「主に向かって歌います」

及川 信

       詩編 13編 1節〜 6節
13:1 【指揮者によって。賛歌。ダビデの詩。】
13:2 いつまで、主よ
わたしを忘れておられるのか。
いつまで、御顔をわたしから隠しておられるのか。
13:3 いつまで、わたしの魂は思い煩い
日々の嘆きが心を去らないのか。
いつまで、敵はわたしに向かって誇るのか。
13:4 わたしの神、主よ、顧みてわたしに答え
わたしの目に光を与えてください
死の眠りに就くことのないように
13:5 敵が勝ったと思うことのないように
わたしを苦しめる者が
動揺するわたしを見て喜ぶことのないように。
13:6 あなたの慈しみに依り頼みます。
わたしの心は御救いに喜び躍り
主に向かって歌います
「主はわたしに報いてくださった」と。


 神の家族としての教会

 先週はクリスマス礼拝でしたが、今日はいきなり元旦礼拝です。こういうことは数年に一回はあるのですが、新年を祝う日本人の感覚と、教会暦としては降誕節を生きているキリスト者の感覚がない交ぜになった妙な気分があります。
 それはともかくとして、週報の「先週の礼拝と集会」の欄を見ていただくと、親子室に十二人の幼児がお父さんお母さん、またおばあさんと共にいたことが分かります。また託児も十二人です。十年前の週報には、親子室にいた子どもや託児の人数を記す欄はありませんでした。二〇〇二年四月の週報から、親子室や託児の人数を書くようにし、二〇〇四年度から「神の家族としての教会形成」を柱とする十年ヴィジョンを与えられ、そしてそのヴィジョンを掲げ、三世代四世代が喜びをもって集う教会を目指して皆で祈りをあわせて歩んできました。まだまだその歩みは続きますが、幸いにも小さなお子さんを持つ年齢層の教会員が次第に増えてきました。また、教会学校の生徒も数は少ないのですが、そのほとんどが会員のお子さんとお孫さんです。そして、先週は二四名ものお子さんがいたわけで、私は教会の将来に対して明るい希望を抱かせられました。十年後二十年後には、彼らの中の誰か一人か二人は、私たちと一緒に礼拝を捧げているはずです。そのためにも祈りを合わせつつ、今年もまた「神の家族としての教会」を目指して歩んでまいりたいと思います。
 先週の子どもの中で最も幼い子は、今年の十一月に橘夫妻の間に生まれたばかりの「橘まこと」ちゃんです。ご両親に抱かれて初めて礼拝に来られました。これも嬉しいことでした。赤ん坊が安心して親に抱かれている姿は、いつ見ても心が熱くなります。この親にとってこの子は自分の命に代えても守らねばならぬ存在であり、この子にとってこの親は命の源であり守り手である。その切ることの出来ない愛の絆をその姿が表わしているからでしょう。

 いつまで続く?

 今日与えられた御言は詩編一三編です。

いつまで、主よ
わたしを忘れておられるのか。


 が、最初の言葉です。
 「新年早々、いきなり暗い詩編だな。もっと明るいものを選んで欲しい」と思われるかもしれません。私もそう思って多少は悩んだのですが、悩んだ末に選ぶ時に限って後悔するので、順番どおりにしました。
 しかし、「新年明けましておめでとうございます」と言った所で、世の現実は昨年とがらりと変るわけではありません。私たちの国は大震災の傷が色濃く残っていますし、政治の力は弱く不安定で、明るい見通しを見ること出来ません。そして、私たちキリスト者は、震災以来、様々な問いに晒されています。
 先日もある方に「最近の調子はどうですか?」とお尋ねすると、「主人がテレビや新聞を見るたびに、宗教が戦争を引き起こす。唯一の神など信じているから争いが起こるんだ。そもそも神がいるならば、あんな津波が起こるはずがないじゃないか、と言ってきて困る」とおっしゃいました。こういうことは、珍しいことではありません。皆さんの多くがご家族やご友人から、一度や二度は問われたことがあると思います。私も同じです。一言で答えることは無理だし、問いそのものが無責任な第三者的な立場に立ったものである場合が多くて、共に考えようにも考えられないことも少なくありません。
 詩編は、それぞれ独立した詩が編纂されたものです。しかし、続けて読んでいると、それなりの繋がりがあるように思います。一二編の最後の言葉はこういうものでした。

