「正しくいます主」
11:1 【指揮者によって。ダビデの詩。】主を、わたしは避けどころとしている。どうしてあなたたちはわたしの魂に言うのか/「鳥のように山へ逃れよ。 11:2 見よ、主に逆らう者が弓を張り、弦に矢をつがえ/闇の中から心のまっすぐな人を射ようとしている。 11:3 世の秩序が覆っているのに/主に従う人に何ができようか」と。 11:4 主は聖なる宮にいます。主は天に御座を置かれる。御目は人の子らを見渡し/そのまぶたは人の子らを調べる。 11:5 主は、主に従う人と逆らう者を調べ/不法を愛する者を憎み 11:6 逆らう者に災いの火を降らせ、熱風を送り/燃える硫黄をその杯に注がれる。 11:7 主は正しくいまし、恵みの業を愛し/御顔を心のまっすぐな人に向けてくださる。 鳥 東京の都心では鳥を見ることはあまりなく、見るとしても烏が多いものです。都心の烏は人を恐れませんし、むしろ私の方が烏と目を合わさないように避けて通るほどです。しかし、一般に鳥というものは非常に臆病で絶えず外敵に怯え、少しでも危険を感じればパッと飛び立って逃げるものです。 詩編の中には、何回か鳥が登場します。その中の一つは「あなたの祭壇に、鳥は住みかを作り、つばめは巣をかけて、雛を置いています。万軍の主、わたしの王、わたしの神よ。いかに幸いなことでしょう。あなたの家に住むことができるなら、まして、あなたを賛美することができるなら」(詩編八四編四節〜五節)というものです。か弱くて、そうであるが故に非常に臆病な鳥は安全な所にしか巣を作りません。自分のことも雛のことも自分の力では守ることが出来ないからです。獣が来ることが出来ず、人が射る矢が届かず、網も届かない高い木の枝とか、幹の穴の中とか、そういう所に巣を作るのです。 先日、高速道路の高架の下で烏が鳩を襲って食べているのを見ました。そのすぐ近くに数羽の鳩がいましたが、びくびくしながらその様を見るだけで何も出来ないでいました。でも、自然界の弱肉強食の世界と人間界の弱肉強食の世界とどちらが残酷かと言えば、それはやはり圧倒的に人間界のものでしょう。烏は食べるために殺しているのであり、殺すことが目的ではありません。しかし、人間、特に先進国の人間は大量の食料(動物の肉)を捨てます。捨てるために殺している部分が多くあるし、スポーツハンティングなどというものもあります。そして、富を求めて密猟によって殺したりもします。さらに憎しみによって、人間同士で殺し合ったりもするのですから。 人間 創世記の九章にも記されているように、ノアの洪水後の世界では、人間に肉食が許可されました。その時から、動物は人間を恐れるようになり、人が人の血を流す可能性も前提とされています。つまり、洪水後の世界は現代の私たちが生きている世界と同じです。しかし、神様は、ノアとその子らに対して、動物であれ人間であれ、神の像に象って造られた人間の命を奪うことに対しては、「命の賠償を求める」と宣言しておられます。 人間を殺すことは、神を殺すことなのです。もちろん、人間に神を殺せるはずもありませんが、神様がご自身の像に象った人間の命を破壊することは神を殺すことです。しかし、その暴挙を「正義のためだ」とか、「平和のためだ」とか平気で言うのが人間です。その人間が、神が定めた「世の秩序」を覆してしまうのです。強い者が「正義」であり、強い者が自分たちのために作り出す秩序が「平和」ということになってしまう。神様が創造し、極めて良かった世界の秩序が人間によって覆されている、転倒されているのです。 そういう転倒した世の中で、神に従って生きる人間が安心して巣を作ることが出来るのは、人が住まない山にしかない。この詩の作者を心配する友人たちは、そのように説得しているのだと思います。 転倒した人間社会 一一編の作者は、主なる神を「まっすぐな心」で信じている人です。主に従って生きている。それが正義として認知されている世であればよいのです。しかし、今や「主に逆らう者」が権力を握り、主に従う人を追い落とし命すら狙うような事態になっている。