「いかに幸いなことか」

及川 信

       詩編  2編 1節〜12節
2:1 なにゆえ、国々は騒ぎ立ち
  人々はむなしく声をあげるのか。
2:2 なにゆえ、地上の王は構え、支配者は結束して
  主に逆らい、主の油注がれた方に逆らうのか
2:3 「我らは、枷をはずし
  縄を切って投げ捨てよう」と。

2:4 天を王座とする方は笑い
  主は彼らを嘲り
2:5 憤って、恐怖に落とし
  怒って、彼らに宣言される。
2:6 「聖なる山シオンで
  わたしは自ら、王を即位させた。」
2:7主の定められたところに従ってわたしは述べよう。
  主はわたしに告げられた。
  主はわたしに告げられた。
  「お前はわたしの子
  今日、わたしはお前を生んだ。

2:8 求めよ。わたしは国々をお前の嗣業とし
  地の果てまで、お前の領土とする。
2:9 お前は鉄の杖で彼らを打ち
  陶工が器を砕くように砕く。」
2:10すべての王よ、今や目覚めよ。   地を治める者よ、諭しを受けよ。
2:11 畏れ敬って、主に仕え
  おののきつつ、喜び躍れ。
2:12 子に口づけせよ
  主の憤りを招き、道を失うことのないように。
  主の怒りはまたたくまに燃え上がる。
  いかに幸いなことか
  主を避けどころとする人はすべて。


 王の交代時期に起こること

 今日お読みした詩編二は、「王の詩編」と呼ばれます。ナイル川を擁するエジプトは、かつては世界に冠たる大国であり、その王は神の化身として神格化されていました。そのことの故に、広大な地域を支配することが出来たのです。メソポタミアに興っては消えて行った大国の王も、エジプトとは異なる形とはいえ、王は神的な権威を帯びた存在でした。
 イスラエルは、そのような大国であったことはありません。エジプトとメソポタミアに挟まれたこの地域に大帝国は誕生しませんでした。南北を挟む大帝国の狭間で右往左往する。そういう宿命の下にあったのです。そういう土地が、神の民イスラエルの舞台であったことも、意味があることでしょう。
 そのようなイスラエルでしたが、ソロモン王の時には、それなりの領地をもつ王国を建設したことがあります。その時は、周辺諸民族の都市国家などを征服して領土に組み入れていきましたから、王が交代する時は、小規模ながらこの機に乗じて反旗を翻そうとする動きが起こりました。
 この詩編二は、新たに立てられるイスラエルの王が語り手だと思いますが、一節から三節は、王が交代するという不安定な時期を狙った周辺諸国の反乱の動きを描いていると思います。

なにゆえ、国々は騒ぎ立ち
人々はむなしく声をあげるのか。
なにゆえ、地上の王は構え、支配者は結束して
主に逆らい、主の油注がれた方に逆らうのか
「我らは、枷をはずし
縄を切って投げ捨てよう」と。


 中心は、「主に逆らい、主の油注がれた方に逆らうのか」にあると思います。
 こういう不穏な状況は、今のエジプトの例を見るまでもなく、独裁的な支配者と民衆の間でも起こることです。人間の歴史は、支配者の栄枯盛衰の歴史と言って良い面があります。この詩の背景に、そういう歴史経験があることは確実でしょう。でも、その経験の受け止め方が、根本的に違うという気がします。

