏し拝んだ後」とあります。「伏し拝む」(プロスキュネオー)は、この福音書ではここと4章7節8節にしか出てこない珍しい言葉で、そこでは「拝む」と訳されています。意味は同じで、「礼拝する」、つまり「従う」ということです。
 ルカ福音書の4章には、悪魔とイエス様の対話が出ています。すべての権力と繁栄とを神に任されている悪魔は、イエス様に向かってこう言うのです。

 「もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」(4:7)  イエス様は、悪魔にお答えになりました。

 「『あなたの神である主を拝み、
ただ主に仕えよ』
と書いてある。」
(4:8)

 問題は、悪魔を礼拝し、悪魔に従うのか、神のみを礼拝し、神に従うのかです。悪魔の具体的姿を思い浮かべる必要はありません。悪魔を拝むとは、この世の繁栄を拝み、それを求めるということでしょう。なんやかんやと言っても、人間はこの世の繁栄に代表される名誉とか富とか、そういうものを求め、いつしかそれなくしては生きていけないかのように思い始めるものです。そのようにして悪魔に従っている。そういうことがあります。
 この世の繁栄、名誉とか富とか、それらが悪なのではありません。それらのものがなくては「人として生きていけない」と思い、神を礼拝しない。そのことを、イエス様は断固として拒絶しているのです。「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」とは、そういうことです。

  神の僕

 先日の水曜日の夜、聖研祈祷会においてヨブ記の素読が十七回で終わりました。聖研は最初に一人が発表し、その後、参加者が自由に質問したり、感想を言ったりします。その時間が楽しいのですけれども、先週はある方が「ヨブは、最初から最後まで神の『僕』である」と言ってくれました。「僕」であるとは、主従関係の「従」であるということです。常に「主」である方に従う。そこに僕の意志があるのです。
 従うには、主なる神の意志を知らねばなりません。しかし、神の意志が愛にあることが分かったとしても、愛ほど難しいものはないのです。その点に関して、人間は分かったようなことを言わずに、神の愛とはこの場合には何であるかを考え、探求することを「僕」は求められているのだと思います。「神を拝む」とは「神に従う」ことであり、それがどういうことであるかは自分の頭で考え、探求することであると、私は思います。

  主にのみ仕えよ

 ここでのイエス様の言葉の背後には、旧約聖書の申命記6章や10章の言葉があると言われます。六章には「シェマー(聞け)」と言われ、神の民イスラエルが決して忘れてはならないことが記されていますけれど、そこにはこうあります。

  聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。 (6:4〜5)

 少し離れてこう続きます。

 あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい。(6:13)

 ここに「主にのみ仕えよ」とあります。そして、「主にのみ仕える」ことは、唯一の主を「愛する」ことなのです。それをイスラエルは忘れてはいけない。そのことを忘れて他の神々に仕える、つまり人間の願望に仕え、この世を愛した時、イスラエルはイスラエルでなくなる。神の民は、その姿を失うのです。私たちも心すべきことです。
 申命記の10章12節以下には、主がイスラエルに求められることが記されています。ここにも、イスラエルは主を愛し、主に仕えよ、とあり、こう続きます。

 この方こそ、あなたの賛美、あなたの神である。(10:21)

 もちろん、ここには具体的な事柄も書かれているのですけれども、それらをひっくるめて「主に仕えよ」とあり、それこそが「賛美」を生み出すとあります。主が自分の主であることを知る。そして、主に仕える、そこに「賛美」の源があるのです。

  賛美の源は神の赦し

 つい先日の牧師会で、韓国人の牧師さんが「日本の旦那さんは、毎週日曜日に奥さんを玄関前まで送ってきても、何か不幸がなければ教会の礼拝には来ないと、奥さんに言う。でも礼拝に出れば、あなたが知らないあなた自身を知ることになるから、礼拝に来た方が良いとご主人に伝えなさいと、奥さんに言った」とおっしゃいました。私は、その通りだと思うのです。私たちは神を礼拝することによって、初めて自分が罪人であることを知るのです。自分が、造り主の意に逆らい、この世のものに心惹かれている罪人であることは、主の前に立ち、その語りかけを聞くことによって知るのです。さらに言えば、自分では善いと思っていることが罪である場合があると知るのは、その罪が神によって赦されている場合です。礼拝の中で、本当の自分の姿を知る。そこに「賛美」が生まれるのだと思います。

