「朝ごとに聞いてください」

及川 信

       詩編  5編 1節〜13節
5:1 【指揮者によって。笛に合わせて。賛歌。ダビデの詩。】
5:2 主よ、わたしの言葉に耳を傾け
つぶやきを聞き分けてください。
5:3 わたしの王、わたしの神よ
助けを求めて叫ぶ声を聞いてください。
あなたに向かって祈ります。
5:4 主よ、朝ごとに、わたしの声を聞いてください。
朝ごとに、わたしは御前に訴え出て
あなたを仰ぎ望みます。
5:5 あなたは、決して
逆らう者を喜ぶ神ではありません。
悪人は御もとに宿ることを許されず
5:6 誇り高い者は御目に向かって立つことができず
悪を行う者はすべて憎まれます。
5:7 主よ、あなたは偽って語る者を滅ぼし
流血の罪を犯す者、欺く者をいとわれます。
5:8 しかしわたしは、深い慈しみをいただいて
あなたの家に入り、聖なる宮に向かってひれ伏し
あなたを畏れ敬います。
5:9 主よ、恵みの御業のうちにわたしを導き
まっすぐにあなたの道を歩ませてください。
わたしを陥れようとする者がいます。
5:10 彼らの口は正しいことを語らず、舌は滑らかで
喉は開いた墓、腹は滅びの淵。
5:11 神よ、彼らを罪に定め
そのたくらみのゆえに打ち倒してください。
彼らは背きに背きを重ねる反逆の者。
彼らを追い落としてください。
5:12 あなたを避けどころとする者は皆、喜び祝い
とこしえに喜び歌います。
御名を愛する者はあなたに守られ
あなたによって喜び誇ります。
5:13 主よ、あなたは従う人を祝福し
御旨のままに、盾となってお守りくださいます。


 被災地教会訪問

 先週の火曜日の晩から木曜日の夕刻まで、石巻と福島の合わせて三つの教会をお訪ねし、石巻山城町教会と福島教会では聖研祈祷会に出席をさせて頂く機会を与えられました。
 石巻は、皆さんも新聞テレビの報道でご存知のように、津波による被害をまともに受けた町です。高台の上から見ると、ありとあらゆるものが滅茶苦茶になっている瓦礫の原野が広がっています。今は、「瓦礫の原野」と言ってもよいのでしょうが、震災直後には、その瓦礫の中に閉じ込められたまま生きている人々や亡くなった方たちが数え切れないほどいたのであり、その中には多くの赤ん坊や子どもたちもいたのです。そして、多くの方がその瓦礫の中で命を落とした。その事実を思うと言葉を失う思いでした。海から遠く離れた国道沿いにも、何処から流れてきたか分からない車があちこちに散在しており、左右の歩道には何百メートルも水浸しになった様々な家財道具が山積みにされていました。
 石巻山城町教会は高台に登る坂の途中に建っている教会です。その坂の下はかつて街の中心地だったそうです。しかし、今も尚信号は止まったままであり、商店街は完全に破壊されつくしており、車道にも瓦礫が積んであり、片側通行しか出来ない状態でした。しかし、その坂を少し登っていくと、そこには住宅地があり、一見したところ地震や津波があったこと自体信じられないほどのどかでした。桜が満開で、鳥のさえずりが絶え間なく聞こえてくるのです。しかし、その高台を登り切った所から見降ろす海沿いの低地に広がるかつての工場や住宅街、港には、命の気配が全くしません。
 中渋谷教会の多くの方が材料費や送料をカンパして下さり、婦人の有志が心をこめて作ったフルーツケーキは甘夏ミカンと共に大変喜ばれていました。例年、イースターの祝会には皆が料理一品を持ち寄って祝うそうです。しかし、今年はそんなことは全く出来なかったので、ケーキと甘夏ミカンとお茶がなければほとんど何もなかったということでした。実に教会らしいお助けが出来たと思って感謝しています。今後も、教会ならではの連帯と支援をしていきたいと願っています。先日は、疲れ切っている被災者の方たちに慰めを与えることが出来るような音楽会を開けたらよいなという案も出ましたから、そのための具体的な支援が出来たらよいなと思っております。皆さんから今も寄せられ続けている義援金を、被災教会の個別のニーズに合う形で用いたいと願っています。今日の午後の長老会でも、そのことを話し合います。
 福島教会は、築百年を越えるレンガ造りの立派な会堂を取り壊した悲しみを味わっている教会です。幸い、集会室と牧師館を兼ねた建物が無事で、そこで礼拝を守ることは出来ます。しかし、私が滞在中にも三度余震がありましたし、なによりも放射能汚染による不安があり、それは今後も続きます。幼稚園や学校でも子どもたちが外で遊ぶことが自粛されていますから、精神的なストレスという意味では、津波で一気に叩きのめされた地域よりも深刻になっていくのかもしれません。石巻山城町教会のすぐ近くには小学校があり、つい最近までは避難所だったそうです。しかし、今は新学期も始まり、子どもたちが外で遊ぶ元気な声が聞こえていました。しかし、街が破壊されている訳でもなんでもない福島には、子どもたちの声がまったく聞こえてこないのです。今後の連帯や支援のあり方について具体的なことはまだ見えていませんが、何かの依頼があれば、出来るだけのことをしていきたいと願っています。

