「あなたが御心に留めて下さるとは」

及川 信

       詩編  8編 1節〜10節
8:1【指揮者によって。ギティトに/合わせて。賛歌。ダビデの詩。】
8:2 主よ、わたしたちの主よ
あなたの御名は、いかに力強く
全地に満ちていることでしょう。
天に輝くあなたの威光をたたえます
8:3 幼子、乳飲み子の口によって。
あなたは刃向かう者に向かって砦を築き
報復する敵を絶ち滅ぼされます。
8:4 あなたの天を、あなたの指の業を
わたしは仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの。
8:5 そのあなたが御心に留めてくださるとは
人間は何ものなのでしょう。
人の子は何ものなのでしょう
あなたが顧みてくださるとは。
8:6 神に僅かに劣るものとして人を造り
なお、栄光と威光を冠としていただかせ
8:7 御手によって造られたものをすべて治めるように
その足もとに置かれました。
8:8 羊も牛も、野の獣も
8:9 空の鳥、海の魚、海路を渡るものも。
8:10 主よ、わたしたちの主よ
あなたの御名は、いかに力強く
全地に満ちていることでしょう。


 讃美の詩

 月に一回詩編を読み進めて今日で八回目となります。三編から七編は苦難の中で主に救いを求める歌でした。しかし、詩編七編は「正しくいます主にわたしは感謝をささげ、いと高き神、主の御名をほめ歌います」という言葉で終わっています。それを受ける形で八編は「主よ、わたしたちの主よ、あなたの御名は、いかに力強く、全地に満ちていることでしょう」という讃美から始まっています。
 この詩編八編は、昨日結婚式を挙げたHY子さんにとって忘れ難いものであることは、先週発行された会報に記されています。また五節の「人の子はなにものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは」という言葉は七月の聖句として一カ月間、教会の玄関に掲示しました。

 太陽 月 星

 今日は八月七日です。そこには「月」と「日」という漢字が使われます。昔の人々は月との関係で暦を作りましたし、今は太陽との関係で決めています。人間は空を見上げつつ宇宙の広大さや永遠性を思い、人間の小ささや儚さを思って来ました。そして、規則正しく運行する太陽や月また無数に輝く星を神のように崇め、人間の運命を司るのは星であるとも考えて来ました。今でも星占いに基づく運勢占いは、多くの人々の心をつかんでいます。願い事は星にするとか、誰かが死ぬと天の星になったとか、色々なことを言います。
 古代の神話の世界では
 太陽や月や星は神々として重要な役割を果たしますし、それが国家における王権と結びついている場合も少なくありません。そこにおいては、支配者である王は、天に輝く神々の「栄光と威光を冠として頂いている」唯一の存在です。
 この詩編八編も、一見するとそれらの神話と同じように見えなくもありません。しかし、決定的に違うのです。この詩の詠い手は、まず主なる神の御名が全地に満ちていることを称えます。まず地上にこそ神の御名、つまり神ご自身の栄光と威光が満ちていると言っているのです。それは、この地にあるすべてのものが神がお造りになったもの、被造物だからです。その上で、天に輝く威光を称える。月や星の輝きと規則正しい運行を見て称えているのです。しかしそれは、月や星を神として「お星様」「お月様」と崇めているのではありません。それらのものは、彼にとっては、神の「指の業」であり、神に造られた被造物として、配置されたものなのです。被造物の素晴らしさを称えることを通してそれらを造った神を称えているのであり、被造物を神として称えているのではありません。それが古代の神話との決定的な違いの一つです。
 もう一つ決定的に違うことがあります。古代の神話において天の神々の栄光と威光を体現するのは王様ただ一人です。王こそが天の栄光の現れとして地上に君臨し、その名を全地にとどろかせるべき存在なのです。それ以外の人間は王の奴隷に過ぎません。栄光や威光とは無縁の存在です。そのことによって王の支配体制が確立します。しかし、聖書においては、王も庶民も変わりなく「人」が、神の栄光と威光を冠として頂いていると言われます。