 主を賛美するために民は創造された

 日本の教会は、しばしば「学ぶ教会だ」と言われます。私もそう思います。御言を学ぶのです。説教もそのためにある。しかし、私はこの教会に来て、礼拝は神を賛美するためにもあると知らされました。ある方は、礼拝が始まる前に、必ず「あなたを「賛美」するために、ここに集められたことを感謝します」と祈ります。私はその祈りを聞く度に「ああ、礼拝は神を賛美するためにあるのだな」と思うのです。
 そして、これも中渋谷教会に来てから知った言葉ですけれども、詩編102編にはこうあります。

 後の世代のために
このことは書き記されねばならない。
「主を賛美するために民は創造された」。
(102:19)

 私たちは「主を賛美」するために創造されたのです。中身のない賛美ほど空しいものはありません。でも、中身が伴う賛美ほど嬉しいものはありません。この詩も、意味もなく言葉やメロディによって主を賛美すれば良いと言っているはずもありません。私たちは中身の伴う賛美を主に捧げるために創造されたのであって、闇雲に賛美をすれば良いわけではありません。しかし、中身が伴う賛美とは何でしょうか。

  日本人を止める

 現在中渋谷教会の主任代務者をしてくださっている大住雄一先生は、私の前任地である松本日本基督教会(現日本基督教団「松本東教会」)の礼拝やら修養会、そして若い人を集めての一週間に亘る聖書研究合宿などにも来てくださった先生です。その大住先生がある日の礼拝説教で「キリスト者になることは日本人を止めることだ」とおっしゃり、会衆一同大いにビックリしたことがあります。早いもので、もう二十年くらい前のことです。大住先生は言われました。「パウロもペテロも、キリスト者になることでユダヤ人であることを止めた。ユダヤ人が守り続けてきた土曜日の安息日を、主の復活を記念する週の初めの日、日曜日に替えた」、と。初代のキリスト者は、この日の朝に礼拝を始めたのです。このことだけをとっても、当時のユダヤ人社会の中では大変なことであり、初代のキリスト者は、社会から排斥や迫害をされる対象になりました。
 でも彼らにとっては、イエスが十字架の死から復活した、神はこのイエスを通して「罪と死」という誰も勝てなかった法則に打ち勝たれた。そして、イエスを天に挙げられ、「主」と名付けられた。そのことを「賛美」する「喜び」の方が、ユダヤ人社会から排斥や迫害をされることよりも断然強かったのです。しかし、もちろんこのことはユダヤ人社会の中だけではなく、あらゆる社会の中で異質なことでしたから、どこに於いても彼らは排斥され、時に迫害されたことは、この福音書の続きと言われる使徒言行録を見れば分かることです。賛美と迫害、これは両立し得ないようでありつつ、実は両立するのです。
 この国においても同じでしょう。住む場所も決められており、思想信条の自由もなく、職業選択の自由もない。そして、まるで天から下りてきたかのような名で呼ばせる。誰も好き好んでそういう家に生まれた訳ではないのですけれども、そういう者を作り、そういう者を「国民統合の象徴」とした制度を持つ国に、私たちキリスト者は生きているのです。その国の中で、ただイエス・キリストの父なる神だけを賛美し、他の如何なる者も賛美しないと表明することは、日本の社会の中で排斥や迫害を受けることなのではないでしょうか。
 公立学校の教師や生徒たちは、個人の思想信条の自由を保障した今の憲法の中でさえ、個人の思想信条の自由や権利を侵されていると思います。学校の卒業式などに出席した経験や「日の丸掲揚・君が代斉唱強制」に関する裁判傍聴の経験からも、私はそう思います。この国は以前にも増して、所謂「国家主義的」な国になっており、同調することに対する強制が進み、与党の政治家たちが考える「国民」が国民とされるでしょう。そういう国にあって、主だけに仕え、賛美する国民は排斥され、次第に迫害をされることになります。まだまだ「つい先日」と言って良い戦前には、キリスト者は日本の社会から「非国民」(国民に非ず)と呼ばれていたのですから。私たちは、国民でありつつ、国家の枠を越えた神の国の住人であるキリスト者なのです。そのことを忘れてはいけません。