 祈るということ

 今回は二つの教会の問安が主な目的でした。しかし、奇しくも両方の教会の聖研祈祷会で共に祈ることが出来たことは、私にとって非常に幸いなことでした。祈りは、主なる神様への呼びかけに始まります。そして、心の中にある様々な思いを、神様に告げるのです。そこには願いがあり、感謝があり、賛美があり、嘆きや訴えがあります。そういう祈りが出来るのは、主なる神様が祈りを聞いて下さるという信仰があるからです。信仰生活とは、具体的には祈りの生活ということです。神様を信じるようになると人の何が変わるのかと言えば、祈るようになるということではないでしょうか?
 私は、あっと言う間に三十年近くも牧師をさせて頂いています。牧師をさせて頂くことに伴う喜びを挙げていけば切りがありません。その中の一つは、信仰を持っていなかった人が信仰を与えられる瞬間に立ち会うことが出来る喜びです。教会学校から育って信仰を与えられる場合は、子どもの時から祈っています。しかし、ある程度の年齢になってから礼拝に初めて来られる方の場合は、まったく違います。そういう方の場合、最初は礼拝でやっていることが分かりません。とりあえず隣の人がやっていることを見ながら聖書を開いたり、讃美歌を開いたり、週報に掲載されている主の祈りを読んだりするでしょう。それは、やる気があれば出来ることだし、何回か続けていれば苦もなく出来るようになります。しかし、「それじゃあ、そろそろ祈ってください」と私が言えば、「いや、私はまだ祈れません」とおっしゃるのです。それは、当然のことです。
 祈るとは、人間以外の対象に向って言葉を使うということです。猫や犬にも言葉を使いますが、それはペットも長く一緒に暮らしていると、大体のことは分かるようになるという経験知があるからです。犬や猫も色々な声を使い分けて、私たちに様々ことを訴えてきます。しかし、神様に言葉で語りかけることは、人間だけがすることです。しかし、神様を信じていない人間にとっては、祈りを捧げるということはもの凄く違和感のあることです。そして、そういう人にとって、神に祈るとは滑稽なことだし、祈ることを強制されるとすれば、それは屈辱的なことです。そういう違和感や屈辱感を感じることなく、「はいはい」と言ってすらすら祈り始める人はまったく信用できません。しかし、祈れない人、祈らなかった人が、礼拝生活を続け、入門講座や聖研祈祷会に出席するなかで、ある時、フッと祈る時がある。「神様」と呼びかけて祈る。神様に言葉が届くようにと、それまで抱いたこともない願いをもって、祈りの言葉を発する。そういう場面に立ち会うことがあります。その時の喜びは、深いものです。神様が、生きて働いておられることが分かるからです。
 しかし、祈りを捧げる人の置かれている状況がいつも恵まれたものであるわけではありません。心身共に何不自由なく生きている時、人は祈る必要を感じないものです。人が祈るには、それなりの理由があります。「困った時の神頼み」という言葉は、一面の真理を表した言葉でしょう。
 東日本大震災からもう五十日以上が経ちました。先日、被災地の各地で四十九日の法要、あるいは合同慰霊祭が催されました。愛する家族を失った人々、その遺体がまだ見つかっていない人、その当日に小学生の娘さんの遺体が見つかった人、様々な人々が集まって祈っておられました。被災したわけでも、家族を失ったわけでもない人間が、「神は死んだ」とか、「神も仏もないことが分かった」とか、「天罰だ」とか言うことは自由です。しかし、被災し、家も財産も失い、なによりも愛する家族を失った方たちの多くは、言葉にならない呻きの声を挙げて祈っているのです。苦しみ、悲しみが深ければ深いほど、祈りも深くなる。神様、仏様に、あるいは天国にいると信じる家族に向って祈る。何とかして、その言葉を届けたいと願う。そういうものだと思います。

