「主よ、いつまでなのでしょう」

及川 信

       詩編  6編 1節〜11節
6:1 【指揮者によって。伴奏付き。第八調。賛歌。ダビデの詩。】
6:2 主よ、怒ってわたしを責めないでください
憤って懲らしめないでください。
6:3 主よ、憐れんでください
わたしは嘆き悲しんでいます。
主よ、癒してください、わたしの骨は恐れ
6:4 わたしの魂は恐れおののいています。
主よ、いつまでなのでしょう。
6:5 主よ、立ち帰り
わたしの魂を助け出してください。
あなたの慈しみにふさわしく
わたしを救ってください。
6:6 死の国へ行けば、だれもあなたの名を唱えず
陰府に入れば
だれもあなたに感謝をささげません。
6:7 わたしは嘆き疲れました。
夜ごと涙は床に溢れ、寝床は漂うほどです。
6:8 苦悩にわたしの目は衰えて行き
わたしを苦しめる者のゆえに
老いてしまいました。
6:9 悪を行う者よ、皆わたしを離れよ。
主はわたしの泣く声を聞き
6:10 主はわたしの嘆きを聞き
主はわたしの祈りを受け入れてくださる。
6:11 敵は皆、恥に落とされて恐れおののき
たちまち退いて、恥に落とされる。


 特別伝道礼拝

 今月は、年に一回の特別伝道礼拝を捧げる月です。何年か前から有名な説教者をお招きしての伝道礼拝は止めて、私が説教することになっています。今は昔と違って、名が知られ、多くの方の心に残る説教をして下さる説教者を探すことが難しくなったという理由が一つあります。また、そういう説教者をお招きできたとしても、その翌週には私がいつものような説教をするわけですから、その説教者の名前を看板代わりに人をお誘いするのも気が引けるという理由もあります。それでも、特別伝道礼拝の日は、私なりに普段とは違うアプローチで御言を語るので、普段の礼拝とは多少違う感じにはなります。何故、そういう特別な礼拝を持つのかと言えば、それは家族や友人にキリストを伝えたいからです。普段の礼拝は、どちらかと言えば、キリストを信じている私たちキリスト者が共に御言を聴くことを主眼としています。しかし、特別伝道礼拝においては、私が皆さんを代表して、未信者の方たちにキリストを宣べ伝えることを主眼とする礼拝を捧げることになります。既に、ご家族や友人に声をかけて下さっている方もおられます。どういう方をお誘いになったかは、伝道委員会が用意した用紙に書いてボックスに入れておいて頂くと有難いです。祈りの課題とします。

 呼びかける方がいるのか?

 先日、ある方とお話しをしていると、大学生の娘さんのことが話題になりました。その娘さんは、「自分は神様を一つに決めたくはない」と言っているということでした。これは、私のように、牧師家庭に生まれ育った人間にもよく分かることです。
 親は、どういう訳か、キリスト教の神を唯一の神と信じて拝んでいる。それはそれでよい。しかし、自分はそういう狭い世界に閉じこもりたくはない。世に宗教は数多あるし、宗教になど帰依しなくともちゃんとした人間として生きて行く道は幾らでもある。何故、唯一の神とやらを信じ、その神に従って歩まねばならぬのかが分からない。大学生の娘さんは、そう思っていらっしゃるということでしょう。
 キリスト者や牧師の家庭に育つ子どもの多くはそういう疑問を抱えますし、親の信仰を理解はしても、伝道は拒絶するものだと思います。自分で信じていればよいことを、なぜ、子どもにまで押しつけるのか分からない。私は、そういう思いを持つ牧師の子として育ち、今、自分の子にそういう思いを持たせる牧師をしているので、その矛盾はどうにもなりません。この教会のある方は、同じ境遇で生まれ育ったのに、同じ立場にならずに「助かった」とおっしゃっています。しかし、キリストを子どもたちに伝えたいと願って生きていることにおいては、同じ立場であることも否定しようがありませんから、お互いに慰め、励まし合いつつ伝道に励んでいます。
 それはとにかくとして、そういう娘さんに対して、その方はこう言ったというのです。
 「今、あなたは健康も恵まれているし、何でも好きなことが出来るから、そんなことを言っていられる。だけど、自分ではどうすることもできない逆境に追い詰められた時に、あなたは誰を呼ぶの?必死になって呼ぶことが出来る方がいるの?そのことをよく考えてちょうだい。」
 この言葉は、私の心の中に非常に強い印象を残しました。私はその時、「何事も神様の時が来ないと、どうにもならないから、その時を待ちましょう」と言いました。
 私が初めて「神」というものの存在とか、自分にとっての必要性を切実に考え始めたのは十六才の時です。ひょっとしたら自分は誰にも知られない形で死んでしまうかもしれないという経験をした時に、自分には呼びかける神がいないと気付いたからです。十六歳の時のことです。それ以来、魂の奥底から「神様!」と呼べる対象を見つけて、その神様との関係を持てない限り、自分の人生など、川の流れに浮かんでは消える泡のようなものだという思いを強く持ちました。その結果、主イエス・キリストと出会い、信じ、そのキリストを誰彼構わず伝えたいと願い、そのために生きる人間になってしまったのです。私にとっての問題も、魂の奥底で呼びかける方がいるか?なのです。