  大喜び

 彼ら弟子たちは「大喜びでエルサレムに帰り」とあります。弟子たちは喜んだ。原文を直訳すれば「巨大な喜びと共に」です。この直前の二人の弟子たちに着目するなら、彼らは目が遮られていて、主イエスとは三日前まで会っていたのに、目の前にいる人がイエス様だと分からなかったのです。しかし今は、天に挙げられるイエス様を「伏し拝んだ」後に「大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた」。そういう弟子たちに造り替えられているのです。
 この「大喜び」という言葉は、イエス様がお生まれになった時の天使の言葉の中に出てきます。その時、天使たちは、人の数にも数えられていなかった羊飼いに向かって「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる」と言い、こう続けます。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」
 ここに出てくる「大きな喜び」「大喜び」と同じ言葉です。地上の全ての民に告げ広められていく「大きな喜び」の知らせ、それがイエス様の「救い主」「主」「メシア」としての誕生です。この時イエス様は、人間が生まれる所ではない家畜小屋の飼い葉桶の中で布に包まれている赤ん坊です。しかし、この方が「救い主」「主」「メシア」なのです。そのことがはっきりしたのがこの時です。十字架の死を経て三日目の日曜日の朝に復活され、弟子たちに現れて「平和」を告げられ、天に挙げられた今日なのです。

  主イエスの弟子たちの仕事

 イエス様が地上に誕生した時、天使の大群は賛美を始め、こう言いました。

 「いと高きところには栄光、神にあれ、
地には平和、御心に適う人にあれ」。

 原文では「御心に適う」はなく、ただ「人にあれ」ですけれども、人に「平和」をもたらすのは、いや、もたらすことが出来るのは、この神様だけなのです。
 昨日もお別れのメールをある方から頂きましたけれど、その中に、「神様が長い間、呼びかけて下さっていたのだとやっと気づくことができました」という言葉がありました。神様が、家畜小屋で生まれた赤ん坊を十字架の死、復活の命、弟子たちへの顕現、弟子たちを祝福しながらの昇天を通して、「救い主」「主」「メシア」とし、地上にも神の国の「平和」を造り始めている。「私はその平和の中に生きるように、ずっと前からあなたを招いている」。神様は、人々に向かってそうお語りになっているのでしょう。神様の招きに気づき、応えた方が信仰を告白して、キリスト者になるのです。それは個人の業です。

  個人

 教会規則の前文にも書いてありますけれど、中渋谷教会はその伝道開始の時から、「キリスト教共助会」という団体と共に歩んできました。今は双方共に相当かわってきましたし、共助会の次代を担う後継者がこの教会にはいませんから、共助会も一団体になっていただきました。でもその精神は、中渋谷教会にとって今も大事です。それは「キリストのほか自由独立、主にある友情を重んじる」というものです。当時は、外国から来られた宣教師たちが持ち寄る教派的な対立が日本の中でもありましたから、この精神は今よりも意味があったでしょう。
 それはそれとして、ここで言う「キリスト」は十字架に磔にされ、三日目に復活し、弟子たちに現れて「平和」を宣言し、彼らを祝福しながら天に挙げられ、彼らに礼拝を引き起こしたキリストです。そして、世の終わりの時に再びこの世にやって来て、神の国を完成されるイエス・キリストです。キリスト者は、誰も洗礼を受けたその時すべてを分かっているわけではありません。しかし、神様が何年も地上の生を与えてくださるなら、次第次第に分かってくるのです。そこで大事なのは個人です。信仰は借り物ではいけません。自分が分からなければ意味はないのです。

  共同体

 しかし、同時に信仰は共同体のものです。信仰告白のことをギリシア語ではホモロゲインと言いますけれども、それは「同じことを言う」という意味です。私たちが属している日本基督教団の信仰告白も「我らは信じかつ告白す」という言葉に始まり、「我信ず」で始まる使徒信条で終わります。この「個人」は「神の家族という共同体」、イエスを「救い主」「主」「メシア」と信じている「共同体」の中の「個人」なのです。私たち一人ひとりには、様々な意見があります。でも、信仰告白においては同じことを言う家族の一員であることは忘れてはいけないのです。
 私の罪の赦しのために主イエスは十字架に磔になったのだし、復活し、現れ、昇天されたのです。ただそのことによって、私と神様との間は「平和」になったのです。その「私」が、神の家族の中に生きている「私」なのです。

