「呼び求めるわたしに答えてください」

及川 信

       詩編  4編 1節〜 9節
4:1 【指揮者によって。伴奏付き。賛歌。ダビデの詩。】
4:2 呼び求めるわたしに答えてください
  わたしの正しさを認めてくださる神よ。
  苦難から解き放ってください
  憐れんで、祈りを聞いてください。
4:3 人の子らよ
  いつまでわたしの名誉を辱めにさらすのか
  むなしさを愛し、偽りを求めるのか。〔セラ
4:4 主の慈しみに生きる人を主は見分けて
  呼び求める声を聞いてくださると知れ。
4:5 おののいて罪を離れよ。横たわるときも自らの心と語り
  そして沈黙に入れ。〔セラ
4:6 ふさわしい献げ物をささげて、主に依り頼め。
4:7 恵みを示す者があろうかと、多くの人は問います。主よ、わたしたちに御顔の光を向けてください。
4:8 人々は麦とぶどうを豊かに取り入れて喜びます。
  それにもまさる喜びを
  わたしの心にお与えください。
4:9 平和のうちに身を横たえ、わたしは眠ります。
  主よ、あなただけが、
  確かにわたしをここに住まわせてくださるのです。


 詩を解釈する難しさ

 詩編を月に一回読み始めて、今日で四回目になります。詩編は、イザヤ書と並んで新約聖書に引用される頻度が高く、詩編を抜きにして新約聖書を読んでいくことが出来ないほどです。しかし、説教で語る御言として、色々と調べながら読んでいくと、詩編は解釈の幅が広いことが分かります。翻訳をいくつか読んだだけでも、節によっては全く逆の意味になる訳に出会うことがしばしばあります。今日の四編も、同様です。
 私としては、出来るだけ今お読みした『新共同訳聖書』に従って読んでいきます。しかし、詩の言葉は象徴的であったり多義的であったりしますから、必要最低限の説明もしながら、聴きとったことを語らせていただきたいと思います。

 苦難の中で身を横たえる

 詩編四編の詠い手が、何らかの苦しみの中にいることは明らかです。それは、「苦難から解き放って下さい」とか、「人の子らよ、いつまでわたしの名誉を辱めにさらすのか」という言葉からも分かります。しかし、そういう苦難や辱めの中でも「平和のうちに身を横たえ、眠る」ことが、如何にして可能なのか?それが問題になります。
 「身を横たえる」という言葉が二度出てきますが、五節と九節では、主語が違います。五節の方は「人の子らよ」と呼びかけられている人々が身を横たえる時のことですが、九節ではこの祈りを残した詠い手が身を横たえるのです。そこに大きな違いがあります。

 人が安眠できる時

 先日、イスラエルから医師や看護師の一団が、被害が大きかった南三陸町の避難所に派遣されて来て、プレハブによる病院を設営し、多くの人の診療をしているということが報道されていました。その中で、ある男性が、病院ができたことをとても喜んで、「これでやっと安心して眠れる」とおっしゃいました。
 衣食住が奪われ、様々な持病を抱えてもいる方たちが、この三週間、心安んじて眠れないのは本当に気の毒なことです。睡眠、それも安眠というのは、人間が生きる上で非常に大切なことです。きちんと眠れた翌日は、朝から体調や気分がよいものです。
 私は、幼い頃から興奮体質だし妄想癖もあるので、床についてから色々なことを考え始めるとなかなか寝付けません。また、心配事や不安なことが夢に出て来てよく眠れず、朝起きた時には既にかなり疲れていることもたまにあります。「神様にすべてを委ねる信仰がないからだ」と、床についた途端に眠りに落ちる人からはよく言われるのです。一瞬ムッともしますが、確かにそうなのです。
 主イエスは、「明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」とおっしゃっています。食べ物、着物、飲み物、生活に必要なものがあることは、誰よりも神様がご存じであり、必要に応じて与えてくださる。だから、私たち人間がまず求めるべきは「神の国と神の義」であると、おっしゃるのです。愛が支配する神の国に生かされることがないままに衣食住だけが満たされても、人の「命」が満たされることはないと思います。
 人間にとって、本当に必要なのは愛であり、食料や飲み物ではありません。少なくとも、イエス様が与えようとしている「命」にとって必要なものは、肉体を養うだけのパンと水ではないのです。

