「主よ、お救いください」

及川 信

       詩編 12編 1節〜 9節
12:1 【指揮者によって。第八調。賛歌。ダビデの詩。】
12:2 主よ、お救いください。主の慈しみに生きる人は絶え
人の子らの中から
信仰のある人は消え去りました。
12:3 人は友に向かって偽りを言い
滑らかな唇、二心をもって話します。
12:4 主よ、すべて滅ぼしてください
滑らかな唇と威張って語る舌を。
12:5 彼らは言います。
「舌によって力を振るおう。自分の唇は自分のためだ。わたしたちに主人などはない。」
12:6 主は言われます。
「虐げに苦しむ者と
呻いている貧しい者のために
今、わたしは立ち上がり
彼らがあえぎ望む救いを与えよう。」
12:7 主の仰せは清い。土の炉で七たび練り清めた銀。
12:8 主よ、あなたはその仰せを守り
この代からとこしえに至るまで
わたしたちを見守ってくださいます。
12:9 主に逆らう者は勝手にふるまいます
人の子らの中に
卑しむべきことがもてはやされるこのとき。


 何からの救い?

 「主よ、お救いください」と、この詩の作者は祈ります。しかし、他の詩編のような切迫感が今ひとつ感じられません。
 「お救いください」と言った後、彼はこう続けます。

主の慈しみに生きる人は絶え
人の子らの中から
信仰のある人は消え去りました。


 これが救いを求める理由になるのか?!と思います。前回読んだ詩編一一編では、敵が今にも自分に向かって矢を放とうとしている切迫感があり、その危機から救い出された感謝とか信頼が最後の言葉となっています。しかし、詩編一二編の終わり方はこういうものです。

主に逆らう者は勝手にふるまいます
人の子らの中に
卑しむべきことがもてはやされるこのとき。


 つまり、勝利者は「主に逆らう者たち」であり、主でもなければ信仰者でもありません。信仰者は消え去っており、逆らう者の横暴が続いている。初めと終わりがそうなっているのです。こういう詩は珍しいと思います。
 映画では、ハッピーエンドで終わってくれるとホッとする反面、現実はそういう訳にはいかないだろうという思いが残る時があります。逆にやり切れない終わり方をする映画を観ると、映画くらいは夢や希望を与えて欲しいと思う反面、「現実はこういうものだ。よく描けている」と納得したりもします。この詩編は明らかに後者に属します。信仰ある人は消え去り、主に逆らう者が横暴を振るっている世が残るのです。だから、具体的な意味では救いはありません。でも、私は読み続けている内に次第に深く納得していき、そして慰められて来ました。

 世の現実

 話を、私たちが日々見聞きしているこの世の現実に移しますが、毎日ニュースを見たり、読んだりしてげんなりするのが政治家たちの言葉の軽さやいい加減さです。この国の政治に責任を持っている人たちがあまりに軽い言葉を使い、そのことで早急に進めねばならぬことが停滞する。追求する方も弁明する方も空しい言葉を使い、嘘をつき、無責任な言葉を使う。しかし、選挙で選ばれている以上、こういう人たちに震災後の復興や国の安全保障問題を担って貰わねばならないのです。
 福島の原発事故に関しては、最近になって様々な事実が少しずつ明らかになっています。その内の一つは、十数年前に電力会社の内部に原発の電源装置に関して危険性があると指摘する人がいたということです。しかし、会社の上層部はその声を聞かず、むしろ封じ込めていった。原発推進は国策ですし、会社は経済性を優先するのは当然だからです。そういう現実の中で、危険性を指摘する人々の力はあまりに弱いものです。彼らは、一人また一人と会社を去らざるを得ません。
 会社を去りたくない、家族の生活を守るために組織の中で生きていくしかない人たちは、上の人たちの顔色を見て上の人たちが喜びそうなことしか言わなくなります。そして、上の人たちが言うことに対しては「イエス」と言うほかなくなっていくものです。政治の世界でも、民間会社でも、教会でもそれは同じでしょう。巨額の粉飾決算にしろ、会議の承認を経ない巨額資金の送金にしろ、権力を持った者たちが暴走し、迷走するのを誰も止めることが出来なかった結果だろうと思います。心の中では「こんなことをしていたら大変なことになる」と思っているのです。でも、「それを口にしたら自分に大変なことが起こる」とも思っているので、黙っているか「友に向かって偽りを言い」「滑らかな唇、二心をもって話す」以外にはなくなるのです。そして、結果として上も下も「日本ではチェルノブイリみたいな重大事故は起こりえません。様々な危険を想定して設計しており、整備も万全の体制をとっています。どうぞご安心ください」と口々に言うようになる。語っている方も聞いている方も、どこかに嘘がある、危険があることはうすうす感じているのです。しかし、結局、経済的利益を優先させ、また自己保身をしてしまう。それが私たちの世の変ることなき現実であると思います。
 そして、結局は「偽りを言う」人、「滑らかな唇」をもって「二心をもって話す」人たちが組織に残り、権力を持っていく。そして、こう言っているのです。