 罪と悔い改め

 今日の詩編六編は、古来「七つの悔い改めの詩編」の一つとされています。しかし、悔い改めの詩編の一つである三十二編の冒頭には「いかに幸いなことでしょう。背きを赦され、罪を覆っていただいた者は」という言葉がありますが、この六編には、「罪」とか「背き」、そして「赦し」という言葉はありません。しかし、伝統的に「悔い改めの詩編」と言われてきました。
 最近のルカ福音書の説教の中で、迷子の羊や放蕩息子の譬話を取り上げました。その譬話の主題は人間の罪と神様による赦しです。そして、そこにおける「罪」とは、神様から離れしまっていることです。お互いに見えないほどに離れてしまっている。神様にとっては、いないも同然になっている。そして、迷子の羊も弟息子も、もう羊飼いが見えない、いないも同然になっている。そういう状態、恐ろしく惨めな不安な状態。そういう状態が、罪の本質なのです。禁断の木の実を食べたアダムが、神様から「あなたはどこにいるのか」と問われたことも、罪の本質を描いていると思います。弟息子は、もう「父よ」と呼べない。それが罪の結果なのです。でも、帰るとしたら父の許にしかない。そう思って帰っていった。それが彼にとっての悔い改めです。そして、父が家から飛び出して彼を抱きしめて、迎え入れて下さる。それが、神様の赦しです。
 この詩編六編も、やはりそういう悔い改めの詩であることは明らかだと思います。彼は、もう身も世もないほどの勢いで「主よ、主よ、主よ、主よ、主よ」と呼び続けています。彼は、この方を呼ぶ以外にないのです。他の神々など、彼にはいない。主(ヤハウェ)なる神様、ただこの神様だけが彼にとっては唯一の神様であり、この神様だけが頼りなのです。この方に怒られ、責められ、懲らしめられても、この方の憐れみに縋り、慈しみを頼って、泣き叫ぶしかないのです。憐れんでください、救って下さい。いつまで怒り続けるのですか、私の方を振り向いて下さい。帰って来て下さい。お願いします。こう叫んでいる。