 愛がなければ

 一昨日も、ある避難所の高齢の方が、「ここで足りないのは食料と衣服です。どうぞよろしくお願いします」とテレビを見る私たちに向って訴えておられました。しかし、もし、その食料と衣服が届けられる際に、トラックの荷台を傾けてゴミを捨てるようにして置いていかれたら、避難生活をしている方たちは、その物資を有難く思い、生きていく勇気を与えられるでしょうか?そんなことはないと思います。
 しばしば、物資を送る側の人たちが、「東北の皆さん、頑張ってください。応援しています」と書いた紙を物資が詰まった段ボールに貼りつけている様を見ます。また、救援物資を持ってきた人たちと受け取る側の人たちが、「がんばりましょう。ありがとうございます。がんばります」」と声を掛け合いながら救援物資を降ろしている様を見ます。そのようにして言葉を掛け合いながら手渡される物資と、ごみを捨てるようにして置いて行かれる物資とでは、たとえ中身が同じであったとしても、天と地ほどの差があると思います。救援される人々は、その物資の背後にある人々の愛を感じる時に、生きていく勇気を与えられるのではないでしょうか。捨てるようにして置いて行かれた食物を食べることで、人が人として生きていける訳ではない。少なくとも、希望をもって生きていける訳ではないと思います。共に生きていこうとする愛の交わりの中にこそ、人が人として生きていける神の国、神の義と言われるものがあるのだと思います。
 十五年前の阪神淡路大震災の時は、不便の中、互いに助け合っていた避難所生活から仮設住宅に移り、衣食住が最低限保証される中で、むしろ孤独死をする人が相次いだと言われます。それは、不安と悲しみの中で眠れない独りの夜を何日も過ごした結果だと思います。人が人として深い安息と明日への希望を持って生きるためには、"自分は一人ではない。孤独ではない"と知ること。心の奥底で願っていること、呻いていることを、分かってくれる存在、目には見えなくとも共に生きてくれる存在が必要なのです。

 格差社会

 詩編に含まれる詩が、いつ誰によって最初に詠われたかは推定の域を出ないと思います。三節に出てくる「人の子ら」は一般に人間を表す「アダムの子」ではなく、大人の男性を表す「イーシュの子」と書かれています。ある人は、「それは富裕層を表す」と言っていました。そして、この詩は、バビロン捕囚以後、ユダヤ人社会において貧富の格差が増大したことを背景に誕生したと考える人もいました。なるほどな・・、と思いました。
 しかし、時代がいつであれ、人間の社会にはそういう格差が常に出来るものでもあります。今は、多くの人々が「被災者」というひと括りの言い方をされます。しかし、被災者と言っても様々です。地元の避難所から離れない人もいますし、泣く泣く県外の避難所に行く方もいるし、その方たちの中で、公営住宅に入居できる方と、願いながらも出来ない方もいます。地震以来、親戚の家を転々としている方もいれば、瓦礫の中に辛うじて自宅が建っており、そこで寝泊まりしている方もいます。家族が皆生き残った方もいれば、親兄弟が亡くなってしまった方もおり、家族の生死が不明の方がまだ数え切れないほど多くいる。「残酷な」と言ってもよい格差がそこにはあります。そしてもちろん、被災された方たちと被災していない私たちとの間の激しい格差もある。そういう格差の中で、私たち人間は生きてきたし、これからもその現実は基本的に変わらないでしょう。