主に逆らう者は勝手にふるまいます。
人の子らの中に
卑しむべきことがもてはやされるこのとき。


 そして、来月読むことになる一四編の書き出しはこういうものです。

神を知らぬ者は心に言う
「神などない」と。
人々は腐敗している。
忌むべき行いをする。


 今から二千何百年も前にこれらの祈りの詩は作られているのです。しかし、人の世の現状は変りません。今でも、この世は卑しむべきこと、忌むべきことがもてはやされ、「神などない」と嘯く人々が勝手に振舞っています。その現実は少しも変らないのです。私たちも、神を知る前はそのように振舞うことしか出来ませんでした。それしか知らないのですから仕方ありません。

 わたしの神、主よ

 しかし、神様を知った今、変ることのない世の現実の中で、
「いつまで、主よ、わたしを忘れておられるのか。
いつまで、敵はわたしに向かって誇るのか」

と呻く詩編作者の気持ちはよく分かります。
 この詩の作者が生きている具体的状況は分かりません。病気に罹っていたとか、政敵に地位や名誉を脅かされているとか色々推測はできます。しかし、具体的状況はどうであれ、この作者が神に忘れられ、また見捨てられたと思わせようとする敵がいるのです。神への愛と信頼を失わせようとする敵がいる。「神などない」と確信させ、好き勝手に振舞うことが人生の喜びだ、と確信させようとする敵がいるのです。それが問題なのです。
 具体的な人間として、たしかにこういう敵はいます。私もキリスト者になって以降、さらに牧師になって以降、様々な現実の中で「神様などよくも信じていられるものだ」という問いを人から受けてきましたし、これからも受けるでしょう。でも、本当の問題は「神などない」と言う人間がいることではなくて、その人間の言葉を聞いて、どこかで頷いている自分がいるということです。さらに表向きは神を信じている振りをしつつ、裏では神を恐れることなく、忌むべきことをする自分がいるということです。本当の敵はいつも内側にいるものです。その敵こそ恐るべき敵なのです。敵の嘲りや侮辱を受け続けることを通して、また助けが来ない現実の中で、いつしか神様への愛と信頼を失ってしまう自分がいる。その自分に支配される時、敵は勝利し、その勝利を喜ぶのです。

わたしの神、主よ、顧みてわたしに答え
わたしの目に光を与えてください
死の眠りに就くことのないように
敵が勝ったと思うことのないように
わたしを苦しめる者が
動揺するわたしを見て喜ぶことのないように。


 「わたしの神、主よ」と作者は呼びかけます。作者にとって「主」とは、ヤハウェという名を持った神です。アブラハムを選び、モーセに出会い、イスラエルをご自身の民とした神の名です。この名前が他の宗教の神々とイスラエルの神を区別する名前なのです。
 私たちキリスト者にとって「主」とはイエス・キリストのことであり、またイエス・キリストの父なる神のことです。そして、その神はヤハウェです。私たちキリスト者は、イエス・キリストを通してヤハウェを「わたしの神、主よ」と呼びかけることが出来る神の選びの民なのです。

 子にとっての親

 子どもにとって父や母が一人しかいないのと同じように、私たちにとっても主なる神は一人しかいません。そして、子は親がいなければ子どもとして生きていけません。他の子の親がどれほど良くしてくれても「わたしの親」「わたしのお父さん」「わたしのお母さん」ではないので、心からその愛に委ねることは難しいことです。
 その逆に、自分の親が「自分を忘れている、顔を向けてもくれない、顧みてくれない、何を訴えても答えてくれない」という状態が続いたとしたら、それは子どもにとっては絶望的なことです。
 たとえば、子どもが公園で遊んでいる時に転んでしまって膝に血がにじむということがあります。冬に転ぶと特に痛いものです。そういう時、子どもは真っ先に親が自分を見ているかどうかを確認します。その上で「痛いよ」と泣き出したり、走りよって来たり、親が走りよって抱き締めてくれるのを待ったりします。最大の関心事は、傷がどうなるかではありません。親が自分を見ているか、駆け寄ってきてくれるか、「痛かったね」と言って抱き締めてくれるか、そこにあります。親が自分を見ていてくれて、「大丈夫。ここでちゃんと見ているから」と言ってくれれば、あるいは傷口を手で触って「痛いの、痛いの、飛んでけー」とか言ってくれれば、ニコッと笑ってすぐに遊び始めることはいくらでもあります。
 転んだのに、痛いのに、母親はママさんグループの話に夢中でこちらを少しも見てくれない。見てくれないから、声もかけてくれないし、まして駆け寄ってきてなどくれない。無視されている。"自分が転ぼうが転ぶまいが母親にとっては関係ないんだ。いや、自分なんていない方がいいんだ"と、子どもが思ったとしたら、それは膝の痛みとは比較にならぬ痛みをその心に与えるものです。もし、"母親は自分のことを愛してくれてはいないんだ、どうなってもいいんだ"と思ってしまったら、子どもはもう泣くこともないでしょう。「お母さん、お母さん、痛いよ、こっち向いてよ」と泣くこともない。
 そして、泣くこともない目は光ることもありません。どんよりとくもった目になります。私たちが目をキラキラ輝かせる子どもに会って嬉しくなるのは、その子がご両親を初めとする多くの人々から愛されていることが分かるからです。その愛によって生命力が溢れる目をした幼子はいます。でも、幼い時に既に不幸な境遇になってしまったり、保育園や幼稚園でいろいろと辛い目に遭ったりすると、キラキラしていた目がどんよりとくもってしまう。そういうこともあります。