 天を見上げるイスラエルの王

 この王は、極めて不穏な状況中で、こう言うのです。

天を王座とする方は笑い
主は彼らを嘲り
憤って、恐怖に落とし
怒って、彼らに宣言される。
「聖なる山シオンで
わたしは自ら、王を即位させた。」


 彼は、目を天に向けるのです。つまり、主なる神様に目を向ける。そこでは、主が地上の王たちの動きを見つつ余裕の笑みを浮かべ、あるいは嘲っておられる。
 目に見える地上の現実としては、主と主が油注がれたメシアに対する反乱の機運が盛り上がっているのです。放置しておけば、自分の地位が危うくなるどころか命すら危うくなるかもしれない。そういう状況がある。しかし、その中で、この王は天を見上げ、そこで神が笑い、また怒っておられる姿を見るのです。
 反政府デモが連日行われている今のエジプトの大統領は、夜も眠れないでしょう。恐怖と不安のどん底で、自らの地位と命を維持するために様々な手を打っている。しかし、彼が懇願するようなまなざしで見ているアメリカも周辺アラブ諸国も、最早、彼を助けようとはしません。自国の軍隊も助ける訳でもない。そういう時、神の化身でもなければ、公平な選挙で選ばれたわけでもない王は、その立ち所を失います。
 しかし、この詩を歌った王は、天の主を見つめ、主の笑いと怒りを、我がものとすることが出来るのです。周囲に何が起ころうとも、笑い、そして恐れることなく、怒ることができる。何故なら、彼を王として即位させたのは、天におられる主ご自身だからです。彼の立ち所は天にある主なのです。

 神の宣言

 そして、彼を立たせた主がこう宣言されている声を彼は聞いているのです。

「お前はわたしの子
今日、わたしはお前を生んだ。
求めよ。わたしは国々をお前の嗣業とし
地の果てまで、お前の領土とする。
お前は鉄の杖で彼らを打ち
陶工が器を砕くように砕く。」

 イスラエルの場合、王はいかなる意味でも「神の化身」ではありません。ここで王は、神から「お前はわたしの子」と言われます。しかし、それは神と誰かが肉体関係をもって生まれた子という意味ではなく、神様が王を養子とした。そういう法的な関係、契約関係を意味します。王は、神によって立てられた存在です。それは、神を親とする子の立場であるが故に、すべてを親に求め、親の命令に聴き従うべき存在なのです。王の権力の所在は王自身にあるのではなく、神にあるのです。
 だからこそ、彼が主なる神に求めるべき支配領域は「地の果て」にまで及ぶことになる。エジプトとかアッシリアのような大帝国における王の即位式でも、「国々を嗣業とし、地の果てまで領土とする」という言葉が読まれたと言われます。そういう大帝国なら、この言葉も多少現実味をもちます。でも、エジプトとメソポタミアの大帝国に挟まれた小国に過ぎないイスラエルの王の即位式の言葉としては、些か誇大妄想的だと言わざるを得ません。しかし、ここで問題になっているのは、地上の王の権力の大きさ、強さでなく、天におられる主の権力、主の力の大きさであり、強さなのです。
 イスラエルの王は、他の王国の王とは違い、この主に立てられている限りにおいて、そして、主の御心に従う限りにおいて王なのです。そして、天地をお造りになった主に立てられた王であるのであれば、その王の支配領域は「地の果て」にまで及ぶべきものであることは必然です。こういう王が、主によって立てられている。これこそ真の王であって、自分勝手に自らを神格化する他の国の王たちなど、所詮、浮世に一花咲かせるだけの空しい存在に過ぎません。それにも拘わらず、地上の王たちは、自らを勘違いし、「主に逆らい、主の油注がれた方に逆らう」。その愚かしさ、滑稽さを主は笑い、そして怒られます。

 主に仕える喜び

 それ故に、主に油注がれた王、つまり、主によって聖別されたメシアは、地上の王たちに向ってこう諭します。

すべての王よ、今や目覚めよ。
地を治める者よ、諭しを受けよ。
畏れ敬って、主に仕え
おののきつつ、喜び躍れ。
子に口づけせよ
主の憤りを招き、道を失うことのないように。
主の怒りはまたたくまに燃え上がる。
いかに幸いなことか、
主を避け所とする人はすべて。