 人間 人の子

 五節に「人間」また「人の子」と出て来ますが、「人間」はエノシュという言葉で儚い存在を表すと言われます。「人の子」はアダムの子と書かれており、それは塵から造られて塵に帰る存在ということであり、それは罪人であることを暗示していると思います。日本的な情緒で言えば、 人間とは川面に浮かんでは消える泡のように儚い人生を生きる存在なのです。しかし、その人間がなぜに神の御心に留められ、顧みを受け、神に僅かに劣る栄光と威光の冠を被せられ、野の獣、空の鳥、海の魚という神の被造物を治める権能を授けられているのか?!そのギャップの大きさを前にして言葉も出ない。言葉に出すとしても、幼子、乳飲み子のようにたどたどしい言葉でただ讃美する以外にはない。そういう驚きに満ちた思いがここにはあります。

 神秘

 私たちは、私たち人間には分からないことを神秘と言います。つまり、神の秘密です。その神秘は、私たち人間の側の探究によっては決して分からないものです。しかし、ある時フッと神様がほんの少し窓を開けてくださる時、そこから放たれる神秘の光で私たちが刺し貫かれることがあります。そのことを私たちは「啓示」と言います。その啓示を受けた時の驚嘆、感嘆、讃美、そういうものがここにはあると思います。
 神秘と言って、私たちが思い浮かべることの一つは宇宙ではないでしょうか。私たちにとっては、地球のことだってまだまだ分からないことだらけで、明日の天気の予報も外れることはあるし、地震の予知など夢のまた夢です。深い海の底のことなどほとんど分からないし、その海底の下に何があるのかはさらに分からない。最も近い星である月のことなど表面の姿を映像で見ることが出来る程度であり、まして他の星のことなどほとんど知りません。その星が無数にある銀河系、さらに大きな巨大空間である宇宙の発生のメカニズムも分からなければ、今後どうなるかも分からない。今も世界中の学者たちが探究を続けています。
 また、しばしば人体は宇宙に例えられます。つまり、小さな人間の体一つとっても広大な宇宙と同じように分からないことだらけなのです。さらに脳も宇宙に例えられる。脳の働きの解明も、まだ端緒についたばかりです。
 さらに分からないことは、そういう宇宙や人間の存在の意味です。何のために宇宙は存在し、また人間は生きているのか。こう言ったこともまた神秘のベールに包まれており、人は誰でもそういう神秘的な問題、つまり根源的な問題を考えるものだと思います。幼い頃、布団の中で、宇宙の闇の中に吸い込まれていくような感覚を抱いたり、自分は宇宙の中でたったひとりだと思ったり、生きることや死ぬことの意味の不可解さに困惑したりすることは、誰でもあるのではないでしょうか?その問題を考え続けるかどうかは、人それぞれだと思いますが。

 美 讃美

 この詩を読みながら、私の父がよく言っていたことを思い出しました。父は、乳飲み子に乳房を含ませる母親と乳飲み子の姿にこそ宇宙の神秘は現れていると言っていました。父の言うことは何であれ否定していた私も、その言葉にはどこか頷く所がありましたし、今は深く同意します。
 乳飲み子は、自分の身を母の腕に委ねています。落とされないようにどこかを掴んでいるわけではありません。全く安心してすっぽりとその腕の中に入っています。そしてお乳を無心に飲んでいる。乳飲み子は、その母の肉体から出てくるお乳を飲むことで生きているのです。しかし、それよりも深く、母の優しさ、子どもを目の中に入れても痛くないほどに愛する愛を全身で受け止めつつ生きているのです。母もまた、乳飲み子の愛と信頼を受けて、自分以外にこの子を守る者はいない、自分が生きるのはこの子のためなのだという喜びをもって生きている。母と子が、そのように全身全霊を傾ける愛によって生きている姿の中に宇宙の神秘、命の神秘がある。多分、父はそういうことを言っていたのだと思います。そして、その神秘はなによりも美しいものであり、思わず讃美したくなるものです。そこには愛があるからです。

 なぜ?