舌によって力を振るおう。
自分の唇は自分のためだ。
わたしたちに主人などはない。


 つまり、自分たちが主人だということです。自分の人生を支配するのも自分自身だし、この世を支配するのも自分たちだということです。
 作者は、「主よ、すべて滅ぼしてください。滑らかな唇と威張って語る舌を」と祈ります。主は、その祈りに応える形で、
「虐げに苦しむ者と
呻いている貧しい者のために
今、わたしは立ち上がり、
彼らがあえぎ望む救いを与えよう」

 とおっしゃいます。
 しかし、先ほども言いましたように、この詩は主に逆らう者たちの勝手なふるまいが続いている情景で終わるのです。この世はあくまでも、「卑しむべきことがもてはやされている」のです。まさに現代の世界そのものです。
 これほど空しいことはありません。なにをどう祈ろうが、現実は変らない。主が何をおっしゃろうが、現実は変らない。結局、「長いものには巻かれろ」「寄らば大樹の陰」であり、この世の実力者に擦り寄っていた方が得だ、安全だということになる。所詮は嘘なのに、二心から出てくる言葉なのに、虚栄を作り出すだけの言葉なのに、滑らかに出てくる言葉が、またそういう言葉を使う人々がこの世を支配している。そういう社会の現実を、この詩の作者は見つめていると思います。

 本当の言葉

 だんだんそういうことが分かってきた時に、私は自分の若い頃を思い出しました。まだ信仰を与えられる前のことです。その頃の私はまさに「言葉」の問題で悩んでいました。人間が語る言葉のすべてが空しいと思ったのです。大人たちの言葉は嘘ばかりで、その場を取り繕い、自己防衛で塗り固められている。しかし、その偽善や欺瞞を衝く若者たちの言葉は一見清潔そうに見えながら、そこにも自己欺瞞があり、自分の言葉に酔っているだけの場合が多々あります。だから、そこに命など懸かっていません。所詮はその場限りの言葉です。そして、私自身も結局そういう言葉しか話せない。
 「そういう言葉しか話せない」とは、「そういう人間でしかあり得ない」ということです。真実な言葉を話す人は真実な人なのです。主イエスがおっしゃるように、「良い木は良い実をならせるし、悪い木は悪い実をならせる」のです。言葉だけ取り繕っても、その嘘はいつか明らかになります。政治家の言葉も電力会社の言葉も、そして私たちの言葉も、火で精錬されていく間にぼろが出るか、空しく消えてなくなるかです。
 しかし、その空しい嘘が作り出した空しい実だけが残る場合があります。現代で言えば、最終処分場が決まらぬままにどんどん生み出されてくる核廃棄物などは、その典型でしょう。一時の嘘やいい加減さが、今後数千年あるいは数万年とも言われる影響を残すのです。そういう偽りの言葉の世界の中でしか自分は生きていないし、自分が言葉を発するとき自分もそういう偽りの世界を作り出してしまう。当時はそう思い下宿の部屋に閉じこもるしかありませんでした。誰とも話したくないからです。
 私は昔から本を読むことは苦手でしたから、本は読みませんでした。そこにも空しい言葉が書かれているのだと思っていた面もあります。でも、聖書は少しずつ読み始めました。牧師家庭に生まれた私にとって聖書は最も身近な書物でしたが、最も縁遠い書物でもありました。日曜日の礼拝の時にだけ言われた所を開く書物だったからです。しかし、その時は、自分自身の意思でそのページを捲っていったのです。
 その時に与えられた経験が、結局今に繋がっていると言う外にありません。そこで私が何をしていたかと言うと、「本当の言葉」を求めていたのです。「本当の言葉」というものがあるのか。「本当の言葉」を語る人はこの世にいるのか。それは、当時の私にとってはこれから生きていくことが出来るか否かという問題でしたし、今もその本質は変りません。

