「主よ、それでもあなたは」

及川 信

       詩編  3編 1節〜 9節
3:1 【賛歌。ダビデの詩。ダビデがその子/アブサロムを逃れたとき。】
3:2 主よ、わたしを苦しめる者は/どこまで増えるのでしょうか。多くの者がわたしに立ち向かい
3:3 多くの者がわたしに言います/「彼に神の救いなどあるものか」と。〔セラ 3:4 主よ、それでも/あなたはわたしの盾、わたしの栄え/わたしの頭を高くあげてくださる方。
3:5 主に向かって声をあげれば/聖なる山から答えてくださいます。〔セラ
3:6 身を横たえて眠り/わたしはまた、目覚めます。主が支えていてくださいます。
3:7 いかに多くの民に包囲されても/決して恐れません。
3:8 主よ、立ち上がってください。わたしの神よ、お救いください。すべての敵の顎を打ち/神に逆らう者の歯を砕いてください。
3:9 救いは主のもとにあります。あなたの祝福が/あなたの民の上にありますように。〔セラ


 詩編における「幸い」

 今年の初めから、月に一回の頻度で詩編の御言を読んでいます。まだ三回目です。一編と二編は、「幸い」に関する詩編でした。しかし、その「幸い」は、平穏無事な生活の中で感じることが出来るような「幸い」ではありません。
 一編では、冒頭から「神に逆らう者」「罪ある者」「傲慢な者」が出てきます。二編は、神と神が立てる油注がれた者(メシア)に逆らう人々の反乱を企てる声からその詩が始まっています。神をなき者とし、神に従う人を滅ぼそうとする。そういう勢力に取り囲まれながら、「主の教えを昼も夜も口ずさみ」「主を避け所とする人」「幸い」を告げているのです。そして、一編も二編も、今は神に逆らっている者たちが、その状態に留まり続け、主の怒りに燃やされてしまわないように、その罪に気づき、傲慢を悔い改めるように招いてもいる。

 年齢を重ねて知ること

 私は、以前は、そういうことには少しも気付きませんでした。しかし、聖書は、人生経験を積みながら繰り返し読んでいる内に、これまで気付かなかったことをたくさん発見できる書物です。そういう意味では、年齢を重ねることは楽しみです。
 先日、七三歳で天に召された麻生さんは、詩編五編を「朝の祈り」、四編を「夕べの祈り」として読む日々を送っておられました。そして、その日々を「主の御恵みを感謝する日々」と書いておられた。麻生さんの人生の重荷や苦難が厳しいものになればなるほど、詩編の言葉を深く味わい、神様の恵みを実感していかれたのだと思います。
 私たちは、年齢も違えば、境遇も違い、今抱えている重荷も違いますが、ご一緒に御言の語りかけに耳を傾けてまいりたいと思います。

 苦しめる者 敵

 今日ご一緒にお読みする詩編第三編は、苦難の中で「救い」を求めて祈る詩人によるものです。彼を「苦しめる者が多い」のです。そういう者たちが次第に増え、「彼に神の救いなどあるものか」と口々に言うのです。
 「わたしを苦しめる者」とは、しばしば、「わたしの敵」とも訳されます。その「敵」が具体的にどういうものであるか、例によって、詩編は書いていません。実際の人間なのか、それとも心の中に存在する何かなのか?あるいは、その両方なのか?昔は、そういうことがはっきりしないことが嫌でした。しかし、最近は、はっきりしないからこそ、様々に想像することができ、詩編の言葉が身近になってくるのだと思うようになりました。

