「流れのほとりに植えられた木のように」

及川 信

       詩編  1編 1節〜 6節
1:1 いかに幸いなことか
  神に逆らう者の計らいに従って歩まず
  罪ある者の道にとどまらず
  傲慢な者と共に座らず
1:2 主の教えを愛し
  その教えを昼も夜も口ずさむ人。
1:3 その人は流れのほとりに植えられた木。
  ときが巡り来れば実を結び
  葉もしおれることがない。
  その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。
1:4 神に逆らう者はそうではない。
  彼は風に吹き飛ばされるもみ殻。
1:5 神に逆らう者は裁きに堪えず
  罪ある者は神に従う人の集いに堪えない。
1:6 神に従う人の道を主は知っていてくださる。
  神に逆らう者の道は滅びに至る。


 主イエスが地上に人として降誕されてから、二〇一一年目を迎えました。その紀元二〇一一年の最初の主日に、こうして御一緒に礼拝を捧げることが出来ます幸いを神様に感謝したいと思います。
 主イエスの降誕を待ち望む待降節(アドヴェント)を一年の初めとする教会の暦で言えば、今日は降誕節第二主日です。ですから、先週に引き続きルカ福音書のクリスマス物語を読んでも少しもおかしくありません。そうしようかとも考えました。しかし、太陽暦による新年を迎えた最初の主日礼拝を「新年礼拝」として捧げることの意義も深いものです。私は、六年前の新年礼拝でも詩編一編を読みました。また、私が中渋谷教会に着任させて頂いた十年前、月に一回夕礼拝で詩編を一編から十二編まで説教したことがあります。一つの区切りになるような時に、私は、この詩編一編を読んでは説教してきました。中渋谷教会では、今日で三回目ですが、牧師になってからは、多分五回目か六回目になるだろうと思います。毎回、新鮮な語りかけを聴くことが出来て感謝なことです。
 今、私たちは朝、夕の礼拝でルカによる福音書を読み始めています。聖研祈祷会では数年前から読んでおり、今は十二章です。礼拝の説教ではまだ二章ですから、今後三年位は読み続けることになると思います。ただ、これからは月に一回程度、詩編を読んでいきたいと思います。聖書は、旧約聖書と新約聖書の両方があって聖書であり、どちらか一方だけに偏るとそのどちらの意味も深く分からないと思うからです。去年の秋までは、ヨハネ福音書と創世記を読んできましたが、今年からはルカ福音書と詩編を読んでいきます。言うまでもなく、詩編は祈り、讃美、信仰の言葉の宝庫ですから、その言葉によって養われ、導かれていきたいと願っています。(会報に予告されていますが、二月十一日に予定されている『詩編の集い』は今年で十五回目ということで、私が「詩編とは何か」について話すように言われています。)

 聖書という書物

 私たちが読む本の多くは、一度読めば、「その本を読んだ」と言えるものかもしれません。「その本を読んだ」とは、「その本に書かれていることは分かった」ということで、二度読む必要はないということになります。実際に分かったかどうかは別として、そう思っている場合が多いでしょう。しかし、聖書は、全部読むだけでも大変なことですし、クリスチャンだって全部を読んだことがない人はたくさんいると思います。もちろん、聖書は全部読んだ方が良いに決まっています。でも、「全部読んだ」ということが「全部分かった」ことにならないことは、全部読んだ人も読まない人もよく分かっていることでしょう。聖書は、難解な学術用語が頻出するいわゆる難しい書物ではありません。しかし、他の本のように分かってしまえば読む必要のない書物ではありません。そもそも「聖書が分かる」とはどういうことなのかも、よく吟味しなければならないでしょう。
 聖書は元来一巻ずつの大きな巻物であり、誰もが手にとって読めるものではないし、そのように読むことを念頭に書かれたものではありません。聖書は、神様を礼拝する場所で朗読され、説き明かされ、人々が神の言として聴くために書かれたのです。ですから、何よりも礼拝の中で、一緒に読み、神様の語りかけを聴きとり、導きに従う歩みを共にしていきたいと願っています。そういう書物として聖書が私たちの前にあること自体が、私たちにとって何よりの幸いだとも思います。