 聖書の言葉との出会い 1

 聖書をあちこち開きながら読むと、ローマの信徒への手紙の中にこういう言葉がありました。

「正しい者はいない。一人もいない。
悟る者もなく、
神を探し求める者もいない。
皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。
善を行う者はいない。ただの一人もいない。
彼らののどは開いた墓のようであり、
彼らは舌で人を欺き、
その唇には蝮の毒がある。
口は、呪いと苦味で満ち、
足は血を流すのに速く、
その道には破壊と悲惨がある。
彼らは平和の道を知らない。
彼らの目には神への畏れがない。」


 これは、まさに胸がすっきりするような言葉であると同時に、胸を刺し貫かれる言葉でした。この言葉を世の大人たちに向けて放つ時はすっきりします。でも、この言葉は、私がどういう人間であるかをこれ以上ないほどに鋭く言い当てる恐るべき言葉でした。この言葉の鋭い矢は、私の内部に突き刺さってきます。
 聖書を読むとは、いつもそういう体験を新たにすることです。だから、一回に少ししか読めませんでしたし、少し読んでは悶々とするという日々を何週間も続けました。

 聖書の言葉との出会い 2

 そういう日々の中で、私が生涯決して忘れることなく、また語り続けるであろう言葉と出会いました。すでにこの教会でも語りましたし、つい先日も短大の寮の礼拝でも語りました。これからも死ぬまで何度も語り続けると思います。この言葉と出会ったことによって、私は人と会うことが出来るようになったし、どうしようもない自分を良くも悪くも赦し、人を赦し、この世が偽りの言葉で満ちたものであろうとも希望をもって生きることが出来るようになっていったのです。
 その言葉は、主イエスの言葉です。

「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」

 この言葉を読んだ時の衝撃は忘れませんし、今も変ることがありません。この言葉は「本当の言葉」です。私はその時、「本当の言葉」に出会い、「本当の言葉を語る人」と出会ったと分かりました。その時、まさに胸が躍る喜びを感じました。でも同時に、胸が張り裂けるほど恐ろしかったのです。「本当の言葉」とは恐ろしい言葉なのです。そして、「本当の言葉を語る人」も恐ろしい存在です。その人の言葉を聴き続け、その人の後について行くこと、そしていつの日か、その人のように本当の言葉を語ること、それはまさに命がけのことにならざるを得ないことは直感的に分かりました。
 イエス様は、ご自分がお語りになった通りにご自身の羊たちのために命を捨てました。そこに些かの嘘も偽りもありません。しかし、イエス様が命を捨てた羊はどういう羊なのでしょうか。

「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。」

 たしかにこの時は、そうでしょう。羊たちも羊飼いを知っており、その羊飼いについていくのです。しかし、その羊たちが羊飼いのことを「知らない」という日がすぐに来るでしょう。
 教会学校で習った程度でも、私は福音書の筋は知っていましたから、この先の顛末を思って暗澹たる気持ちになりました。羊の代表であるペトロは、「わたしの行く所に、あなたは今ついてくることはできないが、後でついて来ることになる」と予告される主イエスに向かってこう言うのです。

「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます。」

 しかし、主イエスはその滑らかな唇から出てくる偽りをたしなめます。

「わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。」

 滑らかな唇から出た言葉はすべて嘘であり、偽りであり、戯言です。本人がどれほど真剣であっても、心情としては嘘偽りがなくとも、それは嘘なのです。嘘になるからです。木が真実でないのに、その実である言葉だけが真実であるわけがありません。言葉を磨いても空しいのです。木そのものが真実になることだけが問題なのですから。こういうことが記されている聖書を読みつつ思ったことは、こういうことです。
 「人間は、やはり真実な言葉は語れない。つまり、真実ではあり得ない。しかし、そういう人間のために、そういう人間だからこそ、愛を貫いてくださる方がいる。真実を貫いてくださる方がいる。決して諦めることなく、その命を捨て、復活し、語りかけ続けてくださる方がいる。そのお方こそ真実な方であり、そのお方こそ私たちの救い主なのだ。」
 聖書は、ただただこの方、真実であり真実の言葉を語る方を証している書物なのだということが、その時分かりました。そして、そうであるが故に、聖書は真実な言葉なのだ、と。