 ダビデの詩

 後世につけられた表題では、「ダビデの詩。ダビデがその子アブサロムを逃れたとき」とあります。それは、一つの解釈です。しかし、最初はその解釈を手掛かりにして読んでいこうと思います。
 ダビデは、この時代の王として、何人もの妻や側女たちとの間に子どもたちを儲けた人物でもあります。最も有名なのが、人妻であったバテシェバとの間に儲けたソロモンです。その際、ダビデはバテシェバの夫であり、自分の忠実な部下であったウリヤを、巧妙な手口を使って戦死に至らせるという深い罪を犯しました。つまり、王の権力を使って「姦淫」と「殺人」という重罪を犯したのです。そして、そのことがすべて神には知られていました。神は預言者ナタンを遣わし、彼の罪を断罪はせず、指摘しました。その時、彼は、痛切な思いで「わたしは主に対して罪を犯した」と罪の告白をし、悔い改めました。ナタンは、そのダビデに対して「主もまた、あなたの罪を取り除かれました」(口語訳)と、罪の赦しの宣言を与えたのです。そのことは、また後に触れます。
 そのダビデの息子の一人に、アブサロムという青年がいました。一国の君主の下に生まれる子というのは、特殊な環境が災いしてか、まともに育たず、我がまま勝手な人間になってしまうことが多いのは、昔も今も変わることがありません。そして、兄弟同士の間で激しい跡目争いが生じることもあります。
 アブサロムは、美青年で民の評判も良かったようですが、自分の妹タマルが異母兄弟のアムノンに犯された上に捨てられるという侮辱を受けました。その時は、アブサロムは黙って我慢しました。しかし、そうであるが故に、彼の怒りや復讐心は彼の心の中で消えることなく、ずっとくすぶっており、最終的にはアムノンを殺してしまうのです。
 それは、父であり王であるダビデにとっても簡単に許せる行為ではありません。しかし、彼はアブサロムを罰するわけでもない。そういう中途半端な状態で年月が経つうちに、アブサロムの方が我慢出来なくなって父ダビデに謀反を起こすという暴挙に出ることになりました。王家の内紛は、内戦と直結します。戦争の中で、内戦ほど悲惨なものはありません。家族であり、仲間であった者同士が敵となり、殺し合うのですから、戦争が終わっても後々まで禍根が深く残るのです。世界の各地に、その傷跡に苦しむ人々がいます。

 内部にいる敵こそ怖い

 外からやって来る敵なら、一致団結して戦うことが出来ます。しかし、内部に敵が存在している場合は、その戦いは非常に困難なものになります。そして、本当に怖い敵は、実は外部に存在するのではなく、内部に存在する。そして、その内部の究極は、自分自身の内部なのです。

 苦しめる者の声と内なる声

 詩編では、襲い来る様々な災難が「苦しめる者」「敵」として描かれる場合もあります。その「敵」は重い病である場合もありますし、その病を見て、「お前は罪を犯したからこういう目に遭うのだ」と責め立てる人々である場合もある。詩編は、敢えてその敵が誰であるかを特定していない場合が多いのです。
 彼を「苦しめる者たち」は、口々に「彼に神の救いなどあるものか」と言い募って来ます。初めの頃は、その言葉を跳ね返すことが出来ていたとしても、苦しみの現実が少しも変化しないまま時が流れていくと、その声が自分の心の中にも少しずつ大きなものとして響いて来る。そういうことがあると思います。
 三節の言葉は、こうも訳せます。

 「多くの者が、わたしの魂に向って言うのです。『神の内に、彼のための救いはない』と」。

 こういう言葉を聞き続けている内に、魂そのものが「神様の内に、自分のための救いはない、自分が生きる場が神様の内にはない、神様は私を見捨てられたのだ・・・」と思い始める。そのようにして、次第に神様を魂から追い出し、捨てていってしまうことがある。
 自分を苦しめる者の存在が、最初は外部にあったとしても、それが次第に内部に入り込んで来て、外から聞こえてきた声が、いつの間にか内なる声になってしまう。そういうことが、私たちにはあります。そして、実は、そのことこそが最も怖いことだと思います。

 映画を通して見る人間の現実

 私は、休日には基本的に映画を観ます。ホラー映画とかは全く見ませんけれど、ジャンルには拘りません。「遊んでいる訳ではないよ」と言い訳するつもりはありませんが、何を見ても聖書とは関係があります。今日は、「本当に深く私たちを苦しめる者は、実は内部にいる、心の中にいる」。そういうことを考えさせる三つの映画について、私が憶えている範囲でお話しをしたいと思います。