 カインの物語

 創世記三章には、アダムとエバの二人の子どもたちに大きな格差が生じ、その格差の中で苦しむ人間の姿が描かれています。兄のカインは農耕民として安定した豊かな暮らしをしており、弟のアベルは牧畜民として不安定な貧しい生活をしていました。しかし、ある時、その立場が逆転する。具体的にどういうことであったかは分かりませんが、恐らくアベルが非常に繁栄し、カインの方は不作が続く、そういうことが起こったのではないかと思います。それは、兄のカインにとっては耐え難いことであり、どうしても納得がいくことではありませんでした。その不公平な現実の背後には神がいると、彼は思ったでしょう。そして、確かにそうなのです。そうであれば、カインは神に向って問いかけなければならないはずです。「なぜ、こんなことが起こるのですか?」と。神様も、カインがそのような問いかけをすることを願ったのだと思います。神様は、カインにこう語りかけます。

「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」

 しかし、カインは神様に向って顔を上げることをしませんでした。彼は、神がもたらした不公平の現実に対する怒りをその心にため込んでいったのです。それまでは、彼の方が弟アベルより上にいたという不公平があっても、そのことについては何とも思っていませんでした。しかし、彼の方が下になった途端、「不公平はおかしい、絶対におかしい、俺があいつより下にいるなんてことは断じて許すことができない」。そういう思いに取りつかれていった。もし、それが正しい思いなら、詩編の詠い手のように神に顔を向けて正々堂々と言えばよいのです。「呼び求めるわたしに答えてください。わたしの正しさを認めてくださる神よ」と。しかし、カインは、そうはしませんでした。神様に対して何の応答もせぬまま、ひたすら怒りをその心の内にため込んでいったのです。そういう時間が継続する時、人間は一体何をするのか?それは恐ろしいことです。彼は、アベルを殺し、心の中で神をも殺したのです。

 怒りと罪

 私が若い頃は、一九五五年に発行された『口語訳聖書』が一般的な聖書でした。その口語訳でいくつか覚えている言葉があります。その一つは、詩編四編の五節六節です。そこには、こうありました。

「あなたがたは怒っても、罪を犯してはならない。
床の上で静かに自分の心に語りなさい。
義のいけにえをささげて主に寄り頼みなさい。」


 「あなたがたは怒っても、罪を犯してはならない」は「怒りにまかせて罪を犯すな」という意味だと思います。新共同訳聖書の「おののいて罪を離れよ」とは、ニュアンスが違うというよりも意味が違うのではないかと思います。今は、口語訳の方で受け止めておきたいと思います。
 それとの関連で、七節も、今は、こう訳しておきたいと思います。

「多くのものは言う、
誰がわれらに幸いを見せてくれようか、
われらの上から、ヤハウェ(主)よ、
あなたの顔の光は消え去った。」
(月本昭男訳)

 つまり、この詩の詠い手の周囲には、神様に対して不平不満を持っている人々が大勢いるのです。その人々は、八節にあるように、「麦とぶどう」が豊かに与えられる豊作の時に喜ぶ人々です。しかし、主に祈っても、不作にしかならなかった。"もう主は自分たちを恵んではくれないのだ。主の顔の光は消え去ったのだ。そんな主に依り頼んで生きているなんて馬鹿らしくてやっていられない。"そう思い、その思いを口にする人々が大勢いる。
 そして、この詩の詠い手は、そういう人々の嘲り、辱めを受けているのでしょう。「人の子らよ、いつまでわたしの名誉を辱めにさらすのか」という「わたしの名誉」「わたしの栄光」とも訳せ、それは「主なる神」を表している可能性もあります。富裕な人々は、いつまでも「むなしさを愛し、いつわりを求め」て止まないのです。つまり、「麦とぶどう」が豊かにあってこそ人は幸せに生きるのであって、それなくして人生に何の意味がある?!と言っているのです。そういう「麦とぶどう」に代表される物質的な恵みを与えてくれない主など、神として依り頼むに値しない。そのように言って、主を辱めている。あるいは、主に依り頼む人々を嘲っている。
 そういう人々に囲まれる現実は、特段、珍しいことではありません。私たちが、この世で信仰を表明しない一つの理由は、無暗に辱めを受けたくないからだし、私たちもしばしば同じ思いを持つからです。そのように、周囲の人々の思いに馴染んでいった方が平和に暮らせます。変人扱いされることもないし、悪人扱いされることもありません。しかし、神様に「正しい」と認めていただけるのかどうか、それは別の問題です。

