「わたしの神、主よ」

及川 信

       詩編  7編 1節〜18節
 祈りの前提 神の近さ

 月に一回詩編を読み始めて七回目となります。詩編は「祈りの学校」とも言われますが、一編二編は、主を避け所とする人間の幸いが歌われていました。三編以降は、それを受けて「主よ」「神よ」と呼びかけ、苦しみからの救って下さいと懇願する詩が続きます。詩編七編も「わたしの神、主よ、あなたを避け所とします」という呼びかけの言葉で始まります。
 こういう祈りの言葉を読みつつ感じることは、主の近さです。これらの祈りを残した人々にとって、主なる神様は、諸国の民を裁く、天地の造り主として超越した存在であると同時に、今目の前にいて、自分の言葉を聴いてくれる個人的な神、まさに「わたしの神」と呼ぶことが出来るお方なのです。私は、しばしばその近さに戸惑います。
 しかし、信仰生活とはやはり何と言っても祈りの生活です。それまで人と人の間で語る言葉しか知らなかった者が、神に語る言葉を知るということは決定的なことです。祈りは信仰者の呼吸であるとも言われます。神様と呼吸を合わせて生きることが出来ないとすれば、それはやはり息苦しい生活となり、健康な生活が出来ないことになります。そういう意味で、詩編を読む、暗誦するほどに読み、その祈りを自分の祈りとしていくことは、私たちの信仰生活にとって極めて大切なことだと思います。

 主観的事実と客観的事実

 詩編の詠い手が置かれた具体的な状況はよく分からないことが多いのです。しかし、この七編の場合は、彼を激しく攻撃する者たちがいることはよく分かります。彼には身に覚えがないのに、不正を犯したと訴えられ、このままいけば罪人として裁かれてしまう。命が踏みにじられ、誉れが塵に伏させられてしまう。社会的には再起不能な前科者とされてしまう。そういう危機的状況があるのです。しかし、それはすべて彼の目から見た状況であることも事実です。彼を責め立てる敵から見れば、彼こそまさに不正を犯し、仲間に災いをもたらした人間であるのかもしれません。物事はどちらか一方の言葉だけを鵜呑みにして判断すると、とんでもないことがあります。しかしまた、両者の言い分を聞いたからと言って、事の真相が明らかになる訳ではない場合もあります。そこが難しいところです。

 正しい裁き

 詩編七編におけるキーワードは「正しさ」であり、その正しい「裁き」であることはすぐ分かります。「正しい」という言葉を拾い上げて読みます。

「主よ、諸国の民を裁いてください。主よ、裁きを行って宣言して下さい。お前は正しい。とがめるところはないと。」
「心とはらわたを調べる方。神は正しくいます。」
「正しく裁く神、日ごとに憤りを表す神」
「正しくいます主にわたしは感謝をささげ、いと高き神、主の御名をほめ歌います。」


 私たちは毎日様々な事件の報道を見聞きしています。ニュース番組の中で、裁判所の光景を見ない日はないと言ってもよいのではないでしょうか。しかし、殺人事件の大半は密室で起こります。誰も見ていないのです。だから証拠と自白に頼るしかありません。
 今も外国人英語教師を暴行した上で殺害した事件の裁判が行われています。その被告人は「あそこで起こったことは相手と自分しか知らないことだ」と言っていました。しかし、その相手は死んでいるのですから証言を突き合わせることは出来ません。真相はやはり分からないまま何らかの判決が出るのでしょう。

 お天道様が見ている

 最近はあまり言わなくなったかもしれませんが、昔はよく親たちが子どもに向って「お天道様が見ているからね」と言ったように思います。誰も見ていなくともお天道様はちゃんと見ている。善いことも悪いこともちゃんと見ている。そのお天道様に向って恥じない生き方をしなさいという意味だと思います。そして、お天道様に逆らうようなことをすればきっと罰が当たる。そういうことも言っているのでしょう。それは、裁きはお天道様がやってくれるということでもあります。自分が悪いことしているのなら、自分としては正しいと思っていてもやはり自分が裁かれるのだし、人が悪いことをしていれば、その人がどう思っていようとその人が裁かれる。その裁きは、人間がやるようなものとは違う。天の裁きだ。そういう感じが、その言葉の中には含まれていると思います。