そういう世の現実の中で、神を愛し、望みを持って信仰の道を生きることは命がけです。 今の日本には、被災地の方たちへの支援をしようという思いが溢れています。各地で被災地を支援するためのイヴェントが計画されています。しかし、被災地の薪は大文字焼で燃やすな、福島県の業者が作った花火は使うな、福島ナンバーのトラックを県内に入れるなという要望が主催者側に寄せられたりします。いわゆる風評被害ですが、そういう風評がある中で「安全確認されたものなのだから使う」と断固とした態度で主張することは極めて難しいのです。 まして、権力を握った者たちが戦争を美化し、敵性宗教だとか反体制思想だとかを勝手に決めて治安維持のために何でもするという状態になった社会で、戦争に反対したり権力者を批判することは極めて難しいことです。それまでの言動で、既に危険人物と見做されていたような人はなおさらのことです。何かを言えば即座に逮捕されて拘禁されてしまうことは、いつの世でもどこでも起こってきたことだし、これからも起こることでしょう。 先日も、独裁政権が倒れたある国の政治犯収容所敷地内から大量の遺骨が発見されるということがありました。恐ろしいことですが、そのように闇から闇へと人が葬られることは世界各地にあります。カインがアベルを殺して以来、大地は人の血を吸い、神は土の中から叫ぶ「血の声」を聞き続けているのです。そして、誰だってそのようにして殺されたくはありませんし、殺されてはならないでしょう。 だから友人たちは、「鳥のように山へ逃れよ」と勧めます。主に従って生きようとする者を闇の中から矢を放って葬り去ろうとしている人々がいるのです。彼らが権力を握っているのです。「世の秩序が覆されている現実の中で、いくら主に従っていると言ってもその努力は報いられることはないのだから、ここはひとまず逃げてくれ。」そのように忠告する人がいる。それは有り難い忠告です。 キング牧師 つい先日の深夜、マルティン・ルーサー・キング牧師に関する番組が放映されていました。人種差別とベトナム戦争という二つの大きな問題を抱える一九六〇年代のアメリカで、人種の平等を実現するために戦い、後半は反戦運動に身を投じた人です。しかし、それはまさに命がけのことでした。絶えず暗殺の脅迫に曝され、実際にナイフで刺されたこともあり、自宅や教会に爆弾が投げ込まれ、愛する家族が巻き込まれる危険が絶えずありました。しかし、キング牧師は武器を持ったボディガードはつけず、いつも丸腰で人目につくところを歩いていました。そして、結局暗殺されてしまったのです。一人の白人による単独の犯行ということになっていますが、国家の陰謀が囁かれる十分な理由もある暗殺でした。そして、キング牧師はいつの日か自分が暗殺されることを予感していました。実際に暗殺される前日、メンフィスの教会でこう演説していたのです。 「自分も長生きはしたいし、長生きには意味があることも知っている。しかし、今はもうそのこともどうでもよい。自分は一緒に行けないだろうが、私たちはいつの日か、皆で約束の地に行く民なのだから。神は、私を山の頂きに立たせてくださり、はるかに約束の地を見させてくださった。そして、終末の主の来臨の栄光を見させてくださったのだから。私は今、平安だ。」 この演説をした翌日、彼は暗殺されました。 キング牧師以外に何人もの人々が、公民権運動や反戦運動の中で傷つき、また殺されていきました。そういう人々も、当然の権利を主張することやそのために運動することをやめる機会はあったし、やめるように忠告する人々もいたでしょう。その忠告に従った人もいたでしょう。しかし、従わなかった人もいた。どちらを選ぶことも勇気が必要です。私はどちらが正しい行動なのかは分かりません。それは神様が決めることであり、私たち人間ではないと思います。 ただ一つ思うことは、キング牧師にしろ誰にしろ世の迫害に抗して神が示した道に殉じていく人々の心の中には、深い平安と喜びそして望みがあっただろうということです。そして、その理由は、最も安全な所に自分の巣がある、住まいがあるという確信だと思います。 