 ここで注意すべきは、「すべての王よ」と彼が言う時、その「王」の中に自分も入るということです。「お前はわたしの子」と主に呼ばれる自分自身もまた、いつも目覚め、いつも新たに主の諭を受け、その諭しに従うべき王なのです。そのように、「恐れ敬って主に仕える」ときの踊りたくなるような「喜び」を、彼は知っているのです。「彼こそは知っている」と言うべきかもしれません。
 そして、彼は「子に口づけせよ」と言います。つまり、神が立てたメシアを愛し、従え、ということです。それこそが、人が生きる道であり、そこにこそ幸いがあると、宣言するのです。
 イスラエルの歴史の中で、王国時代はごく僅かな期間に過ぎませんし、ソロモン王以降、国家は南北に分裂し、シオン・エルサレムを中心とするダビデ王朝ユダも衰退の一途を辿り、紀元前六世紀には滅亡に至ります。ですから、この即位の詩がエルサレムの即位式で繰り返し歌われるということはなかったはずです。にも拘わらず、この詩が歌い継がれ、そして書き残され、詩編一五〇編の二番目に置かれることになったのはどうしてかと言えば、ここに出てくる神の子としての王が、来るべきメシア(油注がれた者)を歌ったものであると解釈されたからに他なりません。

 「あなたはわたしの愛する子」

 この詩は新約聖書の中に何度も引用されます。もちろん、すべてイエス・キリスト(メシア)に関する箇所です。その一つ一つを挙げて語ることは、今日はできません。私たちは今、月に三回はルカによる福音書を読んでいるので、まずはその福音書からこの詩編二編の言葉を辿っていきたいと思います。
 最初に出て来るのは、イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受ける場面です。
 イエス様がヨハネから洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が降って来て、「『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた」と、あります。
 ヨハネが授ける洗礼は罪の悔い改めの洗礼です。その洗礼を、神の子である主イエスが受ける。それが、主イエスの公の生涯の初めになさったことです。それはつまり、罪なき神の子が、罪人と連帯し、その罪を担うことを意味しているでしょう。その時、主イエスは祈っておられました。その祈りは、神様の御心を問う祈りであったように思います。このことが御心に適うことなのか?父であり、主である神に問いかける。そういう祈りであったのだと思います。
 そして、それはまた、罪人の罪を担う十字架を背負いきっていく力を、必死になって神様に求める。そういう祈りであったと思うのです。
 そうであるからこそ、神は主イエスに聖霊を注ぎかけ、天から声をかけて下さったのです。

「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。」

 神からのメシア

 次に、この言葉が出て来るのは九章三五節です。そこは通常、山上の変容と呼ばれる箇所です。イエス様はペトロとヤコブとヨハネという三人の弟子たちを連れて祈るために山に登られます。その時、イエス様の「顔の様子が変わり、服は真っ白に輝く」ということが起こりました。そして、旧約聖書を代表するモーセとエリヤが栄光に包まれて現れ、「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた」とあります。このことを理解するためには、その前の場面を見なければなりません。
 この山に登る直前、イエス様は弟子たちに、民衆はイエス様のことを誰だと言っているかと尋ね、その答えを聞いた上で、こう言われました。

「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」
ペトロが答えた。「神からのメシアです。」


 イエス様は、そのことは誰にも言うなとおっしゃった上で、「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」と言われ、さらに、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである」とおっしゃった。
 「神からのメシア」とは、詩編二編に出てくる「主に油注がれた者」のことです。イエス様は、その告白を受けて、初めて、十字架の死と復活を預言されたのです。その上で、祈るために山に登った。ルカ福音書では、イエス様が祈られる場面が何度も出てきますが、ここもそうです。そして、エリヤとモーセとイエス様は、エルサレムにおけるイエス様の最期について語り合っていた。すると、雲がそこにいる皆を包み、雲の中から、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」という声が聞こえたのです。
 イエス様は、十字架の死を経ての復活という新しいメシアの道を、選び取る決意を、祈りの中で固められました。そのイエス様に対して、神様は、「これはわたしの子、選ばれた者」と語りかけられたのです。「あなたこそ、私が立てた王、メシアである」と。そのようにして、イエス様を励まされた。そして、弟子たちには、「このメシアの言うことを聞け、その言葉に従え。これこそ、わたしの子、わたしが立てた王だから」と命じられたのです。
 「十字架に磔にされて死ぬ人間、そのようにしてすべての罪人の罪に対する裁きを身代わりに受ける人間、その人間こそ、わたしが立てた王、油注いだメシアなのだ。」神様は、そう宣言されます。そして、その王、メシアは「三日目に復活することになっている」。この「なっている」という言葉は、先週の説教で強調しました。ギリシア語でデイと言いますが、神様が定めたこと、必然を意味します。だから、必ず実現するのです。
 神様は、ご自身の愛する子を十字架上で処刑するという壮絶な痛みを通して、この地上に生きるすべての罪人の罪を赦すという救いの御業を貫徹して下さいました。そして、御子主イエス・キリストは、祈りの中で絶えず父の御心を尋ね求め、その祈りの中で励まされ、強められて、父の御心に従いきって下さったのです。ご自身の体が裂かれ、血を流しつつ死ぬ、愛する人々に裏切られ、見捨てられ、嘲られつつ死ぬ。それが、神様が「わたしの愛する子」に命じたことなのです。その命令を祈りの中で聞き、祈りつつ実行していく。それが、神様が立てた王、「イスラエルの王」「地の果てまで」支配する王、メシアなのです。その王は、シオン・エルサレムの十字架において、人々の嘲り、侮蔑、逆らう声の中で即位されたのです。十字架がそのメシアの王座です。