 一 ドイツ映画

 最初にお話しするのは、ナチスが台頭する直前のドイツの村を描いた映画です。村人は皆敬虔なクリスチャンであり、毎週、村の中心に建っている教会の礼拝に集います。その礼拝では、牧師の娘や息子をリーダー格とした子どもたちの聖歌隊が、非常に美しい声で讃美歌を歌うのです。それは、まさに天使の歌声です。
 しかし、その村に奇怪な事件が次々と起こり始めるのです。看護師の女性と愛人関係にある医者が、乗っていた馬の転倒に伴って大怪我をするのです。しかしそれは、馬を転倒させるために道に針金が張ってあったからなのです。また、その医師の愛人には障碍をもった男の子がいます。しかし、その子が行方不明になり、皆で必死になって捜し、見つけた場所は森の中です。その少年は何者かに暴行された上に木に縛り付けられていたのです。また、ある人のキャベツ畑が滅茶苦茶にされていたり、納屋が放火されて全焼したりする。村人の中に犯人がいることは確実なのですが、誰が犯人かは分からない。牧師が、礼拝の後に礼拝堂において村人を追求します。しかし、誰も名乗り出ないし、目撃者もいないのです。
 映画は、そういう事件を描きつつ、敬虔な信仰者を演じている大人たちが、実はその裏ではふしだらな者であり、打算的な者であり、権力を振りかざすことを喜びとしている者たちであることを露わにしていきます。その代表が、その村における権威者の代表である牧師です。彼こそが、信仰の仮面を被った俗物で、家族を初め、すべての者を支配する喜びに生きているのです。しかし、自分ではそのことに気づかない。
 はっきりとそのことが示されるわけではないのですが、村で起こっている奇怪な事件の数々は、実は牧師の娘や息子が中心になって起こしていることであることが暗示されます。ある時、牧師も、そのことに気づきます。娘が、牧師の可愛がっていた小鳥を残虐な方法で殺して、その死体を牧師の机の上に置いておくことによって気付かせたからです。娘は知っているのです。牧師である自分の父親は、口が裂けても、「犯人は自分の子どもたちだった」とは言わないことを。
 案の定、その娘は翌週の礼拝で、父親の手から堅信礼(幼児洗礼を受けた者の信仰告白)を受けることになります。すべての事情に気付き始めたのは、外から来た学校の教師ただ一人です。しかし、その教師は、すべての事件の犯人は子どもたちなのではないかという推測を恐る恐る牧師に話すのですが、牧師から面罵された上に村から追放されてしまいます。そして、次の日曜日も、悪魔のような子どもたちは、礼拝において天使のような美しい歌声で讃美歌を歌い、牧師も何事もなかったかのように、その役割を演じる場面で、映画は終わります。
 観ていて、空恐ろしくなる映画です。私たち人間を腐敗させ、悪臭を漂わせるものは、実は内部にある。神の名を毎日口にし、毎週礼拝を守る信仰の鎧を被りつつ、実はその内部には、偽善と傲慢の罪が渦巻いている。牧師を初めとする大人たちは、自分たちが育てた子どもたちから恐るべき復讐をされるのです。それを知っても、その鎧を脱がない。ダビデのように、「わたしは主に対して罪を犯した」とくず折れて、主に赦しを乞わない。そういう恐るべき現実が、そこにはあります。
 この映画は、ナチスが台頭する背景にはそういう社会があったことを、その年代設定によって暗示します。しかし、こういう恐るべき悪魔的な偽善は、いつの世の人々にも隠れた形で存在することだと思います。