 主のいつくしみに生きる

 「むなしさを愛し、偽りを求め」続ける「人の子ら」に囲まれ、辱められながらも、この詩の詠い手は「主のいつくしみに生きる人を、主は見分けて、呼び求める声を聞いてくださると知れ」と叫ぶのです。
 「いつくしみ」とは真実の愛、決して裏切らない愛のことだと言って良いだろうと思います。それは、私たち人間にはない愛だと言わざるを得ません。また、私たちの想像や理解を越えている愛でもある。その「いつくしみに生きる」とは、主の愛のみに依り頼んで生きることです。主は、そのようにして生きる人間を、見分けて下さり、その呼び求める声を聞いてくださるのだ、と彼は言います。そして、自分がきちんと主によって見分けられ、呼び求める声が聞かれていることを知る時の喜びは、「麦とぶどう」が豊かに与えられる時の喜びをはるかに上回るのです。彼は、そのことを知っており、その喜びを「人の子ら」にも知って欲しいと願っているのです。

 見分け 聞いて下さる主

 この箇所を読んでいて思い出したことがあります。
 私は、今日の礼拝で、中渋谷教会の牧師として十一年目の歩みを始めたことになります。十年前、二〇〇一年四月の第一週から、この礼拝堂で説教をさせて頂くことになりました。十年間、様々な意味で主に守られて、こうして皆さんと礼拝を共に出来たことを感謝します。
 二〇〇一年三月末までは、長野県の松本の教会に十五年間お世話になっていました。松本は、一応、長野県の中で第二の都市です。しかし、先日久しぶりに行って歩いたのですが、駅周辺の繁華街ですら人はまばらで、実に歩きやすいのです。当時は、それが当たり前でなんとも思っていませんでした。しかし、渋谷に来て、あのスクランブル交差点の前に立った時は、松本で一年間に見る人間の数を一瞬で見させられて頭がくらくらする感じを受けました。子どもたちと一緒に渡る時は、全員で手を握りあって横一列になって、決死の覚悟で渡ったのです。今思えば、随分迷惑なことをしたと思います。しかしその時は、「ここではぐれたら終わりだ、もう会えない」と思っていたのです。そういう時期に、妻が言ったことを思い出しました。
 妻は、こう言いました。
 「私はイエス様が、『わたしについて来なさい』とおっしゃる場面を、誰もいない砂浜で、イエス様と自分が直面するような感じで考えてきた。でも、実際は違うんじゃないか?イエス様は、あのスクランブル交差点のような人混みの中で、『わたしについて来なさい』とおっしゃって、すぐに歩き始めていく。少しでも目を離せば見失ってしまう。そういうことではないかと思う。」
 私もそう思います。あの交差点では様々な声が聞こえます。安売りセールを知らせるスピーカーから流れて来る声、怪しげなキャッチセールスをする人の声、ポケットティッシュを配る人の声、友人と話す人の声、歩きながら携帯電話で話す人の声、どれ一つとしてちゃんと聞いたことはありませんが、実に様々な声が聞こえてきます。そして、数え切れない人々と体が接触するほどの近さですれ違っていきます。その一瞬に、「わたしについて来なさい」という声が聞こえ、そのように招くイエス様を見失わないようについていく。それは、誰もいない砂浜でイエス様と出会い、その声を聴くのとは違います。余程よい耳とよい目をもっていなければ、イエス様の声を聴くことも、その姿も見ることも出来ないでしょう。まして、ついて行くことはできません。
 四節で詠い手が言っていることは、その逆です。神様こそが、その目と耳をもっていてくださると言うのです。私たちが高層ビルの屋上からあの交差点の様を見れば、無数の小さな蟻んこが行き交っているように見え、人々の話し声は雑踏の音としか聞こえないでしょう。しかし、神様は違う、と言うのです。神様は、その無数の蟻んこのような人間の中に一人でも、「主のいつくしみに生きる」人間がいれば、その一人を見分けてくださる。そして、誰も聞こえない、あるいは聞きもしない、神を呼び求める声を発しているなら、その声をたしかに聞きとってくださるのだ、と彼は言う。この神様の慈しみを知った時の喜びは、すべてに勝ると言うのです。そのとおりです。