 真実な言葉を語る人間

 この方を証しする。救い主であると信じる。そして、その信仰を告白する。それはやはり命がけのことです。初代教会の使徒たちは皆迫害を受け、ある者たちは殉教の死を遂げていきました。でも、彼らは、もう「あの人のことは知らない」とは言いませんでした。聖霊によって支えられていたからです。その聖霊自身が彼らの中に宿ってくださり、彼らに語らせてくださったのです。聖霊に満たされたペトロは言いました。「神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です」と。そして、このように説教を締め括くりました。

「だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」。

 こう説教することによって、彼は迫害を受けるようになりました。そして、伝説によれば、最後はローマで逆さ十字架の刑で殺されたことになっています。
 二十歳の頃に下宿の部屋に閉じこもって聖書を少しずつ読み進め、ペトロの激変した姿を見た時、私は激しい羨望と恐怖を感じました。嘘しか言えなかった男、二心をもって絶えず分裂していた男、結局自分の言葉を裏切り自己保身をしてしまった男が、「十字架と復活のイエスは主です。メシアです」という言葉に命を懸けるようになった。その結果、彼はいわゆるこの世の安定した生活も、豊かな生活も出来ず、誹謗中傷を浴びせられたり、裁判所に呼び出されたり、鞭を打たれたりして、最後は競技場で見世物にされて殺されてしまったのです。こんな不幸な人生があるか!?と思いました。でも、彼は嘘を言ってしまい、惨めな自己保身をしてしまったことを通して、「わたしは羊のために命を捨てる」という言葉の本当の意味を知り、その言葉によって新たに生かされるようになりました。その人生は、本当の言葉を語るお方がいることを、命がけで語る人生です。こんな幸いな人生が他にあるのか?!とも思ったのです。羨望と恐怖の思いに引き裂かれつつ、結局私は説教者になりました。
 説教者は本当の言葉としての説教を語るべく召された人間ですから、全存在を傾けて説教をします。この説教壇に立って語るために毎日の歩みがあるのです。信徒の皆さんは説教者が行けない社会の現場で、その存在を通して本当の言葉を語るべく召された人間です。礼拝で祝福を受け、神との平和を与えられた皆さんは、神を愛し、隣人に仕えるためにこの世に派遣されるのです。そして、間接的なしかたでキリストを証ししていく。キリストに従い、キリストを証しすることは大きな喜びですが、苦難が伴います。現実は簡単には変りませんから。この世はいつも「卑しむべきことがもてはやされ」「主に逆らう者は勝手に振舞う」からです。しかし、この詩の作者はそういう現実を見て絶望しているのではありません。「変ることがない現実があるとしても、私は絶望しません」と信仰と希望を告白しているのです。
 何故、彼が絶望しないかと言えば、彼は神様の言葉を聞いたからです。神様は、こうおっしゃったのです。

「虐げに苦しむ者と
呻いている貧しい者のために
今、わたしは立ち上がり、
彼らがあえぎ望む救いを与えよう」


 この場合の、「あえぎ望む救い」とは何か?もちろん、神様に逆らう者たちの支配が終わること。御国が来ること。キリストが王座につくこと。そういう終末の救いと受け止めることが大事だと思います。
 しかし、その一方で、私たちキリスト者には既に与えられている救いとして受け止めることも可能だし、また必要なのではないかとも思います。
 少なくとも、部屋に閉じこもって誰とも会わなかった当時の私にとって「あえぎ望む救い」とは、本当の言葉があると知ること、本当の言葉を語る人がいると知ることでした。それさえ知ることが出来れば、嘘偽りが蔓延しているこの世の中を、嘘偽りをいつも内に抱えてしまう惨めな自分でも希望をもって生きていける。そういう方と出会い、そういう方との真実な交わりの中を生きたい。それが究極の願いだし、まさに「あえぎ望む救い」と言うべきものでした。そして、私は「わたしはよい羊飼い。よい羊飼いは羊のために命を捨てる」という言葉と、その言葉を語る主イエスに出会ったことによって救われたのです。
 この詩の作者も、主の言葉を聞けた時に救われたのです。彼は言います。