 二 フィンランド映画

 このドイツ映画と対極にあるものとして、フィンランドの映画がありました。人里離れた森の中に、目の見えない老齢の牧師が住んでいるのです。少し離れた所に立っている教会の礼拝に通って来る信徒はもういないようです。しかし、彼のもとには、全国から悩み相談や苦しみを訴える手紙が来る。介助する女性がその手紙を読み、牧師からの返事を口述筆記していたのです。しかし、その女性が出来なくなった。
 代わりに、十二年の服役を模範囚として終えて刑務所から釈放されるレイラという一人の女性が来ることになりました。レイラは、かつて人を殺したことがあるようなのです。誰を、なぜ殺したか、そして、どうしてその牧師のもとに行くことになったかは、その時は分かりません。彼女は、服役中、誰とも面会せず、誰の手紙も受け取らず、誰にも心を開かないで、しかしそれ故に、何のトラブルも起こさず、模範囚として刑務所で過ごしてきました。その結果、恩赦で出所しなければならないのです。しかし、彼女には行く場所がありません。刑務所から早く出たくて、模範囚をやっていたのではありません。誰とも関わりをもたない孤独の中を生きていただけです。しかし、今、とにかく食べるものと寝るところはあった刑務所から出なければならない。だから仕方なく、刑務所の所長に言われるままに、片田舎の森の中に住む牧師のもとに行ったのです。
 最初は、レイラには牧師のやっていることが胡散臭くて仕方ありませんでした。そして、牧師のもとに来る手紙を捨ててしまうようになる。そうしたら、手紙そのものも来なくなってしまうのです。毎週の礼拝で説教するわけでもない、村人から何かを頼まれるわけでもない盲人の老牧師です。生きがいは、彼がこんなみすぼらしい人間だとは知らない各地の人々から来る手紙に返事を書くことだけなのです。しかし、その手紙が来なくなる。それは、牧師としての誇りを、そのことにだけ持っていた彼を痛めつけます。
 老牧師は困惑し、混乱し、精神も痛め始めます。そして、愕然とした思いで、こういうのです。
 「自分は、神のためにやっているつもりだった。でも、本当は自分のためにやっていただけなんだ」。
 神のため、と思いつつ、実は人に頼られることを生きがいにしていた自らの偽善や欺瞞に打ちのめされ、誰も来ない礼拝堂に突っ伏して泣き続けるのです。レイラは、そんな牧師をついに見捨てる決意をし、いくばくかの金を盗んで、家を出て行こうとタクシーを呼びます。でも、タクシーに乗ったはよいものの、運転手から「どこへ行きますか」と聞かれると、自分にはどこにも行き場所がない。そのことに改めて気付いてしまう。レイラには、自分の身を置く場所は、地上の何処にもないのです。心を開いて語れる相手が一人もいないのです。その絶対的な孤独の中で、レイラはそれまで寝泊まりしていた牧師館の部屋で首を吊ろうとするのですが、失敗してしまう。そうとは知らない牧師は、その物音を聞いて、まだレイラがいてくれることを、ただただ喜び、感謝するのです。
 そういう牧師を見て、レイラは初めて心が揺さぶられます。そして、翌日、「今日は手紙が来た」と嘘をつき、雑誌の一頁を破る音を聞かせて、封を切っているように思わせ、他人になりすまして、これまでの自分の人生を淡々と語り始めるのです。誰にも言ったことがない自分の悲しみ、絶望を打ち明けるのです。