 神の裁き

 そして、この詩編の後半まで読んでいくと、「立ち帰らない者に向っては、剣を鋭くし、弓を引き絞って構え、殺戮の武器を備え、炎の矢を射かけられます」と、神様による直接的な裁きに対する期待が語られますが、その直後には、敵たちが罠として掘った穴に「自ら落ち」、彼を陥れるために企てた「災いが頭上に帰り、不法な業が自分の頭にふりかかりますように」という言葉が出て来ます。つまり、悪を企む者は自らの悪によって身を滅ぼしていくことになるのだという期待に変わっていくのです。「そこに神様の正しい裁きがある。その裁きに委ねる。」そういう思いがそこにはあるような気がします。
 彼は最後に、「正しくいます主に私は感謝をささげ、いと高き神、主の御名をほめ歌います」と言って、自分自身を含めてすべての人間を正しく裁く主を賛美しつつその裁きに委ねています。自分自身が気づかぬうちに悪を犯しているのなら、自分の身にも災いが降りかかってくる。そのことをも受け入れ、正しい裁きをする主に委ねているのだと思います。
 問題は、主の正しい裁きです。人間の裁きではありません。人間の裁きは様々な面で不完全であり不十分でしかありません。しかし、そういう裁きであってもこの地上に裁きがなければ秩序は成り立ちませんから、この世がある限り警察も裁判所も必要です。ただ、真に畏れ敬うべきは主の裁きであることは間違いありません。警察も裁判所も間違いを犯しますし、その裁きは人間の行為に対するものであり、人間存在の根本に関わる裁きではないからです。
 詩編七編の詠い手は人に裁きを頼んではいません。まして自分で裁くことをしてはいません。人の裁きが問題なのではなく神の裁きこそが問題だからですし、悪をなす者への報復は自分がすべきことではなく神様がなさることだからです。悪をなす者への報復を自分ですることを通して、自分が相手と同じあるいはさらに悪い悪人になってしまうことが、私たち人間にはしばしばあるからです。悪に対して正しい裁きをしているつもりで、実は自分がさらなる悪に染まっていく。そういうことがあるのです。

 詩編に対する違和感

 私は詩編が大事な書物であることを思いますし、十年前に中渋谷教会に赴任した時も夕礼拝において毎月一回詩編を説教しました。しかし、詩編を読みながら、しばしば違和感を持つことも事実です。どういう所に違和感をもつかと言うと、特に今日のような嘆きの詩編の詠い手の多くが神の御前での自分の正しさを確信しているところです。この七編の詠い手もそうです。自分の正しさを確信しているからこそ、「主よ、わたしの神よ。あなたを避け所とします」と呼びかけることが出来るのだと思います。
 しかし、私自身はそういう確信を持てないのです。行為においても存在の根本においても、自分がそこまで正しいとは思えない。他人と比較してあの人に比べれば正しいとか、この点については私の方が正しいとか、そういうことはしょっちゅう思います。そして、その正しさを人の前で主張する。そういうことはいくらでもあります。しかし、そのように思い主張することを含めて、「自分は正しい、正しいから神様の前で胸を張って生きていける。」そのようには思えません。そして、自分が正しい人間だと思えない時、「主よ、裁きを行って宣言してください。お前は正しい、とがめるところはないと」という言葉に「そうだ!」と共感することは出来ないのです。なんとなく腰が引けます。