主を避け所とする この詩の作者も同じです。彼は、言います。 主を、わたしは避け所としている。 ・・・・・ 主は聖なる宮にいます。 主は天に御座を置かれる。 御目は人の子らを見渡し そのまぶたは人の子らを調べる。 主は、主に従う人と逆らう者を調べ 不法を愛する者を憎み 逆らう者に災いの火を降らせ、熱風を送り 燃える硫黄をその杯に注がれる。 彼は冒頭で、主にこそ私の避け所はあるのだと宣言しています。天に支配の座を置かれつつ、エルサレムの神殿に臨在してくださる主の許こそが、自分が逃げ帰る所なのだ。彼は、そう断言します。何故なら、主こそが正しい審判者だからです。主は、主に従う者も逆らう者も見ておられるのだし、その心がまっすぐであるかどうか、その行いがまっすぐなものなのかを調べられるのです。そして、この主の裁きのみが正しく、最終的なものなのです。 一般的に言って、自分が神に逆らっていることを自覚している人は少ないものです。多くの場合は、自分がやっていることは正しいことだと思っているのではないでしょうか。私たちが月に三回は読んでいるルカ福音書に登場するファリサイ派や律法学者たち、また後に登場する大祭司とか議会の議員とかは、自分たちこそが神の正義を体現していると確信し、自分たちに都合の良い秩序を神が立てた秩序と確信しています。でも、彼らは例外的な存在ではなく、どこにでもいるごく普通の人間です。地位や身分が高い人たちだから目立ちますが、イエス様を十字架に磔にしたのは彼らだけではありません。自己の欲望に従い、自己保身に躍起になっているごく普通の人間たちなのです。そういう人間である私たちは、いつでも主に従うわけではないし、いつでも主に逆らうわけでもないでしょう。そういう意味で、私たちは自分を含めて人を決め付けることは出来ません。主に従っていた人も逆らうことはあり、その逆もある。それが人間なのですから。そして、主は従う者も逆らう者も等しく調べるのです。その着眼点は地上の人間のそれとは全く違うものでしょう。 主の裁き しかし、明らかなことは、神様はご自身に逆らう者をいつの日か必ず裁かれるということです。ここに出てくる「火」とか「硫黄」は、創世記一九章に出てくるソドムとゴモラを滅ぼす際に神様が用いられたものです。 この詩の作者は、自分を含めたすべての人間に対する裁きを主に主に任せます。 「主は正しくいまし、恵の業を愛し、御顔を心のまっすぐな人に向けてくださる。」 新共同訳聖書では「恵の業」と訳されていますが、直訳すれば「正しさ」です。正しい神は正しいことを愛するのです。そして、「心のまっすぐな人」に御顔を向けてくださる。これは、他の翻訳ではしばしば、「心のまっすぐな者は主の顔を仰ぎ見る」と訳されます。「見る」という動詞が複数形なので、そちらに合わせると主語は神ではなく人になるからです。私はここでは、そちらの解釈を採りたいと思います。 旧約聖書では、罪人は神の御顔を見ることは出来ない。見た者は死ぬとされています。それはよく分かる話です。人の世においても、犯罪者は警察官の姿を見ただけで、それこそ鳥のように逃げ出し姿を隠すでしょう。まして裁判官の顔をまっすぐに見ることなど出来様はずもありません。罪人は、神様の前に立つことなど出来ず、ましてその御顔を見ることなど出来ないことです。 だから、神の顔を仰ぎ見るとは、罪が赦された救いを表すと言ってよいだろうと思います。そういう意味で、「まっすぐな心」とは、自分の罪を主は赦してくださることを確信して立つ心のことだと思います。 まっすぐ しかし、その確信はいかにして与えられるのか。そのことを考えるに当たって注目しなければならない言葉は、「まっすぐ」と「杯」と「顔を見る」だと思います。いずれも新約聖書と深い関わりがある言葉です。 私たちが「まっすぐ」という言葉を聞いてまっさきに思い出すのは、洗礼者ヨハネが登場する場面だと思います。福音書すべてが、ヨハネの登場に際しては旧約聖書のイザヤ書四〇章の言葉を引用します。今日はルカ福音書の引用を読みます。