 その人生とは、悲惨なものです。彼女には姉が一人いるのですが、その旦那がひどい男で、酒に酔っては姉に殴る蹴るの暴力を加え続けたのです。それも、笑いながら。レイラは、そういう光景を何度も何度も見てしまった。そんなある日、姉をいつものように殴り続ける姉の主人を、後ろから包丁で刺してしまったのです。姉の主人は死にました。彼女は、そのことを悔いました。姉にとっては、あんな男でも、世界にたった一人の主人です。「その人を殺してしまったのだから、姉は決して私を赦してくれない。自分は取り返しのつかない罪を犯した人間だ」と思い込んだのです。誰からも赦されないし、自分でも自分を赦せない。人から裁かれ、自分でも自分を裁くしかない。そういう絶望の闇を心の内に抱えたまま、人との一切の関わりを断って、刑務所の中で生きてきたのです。そして、今、刑務所を出ても、自分はどこにも居場所がない。行き場所がない。語り合う相手がいない。その心の奥底にある悲しみ、誰にも打ち明けたことのない悲しみを、自分を責めて、惨めな思いにうち沈み、ひとり神に赦しを乞うた惨めな老牧師に語るのです。そういう牧師だから、レイラは語ることが出来たのです。立派な牧師には語れません。
 牧師は、黙ったまま嘘の手紙を読むレイラの声を聴き終わりました。そして、「その手紙の書き手の名は、ひょっとしたらレイラという名前じゃないか?」と言う。レイラは、びっくりします。牧師は、「ちょっと待っていなさい」と言ってから、沢山の手紙の束をもって来て、彼女に見せます。それは、何年にもわたって、レイラの姉から牧師のもとに送られて来た手紙の束でした。そこには、こう書かれていました。
 「妹のレイラだけが私を愛してくれて、必死になって助けてくれた。でも、妹は手紙も受け取ってくれないし、面会も拒絶して、決して会ってくれない。妹に会いたい。礼を言いたい。刑務所を出てきたら、一緒に暮らしたい」。
 そういう痛切な嘆きや願いが書かれていたのです。何年も何年も、レイラの姉から、そういうことが書かれた手紙が牧師の許に届いていたのです。牧師はいつも「きっと会えますよ、待っていましょう」とレイラの姉を励まし続けてきたのです。そして、牧師が刑務所に対して、レイラの釈放の時が来たら、自分の所に送って欲しいと願ったのだろうということが、観客である私たちにも推測できるのです。
 その直後に、牧師は家の中で倒れて死んでしまいます。レイラは、姉の住所が書かれた封筒を手に握りしめつつ、牧師の遺体を乗せた霊柩車を見送る。その場面で映画は終わります。
 彼女は、この後、姉を訪ねていくでしょう。そして、姉との和解を得て、姉と共に新たに生きていくことが出来るでしょう。自殺が失敗したことは、神の恵みです。そして、この牧師は、ドイツ映画の牧師とは違って、死ぬ直前に、一人の女性を絶望の闇の中から救い出すための、一つの役割を果たすことが出来ました。その牧師が、絶望の中で、主に救いを求めて叫び続けることをしたからです。傲慢や偽善の罪の赦しを乞うて、痛切な叫びを上げたからです。そして、そのことの故に神様に赦されていたから、彼はレイラの絶望を受け止め、神様に取り次ぐことが出来たのだと思います。
 レイラの苦しみは、刑務所生活ではありません。「お前に神の救いなどあるものか」という社会全体から聞こえてくる声を、いつしか自分自身の声にしてしまったことです。その声に耳を傾ける時、そして従う時、人間は死に呑み込まれてしまうのです。しかし、レイラは、己が罪にくず折れて、神に赦しを乞う牧師の姿を見ることを通して、罪を告白し、「わたしの神よ、お救いください」と心の内で叫ぶことが出来た。その時、彼女に神の祝福が与えられたのです。彼女もまた、詩編で言う「あなたの民」、神が愛して止まない民の一人なのですから。

