「憐れんでください、主よ」

及川 信

       詩編  9編 1節〜21節
                  (10編も)
             9:1 【指揮者によって。ムトラベンに/合わせて。賛歌。ダビデの詩。】
9:2 わたしは心を尽くして主に感謝をささげ/驚くべき御業をすべて語り伝えよう。
9:3 いと高き神よ、わたしは喜び、誇り/御名をほめ歌おう。
9:4 御顔を向けられて敵は退き/倒れて、滅び去った。
9:5 あなたは御座に就き、正しく裁き/わたしの訴えを取り上げて裁いてくださる。
9:6 異邦の民を叱咤し、逆らう者を滅ぼし/その名を世々限りなく消し去られる。
9:7 敵はすべて滅び、永遠の廃虚が残り/あなたに滅ぼされた町々の記憶も消え去った
。 9:8 主は裁きのために御座を固く据え/とこしえに御座に着いておられる。
9:9 御自ら世界を正しく治め/国々の民を公平に裁かれる。
9:10 虐げられている人に/主が砦の塔となってくださるように/苦難の時の砦の塔となってくださるように。
9:11 主よ、御名を知る人はあなたに依り頼む。あなたを尋ね求める人は見捨てられることがない。
9:12 シオンにいます主をほめ歌い/諸国の民に御業を告げ知らせよ。
9:13 主は流された血に心を留めて/それに報いてくださる。貧しい人の叫びをお忘れになることはない。
9:14 憐れんでください、主よ/死の門からわたしを引き上げてくださる方よ。御覧ください/わたしを憎む者がわたしを苦しめているのを。
9:15 おとめシオンの城門で/あなたの賛美をひとつひとつ物語り/御救いに喜び躍ることができますように。
9:16 異邦の民は自ら掘った穴に落ち/隠して張った網に足をとられる。
9:17 主が現れて裁きをされるとき/逆らう者は/自分の手が仕掛けた罠にかかり〔ヒガヨン・セラ
9:18 神に逆らう者、神を忘れる者/異邦の民はことごとく、陰府に退く。
9:19 乏しい人は永遠に忘れられることなく/貧しい人の希望は決して失われない。
9:20 立ち上がってください、主よ。人間が思い上がるのを許さず/御顔を向けて異邦の民を裁いてください。
9:21 主よ、異邦の民を恐れさせ/思い知らせてください/彼らが人間にすぎないことを。〔セラ

 今日は詩編9編の御言に聴きます。ただ私もうっかりしていたのですが、詩編9編は10編と合わさって一つの詩であるとも考えられています。それぞれの表題に「アルファベットによる詩」とありますように、ヘブライ語のアルファベット順に2行目の最初の言葉が出てくるのです。そういう詩が詩編の中にはいくつかあります。ですから、今は詩編9編だけを読みましたが、説教では10編を併せて語りたいと思っています。しかし、合計で39節もある詩を一節ずつ語ることは不可能ですから、普段とは違う形でこの詩の中に入っていきたいと思います。

 敵

 9編だけを読んでも、この詩を残した作者が窮地に立っていることは明らかです。彼には敵がおり、その敵は、「わたしを憎む者」と言われていたり、「異邦の民」「神に逆らう者」と言われています。10編を見ると、彼らは「貪欲であり、主をたたえながら、侮っている」というのです。「高慢で神を求めず、何事も神を無視して企み」「『わたしは揺らぐことなく、代々に幸せで、災いに遭うことはない』と心に思い」、神の「罰などない」と思っている人々です。
 そういう人々の様々な攻撃を受けて苦しめられているのが作者でしょう。そして、その作者と同じ境遇に生きている人々もいるようで、その人々は「虐げられている人」「貧しい人」「乏しい人」と言われ、10編では「不運な人」とも言われています。それらの人々は、恐らく地位が高く金持ちの「神に逆らう者たち」の弾圧や搾取を受けているのです。これは10編11節の言葉ですが、「神はわたしをお忘れになった。御顔を隠し、永久に顧みてくださらない」と心に思うほどにまで追い詰められているのです。そういう人々の心の嘆き、また発せられる声を、この作者は我がものとして、それらの人々を代表して主に訴え叫んでいる。そう言ってよいのではないかと思います。