「主の仰せは清い。
土の炉で七たび練り清めた銀。
主よ、あなたはその仰せを守り
この代からとこしえに至るまで
わたしたちを見守ってくださいます。」


 「仰せ」と訳された言葉は、他の翻訳聖書では「主の言葉」となっています。この詩の作者は、主の言葉の真実と出会うことによって既に救われています。主の言葉は、火で精錬された言葉であり、一切の不純物がない言葉です。偽りがないのです。そして、主はそのお語りになった言葉を「守って」くださるのです。主は、人間ではありません。死を恐れて言葉を翻すお方ではない。そのお方が、「立ち上がり、彼らがあえぎ望む救いを与えよう」とお語りになったのです。もうそれで十分です。その言葉さえ聞ければ、目の前の現実がたとえ主に逆らう者たちの横暴に満ちたものであったとしても耐えることができます。いつの日か、主の支配が確立すること、御国が完成することを望み見て生きることが出来ます。主の言葉は、主が守ってくださるからです。それゆえに、必ず実現するからです。そして、その言葉を信じる者はとこしえに至るまで主に見守られつつ、御国への旅路を続けることができるのです。私たちは、その望みを与えられることで既に救われているのです。

 WMさん

 週報に私がWMさんを二度お見舞いたことを記しておきました。WMさんは水曜日に入院されました。つい二年ほど前まで毎週共に礼拝を捧げていた方です。来年の五月十三日で満百歳です。病気で入院しておられるのではなく衰弱されたのです。私たちは、WMさんが召される日が近いことを覚悟しなければなりません。
 そのWMさんのお宅で聖餐礼拝を守った日のことを、私は忘れられません。昨年の七月のことです。その時はWMさんも、また献身的に看護をしてくださっている養女のWTさんも聖餐の糧を共に頂いた後に祈りました。その時、WMさんは多分十分くらい祈ったのです。非常に長く祈られました。でも、その内容は同じです。WMさんは実の子どもを与えられなかった方です。そのことはWMさんにとって大きな悲しみです。そして、こう祈られたのです。

 「神様に向って、何故、わたしはこんななのですか。何故、子がいないのですかと問いかけます。でも、わたしは、最後はあなたにすがるしかないのです。あなたがいらっしゃらなければ、私は生きていけないのです。そして、最後はあなたに感謝します。」

 こういう言葉を繰り返して長い長いお祈りをされました。私は、「何故、何故」と繰り返し、「最後は、最後は」と繰り返される祈りを聞きながら、WMさんは今、神様に真実な言葉を語りつつ、神様の言葉を待っているのだと思わされました。自分の苦しい胸の内をありのままに語る言葉が、そして最後の一滴のようにして出てくる感謝の言葉が、天の神様に届いたと思えるまで祈る。それは、天の神様がその祈りに答えてくださる時まで祈ることだと思います。WMさんは、その祈りを捧げ終わった後に、本当にほのぼのした、そして晴れやかな笑顔で私を見ました。
 そして、その二ヵ月後に、再びWMさん、養女のWTさんと共に聖餐に与った時に、WMさんは、「今日は家族そろって聖餐に与れましたことを、心から感謝します」と祈られました。私は、「家族そろって」という言葉に深く心を揺さぶられました。

 聖餐の食卓

 私が聖餐に与る時にほぼ毎回読む聖書の言葉の一つは、こういうものです。

「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来て下さった』という言葉は、確実で、そのまま受け入れるに足るものである。」

 こういう言葉と出会うことを幸いと言うのです。この「本当の言葉」を信じる。そのまま受け入れるに足る言葉を信じて洗礼を受け、神の子として生きる契約を結ぶ。そして、新しい契約の食卓を共に囲む。それが私たち神の家族とされたキリスト者です。
 私たちはイエス・キリストを救い主として信じる、その信仰によって救われているのです。その喜びと感謝を分かち合うのがこの食卓です。御国の完成はまだ将来のことです。でも、それは安心して待っていればよいのです。神様が定めた時に完成してくださるのですから。私たちはただイエス様を信じ、その言葉を信じて、その言葉を生きていく。そして、そのことを通して私たちも真実な人間に造り替えていただき、真実な言葉、本当の言葉を語りながら生きる。ただそのことを目指して歩んでいけばよいのです。主イエスが、その私たちを「とこしえに至るまで見守ってくださいます」。これは確実なことです。
 「あなたがいらっしゃらなければ、私は生きていけないのです。」これもWMさんの真実の言葉です。嘘偽りのない本当の言葉です。主を信じ、すがるしかない。罪の赦しを求めてすがるしかない、愛を求めてすがるしかない。これが私たちの人生の真実です。立派なものでも何でもありません。神様の憐れみ、恵みを求めてすがるだけです。それが真実です。それが本当のことなのです。そして、主はそういう私たちのために命を捨ててくださったのです。私たちはそのことを信じています。だから、感謝と賛美をもって主の聖餐に与りたいと思います。
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