 耳を傾けてください

 詩編五編の最初の言葉は、まさにそういう祈りの言葉です。

主よ、わたしの言葉に耳を傾け
つぶやきを聞き分けてください。
わたしの王、わたしの神よ
助けを求めて叫ぶ声を聞いてください。
あなたに向かって祈ります。
主よ、朝ごとに、わたしの声を聞いてください。
朝ごとに、わたしは御前に訴え出て
あなたを仰ぎ望みます。


「わたしの言葉」「つぶやき」「叫ぶ声」「わたしの声」「訴え出る」と立て続けに祈り に関する言葉が出てきます。それに合わせて、「耳を傾けてください」「聞き分けてください」「聞いてください」「聞いてください」と出てくる。終わりの二つの「聞いてください」は、原語では違う言葉です。祈りに関する言葉も皆異なりますが、その言葉を聞く神様の側の言葉も皆異なる言葉が使われています。声に出して祈る言葉も、声に出せない呻きも、大声で叫ぶ声も、神様、どうか注意を向けて欲しい、理解してほしい、注意深く聞いて欲しい、深く聞き、心に受け止めて欲しい。そう願っているのです。
 そして、彼は毎朝、神様に「訴え出た」上で、神様を「仰ぎ望む」。これは「目を凝らして見張る」という感じの言葉のようです。神様から来るに違いない応答を、全神経を集中して待つ。それも祈りの本質です。祈りは言い放しで終わるものではありません。言ったことに対する応答を受け止めていくものです。もちろん、祈る端から神様からの応答が聞こえてきたり、見える形で現れたりするわけではないでしょう。実際には何日もかかる、何カ月、あるいは何年も掛かって、神様からの応答が来る。あるいは応答を受け止めることが出来る場合があるのです。しかし、瞬時に応えて来られる場合もある。それは神様のなさることであって、私たちの思いのままに出来ることではありません。私たちは祈った後は、黙って仰ぎ望む、見守ることしかできないし、それで十分なのです。