  私たちは何故今もキリスト者なのか

 皆さんの多くは家族の中でたった一人のキリスト者であり、家族の中で信仰の話は出来ないと思います。それは本当に辛いことだと思います。でも、ここにいる信徒の方は、母の胎にいる時から、神様に選ばれたので、キリスト者として頑張ってください。いつか、皆さんに与えられた信仰が、伝わる人には伝わりますから。
 「キリスト者」に関しては「敬虔なキリスト者」という言い方があります。平均的日本人とは様々な意味で違うという意味でもあるでしょう。でもその奥にあることは、キリスト者は可哀想な経験をした人とか、キリスト者は偽善者であるとか、そういうものもあります。私も家族の一員に、「イエス様は凄い。クリスチャンは、あんな人にはなれない。それはあんたらを見ていればよく分かる。クリスチャンはイエス様を見て、あんな人になれっこないのになりたいと思って苦しんでいる。俺はそんなことで苦しみたくはないから、クリスチャンにはならない。また、なってもいないくせに、なった気になる偽善者になるのも嫌だ」と、言われたことがあります。
 その時、私が何と言ったかを全く思い出せないので、ひょっとしたら納得してしまって、何も言わなかったのかも知れません。あの当時、自分が思っている以上に自分はどうしようもない人間だということを思わされていましたから、何も言えなかったのかも知れません。でも、あれから十数年経って、今なら言えるような気がします。私は何故キリスト者であり続け、今もキリスト者なのか?それはこの話の最後に帰ってきます。

  賛美の源

 この福音書の最後の言葉は「神をほめたたえていた」です。原文では、50節51節の「祝福」と同じユーロゲオ―です。元は「良きことをする」という意味で、それを「祝福する」とか「賛美する」と訳しているのです。
 かつての神殿、今の礼拝堂で捧げられる礼拝には、神様からの「祝福」と私たちからの「賛美」に満ち満ちています。彼らはどういう意味で祝福され、何故、神を賛美しているのか?それは、46節から48節を見ると分かります。そこで、主イエスは、十字架の死と苦しみ、復活は律法や預言書、詩編に書いてあると言われます。続けて「罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」と、言われます。そして、弟子たちがそのことの「証人」となるのです。
 ここに「罪の赦しを得させる悔い改め」という言葉があります。「悔い改め」とは「方向転換」のことです。それまでは自分に向かって生きていたのに、その時から神に向かって生きる人間になった。それは、「罪」を赦されたからです。その時から神の方に向かって生きることを、ほんの僅かかも知れないですけれど、知るようにされたからです。主イエスが十字架に磔にされて死んでくださったこと、三日目の日曜日に復活して、逃げてしまった弟子たちに現れ、「イエスは生きておられる」ということを明らかにしてくださったこと、その様にして罪を赦してくださって、神様との間に「平和」を造り出してくださったのです。そこに彼らの、そして私たちの賛美、神様への祝福の源があるのです。それは自分のような者がキリストの証人とされたことの喜びです。

  イエス様は今も生きておられる

 弟子たちの内の二人は、イエス様が目の前に現れても分かりませんでした。でも御言を説き明かしてくださった時に心が燃え、イエス様がパンを裂いてくださった時に、イエス様が生きておられることが分かったのです。それと同時に、イエス様は人間の目に見えなくなりました。  私たちも同じでしょう。日常生活の中でイエス様の姿を見つけることは困難な時があります。礼拝の中でも、イエス様の姿は見えないのです。しかし、この礼拝の中で、説教者は御言を通して、神様がイエス様を通して私たちに対して「平和」を与えてくださったことを繰り返し新たに語り、皆さんも新たに知り、神様をほめたたえる。心から賛美するのです。この言葉の元々の意味は、先程も言いましたように、「良きことをする」です。神はその独り子、主イエス・キリストを通して、私たちに対して「良きこと」をしてくださったのです。そして、私たちも様々な苦しみを経験しつつ、神に「良きこと」、つまり賛美を捧げるのです。そして、証人となる。私たちはこの礼拝に於いて、いつも新たにそういう人間に造り替えられるのです。  それは、イエス様が私たちをお見捨てにならないからです。だから多くの日本人が行楽日としている日曜日に、私たちはこうして礼拝しているのです。そういう意味で、私たちは今もキリスト者なのです。神様は、イエス・キリストを通して私たちをお見捨てにならない。だから私たちは神様との間に「平和」を与えられたキリスト者として、キリストの証人として、神様を賛美する礼拝を今日も捧げているのです。
 この礼拝は、言うまでもなく来週もありますし、世がある限り続くものです。この世を生きている今、私たちにはこの礼拝を与えられていること、罪赦された者として、神様との「平和」を与えられ、「祝福」をもってこの世に証人として派遣される幸いを心から「賛美」したいと思います。そしてまた来週、大喜びで礼拝に集うことが出来ますように祈ります。

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