 聖書と出会った幸い

 もし仮に「あなたの人生において最も幸いなことは何ですか」と訊かれたなら、じっくりと考えると、やはり、「聖書と出会ったこと」と答えざるを得ないと、私は思います。この聖書と出会わなければ、神様を知らず、神様に愛されていることを知らず、人を愛することもできず、人生に希望を持つことは出来なかった。それは、私においては確実なことです。今、私に家族がいることも、皆さんのような主にある友人、あるいは神の家族がいることも、こうして主日毎に礼拝を共にしつつ生きていけることも、皆、聖書と出会ったからです。それは、私にとっては神の言と出会ったということですし、神の言そのものであるイエス様と出会ったということだし、そのことの故に、愛し愛され、赦し赦される人々と出会い、その交わりの中を生かされていることなのです。単に「観賞用の書物として最高のものである聖書と出会って幸せだ」と言っているのではありません。聖書に出会わなければ、神と出会えず、人と出会えず、愛と信頼をもった交わりの中を生きることが出来なかった。しかし、今は神と人との愛の交わりの中に生かされている。こんなに幸いなことはない、と言っているのです。

 孤族 絶望 死

 私が読んでいる新聞の朝刊には、昨年末から「孤族の国を生きて」という記事が連載されています。「孤族」とは、孤独の「孤」と家族の「族」と書きます。この国の現状を表現するための新しい造語だと思います。話し合える友人もなく、家族との縁も切れて、孤独の中で自ら死を選んでしまう人たち。ついに、誰にも「助けて」と言えなくなって、アパートの一室で餓死をしてしまう人たち。あるいは、「自分の人生を終わりにしたかった」と言って無差別にナイフで人に切りかかる青年。そういう人々のこれまでの歩みがどういうものであったのかの一端が記されています。その記事の背後にある様々な現実や、その人々の心の奥底にある孤独の深さを思わされて、胸が詰まります。人は孤独に落ちていけば、絶望します。そして、それはちょっとしたことが重なっていくと、誰にでも起こり得ることだと思います。
 人は誰でも、物心がつけば死を考えたことがあると思います。多分、動物は死を考えることはないでしょう。人は人であるが故に、死を考えるのだと思います。自分の死だけでなく、自分の愛する人々の死を考える。その時、自分はどうなってしまうのか?そのことを考えると思います。私も中学から高校にかけて考えていました。そして、死を超えた永遠なものとの繋がりがなければ、死という絶対的な孤独に耐えることはできないと思いました。そして、自分が生まれる前から死んだ後もずっと存在する何者かに出会わないと生きていけない。少なくとも望みをもって生きていけないと思いました。そして、当時はそれを「神」と言ってよいのかどうかは分かりませんでしたけれど、そういう存在との出会いと繋がりを、一方では恐れつつ、他方では切に求め始めたと思います。

 交わりの喪失としての死

 考えてみると、エデンの園での蛇は、エバに「この実を食べても決して死なない」と語りかけました。人間なら誰もが持っている死の恐怖から目を背けさせたのだと思います。錯覚させたのです。そして、その錯覚の中で、彼女は神の戒めを破り、禁断の木の実を食べました。そして、夫であるアダムも食べた。エバは神の言葉ではなく、蛇の言葉に耳を傾け、その言葉に従い、アダムはエバの言葉に耳を傾け、その言葉に従ったのです。その結果、彼らはそれまでのような神様との交わりを失い、互いの交わりを失いました。肉体の命は生きていますが、神様と人との愛と信頼の交わりの中に生きる命は失ったのです。
 彼らは、いちじくの葉を腰に巻いて体の一部を隠し、神様が現れた時には葉っぱの陰に全身を隠しました。これは、単に体の一部とか全身を隠すことではなく、常に悪事や恥を隠しながら生きる人間の現実を表しているでしょう。このエデンの園の物語も、私は若き日から繰り返し読んでいますが、次第に深刻に身につまされる話になって来ました。人間が、神に逆らう者の計らいに従って歩み、罪ある者の道にとどまり、傲慢な者と共に座ってしまう時、そこにあるのは、恥であり、隠ぺいであり、そして孤独であるということ。聖書が語っていることを、自分の身をもって知らされる人生を生きてきたからです。