 祈る理由

 この祈りを捧げた人が、このような切実な祈りを毎朝捧げるにはそれなりの理由があります。彼の周りには、神に逆らって歩む人がたくさんおり、彼を「陥れようとしている」のです。神様への信仰に生きようとする人を陥れるとは、具体的には様々なことが考えられますが、本質的にはその信仰を失わせようとするということでしょう。信仰をもってこの世を生きていこうとすれば、そこに落とし穴はいくらでもあり、あちこちに罠が仕掛けられているものです。
 安息日を聖なるものとして覚える。つまり、日曜日に神様を礼拝する。それが、私たちの信仰生活の基本中の基本です。しかし、その基本を守らせないような働きかけはいくらでもあります。それは、目に見える具体的な人から来ることもありますし、私たちの心の中から生じることもあります。荒れ野で主イエスを誘惑した悪魔は、目に見えない存在でした。しかし、その目に見えない存在は人間の中に入り、その人間の口を通して、私たちと神様との関係を破壊しようと襲ってくることもあります。既にその関係が破壊されている人には、悪魔は熱心な働き掛けをする必要はありません。熱心に信仰を生きようとする人々をこそ狙ってくるものなのです。
 この祈りを残した人もまた、熱心に信仰を生きようとする人であることは間違いありません。だからこそ、自分を神様から引き離そうとする人々、あるいはその人々を用いる悪魔的な力の攻撃を敏感に感じ取るのです。そして、そこに信仰の戦いが生じるのです。熱心に信仰を生きようとしなければ、戦いなど最初から生じようもありません。

 礼拝とは

 彼の願いは、「あなたの家」つまり神殿に入り、「ひれ伏し、畏れ敬う」ことです。私たちの現実に引き付けて言えば、この礼拝堂の中に入って神様を礼拝すること。ただそこにのみ、彼の希望があるのです。しかし、その礼拝を捧げるためには、神様の「深い慈しみ」を頂き、恵みの御業のうちに真っ直ぐに歩めるように導いて頂くことが必要なのです。
 これもしばしば語っていることですが、私たちは「礼拝に行く」と言います。これは大事なことです。「私たち」が礼拝に行くのです。そこに私たちの意志がある。それは大事なことです。しかし、その一方で、私たちは礼拝に招かれているから礼拝に行く、行くことが出来る。そのことを覚えておくことも、極めて大事なことです。誰が招いて下さるのか?もちろん、神様です。礼拝が「招きの言葉」(招詞)から始まるのは、そのことを示しています。
 礼拝の主催者は、私たちではありません。礼拝という行為を生み出したのは神様であり、日曜日の礼拝を始めたのも神様です。神様が日曜日に、主イエスを十字架の死から甦らせた。その出来事にキリスト教会の礼拝の起源があります。日曜礼拝、あるいは主日礼拝は、主の十字架の死とその死からの復活を感謝し祝う礼拝です。その礼拝は私たちが作り出したのではなく、神様が生み出し、私たちを招いて下さっているのです。そのことが分かっていないと、礼拝は神についての話が語られ、神や信仰についての歌がうたわれ、参加費が集められる一つの集会とか催し物となります。そうであれば、そこには、「ひれ伏し祈り、畏れ敬う」感覚がなくなります。そして、誰でもが自由に参加し、自分好みの集会にする権利を持つということになりかねません。しかし、この詩の詠い手は、礼拝堂に入ること、ここで礼拝を捧げることそのものが、神様の「深い慈しみ」が与えられなければあり得ないことを深く知っています。だから、その礼拝への道をまっすぐにしてくださいと祈っているのです。

 慈しみ 義(一)