 幼児のように叫ぶ

 詩編一三編の作者は、親の愛を確信するが故に叫ぶ幼児のように叫ぶのです。
「いつまでですか」と。
神様の愛を信じていなければ叫ぶことはしません。彼は信じているから大声で呼び求めるのです。
「わたしの神、主よ」と。
 二節から五節までを、転んでしまった後の幼子の気分になって、言い換えるとこういうことになるのではないかと思います。

「こっちを見てよ。そして一声でいいから、『大丈夫だ。ここで見ているよ』と声をかけてよ。そうすれば、僕は元気を取り戻すのだから。いつまで、神様、あなたはこっちを見てくれないの。もし、あなたがこれからもずっと僕のほうを見てくれないんだったら、僕を苛める奴が言っていることが正しいってことになっちゃう。あいつらは、『神なんていない。お前は神様に愛されているって信じているけれど、そもそも神様なんていないんだ』って言うんだ。そんなことはないって信じているけれど、これほど長い間、こっちを見てくれもしないし、声もかけてくれないと、僕ももうじき限界になってしまう。あいつらが正しいと思っちゃう。そんなことになっていいの?あいつらを喜ばせてもいいの?」

 問題は、膝が痛むことではありません。その肉体の痛みよりも、見捨てられることの心の痛みこそが問題なのです。幼児にとって頼りは親だけなのです。他の人が走り寄ってきても、「お母さんじゃなきゃ駄目。お父さんでなければ嫌だ」と泣くのが幼児です。それと同じように、主なる神様を心の底から信じている者にとって、その神様が顧みて答えてくださらなければ駄目なのです。もし、いつまでも何の返事がないとすれば、それは悲しみの内に死の眠りに就くしかないのです。
 そして、私たちにとって「生きる」とはそういうことだと思います。私たち信仰者にとって生きるとは、主なる神様との愛と信頼の交わりの中に生きることであり、食べて排泄することではありません。酸素を吸って二酸化炭素を吐いていれば生きているのではなく、神の命の息である聖霊を吸って、神様に向かって語りかけ、神様の言葉を聴きながら生きる。それが生きることなのです。「そのように生かしてください。そして、あなたを賛美させてください。そのためにこっちに顔を向けて、答えてください」と、この作者は切実に訴えているのです。

 しかし、わたしは

 六節にはこうあります。

あなたの慈しみに依り頼みます。

 私たちが今礼拝に用いている「新共同訳聖書」ではそうなっていませんが、原文では、「私」が強調されています。「しかし」という言葉もあります。

「しかし私は、あなたの慈しみに依り頼みました」。

 が、正しいと思います。「誰が何と言ったって僕は、お父さんが僕を愛してくれることを信じたのです」。彼はそう言っているのです。「依り頼む」は完了形で書かれていますから。
 心の中では、自分は神様に忘れられ、見捨てられたかもしれないと思い、悩みと嘆きを抱えることがある。しかし、そういう動揺を越えて、神様は今でも私のことを愛してくださっている。たとえその顔が見えずとも、その声が聞こえずとも、主なる神様しか私を助けてくださる方はいないのだから、私は信じて待つ。そういう信仰が呼び戻された時の告白がここにはあるのだと思います。
 また、
わたしの心は御救いに喜び躍り
主に向かって歌います