 主

 それでは、その「主」とは彼にとっていかなる存在なのかは、2節を読むと分かります。

「わたしは心を尽くして主に感謝をささげ、
驚くべき御業を語り伝えよう。」

 主が御顔を向けることで「敵は退き、倒れて、滅び去った」ことがあるのです。作者は、その「主」に対する絶大な信頼を抱いているのです。そして、その「主」は裁きの「御座を堅く据えて、とこしえに御座に着き」「世界を正しく治め、国々の民を公平に裁かれる」お方であり、「流された血を心に留めて、それに報いてくださり」「貧しい人の叫びをお忘れになることはない」方なのです。
 しかし、そうではあっても、貧しい者はその心で「神はわたしをお忘れになった。御顔を隠し、永久に顧みてくださらない」と呻くような現実がある。だからこそ、彼は「憐れんでください」「ご覧ください」「立ち上がってください」「御顔を向けて異邦の民を裁いてください」と懇願するのです。そして、これも10編の言葉ですが、「あなたは必ずご覧になって御手に労苦と悩みをゆだねる人を顧みてくださいます。不運な人はあなたにすべてをおまかせします」と信頼の告白をしています。

神の言葉 人の言葉

 こういう祈りの言葉を読みつつ、皆さんはどんな感想をお持ちになるのでしょうか?「聖書の言葉は神の言葉だ、一点一画信じなければならない、だからすべてのことに同感する・・」なんてことは決してないだろうと思います。もちろん、深い意味でこの祈りの言葉を通して神の言葉を聴き取ることができればそれは幸いだし、詩編が「聖書」に入っているとはそのことを願ってのことだと思います。しかし、詩編の言葉はとにもかくにも人間の言葉なのです。ある人が、あるいはある人々が神様に向けて発した賛美とか訴えとか嘆きの言葉です。その言葉に共感できたり自己同化できたりするとすれば、それは何かしら共通の経験を持っていたり、想像力が豊かであったりする場合だと思います。私自身は経験の点でも想像力の点でもこの詩編に共感したり自己同化することが難しいな、というのが第一印象です。しかし、それは福音書の病の癒しや悪霊追放などの記事にしても同じことであり、第一印象だけで終わってしまえば聖書の大半は自分とは無関係なことが語られていることになってしまいます。しかし、そんなことがあるはずもありません。聖書がそういうものであるなら、二千年以上も読まれ続けているはずもありません。そこで気を取り直してまた読む。そういうことを繰り返していくうちに、次第に自分に引き付けて読める部分が出てくることがあります。

 個別と普遍

 詩編は、イスラエルの長い歴史経験の中で様々な時代に作られた祈りや賛美の集成だと思います。その背後には具体的な歴史的事実があるはずです。2節に出てくる「驚くべき御業」があり、「敵は退き、倒れて、滅び去った」という経験がある。つまり、戦いに勝利した経験がある。もちろん敗戦や滅亡、バビロン捕囚という惨めな経験が背景にある詩もいくつもあります。しかし、今日はそういうことに立ち入ることはしないで、普遍的な人間の現実に触れる言葉に注目していきたいと思っています。

 編纂された書

 1月から一つずつ詩編を読んできて気がついたことは、詩編はやはり編纂されたものだということです。つまり、それぞれの詩が何の脈絡もなく150編集められてきたのではなく、やはりある種の基準に従って編纂されたのです。その全貌についてはまだ研究が続いているようですが、しばしば直前の詩に使われていた言葉や発想が出てきます。たとえば、9編の20節21節に「人間が思い上がるのを許さず、御顔を向けて裁いてください」「思い知らせてください、彼らが人間に過ぎないことを」とあります。これなどは8編5節の「そのあなたが御心に留めてくださるとは、人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは」と深い関わりがあるでしょう。意味は逆ですが。
また、16節17節に出てくる「異邦の民は自ら掘った穴に落ち、隠して張った網に足をとられる。・・逆らう者は、自分の手が仕掛けた罠にかかる」という言葉は、7編16節以下の「落とし穴を掘り、深くしています。仕掛けた穴に自分が落ちますように。災いが頭上に帰り、不法な業が自分の頭に降りかかりますように」という言葉を思い起こさせます。こういう言葉で表現されている人間の現実は、実に身近なものだと思います。