 人が孤独になる時

 人は独りでいる時に孤独を感じる場合もありますが、実は多くの人々がいる場所で、誰とも真実の愛の交わりをもっていない自分に気づき、孤独に陥ることの方が多いように、私は思います。そして、その孤独感、寂しさを、飲めや歌えや、という生活で誤魔化す。
 パレスチナで「ぶどう」は、食べるものというよりはぶどう酒の原料ですから「人々は麦とぶどうを豊かに取り入れて喜びます」とは、まさに食べて飲んで楽しむことこそ豊かな人生だと思っているということです。そして、その食べ物、飲み物が与えられないと見るや、怒り、神を侮り、辱める罪を犯していくのです。それは、そもそも神様は肉体を養い楽しませる物質を与えるだけの神だと思っているからです。神のいつくしみ、愛を、その程度のものだと思っているからです。そして、神の像にかたどって造られ、生かされている自分たち人間のことも、その程度のものと思っている。そのことが、実は人を激しい孤独に追いやっているのです。神様はそんな神様ではないし、私たち人間もそんな人間ではないからです。

 人の子らへの呼びかけ

 そういう元来の神様も人の姿も見失ってしまった人々を見て、この詠い手は、嘆いている。もちろん、辱めを受けるわが身の不幸を嘆いている。でも、それだけではありません。むしろ、自覚せぬままに深い孤独に陥っている「人の子ら」のために嘆き、呼びかけているのです。

「あなたがたは怒っても、罪を犯してはならない。
床の上で静かに自分の心に語りなさい。
義のいけにえをささげて主に寄り頼みなさい。」


 「人の子ら」への呼びかけということであれば、「おののいて罪を離れよ」も、正しいと思います。
 詠い手は、人の子らに、ひとり床につく時に、しずかに自分の心と語ることを求めます。人は何によって生きるものなのか。そのことを深く考えて欲しい。そして、「麦とぶどう」が豊かに与えられることに勝る喜びがあることを知って欲しい。どんな時、どんな場であっても、主のいつくしみに生きる者を、主が見分け、その声を聞き、共に生きてくださる。その恵みの事実を知って欲しい。それが人として正しいことだ。そこに真の平和、シャロームがある。その平和の中で、安らかに身を横たえ、眠ることができる。
 彼は、このように、自分を嘲る者たちが、真の喜び、真の平和を知ることができるようにと願っているのです。