三章三節以下です。 ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。 これは、預言者イザヤの書に書いてあるとおりである。 「荒れ野で叫ぶ者の声がする。 『主の道を整え、 その道筋をまっすぐにせよ。 谷はすべて埋められ、 山と丘はみな低くされる。 曲がった道はまっすぐに、 でこぼこの道は平らになり、 人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」 ここに二度「まっすぐ」という言葉が出てきます。ヨハネは「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」のですから、この「まっすぐ」が意味するのは、神の御前に罪を悔い改める心のことと言ってよいのではないかと思います。主イエスの到来に先立って遣わされたヨハネの務めはその心を人々に与えることにあるのです。そして、悔い改めた者たちこそが、主イエスを通して「神の救いを仰ぎ見る」ことが出来るのです。 杯 しかし、その「神の救い」は罪人の悔い改めだけで仰ぎ見ることが出来るわけではありません。私たちが神の救いを仰ぎ見るためには、御子イエス・キリストご自身が火で焼き尽くされるという恐るべき裁きをその身に受けてくださることが必要なのです。 今日は、月の第一主日ですから聖餐式があります。その聖餐式の原型は、主イエスが弟子たちと囲んだ最後の晩餐にあります。その時、主イエスはパンを裂き、それを十二使徒に与えつつ「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」とおっしゃいました。そして、食事を終えた後、杯を回す際にこうおっしゃったのです。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。」 この言葉の背後にあるのは、出エジプト記二四章の契約締結の儀式です。シナイ山で神様から十戒を授けられたモーセは、その十戒を守ると約束したイスラエル十二部族と神の間に契約締結をする儀式を執行しました。その時、彼は十二の祭壇と十二部族全体に動物の犠牲の血を降りかけたのです。血の契約は命をかけた契約を表します。その契約を結んだ直後、モーセと七十人の長老たちはシナイ山に登り、神を見ながらの契約の食事を持ちました。それは選ばれた者たちの食事であり、神はモーセや長老たちがご自身を見ても手を下すことはありませんでした。ここは、人間に与えられる救いの究極の姿があると言ってよいような場面だと私は思います。 主イエスが「この杯は、わたしの血による新しい契約である」とおっしゃる時、それはご自身が犠牲となって血を流し、神と新しいイスラエル(教会)の間に契約を結ばせるということです。 それはしかし、主イエスにとっても決して飲み干したくはない杯です。詩編一一編には、こうありました。 主は、・・ 不法を愛する者を憎み 逆らう者に災いの火を降らせ、熱風を送り 燃える硫黄をその杯に注がれる。 神に逆らう罪人に対する神様の怒り、火と硫黄が注がれる杯がここにはあります。その裁きの杯を、神の御心に従って生きてきた唯一の正しいお方である主イエスが飲み干さねばならないのです。その犠牲の死を通して罪人たちの罪が赦され、神の御顔を拝することが出来るようになる。神から罪人に至る道、あるいは罪人が神の御前に出るための道がまっすぐにされていく。そういうことが起こるのです。 この最後の晩餐からほどなく、主イエスは弟子たちを連れてオリーブ山に行かれます。そして、苦しみもだえつつこう祈られました。 「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」 神様は正しくいます方です。その正しい神の御心。それは、神に逆らう者たちの罪を、徹底的に神の御心に従って生きてきた方に負わせて、その方を裁くところに現れるのです。そのことを通して、本来は火と硫黄が注がれる杯を飲むべき者が、罪の赦しという新しい契約の血が注がれる杯を飲ませていただけるのです。