 は未来形なのです。「喜び踊ろう」「歌おう」と意思を込めた未来のこととして訳されていたり、「歓喜させてください。わが心にあなたの救いを」と訳されたりします。いずれにしろ未来に起こることです。しかし、その未来とは「主はわたしに報いてくださった」と言える未来なのです。作者は、そういう未来があることを確信して、その時には神様が与えてくださった御救いを喜び踊り、歌いますと言っているのです。
 今は、「いつまで主よ、わたしを忘れておられるのか」と叫ばざるを得ない。でも、この叫びは、この人が主にしか頼っていないことの証しであり、主の「慈しみ」にのみ頼っている証しなのです。「慈しみ」とは、神様の変ることなき契約の愛、赦しの恵みに満ちた愛を表わします。その愛に縋る、ただその愛にのみ縋る、神様が自分を見捨てている、忘れているとしか思えない時も、「神などない」と言われる最中で、それでも「わが神、主」に縋る。それが信仰です。その信仰において、この作者は主なる神様がもたらしてくださる未来を見ているのです。そして、神様の御救いを喜び賛美する自分の姿を確信できるのです。

 希望に生きる信仰の民

 病気が治ったとか、敵が目の前で全員滅んだとか、そういう出来事があった訳ではないでしょう。目の前の現実は、主に逆らう者たちが勝手に振る舞い、卑しむべきことがもてはやされ、神を知らぬ者は「神などない」と言っており、社会は腐敗しているのです。自分が置かれている状況も変らない。そして、彼には神様の答えはまだ聞こえてこない。具体的な助けは来ない。にも拘らず、幼子が実の親だけを慕い、その助けを待つように、「わたしの神、主」「慈しみ」に縋り切る時、その信仰者には未来に対する希望が与えられるのです。そして、私たちはその信仰に基づく希望によって生きている信仰の民なのです。
 アブラハムとサラは子どもなど生まれるはずもない老夫婦であり、サラは不妊の女でした。そして、彼らは土地など持ちようもない異国から来た半遊牧民です。しかし、主はそういう彼らに「あなたの子孫にこの土地を与える」と約束されました。その到底信じ難い約束を信じること、信じて生きること、神様の命令に従って生きること、それが神の民イスラエルの出発なのです。彼らは、何度も何度も疑い、神様を笑うということがありました。しかし、神様はついにアブラハムを信仰の父と言われるまでに育ててくださいました。
 そのアブラハムの孫のヤコブの時代に、彼の家族は難民としてエジプトに下り、結局四百年も滞在することになりました。その間に数が増えた彼らはエジプト王の奴隷に身を落とし、最後は民族絶滅の危機に晒されたのです。しかし、その奴隷の民をエジプトの王ファラオの支配から解放し、約束の地カナンに導き返すことを主はモーセに約束されました。その信じ難い約束を信じる。それがモーセの出発だし、そのモーセの語る言葉を民が信じる。その信仰がエジプト脱出というとてつもない出来事を引き起こしたのです。信じなければ、神の御業は起こらないのです。

 わが神 わが神

 この詩編一三編を読みつつ、主イエスの十字架の場面を思い起こされた方も多いと思います。十字架の下では、祭司長や群衆がイエス様を嘲笑い、「お前を助ける神などいないのだ」と侮辱を繰り返しました。目に見える現実としてはまさにその通りであり、彼らの言うことが正しいのです。天の使いがやって来て、イエス様を十字架から下ろすことはありませんでしたし、イエス様を生きたまま天に引き上げることもなかったのですから。
 でも、イエス様はこう叫ばれました。

「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」

 イエス様にとって叫ぶ相手はこの神様しかいません。イエス様の父なる神様です。その神様に向かって、「わが神、わが神」と叫び続ける。「なぜ、わたしをお見捨てになったのですか」と叫び続ける。そこには絶望の中にある希望、悲嘆の中にある喜びがあると思います。いつの日か、自分を顧み、答えてくださる神がおられることを知っている喜びと希望があるように思います。
 この叫びは詩編二二編冒頭に出てくる叫びです。でも、一三編にしろ二二編にしろ、叫んでいるのは人間です。正確に言えば、罪人としての人間です。しかし、主イエスは神の子です。罪なき神の子なのです。その方が、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれる。それも人々に嘲られつつ死んでいく時に神様に向かって叫ばれる。その時の父なる神様と御子イエス・キリストの間にある現実は、私のような人間がいくら想像しても想像し切れるものではありません。でも、その父と子の間にある神秘としか言いようがない愛と信頼の出来事を通して、神に見捨てられて滅ぶべき私たちが救いに入れて頂いている。私たちは、そのことを信じる神の民なのです。

 顧み 答え

 主イエスにとっての「わが神」は、十字架の時、沈黙されました。主イエスは、再び大きな声で叫んだ後、息を引き取られました。助けはありませんでした。でも、最後まで貫かれた信仰がありました。主イエスの遺体は即座に墓に葬られました。
 しかし、その日から三日目の日曜日の朝、神様の「答え」が明らかになったのです。主イエスの遺体が納められている墓にやって来た女たちに、天使はこう告げたのです。