 罪の増すところに恵みも増す

 自分の経験として思うことは、聖書にもある通り、やはり蒔いた種は刈り取ることになるということです。自分では正しいこと、善だと思っていても、実際には悪であるものを蒔けば、その種はいつの日か必ず悪しき実を結び、自分がその実を食べねばならないということです。そういう経験が何度もあります。そういう経験を通して、私自身は神様は生きており、すべてを御覧になっており、確かに正しい裁きをなさるお方だとの認識というか信仰を与えられています。神の前に隠れたことはないのです。
 しかし、いつも不思議なのは、そういう経験の一方で私自身は身に余る恵みを頂いているということです。肉の家族が与えられており、さらに主にある家族も与えられている。毎週、こうして皆さんと一緒に神様を礼拝出来る。神の家族としての愛の交わりの中に生かされている。これは否定し得ない現実です。しかし、この幸いな現実は、かつて私が善い種を蒔いた結果ではありません。
 もちろん、善い種を蒔いた結果を刈り取ることもあります。たとえば、ちゃんと勉強したから試験に合格したとか、様々なことに備えていたからよい結果を得ることが出来たとか。そういうことはあります。人に善いことをしたのでお返しをして頂ける。そういうこともある。
 しかし、先ほど私があげたことは、どう考えても私の善行の結果ではありません。特に、今日もこうして礼拝を捧げることが出来るという現実は、私の行為とは全く関係のない次元で与えられている「恵み」としか言い様がないことです。
 私が犯して来た悪、神様に背く罪、それは数え上げたらきりがありません。しかし、その私が今日もこうして礼拝を捧げており、また御言を取り次ぐ務めを与えられている。神様が悪や罪に対して正しい裁きをお下しになるのであれば、私はとうの昔に教会にその居場所を失っているはずなのです。「お前は正しい。とがめるところはない」と言われるはずもない私が、どうして尚も教会の群れの中にいることが出来るのか?この問いは、多かれ少なかれ、皆さんにも共通する問いなのではないでしょうか。

 神の正しい裁き

 七編の詠い手にとっては、主は正しくいます神であることが前提です。正義を貫徹する神だということです。その正義の裁きがないのであればやっていられないのです。しかし、聖書を読んでいて、不思議に思うことは、神様の正義のあり様です。
 たとえば、最初の人類アダムに対して、神様は「この木の実を食べてはならない。食べると必ず死ぬ」とおっしゃいました。しかし、アダムは食べました。でも、アダムもエバもエデンの園からは追放されましたが、肉体という意味では死にませんでした。そして、彼らの子孫は生き永らえていくのです。そこに何があるのかについて今詳しく述べることはしませんが、少なくとも神様は背きの罪に対して自動的に裁きを下すことはなさっていないのです。
 アダムとエバの最初の子カインは弟アベルを殺しました。最初の人類の最初の子は殺人者なのです。殺人に対する処罰は、神様が定めた律法によれば死刑です。しかし、その殺人を犯したカインを、神様は叱責し、その地から追放されました。でも彼の命は神によって保護され、彼の子孫も別の場所で生き永らえていったのです。
 また、ソドムという罪にまみれた町を滅ぼすために出かけていく主の使いに向かって、アブラハムは、「正しい者と悪い者を一緒に滅ぼすことが神の正義なのか」と問いかけました。そして「全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか」「十人の正しい者がいるなら、その十人のために町全体を赦すべきだ」とまで言うのです。
 私たちが通常考える正義は、悪い者を裁き、正しい者を救うということでしょう。しかし、アブラハムが考える神の正義は、正しい者の故に悪い者を赦すということです。そのような裁きをこの世の裁判所がしたら、国中が無法地帯になるしかないでしょう。
 しかし、神様は、「その十人のためにわたしは滅ぼさない」とおっしゃるのです。現実にはその十人もおらず、アブラハムの親戚のロトとその家族だけが救出されるだけでした。しかし、この問答に現れる神様の「正しい裁き」は、私たちが考える「正しい裁き」とは正反対であることは変わりありません。

 誰が信じ得ようか

 その点で、イザヤ書五三章はやはり特筆すべきものであると思います。それは「苦難の僕の歌」と呼ばれます。冒頭の言葉はこういうものです。

「わたしたちの聞いたことを、誰が信じ得ようか。」

 以後語られることは、まさに俄かには信じ難い言葉です。それは、神に遣わされた僕が、イスラエルの「民の背きの故に」神の手によって裁かれ「命ある者の地から断たれる」ということなのですから。そして、この僕の歌は、こういう言葉で終わります。

わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために
彼らの罪を自ら負った。
・・・・・
多くの人の過ちを担い
背いた者のために執り成しをしたのは
この人であった。


 このイザヤ書五三章は、「旧約聖書の中の福音書」とも呼ばれます。たしかに、初代キリスト教会は、この僕こそイエス・キリストを預言したものだと受け止めたのです。ここに記されていることは、「神の正しい裁き」とは、罪のない者に多くの人の罪を背負わせ、その人を裁くことによって罪人を赦す所に現れるというものです。

 本当にこの人は正しい人だった

 私たちは今、月に三回はルカ福音書を読みつつ礼拝を捧げています。そのルカ福音書の十字架の場面は、マタイやマルコとはかなり違います。
 十字架とは犯罪者に対する処刑のことです。この者を殺さないとこの世の秩序が壊れると判断された者が、法の正義のもとに処刑されるのです。集団リンチによる殺人ではなく、密室の殺人でもありません。法的裁きの結果としての処刑です。主イエスは、ユダヤ人からもローマ人からも死に値する犯罪者、また罪人として処刑されたのです。「命ある者の地から断たれた」のです。
 その時、罪人として処刑されている主イエスは、神様に向って、「わたしの神、主よ。わたしは無実です。彼らに復讐して下さい。この冤罪を晴らして下さい。今すぐ、わたしを十字架から降ろして下さい」と祈ったかと言えば、そうではないのです。ルカ福音書によると、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と祈られたのです。
 この祈りを聞いて、隣に磔にされていた犯罪者の一人が、自分の罪を認め自分の罪に対する処罰を当然のものとして受け止めつつ、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言ったのです。つまり、罪の赦しと救いを懇願したのです。
 主イエスはこうお答えになりました。
「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」
 世の人々からは死すべき罪人として裁かれ、処刑されている人間の罪を、同じく十字架に磔にされている罪人の主イエスが赦し、救うと宣言されたのです。それは人の世における正しい裁きとは真っ向から対立するものです。
 性的暴行をされた上に殺された女性の遺族にしてみれば、犯人は法に基づいて死刑に処せられて当然と思う他にないでしょう。私たちの多くも、やりきれない思いを抱えつつそう思う。そしてそれは単に被告人の肉体の命が断たれるべきだというだけではなく、地獄に堕ちろという思いです。それこそが人でなしに対する神の正しい裁きだと思う。
 しかし、主イエスはそれがどんな罪であれ己が罪を心底悔い改め、赦しと救いを求める者にはパラダイスを約束されるのです。だからこそ、主イエスは殺されたとも言えるのです。こんなことは社会の規範の外のことだし、逆のことであり、人の世に放置しておくことは出来ないのです。しかし、そのようにして殺されて死ぬ方だからこそ、罪人に対する赦しの宣言をすることが出来るのです。この方以外に、そんなことを言える方はいません。そして、実は人間は、自分たちで罪人して処刑したその方の祈りによって赦され、救われ、神の国に招き入れられるのです。
 主イエスを十字架に磔にしたローマの百人隊長は、これらすべての言葉を聞き、主イエスが「父よ、わたしの霊を御手に委ねます」と言いつつ息を引き取られたのを見て、「『本当にこの人は正しい人だった』と言って、神を賛美した」のです。

 神の義 信仰による義

 ここに出てくる「正しい」は、もちろん詩編七編に出てくる「正しい」とか「正しさ」と同じ言葉です。神様の正しさとは、あくまでも罪人の罪を裁く正しさです。しかし、その正しい裁きは、罪人の罪を自らに負った方に向うのです。罪なき正しい者に、私たち罪人のすべての罪を背負わせて裁くことを通して罪人を完全に裁かれたのです。詩編の詠い手は、もちろんそのような正しい裁きがあることを知りません。私たちは、神様の正しい裁きがどこに現れるか知っています。
 私が卒業した神学校では、最終学年に学長による説教演習を受けます。当時の学長は松永希久夫先生でした。その松永先生が聖書の箇所をいくつか学生たちに振り分け、学生たちは与えられた箇所の説教を作成して提出するのです。何名かは、授業の中でその原稿を読まされて、皆から批評をされます。その聖書個所の一つがローマの信徒への手紙三章二一節以下でした。その箇所について先生が、「ここをどう説教するかでその人の力が分かる」とおっしゃったことを覚えています。たしかに、この言葉は旧約聖書と新約聖書の連続性と断絶が明確に語られているところで、極めて大切な所です。
 すこし飛ばしながらお読みします。