 復活のメシア

 しかし、この王は、十字架で処刑され、死に、葬られ、朽ち果てて行く王ではない。「三日目に復活することになっている」王です。ルカが、福音書の続きである使徒言行録において強調するのは、そのことです。
 かつて「あなたは神からのメシアです」と信仰告白したペトロは、「自分の命を救おう」と思って、「あの人のことは知らない」と言って逃げてしまいました。自分の十字架を背負って主イエスに従うことを捨て、結果としては、本当の命を失ってしまったのです。でも、復活された主イエスはそのペトロに現れ、彼の罪を赦してくださいました。そして、主イエスが天に上げられた後、聖霊が降って来た。その聖霊の導きの中で、世界中からエルサレムに集まってきた多くの群衆に向かって、ペトロはこう語りました。そこにはユダヤ人も異邦人もいました。

「このイエスを・・・あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。」

 つまり、イスラエルの民も異邦人と共に、神が油注いだ王を殺したのです。支配者を初めとしてすべての民が寄ってたかって、「主と主の油注がれた者に逆らう」という詩編二編の冒頭に出てくる状況が、十字架の場面にはあります。詩編の方では、殺すまでは行っていませんが、新約聖書では、罪人の反逆は神が油注いだ王を殺すことに行き着きます。
 しかし、ペトロは続けます。

「神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。 だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」
「悔い改めなさい。めいめいイエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦して頂きなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」

 この、罪が赦され、聖霊を受けるという約束は、神である主が招くすべての人々に与えられているのだと宣言するのです。神が、主とし、メシアとなさったイエス様は、イスラエルの子孫に限らず、「遠くにいるすべての人にも」罪の赦しという救いを与えて下さるお方です。つまり、その支配は「地の果てに」及ぶ王なのです。

 罪

 「罪」を表現する言葉は色々あります。先週の説教の中で、私は、「神様との交わりを失っていることを罪と言うのだ」と語りました。しかし、それだけではない。罪とは、神に敵対して生きることでもあります。詩編の言葉で言えば、「主に逆らい、主の油注がれた方に逆らう」ことです。
 私たちは自覚的に神に逆らうこともありますが、ほとんどの場合は、自分が逆らっていると思っているわけではありません。キリスト者になる以前は、この世が教える価値観に従って善を行っていることが多いでしょう。しかし、その善は、多くの場合、自分にとっての損得勘定に基づくものです。法的な意味で罰せられるようなことでないかぎり、また倫理的な面で逸脱がなければ、自分の得を求めて生きることは罪でも悪でもない。むしろ、評価されることです。それが、この世の常識です。しかし、その常識は、「自分の命を救いたいと」思って、その思いに従って生きることに他なりません。しかし、イエス様は言われるのです。「自分の命を救いたいと思う者は、それを失う」と。これはペトロの例を見るまでもなく、信仰を告白したキリスト者にとってもきつい言葉です。
 「神からのメシア」、神に油注がれた方は、この世の常識とは真っ向から対立します。この世の常識は、実は人を滅ぼすものなのだ、と宣言するのです。イエス様は、この宣言通りに生き抜くことを通して、最期は多くの苦しみを受け、排斥されて、殺されることをご存知でした。そして、ご自分に従いたいと願う者には、「自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである」とおっしゃる。それは、自分の願望、世の常識に従うのではなく、神の子に口づけし、主に従う、躍り上がるような喜びに生きなさい、ということなのです。主を避け所とする幸いを生きよ、ということなのです。しかし、目に見えるこの世の現実の中で、神が立てたメシアに従うことは不幸をもたらすように見えます。苦難をもたらすことが実際にある。だから、私たちは、この世の幸を求め、自分の命を求めて、主に逆らって生きている場合が多いのです。それが罪なのですが、その罪は目に見えない癌のように、ひそかに体の中で増殖しており、なかなか自覚できないものです。