 昼も夜も口ずさむ

 詩編は、百五十の詩が編纂されたものです。その詩編の巻頭を飾る言葉が、「いかに幸いなことか」です。幸いに生きるとは何なのか?幸いとは、どういうことなのか?そのことを、この詩は告げています。そして、幸いを与えて下さる主を賛美している。その詩が詩編百五十編の巻頭に置かれている意味は深いと思います。
 先日、「聖書の学びは楽しい」という題の雑誌を読んでいたら、ひとりのドイツ文学者が、ユダヤ人の友人とザルツブルグという町のアパートで共同生活をしていた時のエピソードを書いていました。それは、こういうものです。

 「話がたまたま詩編のことになると、彼はつと立ち上がるや低い声でヘブル語のもとの詩を朗誦し始めました。日本の御詠歌に似た静かな節をつけ。からだを前後に軽くゆすりながら朗誦していきます。私はあっけにとられてじっと見つめていました。前後に揺れるからだは次第に激しく動いて、ついには頭が軽く石の壁にコンコンとうち当るのでした。いつまでもそうやって朗誦を続けていました。そしてふと見ると目に涙を浮かべているではありませんか。
 ひときわ強い語調で一節を朗し終えると、「第一篇から二三編までだ。今のが、お前の好きだという『主はわが牧者なり』だよ」と言います。一五〇編全部覚えているのだそうです。
 少年時代にラビのもとでそうやって覚えたという。私は圧倒されました。彼は今もユダヤ教徒ですが、旧約のほとんどをそらんじていると知って、私はかいなでしか聖書を読んでいないことをとても恥ずかしく思いました。」

 この後にも深く考えさせられる文章が続きますが、ここで止めておきます。

 詩編一編では、幸いな者とは、「主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人」であるとあります。幼い頃から徹底的に教育を受けたユダヤ人にとっては、「聖書を読む」とは、わざわざ本を開いて読むことではない。体の中に入ってしまっている言葉をそらんじることなのです。そらんじつつ、その言葉を聴き、後悔や感謝、自責の念や讃美、様々な思いに胸を震わされることなのです。そこに人がひとりもいなくとも、その人は、そこにおられる神様からの言葉を聴き、そして神様に語りかけている。そういう言葉のやり取りをしている。それは魂の底から湧き出てくる言葉のやり取りでしょう。そのような次元の言葉のやり取りが出来る時、人は孤独ではあり得ません。誰もいなくとも、神様がいる。その神様との愛と信頼の交わりに生きることが出来る。その時、人は人との交わりに向けても一歩を歩み出すことが出来るでしょう。そして、神と人との交わりの中で生き始めることが出来ると思います。

 流れのほとりに植えられた木

 しかし、その交わりに生きる命、そして幸いは、すぐに目に見える現実となって現れる訳ではありません。

「その人は流れのほとりに植えられた木。
 ときが巡り来れば実を結び
 葉もしおれることがない。
 その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。」