3:21 ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。3:22 すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。・・・3:25 神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。・・・今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。

 「義」とは、詩編に出てくる「正しさ」と同じ言葉です。人間が自分の罪の償いとして捧げるべき供え物を、神ご自身が捧げて下さったのです。そして、その償いの供え物は、なんと御自身の独り子イエス・キリストなのです。罪なき神の独り子イエス・キリストにすべての人間の罪を背負わせ、そのイエス・キリストを十字架で裁かれたのです。そのことによって、裁くべき罪人である私たちを、神様は赦して下さった。ここに正しい裁きは貫徹されるのです。その裁きを抜きに赦しがあるのではありません。この十字架に神の義、神の正しい裁きがあるのだとパウロは宣言します。そして、それは何のための裁きかと言うと、「イエスを信じる者を義となさるため」なのです。

 お前は正しい(義だ)

 私たちはどう頑張っても罪を犯します。信仰を告白し洗礼を受けキリスト者にされて以後も、いやむしろキリスト者にされてからの方がより深刻な罪を犯してしまうのです。私たちは御言を与えられており服従を約束しているのですから、信仰を持たずに自分の欲望と願望に従って生きるべきではありません。しかし、気がつけばそのように生きてしまっています。しかし、その罪は信仰を与えられる以前の罪とは質が違うと言わざるを得ないと思います。かつては、何をしているのか分からぬ罪でしたが、今はある程度は分かった上での罪です。だから、信仰に生き始めてからの方が罪の問題は深刻ですし、悩みも深いのです。
 しかし、信仰とは自己浄化の道を歩むことではありません。自らを律しつつ義に到達すべく努力することではないのです。まして、そのように生きることが出来ない自分や他人を裁きつつ生きることであるはずもありません。信仰とは、イエス・キリストを信じることです。私の罪のために十字架に架かって死んで下さったイエス・キリスト、私を新しく造り替えるために甦り、今も愛と赦しをもって語りかけてくださるイエス・キリストを信じ、主イエスの御前に悔い改めることなのです。イエス・キリストを信じることを神様は求めてくださっており、信じて悔い改める者の罪をいつも新たに赦し、義としてくださるのです。「お前は正しい。とがめるところはない」と宣言してくださるのです。
 そして、毎週の礼拝で私たちが心の底から聴きたい言葉、いや、神様が心の底から私たちに宣言したい言葉は、「お前は正しい。とがめるところはない」という言葉なのです。神様は、私たちの行為の一つ一つを点検して、ここは駄目だがここは良かったとか、そういう採点をしておられるのではありません。神様は、こうおっしゃっているのです。
 「あなたの罪を私は正しく裁いたのだ。そのことを信じなさい。わたしは、ただそのことだけを求める。あなたの罪をわたしの子がすべてその身に負って十字架で死んだ。そのことを信じなさい。そして、わたしはその子を復活させ、聖霊においてあなたの所に遣わしている。そのことを信じなさい。受け入れなさい。その信仰を生きる時、あなたは正しい。義なのだ。なにもとがめることはない。」
 私たちが、心の底から「わたしの神、主よ、あなたを避け所とします。わたしを助け、負い迫る者からわたしを救って下さい」と叫び祈ることが出来る神は、こういう神様なのです。イエス・キリストを通して、この神様と出会えたこと、それが私たちにとっての救いです。この救いを与えてくださった神に、私たちはただ感謝と賛美をもって応答する以外にないのではないでしょうか。
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