 詩編八編を詠った人は、天地に満ちている創造主なる神の威光を見つつその偉大さに心を打たれ、圧倒されたのでしょう。それは多くの人々が感じる感慨でもあります。そういう感慨から生まれる創造賛歌もたくさんあります。
 しかし、この人が啓示されたことはそれとは別のことだと思います。彼は、天地万物をお造りになった神様の栄光と威光を讃美しつつ、その神が僅か数十年地上を這いつくばって生きるだけの人間、塵から出て塵に帰るしかない人間、生きている間にやることは愚かな失敗の繰り返しであり、さらに神に背く罪を犯してしまう人間を、なぜ御心に留めてくださるのか?儚いエノシュとしての人間、罪を犯してエデンの園を追放されたアダムの子としての人間をなぜ顧みてくださるのか?そして、なぜこんな愚かにして罪深い人間に、ご自身が造られた他の被造物を支配する権能をお授けになったのか?それはいくら考えても分からない神秘なのです。

 罪の現実

 福島第一原発事故の放射能汚染地域はどこまで広がるのか分かりませんし、いつまでも続くのかも分かりません。また、それが今後どのような影響をもたらすのかも分かりません。私たち人間は自ら作り出したもので自らの首を絞めることをしばしばします。その最たるものが原子力だろうと思います。六五年前に落とされた原子爆弾による放射能汚染で苦しむ人々は今もいます。現在の原発事故による放射能汚染はその地域にいる多くの人々に止まらず、牛や豚、野の獣に及び、また沿岸の魚や深海に住む魚、さらに海流に乗って動く魚にも及んでいます。汚染地域を飛び回りえさを食べる鳥もまた同様でしょう。しかし、彼らにはなんの責任はありません。人間のやることの巻き添えにされているだけなのです。
 詩編八編によれば、人間は元来神に僅かに劣るものとして造られました。創世記一章によれば、人間は神に似せられ、神のかたちに象って造られた存在です。そうであるが故に、神の被造物を治めるように、つまりすべての生き物が命の継承が出来るように支配することを任されたのです。それは元来、創造主である神の業です。神はその業を人間に託されたのです。
 しかし、現実の人間は昔も今も目先の利益と己の利益のために邁進するのみで、将来の人間と自然界に生きる動植物、家畜の命をあまりに軽視していると言わざるを得ません。何も分からぬままに放置された牛や犬や猫たちが、小屋の中で、鎖に繋がれたまま、あるいは野原で、何も言えぬままに飢え死にしている様は見るに堪えません。神様の心も痛んでいると思います。私が、あなたたちの上に建てた人間のせいで、あなたたちを本当に大変な目に遭わせてしまった、と。
 もちろん、詩編八編が詠われた紀元前に放射能汚染があるはずもありませんが、人間が愚かな罪人であることに変わりがあるはずもなく、その罪人に治められる動物が悲惨な目に遭うこともまたあったのです。
 詩編の詠い手は、ロマンチックな思いで夜空を見上げているわけではないし、輝く星だけを見て人間の罪の現実から目を逸らしているわけでもありません。彼は、三節にありますように、神に刃向い、報復する敵となる人間の現実を嫌というほど知っているのです。しかし、だからこそそういう人間を御心に留め、顧みてくださる神の思いが分からない。なぜこんな人間をこのようにまで愛し、大いなる権能を授けてくださっているのか?動物にも劣るような愚行を繰り返し、神に背くことを繰り返しているのに・・・。ここにまさに神秘と言う他にないものがあるのです。