「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」

 十字架の死からの復活、それがイエス様に与えられた神様からの「顧み」であり、「答え」です。そして、ガリラヤの山の上で主イエスが、弟子たちに近寄って来て言われた言葉はこういうものです。

「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

 私たちは、このイエス様の言葉を信じるのです。信じなければ何も始まりません。主イエスは、私たちが死ぬ時までいつも共にいてくださるのではありません。世の終わりまで、神の国が完成するまで私たちと共にいてくださるインマヌエルなのです。その方を信じて生きる、そこに私たちにとっての平和があります。あらゆる思い煩いや嘆き悲しみを越えた平和があるのです。

 派遣

 私たちは礼拝の最後にいつも「平和の内にこの世へと出て行きなさい」と派遣の言葉を聴きます。これは主イエスによる派遣の言葉です。私たちは主イエスと共に、神に仕え、神を愛し、隣人に仕え、隣人を愛するためにこの世へと出て行くのです。そこには感謝と喜びだけがあるわけではありません。嘲りと侮蔑が待っていることは幾らでもあります。また、何でこんなことが起こるのか?と思わざるを得ないこと、神様の愛を疑いたくなることがあります。信仰の戦いがあるのです。そして、私たちは挫けることもある。神様の御顔を拝することが出来ず、御声を聴くこともできないことがあります。神様の沈黙の闇の中で、「神などない」という人々の声だけが聞こえる時がある。それに呼応してしまう内なる声が聞こえてくる時もあります。
 しかし、そういう時も、実は主イエスは叫んでおられるのです。「わたしはあなたと共にいる」と。「神に見捨てられたわたしがあなたと共にいる」と。「だから最早、あなたは神に見捨てられことはないのだ」と。
 「神に復活させられたわたしは、今や天地を貫いて生きている。神の国のメシアとして生きている。わたしを信じなさい。ただその信仰に生きなさい。信仰に対する報いはあるのだ。何も心配しないでよい。わたしは、あなたの罪が赦されるために十字架に掛かって死んだのだし、あなたが新しく生きるために復活して、世の終わりまで共にいる。いつの日か世は終わる。神の国は完成する。どれほど嘲笑われようとも、あなたたちはその日を目指してこの世へと出て行き、罪の赦しと新しい命の福音を宣べ伝え、人々に洗礼を授けなさい。」
 主イエスは、そうおっしゃるのです。

 聖餐 御国にて祝う日の幸い

 私たちはこれから聖餐の食卓に与ります。そのことを通して、主イエスが私たち罪人の救いのために十字架に死んでくださったことを覚え、主イエスが復活して今も私たちを愛してくださっていることを覚えて感謝し、さらにいつの日か完成する御国をはるかに望み見て喜び、主のみ救いを賛美するのです。

「面影うつし偲ぶ今日だにかくもあるを、御国にて祝う日のその幸やいかにあらん」と賛美しつつ聖餐に与るのです。

 週報にも記しておきましたが、二十九日に戸田良子さんをお訪ねしました。来年の二月で満百歳になる方です。二十五日にお見舞いした和田真理子さんより数ヶ月先に百歳になるのです。その戸田さんにクリスマスの喜びと神様の愛をお話した後、戸田さんはこうおっしゃいました。
 「神様はいじわるばかりする。子どもを病気にして先に死なせて・・」
 そう言って悲しい顔をされました。「でも、この神様しかいないんです。私には、この神様しかいないんです、やっぱり」、とおっしゃいました。
 その後、聖餐に与り、讃美歌二〇五番を歌いました。

「面影うつし偲ぶ今日だにかくもあるを、御国にて祝う日のその幸やいかにあらん」。

 歌い終わった後、ため息をつくようにして、「本当にそうですね」とおっしゃいました。  和田真理子さんもご自宅で聖餐に与った後、「私にはあなたしかいないのです。あなたしか縋る方はいないのです」と何度も何度も祈られたことがあります。 私たちの教会には、幼子の信仰を生きる百歳の方がいるのです。
 この世の現実はまだ続くでしょう。私たちはそれぞれに、今年も厳しい歩みをするでしょう。しかし、主を「わが神」と信じて主を証しする者には必ず御国に生きる平和が与えられます。そして、その者たちを通して御国が広がっていきます。神を信じる喜びと神への賛美が広がっていくのです。それは確実なことなのです。中渋谷教会を通して、全国の教会を通して、世界中の教会を通して、その平和が広がっていく。そのことを信じて、ご一緒に祈りたいと思います。
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