 幼子のように

 聖書は礼拝で朗読されるものですから、ある程度の格調高さが必要です。しかし、実際にはここにあるような丁寧な言葉ではなく、まさに泣き叫んでいるのだと思います。私はこの詩編を何度か読み返すうちに、一月ほど前のことを思い出しました。
 中渋谷教会の牧師室は道路側の二階にあります。サッシの窓が古いせいか、周りがビルだらけで音が反響するせいか知りませんが、窓を閉めていても、道路の話し声がよく聞こえます。ある時、小さな女の子の泣き声がもの凄い勢いで聞こえて来ました。私は子どもの大きな声の泣き声が非常に苦手なのです。甲高い泣き声を聞くと、無性に腹が立ったり、可哀そうになったりしてじっとしていられなくなります。その時もそうでした。だから、早く泣きやまないかと思って、近くにいるであろう親に期待して我慢していました。でも、その女の子は、とにかく「パパ、駄目、嫌だ」という三つの言葉を大声で叫び続けるのです。
 私は我慢が出来なくなって、そっと窓を開けて道路の様子を見ました。すると、南国酒家の方から若いお父さんがゆっくりと歩いて来るのです。その五メートル後ろくらいから、小さな女の子が、その小さな体のどこからあんな声が出るのかと思う位の大きな声で、「パパ、駄目、嫌だ」と連呼しながらとぼとぼ歩いて来る。私はその声を何とかしてほしいという思いと、その子があまりに可哀そうに思えて悲しくなり、その両方の思いで、ほとんど泣き出しそうになったのですが、黙って窓の隙間から様子を見ていました。すると、教会のまん前で悔い改めたわけではないでしょうけれど、お父さんは後ろを振り返って、女の子の方を見てしゃがみました。すると女の子は、まだ「パパ、駄目、嫌だ」と連呼しつつ、とぼとぼと歩いて来て、ようやくお父さんの所まで来ました。お父さんは、ゆっくりと両手を差し出して、女の子を抱きしめました。すると、その子は静かになりました。お父さんは、その子を抱き上げて、ゆっくり歩き始めました。女の子は、何も言わず、ただ黙ってお父さんの首を抱いていました。
 あの凄まじい泣き声から解放された喜びと、女の子の気持ちと、父親の気持ちと、色々なことが重なって、私はまたもや泣き出しそうでしたが、色々と想像しました。
 「パパ、駄目、嫌だ」という言葉は、何を意味していたのだろうかと思いました。最初は、お父さんに何かを買って欲しいとか、何かを願ったのではないかと思います。でも、お父さんは、それは駄目だと言った。でも子どもは納得しない。そこで、駄目だと言ったお父さんを駄目だ、買わなきゃ駄目、買ってくれなければ嫌だと言い始めた。そうしたら、お父さんは、「そんなことを言うなら、勝手にしなさい」と言って、歩く速度を少し速めた。まだ二歳前後の子にしてみれば、あっと言う間に五メートル十メートルと開いてしまいます。そこでさらにパニックになった女の子は、それまで以上に大きな声で、そして泣きながら「パパ、駄目、嫌だ」と叫び始めたのではないか。でも、その時の言葉は、当初の意味とは変わって来ているのではないか。
 最初は、「パパ、買ってくれなくちゃ駄目、嫌だ」と言っていたのが、今は、「パパ、私を置いて行っちゃ駄目、嫌だ」ということになっていると思うのです。さっきまで欲しくてたまらなかったものなどもうどうでもよくて、どんどん離れて行ってしまうお父さん、教会の前の角をパン屋のパリジャンの方に曲がったらもう姿が見えなくなってしまうお父さんを追い求めて必死なのです。何とかして、お父さんに立ち止まってもらいたい、振り返ってもらいたい、しゃがんで抱きしめて貰いたい、いつものように抱き上げて貰いたい、もうそれだけでいい。そういう切実な思いがそこにはあると思います。そして、それは親の愛だけが頼りの子どもだけが持つ思いでしょう。
 私たち大人は、こんなに願っても買ってくれないなら、買ってくれそうな他の金持ちのおじさんを探そうと思うかもしれません。自分の思い通りにならないパパを見捨て、思い通りになるおじさんに替えちゃうのです。でも、幼子が本当に欲しいものはお金で買える物ではありません。他の何ものにも替えることが出来ない唯一の親の愛です。世界にたった一人しかいない親の愛です。その親しか与えることが出来ない愛なのです。だから、パパを呼ぶ。必死になってパパを呼ぶ。
 窓の下で起こったごく日常的な出来事の中には、そういう深淵にして本質的な問題が隠されているのだと思いました。私は窓を閉めた後、凄い映画を観た後のような気持ちになりました。