 愛から生じる賛美

 その神秘の全貌は分かりません。でも、彼は事実として神様が自分たちのことを御心に留め、顧みて下さることを啓示によって示されており、その愛の中に自分の存在を丸ごと投げ出しているのだと思います。そして、その喜びと感謝が「主よ、わたしたちの主よ、あなたの御名は、いかに力強く、全地に満ちていることでしょう」という讃美となって表れるのだと思います。
 本当の讃美は何処に生まれるかと言えば、愛において生まれるものです。母と乳飲み子の間にある愛はそれ自体が神への讃美なのです。だから最も美しいのです。詩編一〇二編に「神を賛美するために民は創造された」という言葉があります。私は心の底からアーメンと言います。先週も何人かの方に誕生祝いのカードを書きました。その中に、「これからの一年も共に主を賛美しつつ歩みましょう。主を賛美する時にこそ、私たちは最も美しいのですから」と書きました。
 昨日はHYさんとTY子さんの結婚式を執行し、また祝う会を持ちました。愛する伴侶を与えて下さった神様に感謝し、賛美する新郎新婦の姿は美しいものでした。しかし、その前日に二人は会堂、集会室、親子室、外階段のすべてを汗だくになりながら掃除していました。その姿も美しいものでした。また、教会の婦人たちが何人も来て、祝う会のケーキ作りや、会堂や集会室の飾り付けを喜んでしてくださっていました。皆、お二人の結婚を祝福し、お二人を愛するが故のことです。しかし、その底流にあるのは、不思議な御手の導きの中で若い人々に信仰を与え、また結婚まで導いて下さった神様への讃美があると思います。だから、式のために備える二人の姿も、婦人たちの姿も実に美しいものでした。神様の愛を全身で感じて、その愛に感謝し、湧きあがってくる讃美を捧げる時、私たちが造られた時に与えられている本来の美しさが輝くのだと思います。
 そして、絶望的な罪の現実を体験しつつ、主への讃美をささげているこの詩の作者も実に美しいと思います。

 「人間」としてのイエス

 詩編八編は、新約聖書ではヘブライ人への手紙の二章に引用されています。興味深いことに、そこでは「人間」「人の子」はイエス様のこととして解釈されています。イエス様こそ、栄光と栄誉の冠を授けられ、すべてのものをその足の下に従わせる方なのだという解釈です。しかし、その上でこの手紙の書き手はこう続けます。

「すべてのものを彼に従わせられた」と言われている以上、この方に従わないものは何も残っていないはずです。しかし、わたしたちはいまだに、すべてのものがこの方に従っている様子を見ていません。ただ、「天使たちよりも、わずかの間、低い者とされた」イエスが、死の苦しみのゆえに、「栄光と栄誉の冠を授けられた」のを見ています。神の恵みによって、すべての人のために死んでくださったのです。

 おかしな文章です。すべてのものを支配すべき方がまだすべてを支配することが出来ていないと言っているのです。地上の現実はまだ愚かな罪人が権力を持ち、神様が愛してやまない人間同士が殺し合い、動物たちは人間の罪の巻き添えにされている。イエス・キリストの支配が目に見える形で確立しているようには見えない。神様から栄光と栄誉の冠を授けられた王の支配が確立しているようには見えない、と言うのです。それはまさに、リアルな現実認識です。
 しかし、彼は言うのです。栄光と栄誉の冠とは「神の恵みによって、すべての人のために死んでくださった」イエス様に授けられたのだ、と。あの十字架のイエス様に被せられた茨の冠、人々からの嘲りと蔑みの徴であるあの茨の冠、あの冠こそ神の栄光と栄誉を表す冠だというのです。全く無力に人々に殺された惨めなイエス・キリストこそが、実は神の栄光と栄誉の冠を被せられた王だと言うのですから。なんということかと思います。ここにもまた神秘としか言いようがない事態があります。

 御心に留める 顧みる

 今日の箇所で重要な二つの言葉は、「御心に留める」「顧みる」です。ここにすべてが掛かっているのです。「御心に留める」と訳された言葉は、「覚えている」「忘れない」とも訳されますし、「顧みる」は「訪れる」としばしば訳される言葉です。
 私たちは、月に三回はルカ福音書の御言を聴く礼拝を捧げています。そのルカ福音書においては、イエス様がこの世に誕生されることは、神様がイスラエルの民に対する「憐れみをお忘れにならず」(一章五四節)、「聖なる契約を覚えていて下さる」(一章七二節)ことであり、「主がその民を訪れて解放して下さる」(一章六八節)ことなのです。
 神様が人間をその御心に留め、顧みて下さるとは、神様が定めた時に独り子なる神イエス・キリストがこの世を訪れて、すべての罪人の罪の贖いとなるために十字架で死ぬことに行き着くことなのです。その十字架の上で、罪なき神の子が一人の「人間」、「アダムの子」として、罪人のすべての罪を背負い、その罪に対する裁きを受けるのです。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは自分のしていることが分からないのです」と祈り、また、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と断末魔の叫びを上げながら息を引き取られる。その悲惨にして絶望的な姿の中に、実は、神の栄光と栄誉が現れているのだと、聖書は告げるのです。