 豊かに葉を茂らせ多くの実をならせる木も、土に植えられた翌日にそうなるわけではありません。「桃栗三年、柿八年」という言葉がありますように、時が来なければ実を結ぶことはないのです。また、年月が経って実を結ぶようになっても、年がら年中実をつけているわけではない。その季節が来なければ、決して実を結ばないのです。私たちの人生も同じです。すぐに葉を茂らせ、豊かに実を結ぶわけではありません。
 詩人の目の前には、緑豊かな大地が広がっているわけではありません。パレスチナ地方には、川らしい川は一つしかありません。つまり一年中流れている川はガリラヤ湖を水源とするヨルダン川しかなく、他の川は雨期にだけ水が流れるワジと呼ばれるものか人工的な灌漑用水路です。現地に行ってみると、ワジがある所にだけ背の低い灌木が生えており、人工的な灌漑用水路の周囲には鬱蒼としたナツメヤシの畑があります。水分がない所では木は育ちません。
 木は、自分では動けません。そして、流れのほとりに植えられたなら、動いてしまうことは命とりです。じっとしていることが大事です。人間の目には見えない土の中で根を張り、その根が少しずつ、しかし着実に水分を吸収し続けることで、次第に幹を太くし、枝を張らせていくのです。その枝の先に栄養が届くその時まで、じっと忍耐しつつ留まっていなければなりません。そういう忍耐の期間を経て、漸く、その木は葉を茂らせ、実を実らせるのです。もちろん、この木は御言を愛し、その御言をそらんじるようにして生きている人の喩えです。御言に沈潜する生活を始めても、葉を茂らせ、実を結ぶに至るまでに掛かる期間は、人によってずいぶん違うでしょう。ある人は半年、ある人は三年、ある人は八年、あるいはもっと掛かるかもしれません。それは、私たちには分からないことです。焦りもせず、怠けもせず、御言に親しみつつ待つしかないのだと思います。聖書を読むとは、そういうことなのです。そして、実は、そこに幸いがある。

 賛美に始まり賛美に終わる

 先ほども言いましたように、これからの数年間はルカによる福音書と詩編を読む礼拝を続けます。ルカ福音書はその最初と最後が神殿の場面であり、また讃美で始まり讃美で終わることを語って来ました。そして、既に読んできたように、マリアの讃歌、ザカリアの讃歌、天使の讃美と讃美がいくつも出てくる福音書です。
 「いかに幸いなことか」に始まる詩編一編も、主を信頼し、その言葉を日々そらんじるほどに親しむ人間の幸いを告げつつ、時が来れば必ず実現する言葉をお語りになる主を賛美しているのです。そして、詩編一四六編から一五〇編までは、すべてハレルヤ(主を賛美しよう)に始まりハレルヤで終わる「ハレルヤ詩編」が集められています。百五十の詩が集められた「詩編」は、讃美に始まり、讃美で終わります。それは、私たちの礼拝においても同じです。主なる神様を賛美する讃美歌を歌わねば礼拝は始まりませんし、終わりません。その讃美を捧げる私たちに「幸いな者たちよ」という祝福が与えられ、その上で、私たちは祝福をこの世へもたらすために派遣されるのです。そこに、私たちに与えられた「幸い」があります。

 マリアの幸い

 ルカ福音書において「幸い」という言葉が、どこでどのように出てくるかを見てみると、詩編一編と共通のものがあることが分かりました。今日、その全部を挙げて語ることはしませんが、私たちがこれまで読んできた箇所にも既に出てきています。
 それは受胎告知をされたマリアが、既に妊娠六カ月になっているエリサベトを訪ねた場面です。エリサベトは、マリアにこう言ったことを覚えておられると思います。

「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」

 このエリサベトの言葉は、詩編一編と同じ形です。最初に「幸いな人だ」と言われ、その次に「〜〜の人は」と出て来るのです。そして、形だけでなく、内容も基本的に同じだと言ってよいと思います。それは、主の言葉はいつか実現することを信じて、その時を待つということです。その「信じて待つ」ことの幸いを告げられたマリアは、その直後に「マリアの賛歌」を歌い始めたのです。