神 自然 人

 人間は実に複雑な存在です。自然界の中では圧倒的に偉大な存在です。動物を支配し、植物を支配し、様々な品種改良をしつつ新しい動物や植物を作ります。創世記1章に記されている言葉で言えば、生き物を支配し、地を従わせているのです。詩編8編の言葉で言えば、「神に僅かに劣るものとして」造られ、「栄光と威光の冠を頂き」「御手によって造られたものを治めるようにその足もとに置かれている」存在です。そういう支配者として人間は創造されたと言ってもよいのです。
しかし、その支配は神に服した人間に与えられていることも忘れてはなりません。神を無き者にした人間の支配は、罪に支配された人間の支配であり、それは結局、人間に害悪をもたらしていくのではないでしょうか?支配しているつもりで支配され、自分が仕掛けた罠に自分がかかる。そういうことが、たくさんあります。
 また人間がいかに偉大な存在であろうとも、地殻変動に伴う地震や津波がいつ起こるのかを予測することすら出来ませんから、まして抑えることなど到底出来ないし、台風にしろ日照りにしろ私たちのコントロール外のことです。私たちはその自然の力の前にはなす術もない小さな存在です。そのことを私たちは災害と呼びますけれど、自然の方にしてみれば、「あんたは何様のつもりよ?!」ということでしょう。私たちもまた自然の中の一部に過ぎないのであり、その恩恵と脅威を蒙りつつ生きている存在であり、自然のリズムの中で、自然と共生する道を模索しながら生きていく存在なのです。そういう存在であるということを、私たちは正しく認識していなければいけないのではないでしょうか。
 夜空に輝く星雲を見ることは現代の都会では不可能です。しかし、天を見上げつつ、自分に与えられている偉大さと卑小さを知らねばなりません。「思い上がる」のではなく自分は「人間に過ぎないことを」「思い知らされねばならない」のです。,br>
 神と人 人と人

 今は、自然との関わりを通して人間を考えました。8編はそういう詩です。8編は、神・人・自然を巡る詩です。しかし、9編はそうではなく人間との関わりが問題です。
神と人、人と人との関係が主題です。「神に僅かに劣るもの」として造られたことの意味を深く考えず、その事実を正しく受け止めない時、人は「神に逆らう者」「神を忘れる者」となる他にありません。となるとどうなるかと言えば、10編の言葉ですけれど「自分の欲望を誇り」「貧しい人を責め立て」「不運な人に目を付け、罪のない人をひそかに殺し」ながら、自分たちには「罰などない」「代々に幸せで、災いに遭うことはない」と思うようになるのです。
 アフリカ北部の独裁政権が、この半年余りの間に次々と倒れています。その独裁者の支配中には、ごく一般の市民がほんの少しの疑いで逮捕され拘禁され拷問を受けまた処刑される。財産は没収され、国益はすべて独裁者とその家族や側近のものとして収奪される。そういう現実があったことが明らかにされています。彼らもまた、その心のどこかでは、我々は「代々に幸せで、災いに遭うことはない」と思っていたでしょう。しかし、その一方では耐えざる不安と恐怖を抱えていたとも思います。
そこまであからさまではないにしても、日本でも天災や人災で不利益を蒙るのはやはり弱い立場の人々であり、不運な人、貧しい人であることに変わりはありません。高齢者、病人、障碍者、子どもたち、貧しい人たち、そういう人々が今も将来への不安を抱えたまま住居を離れ、故郷を追われ、不自由な仮設住宅で暮らしたり、親戚の家に身を寄せたりしています。しかし、その一方で、原発事故に責任がある人々の多くは、もちろん様々なことをしているのですが、住まいがあり、仕事があり、収入もあるわけです。突然の事故で仕事や家を奪われた人々にしてみれば、その現実に対して圧倒的な不公平感を抱くのは当然であり、政治家への不信感も相俟って、まさに自分たちは忘れられ見捨てられたと思う他にないと思います。

神を信じればこそ

 この世界には様々な格差があり不公平があります。人が作ったものもあり、そうではなく神が作った、あるいは神が容認しているとしか思えないものもあります。独裁政権のように人が作ったものであっても、それが数十年継続すると、神への信仰を持っている人は、神様がそれを認めているのではないかと疑うことが生じます。信仰があるが故の疑い、それは無信仰の苦しみを上回るものです。信仰がなくても弾圧で苦しむことはあるし、人生の様々な苦しみは当然のことながら経験します。しかし、神の愛とか正義を信じている者にとっては、無信仰でも味わう苦しみに加えて、何故、神は立ち上がって正しい裁きを行って下さらないのか?神は悪を容認しておられるのか?かつては「驚くべき御業をなさった」神は、今は何もする気がないのか?という疑いが加わり、苦しみがより深くなるということがあります。
 だからこの詩の作者は

「憐れんでください、主よ。
死の門からわたしを引き上げてくださる方よ。
御覧ください、わたしを憎む者がわたしを苦しめているのを。」
「立ち上がってください、主よ。
人間が思い上がるのを許さず、
御顔を向けて異邦の民を裁いてください。・・
思い知らせてください、
彼らが人間に過ぎないことを」