 十字架と復活の神秘

 パウロは、コリントの信徒への手紙の中でイエス様の十字架の死に関してこう言っています。

「わたしたちが語るのは、隠されていた、神秘としての神の知恵であり、神がわたしたちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたものです。」

 ここに出てくる「わたしたち」とは、まず第一に罪に支配されている罪人のことであり、神の栄光などとは正反対の存在のことです。しかし、神は世界の始まる前からそういう「わたしたち」を御心に留め、顧み、御子イエス・キリストを通して到来して下さったのです。その十字架の死と復活を通して、イエス・キリストを信じる「わたしたち」に栄光を与えて下さった。それは聖霊の導きによって与えられる信仰の中で啓示される神秘です。そして、私たちは今、恵みによって「すべての人のために死んで下さった」イエス様を信じる信仰を与えられており、またすべての人のために甦って下さったイエス様を信じる信仰を与えられています。
 パウロは、十字架の死と復活に関して「神秘」という言葉を使っています。そして、十字架の死と復活を通して罪と死に完全に勝利をしておられるイエス・キリストを信じるとは、神の絶大な愛を信じることに他なりません。その信仰を与えられる時、人は神様の愛に圧倒され、打ち砕かれ、そして幼子、乳飲み子のように讃美する人間になるのです。
 昨日、神様の祝福の内にHYさんと結ばれたY子さんの信仰告白文が会報に掲載されており、多くの方がお読みになったと思います。Y子さんは、その中で詩編八編と出会った時の思いと共に、パウロがローマの信徒に向けて書いた言葉と出会った時の衝撃を語っておられます。告白文の最後をお読みします。

 そして十二月上旬、私は中渋谷教会に導かれ、そこで語られる御言葉に少しずつ心を開かれ礼拝を守ることを覚えました。自分が今まで神様に背き続けていた罪、それにもかかわらず神様は私をずっと愛し続けていてくださっていることに気付きました。神様の大きな愛を、「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」(ローマ信徒への手紙八:三八〜三九)というパウロの言葉から深く感じます。私の罪は、イエス様の十字架の死によってのみ贖われ、その復活によってのみ私は本当の命に与るのだと知るようになりました。神様に背き続けて生きてきたことを知った今、神様を賛美し、神様に感謝し、御心のままに生きていくことを望まずに、これから生きていくことはできません。主イエス・キリストを受け入れた今、私は洗礼によりキリストに結ばれ、中渋谷教会の信徒の群れに加えられ生きてゆくことを望みます。

 罪を犯して来た者を、それでも忘れることなく御心に留め、見捨てることなく訪ねて来て下さり、その絶大な愛を与えて下さる神様がおられるのです。私たちの主イエス・キリストにおける神の愛、それは独り子を見捨てつつ私たちを顧み、独り子を裁きつつ私たちを赦し、独り子を死に渡すことを通して私たちの死を打ち破り、そして主イエスの復活の命に与らせてくださる愛です。その愛によって、私たちは恥と悔恨の冠ではなく栄光と栄誉の冠を被せられ、神の被造物を正しく治める者に造り替えられるのです。どうして讃美しないでいられるでしょうか。
 信仰を与えられている私たちは、これから聖餐の食卓に与ります。私たちのために十字架に死に、復活し、天に挙げられ、来るべき日にその支配を天地に確立される主イエスを讃美するのです。主の栄光と栄誉を讃美するのです。その時、私たちもまた、神に僅かに劣る人間としての栄光と栄誉に与ることが出来る。なんということか、と思います。

「あなたが御心に留めて下さるとは、人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう。あなたが顧みて下さるとは。」

 今日、新たにこの讃美を共々に捧げることが出来ることを心から感謝し、御名を讃美します。
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