 弟子たちの幸い

 次に「幸い」が出て来るのは六章二〇節以下で、有名な主イエスの説教が始まる所です。主イエスは、「目を上げて弟子たちを見て」こう語りかけました。

「貧しい人々は、幸いである、
 神の国はあなたがたのものである。

 今飢えている人々は、幸いである、
 あなたがたは満たされる。

 今泣いている人々は、幸いである、
 あなたがたは笑うようになる。」


 これは、主イエスの弟子たちに対する語りかけの言葉です。信仰をもって主イエスに従って来ている人たち、つまり、私たちキリスト者に対する語りかけです。人間一般に向けての一般的な原理をお語りになっているわけではありません。
 主イエスに従うが故の貧しさ、飢え、悲しみに打ちひしがれている人々は幸いだと、主イエスはおっしゃいます。今飢えている人々、今泣いている人々と、「今」が強調されていますし、「神の国はあなたがたのものである」とか「あなたがたが満たされる」は、未来形です。つまり、いつか時が来れば実現することなのです。今は、まだ実現はしていない。しかし、主が語られたが故にその言葉は実現すると信じる者は、今、貧しく、飢えており、泣いていても、幸いな人なのだと、主イエスはおっしゃっています。必ず、主の言葉は実現するからです。

 貧しい者たちを招く者・貧しい者たちの幸い

 一四章では、イエス様が上流階級であるファリサイ派の議員の家に招かれて食事を共にする場面が出てきます。そこで招待された客たちが、我先にと上席に着こうとしました。その様をご覧になったイエス様は、ご自分を招待した人に向って「宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい」とおっしゃった。何故か?「その人たちはお返しが出来ないから」です。そういう人々を招くなら「あなたは幸いだ」と、主イエスは言う。そして、こう続けられるのです。「正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」つまり、報いは将来、終わりの日に与えられる、ということです。
 その言葉を聞いて、招かれた客人の一人が、「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と言うと、主イエスは、もう一つの話をされます。それは、主イエスが人々を神の国の食卓に招待しても、この世で満足している人たちはその招きに応えない。しかし、「貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人」は喜んで招きに応えるものだ、という内容の話です。
 一四章では、主イエスに従う弟子たちに対する言葉ではなく、ユダヤ人社会の富める人々、今満腹の人々、今笑っている人々に対する言葉です。しかし、六章と同じくここでも、主イエスは私たちの常識とか経験とは真逆(まぎゃく)なことをおっしゃっています。ルカ福音書は、こういう上下の逆転、貧富の逆転、悲しみと喜びの逆転をいつも鋭く描きだすのです。

 逆転の転換点

 その逆転をもたらす転換点がどこにあるのかと言うと、主の言葉に従って生きるか否かにあるのです。ただ、その一点にある。一四章の二つの話も、主の言葉に従うならば、この世において今豊かな人、満腹の人、地位のある人も幸いに生きることが出来るし、今貧しく、悲しみに暮れて、孤独に生きている人も、主の招きの言葉に従って主の許に来れば、神の国に生かされ、満腹し、笑うことが出来るようになるのです。今現在のこの世における状態は、人間の幸いに関しては、究極的な問題ではありません。この世における今の状態の違いは、永遠に続くわけもないし、何よりも人間の幸不幸の決定的な違いを意味しないのです。

 生きた言葉

 ペトロは、その手紙の一において、預言者イザヤの言葉を引用しつつ、こう言っています。

「あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。
 こう言われているからです。
『人は皆、草のようで、
 その華やかさはすべて、草の花のようだ。
 草は枯れ、
 花は散る。
 しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。』
 これこそ、あなたがたに福音として告げ知らされた言葉なのです。」