 三 デンマーク映画(想定された舞台はアメリカ)

 デンマークの監督が英語で作った映画は、さらに壮絶なものでした。ある夫婦の一粒種の幼児が、アパートの窓から転落して死ぬ所から始まります。当然夫婦は悲しみに打ちひしがれ、次第に自分たちを責め始めます。特に妻が、精神に異常をきたしていきます。夫はセラピストとして自信満々の人です。そして、中世の魔女狩りに関心をもち、悪魔の存在を信じている妻を、投薬治療を続ける病院の医者から引き離し、自分の治療方法によって救い出そうとします。彼は、妻の恐怖の源泉を探し出し、それを除去しようとするのです。妻は「森が怖い」というので、その言葉に従って山の奥深くの「エデン」と呼ばれる森に向かいます。もちろん、最初の男女が裸で過ごしたエデンの園、また蛇の声に聞き従って禁断の木の実を食べた、あのエデンを暗示する場所です。
 そこで始まる二人の壮絶な葛藤は省略しますが、次第に分かって来ることは、妻を自分の力で救おうとする夫の傲慢な罪です。夫が頑張れば頑張るほど、外から妻の内に入りこもうとする悪魔を、むしろ積極的に招き入れる結果をもたらしてしまうのです。そして、妻は、前から自分の子を愛しつつも、愛すればこそ、思うようになつかないその子を拒絶し、心のどこかで死ぬことを願っていたということも暗示されます。妻の恐怖の源泉は、実はそういう暗部を持った自分自身なのです。最終的には、完全に悪魔が内部に入り込んだ妻が、自分を救おうとして出来ない夫を殺そうとし、妻を救うと言っていた夫が妻を殺してしまうという何とも皮肉な、そして救いのない終わり方をします。
 神様を抜きに、自分の知性と力ですべてを解決しようとする人間と、悪魔のささやきに耳を傾けている間に、自分自身が悪魔化してしまう人間が、互いを求め、霊肉共に愛し合おうとすればするほど、互いに傷つけあい、孤独に落ちていき、破綻に至る様が描かれていると言ってもよいのかもしれません。(優れた映画は、解釈の多様性を生み出すものです。)
 その映画の中で、夫が、後から起きてきた妻に「調子はどうだい?」と尋ねた時、妻が、「ゆっくり眠れたから、今日は元気」と答える場面があります。それは、ほんの一瞬の平和の場面でした。

 安らかに眠る

 詩編の中には、「安らかに眠る」ということがしばしば出てきます。三編の六節七節にはこうあります。

身を横たえて眠り
わたしはまた、目覚めます。
主が支えていてくださいます。
いかに多くの民に包囲されても
決して恐れません。


 麻生さんが愛した四編にも、こうあります。
平和のうちに身を横たえ、わたしは眠ります。

 何故、平和の内に眠ることが出来るのか。それは、「主に向かって声をあげれば、聖なる山から答えてくださいます」(五節)という確信があるからです。すべてを主に訴え、そして委ねているからです。主は必ず答えて下さると、信じているからです。
 麻生さんが一回だけ、私の説教に関して感想を書いて下さったことがあります。その中で、主イエスを裏切ったユダのことを書いておられました。そして、ユダの最大の罪は、主イエスを裏切ったことにあるのではなく、自殺にあるとおっしゃっていました。
 麻生さんは、こう書いています。
 「ユダは"自殺"という思い上がりの行為により、和解の恵みを閉じました。これがユダの大罪です。」
 そうだと思います。彼は、苦しんだのです。自分が犯してしまったことに苦しんだのです。彼には「悪魔が入った」とヨハネ福音書には記されています。その内なる悪魔の声に従って、主イエスを裏切って、殺してしまった。悪魔は、次に「師匠を殺す罪を犯したお前に、神の救いなどあるものか」とユダを罵ったでしょう。悪魔の目的は、神を殺し、人を殺すことです。その悪魔の声が、ユダの内側に響き渡り、夜も眠れず、彼は自分を責め、そして自分を殺していきました。悪魔は、そのように私たちを仕向けるのです。「これを食べれば、神のように善悪を知る者となれる。支配者になれる。裁き主になれる」と。その声に耳を傾け、それを自らの内なる声として従う時、私たちは人を裁き、自分を裁き、神を裁いていく。そして、孤独の死に呑み込まれていくのです。それしか道はありません。