 詩人の叫び

 そして、先週詩編六編を繰り返し読みながら、あの時の情景がまざまざと心に甦って来たのです。この詩も、必死の叫びだと思います。怒る父に向って、幼子が必死に「駄目、嫌」って叫ぶのと同じです。「もう怒らないでください、赦してください、頼れるのはあなたしかいないのですから。このままあなたが離れて行ってしまって見えなくなり、おいて行かれると思ったら、私の骨も魂も恐れおののきのなかに消え去るだけです。このまま死んでしまえば、もうあなたの名を呼ぶこともできないし、ありがとうって感謝を捧げることも出来ません。そんなのは絶対に嫌です。主よ、私の方を振り返って、立ち帰ってください。そうして下されば、私の魂は救われます。あなたの慈しみだけが、私の頼りなのです・・。」そういう叫びです。
 幼子はそのように叫びながら、父への切実な愛と信頼を告白しているのです。この六編の詠い手も同じです。「私が魂の奥底から呼べるのは、あなたしかいないのです。主よ、私の声を聴いて下さい。振り向いて下さい。私の所に帰って来て下さい」と叫びながら、唯一の主に対する信仰と愛を告白しているのです。そして、その目は涙でかすみ、声も枯れている。
 彼の周りには、彼の苦しみを見てあざ笑う者がいたのかもしれません。詩編三編にあったように、「彼に神の救いなどあるものか」と言う者たちがいたのかもしれない。病か怪我か分かりませんが、何らかの意味で身体的な癒しを切実に必要としているのに、その苦しみに加えて、嘲る者たちの声に精神的にも苦しめられ、嘆き疲れているのです。
 そういう日々が何日何週間、あるいは何カ月何年続いたか分かりません。しかし、ある時以降、彼の口からこういう言葉が出るようになりました。

 主は聞いて下さった

悪を行う者よ、皆わたしを離れよ。
主はわたしの泣く声を聞き
主はわたしの嘆きを聞き
主はわたしの祈りを受け入れてくださる。
敵は皆、恥に落とされて恐れおののき
たちまち退いて、恥に落とされる。


 「主よ、主よ、主よ」と幼子のように呼んでいた詠い手が、ここではまるで変わっています。「悪を行う者」たちに苦しめられ、毎晩床の上で泣き続けていたのに、今は、「皆わたしを離れよ」と命令をしているのです。何故か?

「主はわたしの泣く声を聞き、
主はわたしの嘆きを聞き、
主はわたしの祈りを受け入れてくださる。」


 こういう訳だと、全部、これから起こることのような印象を受けます。でも、原文では、続けて出てくる「聞き」という言葉は完了形です。「主はわたしの泣く声を聞いて下さった。主はわたしの嘆きを聞いて下さった」です。苦難のどん底に落ちて、そこに神様の怒りがあることを知った時、彼は必死に叫びました。「主よ、主よ」と叫んだのです。その時、主が彼の声を聞いてくれているのか、聞こえているのか、彼には分からなかったのです。だから、幼い子のようにますます大きな声で叫んだでしょう。必死で祈った。そうやって叫び続けるうちに、次第に本質が見えてくる場合があります。最初は物を買って欲しさに叫んでいても、最後は父が振り向き抱いてくれれば何もいらないと分かって来るように。

 生きること 死ぬこと

 読み込み過ぎかもしれませんが、彼は当初、怒らないで下さい、懲らしめないで下さいと願い、癒して下さいと願っています。「骨」「魂」が共に「恐れおののいている」からです。そこには、何らかの意味で肉体的な病や障碍の癒しを求める祈りがあるでしょう。しかし、五節以下で彼が主に求めているのは、主が帰って来ることです。そして、「魂の助け」です。「いつまでも変わることのない神様の契約の愛、『慈しみ』の中に自分を置いて下さい。それが私の『救い』です。」そういうことを願うようになっている。
 死の国、陰府に行ってしまえば、もう主の名を呼ぶこともできないし、感謝することも、賛美することもできません。彼にとっては、それがまさに死ぬということなのです。生きるとは、主を賛美するためにあるのです。主の名を呼んで、主を賛美すること、それが彼にとっては生きるということです。食べたり飲んだり、様々な欲望を満たし、自己実現することや、社会貢献することが生きることではないのです。主の名を呼んで感謝と賛美を捧げることが生きることであり、それが出来ないことが死なのです。そして、その死こそが彼にとっては最も恐ろしい現実です。