 正しい

 この詩編には二度繰り返される言葉が二つあります。一つは、「正しさ」とか「義」としばしば訳されるツァアヂークという言葉で、新共同訳聖書では「わたしの正しさを認めてくださる神よ」「ふさわしい献げ物」の「ふさわしい」がそれです。「義のいけにえ」と訳している聖書もあります。
 「正しい」ということが、人間にとって大事なことは言うまでもありません。しかし、正しく生きるとは、どういうことなのか?
 「正しい」とは、カインの物語で言えば、神に向って顔を上げることです。神に向って顔を上げる。それは神の御顔を拝することです。しかし、それは恐ろしいことでしょう。
 私が礼拝の司式をする時に、しばしばこう祈ります。
 「こうしてあなたの御前に立つ時、あなたの御顔の光に照らされて初めて知る罪があります。どうか、その罪を御子イエス・キリストの故に赦してください。」
 恥ずかしい話ですが、私の一週間は、言ってみれば薄曇りの中を生きているようなものです。その曇り加減は、信仰の状態によって変わって、ほぼ真っ暗な時もある。そうなると、何も見えません。自分の体がどれほど汚れていたって、見えなければ、自分にとっては汚れていないのと同じことです。しかし、白日の下に体がさらされる時、見たくなくても否応なく汚れは見えてしまう。それは人に見える汚れではないでしょう。しかし、神には見える。そして、こうして礼拝が始まって来ると、神に見えることが私にも見えてくる。自分がどれほど汚れた存在であるかが見えてくる。これは、私ひとりが、心の中で知ることです。皆さんは誰も知る由もありません。私の汚れは、目には見えないし、私の心の声は耳には聞こえないのです。しかし、神様は見ておられるし、悔いて赦しを乞う声を聞いて下さる。そして、答えてくださる。そのことを確信して、皆さんの前で、そして皆さんと共に声に出して祈るのです。
 それと同じことが、皆さんひとりひとりにも起こっているのではないでしょうか?礼拝をする。説教を聴く、そして祈るとはそういうことなのだと思います。そのような礼拝を捧げることを通して、私たちは正しい者とされていくのです。顔を上げて、神様に向って、悔い改めと信仰と讃美の祈りを捧げること。心からの信頼をもって罪の赦し、愛を求めること、それが「ふさわしい献げ物」を捧げることです。
 そのことが真実に出来た時、私たちは「平和のうちに身を横たえ」「眠る」ことが出来る。明日のことを思い煩うことなく、安心して、つまり神様との和解、愛の交わりの中に身も心も委ねて眠ることができるのです。主イエスは、真実に悔い改める者の罪を、ご自身の十字架の死を通して、必ず赦してくださるからです。

 依り頼む 安らか

 詩編四編に二度出てくるもう一つの言葉は、六節の「依り頼む」(バーター)という言葉です。この動詞の名詞形(ベター)が、九節の「主よ、あなただけが、確かに、わたしをここに住まわせてくださるのです」の「ここに」という形で訳されているようです。口語訳聖書では「主よ、わたしを安らかにおらせてくださるのは、ただあなただけです」とあります。「安らかにおらせてくださる」の「安らかに」がベターです。主に依り頼むこと、ただひたすら主のいつくしみに生きること、それこそが正しいことであり、そこに平和があり、安らかさがある。これは気分の問題だけでなく、実際上の安全という意味があるのです。確実に守られる、肉体の生死を越えた守りが与えられるのです。
 神様が、私たちの最も切実な叫びに答えて与えてくださったものは、肉体を養うための 「麦やぶどう」などと比較にならないものです。それは、ご自身の独り子イエス・キリストなのです。この方こそ、私たちを生かす命のパンです。神のいつくしみは、この方において完全に現れたのです。私たちが、この方を信じる時、その愛を信じる時、私たちはこの肉体の命がある今既に永遠の命に生かされ始めるのです。そして、その命は世の終わりの日の復活が約束された命です。この命を生きることこそ、最も安心であり、最も安全であることは、火を見るよりも明らかです。
主イエスは、こうおっしゃいました。

「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。・・わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人のうちにいる。」

 私たちは、この言葉を聞いて信じ、洗礼を受けたキリスト者です。だから、これから主イエスの愛、その命の徴であるパンとぶどう酒を頂きます。ここに主の真実の愛、「いつくしみ」が表れているのです。私たちの罪をご自身の十字架の血によって洗い清め、永遠の愛の交わりの中に生かしめて下さる「いつくしみ」があるのです。
 その「いつくしみ」に生きる時、ひたすら主に依り頼む時、そこにどれほどの苦難があっても、何にも勝る喜びが与えられ、平和が与えられるのです。感謝をもって聖餐の食卓に与りましょう。
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