 礼拝に射し込む光

 私は、礼拝の司式を朝は月に一回、夕は月に二回させて頂いています。その時は、説教の直前直後を含めて三度祈ります。主の祈りを入れれば四回祈り、祝福の言葉も入れれば五回祈っている。その時、これは良いことなのか悪いことなのか分かりませんが、そして司式をする者は誰でも経験することだと思いますが、普段の祈りとはまったく違う感覚をもちます。こうして皆さんと礼拝をしている、その礼拝の中で祈る時、上から来る光に刺し貫かれて、それまで見えていなかった、あるいは見ようともしていなかった、見たくもなかった、自分の罪の深さが見えて来るのです。レントゲンの光を当てられて体の内部が見えるように見えてくる。しかしまた、それと同じくらい、私の罪のために十字架に磔にされて処刑され、そして復活し、今は天にあって執り成し祈って下さっている主イエスの姿が見え、その恵みを深く感じます。それは、天におられる神様の許から礼拝の上に射して来る光の故だと思います。
 その光に照らされる中で、神様の言葉を聴く時、私たちは、己が罪を知り、悔い改め、イエス様を救い主、メシアと信じる信仰を新たにさせていただけます。そして、新たに救いに入れられる。「いかに幸いなことか、主を避け所とする人はすべて」という言葉が実感として分かるのです。そして、そういうキリスト者は、今やあらゆる国境を越えて地の果てまで広がっています。この方こそ、「地の果て」まで支配する神からのメシアだからです。
 しかし、それだけではない。この方は、天においても、神に立てられたメシアであり、主なのです。

 希望

 昨日は、調布市民会館でノアの洪水の物語を参加者と共に読んで来ました。罪による滅亡と新生、裁きと救済の物語です。その講座の後、三日前に赤ちゃんを産んだ方の病院が近くにあるので、お訪ねしました。その方は、未信者ですけれど、ご親族が中渋谷教会の会員なので、キャンドルライトサービスには家族で出席し、調布の講座にも先月まで大きなおなかを抱えて熱心に出席をして下さいました。生後間もない赤ちゃんを抱かせて頂き、聖書を読んで祈ることが出来るというのは、牧師に与えられた特権的な恵みだと思います。あれほど嬉しいことは滅多にありません。
 ご両親がつけた名前は、希彩(きさ)です。彩り鮮やかな希望という意味だと思ったので、聖書の中から、希望に関する二つの言葉を読みました。その内の一つは、こういう言葉です。

「被造物だけでなく、"霊"の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。」(ローマの信徒への手紙八:二三〜二五)