と叫ぶのです。
そして、10編14節にはこうあります。

「あなたは必ず労苦と悩みをゆだねる人を
顧みてくださいます。
不運な人はあなたにすべてをおまかせします。」

 カイン

 私は創世記について様々な場所で語ったり、書くことが多い人間です。昨日も市民講座で語り、今は4章のカインとアベルの物語について長い文章を書いています。どの物語を何度読んでも様々なことを考えさせられますが、この詩編を読みつつカインとアベルの物語のことが脳裏に浮かびましたので、少し語らせていただきます。
 多くの方はご承知のことですが、カインとアベルは最初の人類アダムとエバの子どもたちです。カインは兄で農夫であり、アベルは弟で牧羊者です。様々な意味でカインが恵まれた境遇であり強い立場なのです。しかし、ある時、その立場が逆転してしまう。神様がアベルを恵んだのです。物質的な意味でだと思います。家族が増えるとか羊が増えるとか、そういうことが起こったのでしょう。それに対して、カインは不作が続くとか家族が病気で死んでしまうとか、そういうことが起こったのだろうと思います。そのことに対して、カインは当然納得がいきません。アベルがカインを突然見下すとか、虐げるとか、そんなことをした訳ではないでしょう。そういう意味では詩編9編の作者とは全く違う状況です。カインは、それまで上位に立っていた自分が、突然、自分のせいでもないのに下位の立場に立たされたことに怒りを覚えたのです。アベルが出し抜いたわけではないので、アベルに怒りを向けるのはおかしなことなのですが、神に怒りをぶつけることもしないのです。ただひたすら溜め込んでいく。それは人間にとって非常に危険なことです。何らかの形で発散させないと、その怒り、妬みに基づく怒りは人か自分を破滅させる形で表れるからです。  神様は、そういうカインに語りかけるのです。罪が戸口で待ち伏せているぞ、その罪に負けてはならないぞ、と。しかし、彼はその神様にも心を閉ざします。彼の心の内奥には神への不信があり、怒りがあるのです。しかし、それを言葉でもって表明しない。彼は沈黙のうちにアベルを野原に呼び出し、多分、しばらく座り込んで話し込んだのでしょう。しかし、押さえつけてきた怒りが突然爆発し、彼はいきなり立ち上がってアベルを殺してしまうのです。
 これは身につまされる話です。現実に人を殺さなくても憎しみを抱けば殺したのと同じだと、主イエスはおっしゃいます。確かにそうなのです。私たちはそういう憎しみを抱き、心の中で人を抹殺することはしばしばありますし、殺さないまでも罠をかけたり、追い落としたりすることはあるものです。すべてを自分で解決しようとするからです。自分にとって苦しい現実、受け入れがたい現実を、自分の手で解決する。

 信仰の裏にある不信仰

 カインもアベルも、神に献げ物をもって礼拝する人でした。しかし、カインは一度、自分にとって受け入れ難い現実が生じると、神に対して激しい不信を抱き、神に問いかけ、「正しいことをしてください」と訴えるのではなく、自分の手で自分が納得いく現実を作り出そうとしたのです。つまり、表面的には礼拝をしているように見える。しかし、その礼拝の目的はいわゆる神頼みである場合がありますし、もし神様が現世で利益を与えてくださらないのならば、自分の力で何とかしようと思っている。もし不利益を神が与えるなら、その神を捨てて自分の欲望に従う。そういう心が彼の中にはあったのかもしれません。しかし、それは決して珍しいことではなく、私たちもしばしば彼と同じ場合があるのではないでしょう。
そうであれば、それは10編の3節以下の言葉の通りです。

「神に逆らう者は自分の欲望を誇る。
貪欲であり、主をたたえながら、侮っている。
神に逆らう者は高慢で神を求めず
何事も神を無視してたくらむ。」

  しかし、その「たくらみ」は結局、自分に帰ってきてしまう。彼は誰に殺されても仕方のない境遇になってしまうのです。
神は、土の中から叫ぶアベルの血の声を聞く方です。神に在っては「死人に口なし」ではありません。アベルが何を叫んだかは分かりませんが、「主よ、立ち上がってください、正しい裁きを行ってください。このままで良いのですか?」と訴えたのではないでしょうか。
しかし、この物語の驚くべきことは神様の裁きです。神様は、カインをその土地から追放し、彼は地上の放浪者なります。それは事実上の死刑宣告のようなものなのです。殺人者であるカインを殺しても誰も罰せられないのです。この物語の背後にはカインとアベルの部族が想定されているでしょうが、部族は身内の者が不当に殺されれば血の復讐をする権利があります。だからカインはここで初めて神様に命乞いをする。「わたしの罪は重すぎて負いきれません」と。
アベルの血の声を聞いて立ち上がった神様は、カインを追放します。でも、彼が殺されないように徴をつけて守られるのです。アダムとエバをエデンの園から追放しつつ、彼らに皮の衣を着せたように。神様の御心は、神に逆らう者であったとしても、その者の死ではなくその者の立ち返りであり、新たに生きることなのです。