 賛美に生きる

 詩編は全部で一五〇編ありますが、最後の方はひたすらに主を賛美する歌が続きます。そして、第一五〇編は、こういう書き出しです。

「ハレルヤ
聖所で、      神を賛美せよ
大空の砦で     神を賛美せよ
力強い御業のゆえに 神を賛美せよ」


 そして、最後の言葉は、こういうものです。

「息ある者はこぞって 主を賛美せよ 
ハレルヤ」


 生きている者はすべて主を賛美しよう。それが生きるということなのです。そこに喜びがある。その信仰の喜びが奪われること、それが最も恐ろしいことなのです。そして、彼にとって肉体の死は、その喜びを奪い取るものであるが故に恐ろしいものなのです。その恐怖、魂の恐れおののきを、彼は率直に主に打ち明けました。泣きながら打ち明けた。来る日も来る日も。死の恐怖を前にして。そして、ある時、その「泣く声」「嘆き」を主が聞いて下さったことが分かった。
 これは愛と信仰の世界です。親子であれ夫婦であれ恋人であれ、互いに愛し合っていることが分かる時があります。その言葉が、深い所で通じあっていることが分かる時がある。他人には分からずとも、当人同士の間では言葉が霊と共に通じあっていることがあります。
 彼は、ある時、そのことを確信できたのです。その時、「主はわたしの祈りを受け入れて下さる」という確信も出来た。主が彼の「祈りを聞き入れて下さった」のではありません。これは未来形なのです。まだ祈りの実現をこの目で見てはいないし、その手にしている訳でもありません。でも、彼はついに、主の変わることのない慈しみの中に自分が置かれていることを確信できました。それ故に、いつの日か必ずやって来る死も、その慈しみの中にあることを確信できたのです。それが信仰による救いの世界だと、私は思います。

 生死・天地を貫く神の愛 主イエス・キリスト

 先週、私はパウロがローマの信徒に向けて書いた手紙を読みました。そこで彼は、こう言っていました。

わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。

   この輝かしい勝利に対する確信もまた、パウロが苦しみ、悲しみの中で、「主よ、主よ、主よ」と叫び続けることによってもたらされたものでしょう。
 今日は、もう一つフィリピの信徒への手紙の中に出てくる彼の言葉を読みたいと思います。それは、当時の教会の賛美であったとも言われますが、こういうものです。

キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。

 主イエスは、真の人として「お父さん、出来ることなら、十字架で死ぬことだけは避けさせてください。お願いします。助けて下さい」と祈られました。「父よ、父よ」と祈り続けたのです。汗を血のように滴らせつつ、夜を徹して祈り続けられたのです。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである」と弟子たちに言いながら。しかし、その弟子たちは、疲れて眠ってしまいました。主イエスは、たった独りで、泣きながら祈られたでしょう。「父よ、父よ」と。そして、最後に「でもお父さんの望みのままになさってください。あなたの御心に従います。それが私の望みです」と祈られたのです。
 そして、神様の望みは、ご自身との交わりを失ってしまった罪人である私たち、神様と離れてしまい迷子になり、もう「父よ」と呼ぶことさえ出来なくなった私たちを救い出すために、罪なき神の独り子が十字架の上で血を流して死ぬことでした。罪に対する神様の怒り、責めを一身に背負って苦しみの極みを味わいつつ死ぬことだったのです。主イエスは、その御心に最後まで従順に従ってくださいました。そのことの故に、神様は御子イエス・キリストを死人の中から復活させ、天に引き上げ、あらゆる名に勝る「主」という名前をお与えになったのです。
 私たちが、心の奥底から呼ぶ方は、この十字架に死に、葬られ、陰府に降り、そこから復活し、天に上げられ、すべての被造物をその支配下に置かれた主イエス・キリストです。この方を、私たちは今も後も、肉体が生きている時も死して後も、地上においても地下においても、天上においてもその名を呼び、感謝と賛美を捧げることが出来るのです。それこそが、神様の憐れみであり、慈しみであり、救いです。
 今日は、その救いを御言だけでなく、聖餐の食卓を通して共に味わうことが出来ます。この食卓に与りつつ、私たちは天上の食卓、天における礼拝をはるかに望み見ることが出来るのです。
 この救いに招き入れられた私たちは、どうして、救い主キリストを宣べ伝えないでいられるでしょうか?一人でも二人でも、主イエス・キリストと出会い、「イエスは主である」と告白して、神様を賛美することが出来ますように、祈りを合わせて特別伝道礼拝に備えてまいりたいと思います。

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