 ここにありますように、私たちキリスト者とは、決して朽ちることのない神の言葉を信じることによって新たに生まれた者たちです。世の中には様々な言葉が行き交っています。「私の言葉を信じて従えば幸せになれる」とのたまう新興宗教は数限りなくありますし、この商品を買えば、あなたは豊かになれる、幸せになれる、美しくなれる、と囁きかけてくるマルチ商法も掃いて捨てるほどあります。それは、そういう言葉を真に受ける人が大勢いるからです。大晦日の民放の番組の中にも、『もう貧乏は嫌だ、狙うぞ、一発逆転』とかいうものがありました。見たわけではないので番組に関しては何とも言えませんが、いずれにしろ、この世には、経済的豊かさや地位を手にすれば人間は幸せになれるという言葉が溢れていることは確かなことです。それらの言葉はみな、空虚なものです。しかし、私たちは、そういう言葉に耳を傾け、心なびき、その言葉を語る者と共に歩み、その道に留まり、ついには、共に座ってしまう時があります。
 しかし、そこに待っているのは、神と人との愛の交わりに生きる幸いとは程遠い孤独であり、絶望です。それは、「神に逆らって歩む」ことだからです。たとえ人生の一時期に経済的に豊かな生活を送り、多くの人々から羨ましがられることがあっても、それは所詮「枯れて、散ってしまう」栄華に過ぎません。その豊かさの中で、孤独と絶望に陥る場合もいくらでもあります。その豊かさの中で味わう幸いは、神の国に招き入れられる幸いとは全く異なるものです。そういう栄華を求めて生きる者たちは、終わりの日の「裁きに堪えず、罪ある者は神に従う人の集いに堪えない」のです。時が来れば、そのことは明らかになります。
 しかし、「神に従う人の道を主は知っていてくださる」。そういう者たちは、裁きを通して罪赦され、神の国に招き入れられる幸いを味わうことが出来る。主は、そうおっしゃっている。その言葉は、時が来れば、必ず実現します。だから、その言葉を信じる者たちは、幸いです。主の言葉を愛し、「昼も夜も口ずさむ」ようにして生きる者は幸いです。必ず、神と人との愛の交わりの中に永遠に生かされるという実を結ぶことになるからです。

 礼拝で御言と聖餐に与るキリスト者

 私たちは、今日も、主イエスが十字架の贖いの死から甦られたことを記念する日曜日に、それも新年最初の日曜日に、主の言葉を聴き、主を賛美するために、この礼拝堂にやって来ました。だから、主イエスは、「あなたがたは幸いだ」と言ってくださっています。「その幸いを生き続けなさい。そして、ひとりでも多くの人々とその幸いを分かち合いなさい」と語りかけて下さっているのです。
 今日は、真に感謝すべきことに、主の聖餐に与る日です。その聖餐式の最後に私が式文に従って祈る祈りは、こういう祈りです。

「慈愛の神、あなたは限りなき憐れみをもってわたしたちを招き、主の晩餐に与らせてくださいました。深く感謝いたします。
 あなたは、これによって、御子イエス・キリストの贖いの恵みを、私たちの内に確かめ、私たちの罪を赦し、汚れを清め、とこしえの命を与え、御国の世継ぎとしての望みを堅くしてくださいました。今、聖霊の助けにより、感謝をもって、この体を生きた聖なる供え物として御前にささげます。私たち、主の体である自覚がいよいよ深くなり、ますます励んで主に仕えることが出来ますように。また、キリストの復活を知り、その苦しみに与り、折を得ても得なくても、御言を宣べ伝える事が出来ますように。
 主よ、常に恵みと祝福とを、わたしたちに満たしめ、終わりの日まで、その平安のうちを歩ませてください。」

 祝福と派遣

 私たちは、御言の礼拝と聖餐の礼拝によって罪の赦しと新しい命が与えられます。祝福されるのです。そして、信仰、希望、愛が支えられます。私たちは、その祝福の中で、主が語られた救いが完成する終わりの日を見つめて歩む主の民です。主が語られたことは必ず実現することを信じて、主に従って歩む主の民なのです。主の祝福の中で、信仰を生き抜くことによって主の言葉を宣べ伝えることは、私たちの使命です。この世において仕事がなくなっても、神様に与えられたこの使命は死の時まであります。役に立たないとか、必要とされていないとかいうことは、この世においてはあっても、私たちのために御子を世に送り給うた神の御前においてはあり得ないことです。その幸いを教えてくれる御言を絶えず新たに聴き、その御言に生かされ、御言を証しするために、私たちは派遣されるのです。
 ルカ福音書十二章には、こういう主イエスの言葉があります。「命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな」とおっしゃった後に、主イエスはこう言われました。
「ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」

 これが今日与えられた主の言葉、時が来れば、必ず実現する主の言葉です。信じて、昼も夜も口ずさみつつ歩みましょう。そして、主の言葉を信じて生きることは、こんなにも幸いなことなのだと一人でも多くの人々に証しをして生きていきましょう。
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