詩編作者の信仰

詩編9・10編の作者の凄いところは、不条理とも言える激しい逆境の中でどこまでも神に信頼し、神の裁きに身を委ねる所です。神が自分たちを見捨てた、忘れた、顧みてくださることはないと心の中で思うような時も、あくまでも神様の正しい裁きを求め続け、その裁きに身を委ねることなのです。そして、神に逆らう者、彼の敵たちが思い上がりを捨てて自分が人間に過ぎないことに気づくことなのです。そして、人が人として生きることなのです。そのために、神に立ち上がって欲しいのだし、そのことが彼にとっての神の正しい裁きなのだと思います。私などには考えもつかないことです。しかし、この作者ですら考えもつかないことを神様はなさったのではないでしょうか。

怒りと悲しみ

私はこれまで基本的に私たち人間の側に立って物事を見つめて語ってきました。しかし、神様の側から見てみると、様相はかなり違うと思います。もちろん、私たちは神様の側に立って物事を見ることが出来ないからこそ人間なのです。想像することは許されているし、また求められているようにも思います。
神様はご自身に逆らう者の罪を誰よりも深く見ておられますし、また強者に虐げられる人々の苦しみも見ておられます。そして、誰よりも深く神様ご自身が怒り、また神様ご自身が悲しんでおられるのだと思います。自然と人間の間も、元来は共に生かし合うように造ったのに、人間の高慢とエゴイズムの故にその関係は敵対的になっていることは神様にとっては怒りと悲しみをもたらすことだと思います。しかし、それよりももっと深い怒りと悲しみをもたらすのは、互いに愛し合うべき存在として造った人間同士が敵対し、奢れる者が己が欲望を誇りつつ富を独占し、殺人を犯していることでしょう。その様を見て、神様がどれほど強い怒りを感じ、どれほど深い悲しみを感じているか、それは私たちの想像を超えることです。

神が立ち上がる時

その神様が、ついに正しい裁きを貫徹するために立ち上がる時が来たのです。個別の現実に対する裁きのためではなく、罪人の罪に対する裁きをするために、神様が立ち上がってくださったのです。その裁きには、深い憐れみがあります。それは罪人を赦し、信じる者を新たに生かすための裁きだからです。それは神様の独り子イエス・キリストを十字架に磔にするという裁きです。イエス様は、人間の罪に対する神様の怒りと悲しみのすべてをその身に負って、あの十字架に磔にされました。しかしそれは、怒りと悲しみを上回る神様の愛をその身に負ってのことなのです。
神様の御心はあくまでも罪人の立ち返り、悔い改めであり、新しい人間として生きることです。その新しい人間を創造する為に、神様は罪なき神の独り子をあの十字架に磔にし、罪人に対する裁きを貫徹されました。そして、イエス様を三日目に死人の中から立ち上がらせてくださったのです。それは、「イエス様こそ救い主、この方を通して真に正しい裁きが行われた」と信じる者に罪の赦しと新しい命を与えてくださるためです。
イエス様は、まさに「主をたたえながら、侮っている」者たちによって罠を仕掛けられ、神に見捨てられる苦しみと悲しみの中に息を引き取られました。しかし、その時も「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と、神様にすべてを委ねつつ、神様の正しい裁きを求められたのです。そして、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは自分がしていることを知らないのです」と祈り、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と全身全霊を父なる神の愛の御手に、その裁きの御手に委ねられたのです。この御子イエス・キリストの十字架の死を通して、神様は私たち罪人を裁いてくださるのです。御子を信じる者の罪を赦し、新しく生かしてくださるのです。
そのことを思う時、私たちはどうして思い上がることが出来ましょうか?私たちは人間に過ぎません。罪人に過ぎないのです。でも、神様はその私たちを顧み、憐れみ、神の子として生かしてくださるのです。
「わたしは心を尽くして主に感謝をささげ、驚くべき御業をすべて語り伝えよう」という作者の言葉は、御子を通して示された救いの御業を信じるすべての者の賛美なのです。今日も新たに心を一つにして、この賛美を捧げたいと願います。
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