 「深い慈しみ」「深い」は、いくつかの英訳聖書では「莫大な」とか「夥しい」を意味する言葉が使われていました。また、「恵みの御業のうちにわたしを導き」は、従来「あなたの義をもってわたしを導き」と訳されていた言葉で、私はそちらの方がよいと思います。この詩編五編における問題は、神の義とそれに対抗する悪と罪の問題ですから。そういう意味では、一三節の「あなたは従う人を祝福し」「従う人」も、従来通り「正しい者(義人)」と訳した方がよいだろうと思います。その二つは、ヘブライ語ではツェダカーとかツァディークという言葉です。いずれも「神の義」を表すツェデクという言葉がその根っこにある言葉なのです。
 この詩の詠い手は、自らの義を主張しているのではありません。「自分は正しい人間だ。だから、いつだって自由にこの礼拝堂に入る権利も資格もある。そして、私の祈りに対して、神様はいつもよい応答をしてくださるはずだ。神様は、正しい人間を祝福し、守ってくださるのだから。しかし、私を陥れようとする者たちは、打ち倒され、追い落とされる。私はそのことを信じている。」
 そのような確信、あるいは信仰を告白しているのではありません。
 幸いにして、この中渋谷教会にはいませんが、教会によってはボスみたいな会員のグループがいて、牧師も自分たちの好みで招聘したり解任したりし、教会員も気に入らない人は追い出すというとんでもないことがあります。その逆に、教会を私物化している牧師もいます。そういう困ったことの相談を受けることは、これまでに一度や二度ではありません。部外者の私にはどうすることも出来ないので、ただ一緒に嘆き、祈るしかありません。そして、自分がそのような教会の牧師ではないことを感謝し、またそのような牧師にならないように襟を正す他にないのです。
 以前も言いましたように、教会の中にはびこる偽善こそ恐るべきものです。自らの偽善に気付いていない人々の口は「正しいことを語らず(信頼に値することを語らず)、舌は滑らかで、喉は開いた墓、腹は滅びの淵」である場合が少なくありません。そういう人々と同じ土俵で戦うと、いつか同じ穴のムジナになります。だから、この人がしているように、「神よ、彼らを罪に定め、そのたくらみの故に打ち倒してください」と祈った方がよいのです。戦うにしても、絶えず御心がなることだけを祈りつつ戦わないと、「罪に定められ、打ち倒され、追い落とされる」のは自分の方になる場合があります。
 聖書における義、正しさとは、自分の基準で自分が決めることではなく、神様との関係性の正しさであり、人を義と認めるのは神様なのです。そのことをこの人はよく知っています。彼は、自分を陥れようとする人を「罪と定め、打ち倒す」のも、「追い落とす」のも神様の業であることを知っており、自分自身がいつその罪に陥るか分からないという恐れを持っています。そして、神様を礼拝出来ること自体、神様の夥しい慈しみを与えられて初めて可能であることを骨身にしみて知っているのです。だからこそ、毎朝、神殿で祈りを捧げるたびに、その慈しみを感謝し、いつも神様の義に従って生きることが出来るように、導きを祈り求めているのです。

 喜びの根拠 

 そして、彼はこういう信頼と賛美をもって祈りを終えます。

あなたを避けどころとする者は皆、喜び祝い
とこしえに喜び歌います。
御名を愛する者はあなたに守られ
あなたによって喜び誇ります。
主よ、あなたは従う人を祝福し
御旨のままに、盾となってお守りくださいます。


 ここにも「喜び祝い」「喜び歌い」「喜び誇る」という、意味は似ているけれど違う言葉が連続して出てきます。この喜びの三連発の前提は、「主を避け所とする」ということです。これは「主の中に逃げ込む」と言ってもよいでしょう。主だけを頼みとして、全身を委ねる。他の誰かにも保険をかけておくなどという姑息なことをしないで、全身を傾けて主に信頼し、その身を委ねる。そういう者を「正しい人」「義人」と言うのです。そして、主はその義人を「守り」「祝福し」「盾となって」守ってくださる。これらの動詞はすべて継続的な行為を表します。主を避け所とする限り、その人は今後ずっと、喜び祝い、喜び歌い、主を喜び誇ることが出来るし、それは主がその人をいつも守り、祝福し、敵対する者たちからの様々な攻撃に対して盾となって守って下さるからです。これが信仰を生きる時に知る現実です。

 慈しみ 義(二)