 生まれたばかりの赤ん坊も、いつかこの世における苦難を味わうことになるし、罪の現実に悩むことになります。望みを失いかけることもあるでしょう。しかし、私たちの望みは天にあるのです。その天を見上げる人になって欲しい。それが、私の祈りであり、なによりも命を与えて下さった神様の希望でしょう。
 その後、車で家に帰る途中、携帯電話で知らされたことは、前任地の教会の信徒の方が亡くなったことでした。私たち夫婦が、心から敬愛する婦人です。数年前から膵臓癌を病んでおられ、この二年ほどの間に、個人的な感謝をこめて、病院やご自宅にお見舞いをしてきました。先日、現在の牧師さんとお会いした折に、この婦人のことだけではないのですが、「なるべく早くお会いになった方がよいかもしれません」と言われていたので、三月にお訪ねしたいと願っていました。家に帰ると、信仰を受け継いだ娘さんからもお電話があり、「今日の夜に弔文を送るから」と約束をして電話を切りました。
 亡くなった婦人は、ご自分が膵臓癌であること、最早治らないことを、とっくのとうに知っておられました。でも、お会いする時は、いつもどこか愉しげなのです。非常に知的な方なのですが、幼子が笑うようにコロコロと笑う方でした。そして、病を得てからも、その笑いが変わりませんでした。今日の説教の原稿を書きつつ、弔文の文面をどうしようかと、心の中ではずっと婦人の「笑い」について考え続けていました。腹水がたまったお腹を抱えて、昨年のクリスマスまで礼拝に出席された方です。
 弔文の最後に書くべき言葉として与えられた御言葉、それはフィリピの信徒への手紙に出てくる言葉でした。パウロは、こう言います。

今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。(フィリピの信徒への手紙三章一七節〜二一節)

 天に召された婦人は、万物の支配者であるキリスト(メシア)を避け所とし、いつも天にある本国を見つめていた。だから、いつも幸いであり、何よりも復活の希望があった。それが、彼女の笑いの秘密なのだと思いました。

 天を見て歩むキリスト者

 自分の欲望を神として、自分を喜ばせ、自分が笑うために、この世の勝ち組になるために生きることは、この世のおいては少しも悪いことでも、恥ずべきことでもありません。むしろ、評価されることでしょう。でも、実際には、キリストの十字架に敵対して歩いていることなのです。そこに希望はないのです。笑うどころの話ではない。自分の命を失う道を、そうとは知らずに、一直線に歩んでいることだからです。パウロは、その様を見ながら涙を流して泣きます。天の神様も泣いているからです。
 私たちが見るべきは、目に見えない天なのです。この世でどんな騒乱があり、どんな繁栄があろうが、私たちは目には見えない天を見上げて、この世を歩きます。自分の十字架を背負って。主に仕えて生きるのです。天に逃避するのではありません。天を見上げて、十字架を背負って歩むのです。毎週の礼拝の最後に置かれている派遣の言葉の通り、「神を愛し、隣人に仕え、隣人を愛し、神に仕えて」生きるのです。その歩みにのみ、躍り上がるような喜びがある。その歩みの先には、希望があるからです。洗礼を受けて、神がメシア(キリスト)としてお立てになったイエス様に従う私たちの本国は天なのです。その天において主の栄光の復活に与ることこそが、私たちが呻きながら望んでいることなのです。そして、その望みは、イエス様をメシアとしてお立て下さった神様の望みでしょう?!神様こそが、私たちの救いを望んでくださっているのですから。そのために、神様はその愛する子を十字架に磔にし、復活させられたのですから。だから、私たちは必ず復活します。神様が決めたから、そういうことになっているのです。
 私たちは、これから主イエス・キリストが備えて下さった聖餐の食卓に与ります。この食卓は、罪の赦しと新しい命を与えて下さる食卓です。御子イエス・キリストの前に罪を悔い改め、御子の十字架の死と復活を罪の赦しと信じてパンとぶどう酒を頂く者は、罪を赦されます。そして、新たに望みをもって生きる命を与えられるのです。この食卓を通して、私たちは主イエスの十字架を見つめ、復活を見つめ、昇天を見つめ、そして天の本国を見つめるのです。
 今日も、讃美歌二〇五番を歌います。その四節の詞はこういうものです。

「面影写し偲ぶ 今日だにかくもあるを
御国にて祝う その幸やいかにあらん」

 まさに、アーメンとしか言いようがありません。
 この食卓に信仰をもって与る。それこそ、「いかに幸いなことか、主を避け所とする人はすべて」と言われることの現実なのです。
説教目次へ
礼拝案内へ