一体何たることか!!と思います。 この罪の贖いの事実を聞いて信じることができる時、私たちの曲がりくねった心の中に悔い改めが起こり、主イエスの十字架の下に立ち、まっすぐに神様を見上げて讃美することができるのです。聖餐の食卓に与るとはまさにその悔い改めと讃美の時です。 御顔を見る 私たちは闇雲に讃美をするのではありません。讃美する方の御顔を拝しつつ讃美するのです。御顔を拝すると言っても、もちろん、神様は私たちの眼に見える方ではありません。しかし、その神様が今から二千年前にユダヤの地にご自身の独り子を誕生させ、ご自身の御心、正しい裁きを目に見える形でお示しくださったのです。それは十字架の死という裁きです。この裁きの中に、神様の正しさが貫徹されているのです。十字架はご自身に逆らう罪人に対する神様の裁きです。その裁きを通して、神様は罪人の罪が赦される道を開いてくださった。ご自身と人間との間の道をまっすぐにしてくださったのです。その裁きの行き着く先は終わりの日の復活です。御子イエス・キリストによる罪の赦しを信じた者たちは、終わりの日に御国で復活させられるのです。 聖書はその喜ばしい福音を語るし、聖書を取り次ぐ説教も語ります。そして、同じことを聖餐の食卓は目で見、手で触り、口で味わう形で語りかけているのです。私たちは主イエスが語られた聖餐制定の言葉と共に配られるパンとぶどう酒を目で見、手に取り、口で味わうことを通してキリストの御顔を信仰の目をもって見ることができるのだし、キリストの御顔が神の御顔なのです。 御国にて祝う聖餐 その聖餐に与る時、私たちは讃美歌二〇五番を歌います。二〇五番の歌詞は何度味わいつつ歌っても汲み尽くせない豊かな信仰と望みと愛の泉だと思います。その四節の歌詞は私たちに与えられている望みが何であるかを教えてくれます。 面影写し偲ぶ 今日だにかくもあるを 御国にて祝う日の その幸やいかにあらん 「御国にて祝う日」とは、今は天において神の右の座に座しておられる主イエス・キリストが再臨し、生ける者と死ねる者を裁いて御国を完成する日のことです。その時、主イエスの十字架の贖いの死は我が罪のためであることを信じ、御子の復活を信じた者たちは神の御顔を拝しつつ救いの食卓を囲むことが許される。もちろん、そこには数え切れない聖徒たちがいます。御子による罪の赦しを信じるという意味で正しいすべての者たちが、命の食卓を囲み神を賛美する。 その食卓において神の御顔を拝する。それが私たちの希望です。終末的な希望なのです。私たちはその希望に生きることによって救われているのです。そして、主日ごとの礼拝では、十字架と復活によって示された神の愛が語られ、そして聖餐の食卓を通してその愛が与えられます。この愛を信じ、神様が立てた秩序が完成する日、御国が完成する日を待望しつつ生きる。それが新しい契約の民である私たちキリスト者なのです。そのキリスト者にとって、最も心安んじることができる場はこの礼拝です。主を礼拝することこそが私たちの避け所です。罪と死を打ち破ってくださった主を礼拝する時にのみ、私たちはあらゆる恐れから解放されるのです。神の御顔を拝し、神の御言と聖霊によって、愛と信仰と希望を豊かに注がれるからです。 パウロはコリントの信徒への手紙十三章でこう言っています。 愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。 この地上にある限り、また御国が完成するまでは、私たちは神の御顔をおぼろげに見ています。この世を生きている間の信仰とはそういうものです。しかし、「完全なものが来たとき」、再臨のキリストを通して御国が完成する時、私たちは神様にはっきりと見られているように、神様の御顔をはっきりと見、讃美することが出来るのです。御子イエス・キリストを通して示された神様の愛がそのことを実現してくださるのです。そのことを今日、私たちはまっすぐな心で信じ、その日が来る望みをもって新たな歩みを始めたいと思います。 |