 そこでもう一度、「深い慈しみ」「義」という言葉に帰っていきたいと思います。詩編五編の文脈から言うと、神様から「深い慈しみ」を頂かない限り、人間が義とはされないことは明らかです。その場合の人間とは、罪人のことです。人は誰もが、神様からの深い慈しみを頂かない限り、その罪を赦されて義の道を歩むことは出来ません。だから、その「慈しみ」とは罪を赦してくださる神様の愛のことです。人間は自ら義となるのではなく、神様の慈しみ、それも夥しい慈しみの故に義として頂けるのです。
 そのことをさらに深く知るために、先週に引き続きパウロが書いたローマの信徒への手紙八章の言葉を読みたいと思います。
 先週は、キリスト・イエスを通して示された神様の愛から私たちを引き離すものは何もないのだという福音を聞きました。その中で、彼は、「だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです」と言っていました。私たちのために十字架に死に、復活して下さった方を救い主、キリストと信じる者が、神によって義として頂ける。それは己が罪を知り、悔い改め、キリスト・イエスを通して示された夥しい慈しみを信じ、受け入れた者に与えられる義であり救いです。
 しかし、その救いを与えられた者にも、あるいはそういう者には、艱難、苦しみ、迫害、飢え、裸、危険、剣などの苦しみが与えられる場合があるのです。神様によって与えられる「救い」とこの世的な意味での「安泰」は全くの別物ですから。しかし、様々な苦難が主を避け所とすることを教えてくれるのなら、それは大いなる恵みだと言うべきだと思います。

 避け所とする 望む

 私が今回、詩編五編を読んでいて新たに発見したことの一つは、「あなたを避け所とする者は皆」と訳されている言葉がギリシア語訳聖書では「あなたに望みをかける者は皆」となっていたことです。その解釈は現実に沿っていると思いました。神様を信じて生きる人生に苦難はつきものです。しかし、そこにはまた「喜び祝い」「喜び歌い」「喜び誇る」と三度も畳みかけて言わねばならぬ喜びが「とこしえ」にある。それもまた事実なのです。苦難の裏には、あるいはその中には、苦難を上回る喜びがある。それが主に望みをかけて生きる者たちの現実なのです。
 詩編五編の祈りを残した人の現実は、彼を陥れようとする人々に囲まれ、誹謗中傷を浴びせられる苦難に満ちています。しかし、現実はそれだけではありません。彼は、主の「深い慈しみ」を与えられ、毎朝、神殿に入ることを許され、ひれ伏して祈る礼拝を捧げることが出来るのです。「主よ、聞いて下さい、分かって下さい、心に留めてください」と叫ぶことが出来る。そのようにして、いつも目に見えない主を避け所としている。それは「主に望みをかける」ということなのです。他の何ものでもない、主に望みをかける。自分の権力とか財力とか政治力とか、あるいは町の有力者だとか、そういうものに望みをかけるのではなく、ただただ主に望みをかける。そういうことです。
 ギリシア語では「望む」とはエルピゾウという言葉です。ローマの信徒への手紙八章には、そのエルピゾウが二度出てきます。そこで彼はこう言っています。
 「"霊"の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。」
 ここには繰り返し、「希望」とか「望む」という言葉が出てきます。主イエス・キリストを信じて生きるとは、いつの日か、体が贖われること、御国において復活の栄光を与えられることを呻くようにして望みつつ生きることです。そして、私たちはその信仰に基づく望みによって既に救われているのです。目に見える具体的環境や状況の良し悪しなどは「救い」にとっては何の関係もありません。ご自身の御子をさえ惜しまずに十字架につけてくださった神様の「深い慈しみ」、ご自身の命を捧げて「神の義」を与えてくださった主イエスの愛を信じる。そして、ただ主イエスにだけ望みをかける。この世でどんな苦難があろうとも、主にだけ望みをかけ、主の導きを求めて祈る。その祈りを真実に捧げることが出来る時、その人は、どんな苦難の中にあっても主の守りが与えられます。そして「喜び祝い」「とこしえに喜び歌い」主を「喜び誇る」ことが出来るのです。
 今日、主はその信仰による喜びを私たちに与えんとしてこの礼拝に招いて下さいました。そして、私たちは今日も聖餐の食卓に与ることが許されています。この礼拝堂に招かれ、私たちの罪の赦しのために裂かれ、流された主の体と血を、パンとぶどう酒を通して頂く。ここに現れる主の夥しい慈しみを、心新たに感謝し、ひれ伏し賛美出来ますように祈ります。
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