 ダビデの信仰

 ダビデは、姦淫の罪を犯し、さらに殺人の罪を犯した人物です。しかし、罪を悔い、赦しを乞うた彼を、主なる神様は赦してくださいました。
 しかし、預言者ナタンから、バテシェバに身ごもった子は死ぬと言われるのです。ダビデは、一週間、何も食べず、子が死なないで済むように神様に懇願を続けました。死ぬばかりに苦しみ、悲しんだ。しかし、子どもは死にました。家来の者たちは、ダビデがそのことを知ったら自ら死んでしまうのではないかとすら思いました。でも、逆だったのです。彼は、子どもの死を受け入れ、自分が子どもに出来ることはなくなったことを受け入れました。そして、全身に香油を塗り、食事をして元気になったというのです。それが何を意味するのか、私はずっと分からぬままにきました。
 先週、お交わりを頂いている旧約聖書の先生から、『人が共に生きる条件』という題の説教集を頂きました。十三年ほど前に出された説教集は『人が孤独になるとき』という題です。人が罪の闇の中で孤独に陥るとき、死の闇に呑み込まれてしまう。人は共に生きるために神に創造されたのだ、その創造の目的に適って生きるための条件は何か?という問いかけが、そこにはあるでしょう。
 今回送って頂いた説教集の中に、この時のダビデのことが出ていました。一文だけを引用します。

「彼は恵みの中に生かされているがゆえに、自分で自分を裁くことをしませんでした」。

 ダビデは、「主もまた、あなたの罪を取り除かれました」と、罪の赦しを宣言され、その恵みの中に生きていたのです。その恵みに、自分自身を委ねていたのです。自分で自分の罪を裁くことは、神の立場に立つことです。悪魔の業なのです。それは謙遜に見えて傲慢なことなのです。ユダがそうでした。しかし、詩編の詠い手は違います。

 主よ、それでもあなたは

 彼は、「お前に神の救いなどあるものか。神の内に、お前の居場所などないのだ」と言われ続けても、断固として、こう宣言するのです。

「主よ、それでも
 あなたはわたしの盾、わたしの栄え、
 ・・・・
 主に向かって声を上げれば
 聖なる山から答えて下さいます。
 ・・・・
 救いは主のもとにあります。」

 信仰とは、自分や他人の救いのために、自分が何かをすることではありません。私たちに出来ることは、私たちの罪、私たちの悲しみ、私たちの苦しみ、そのすべてを主に告白し、訴えることです。そうすれば、必ず、主は聖なる山から、つまり礼拝において答えて下さるのです。その答えを待つことです。

 主の答え

 今日はご一緒に聖餐の食卓に与ります。これが、私たちへの主からの答えです。
 罪に慄く弟子たち。自分を赦すことが出来ない弟子たち。真っ暗な部屋に閉じこもり、「お前たちに神の救いなどあるものか。ユダと同じように自分を裁いて、死ね」という内なる声に慄きつつ、ただひたすら主の赦しを乞うしかない弟子たちがいます。この地上の何処にも自分たちの居場所はないし、自分たちのこれまでの信仰なんて、偽善であり、欺瞞でしかないことが明らかになってしまった弟子たちがいます。しかし、その弟子たちの真ん中に、復活の主イエスが現れ、「あなたがたに平和があるように」と語りかけて下さったのです。「あなたの罪は赦された。信じなさい。信じる者は救われる」と、語りかけて下さったのです。
 その主イエスが、今日、私たちにこう語りかけておられます。

「はっきり言っておく。・・・わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、・・・いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる」。

 この主イエスの内に、私たちの救いがあるのです。誰でも、どんな罪を犯してしまった人でも、悔い改めて、信じる者には、主の救いが与えられます。
 「あなたに、神の救いなどあるものか」「神の内に、あなたの生きる場はないのだ。神はお前を捨てた。お前も、神など捨てろ。自立しろ!」と喚き散らす声が、内外にどれほど強く大きく鳴り響いているとしても、「はっきり言っておく。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる」という主イエスの声も、響いているのです。その静かな、細い声を聞きとる者たちでありますように。その声を聞き、信じる者は、孤独に陥ることはないし、絶望することもありません。主の内に生き、主もまた私たちの内に生きて下さるからです。その事実がある限り、私たちは、目に見える敵をも愛し、いつの日か、食卓を共に囲んで生きていく可能性に向って、希望をもって歩むことが出来るようになるのです。それは、主の言葉ですから、確実なことです。
 今日新たに、その恵みを信じて、自分で自分を裁くことなく、他人をも裁くことなく、主の十字架と復活の恵みの中を生きていきたいと思います。
説教目次へ
礼拝案内へ