「主は見渡し、探される」

及川 信

       詩編 14編 1節〜 7節
14:1 【指揮者によって。ダビデの詩。】
神を知らぬ者は心に言う
「神などない」と。
人々は腐敗している。
忌むべき行いをする。
善を行う者はいない。
14:2 主は天から人の子らを見渡し、探される
目覚めた人、神を求める人はいないか、と。
14:3 だれもかれも背き去った。
皆ともに、汚れている。
善を行う者はいない。ひとりもいない。
14:4 悪を行う者は知っているはずではないか。
パンを食らうかのようにわたしの民を食らい
主を呼び求めることをしない者よ。
14:5 そのゆえにこそ、大いに恐れるがよい。
神は従う人々の群れにいます。
14:6 貧しい人の計らいをお前たちが挫折させても
主は必ず、避けどころとなってくださる。
14:7 どうか、イスラエルの救いが
シオンから起こるように。
主が御自分の民、捕われ人を連れ帰られるとき
ヤコブは喜び躍り
イスラエルは喜び祝うであろう。


神などない

神を知らぬ者は心に言う
「神などない」と。

 詩編14編は、このように始まります。
 世俗化が進んだ現代社会の中では、「神などない」と言う人の方が圧倒的に多いでしょう。しかし、詩編の書き手も読み手も、二千数百年前に生きていた人々ですし、神に選ばれた民イスラエルの人々です。古代社会において「神などない」と神の存在を否定する人はいません。唯一神教であるか多神教であるかは様々ですが、古代人は神を、あるいは神々を信じ、恐れ、その助けを求めつつ生きていたのです。まして、イスラエルにおいて、「神を知らぬ者」、「神などない」と言う人はいないはずです。

 心に言う

 しかし、14編の始まりは一見すると、そういう人々がいるかのようです。しかし、「神を知らぬ者」「神などない」とその「心に言う」のであって「口に出して」言うわけではありません。「口に出して言う」なんてことは、イスラエルの中で出来ることではありません。
 イスラエルとは、主なる神様が選び出してくださった民です。民が最初にあって、その民が自分たちの神を作り出したのではありません。通常は、民が自分たちの神を作り出し、祭り上げて宗教が生まれます。日本の神々もそうだし、国家神道はまさにそういうものでしょう。
 しかし、イスラエルは逆です。主なる神がアブラハムを選んだのだし、主がその後の彼の子孫の歩みを導いているのです。子孫が増えたことも土地を得たことも、すべて神様の約束が先行しているのです。神様が先にあって、神の選びの民が生み出されていったのです。その民の一員である者たちが、公に「神などない」と口に出して言う筈もありません。
 私たちキリスト者だって同じです。この教会の中で「神などない」と口に出して言う人は、牧師を初め誰もいません。でも、心の中に神様を思い出すことも、御心を尋ね求めることもなく、自分の思いのままに生活をしてしまうことは牧師を初めすべての人にとってあり得ることだし、現にあるでしょう。そういう私たちの日常生活は、「神を知らぬ者」のそれと同じだと言わざるを得ないのです。だから、私たちは毎週、その罪を告白し、赦しを乞い求める礼拝を捧げているのです。

 神を知らぬ者

 「神を知らぬ者」
(ナーバール)は、しばしば「愚かな者」とも訳される言葉です。そちらの方が、字義に沿っているかもしれません。存在として神を知らないとか、いないと思っているわけではなく、神に従う必要はないと思っている。そういう意味だからです。それは、自分のことを「賢い」、強いと思っている人間の特色のひとつです。しかし、実は、それこそが愚かなことなのだ。聖書は、そう語っているのだと思います。
 この「神を知らぬ」「愚か」という言葉は、申命記の32章にも出てきます。そこは、40年の荒野放浪を経て約束の地を目前にした時、モーセがイスラエルの民に向かって厳しい説教をしている箇所です。その中でモーセは、こう語りかけています。

「主は岩、その御業は完全で、
 その道はことごとく正しい。
 ・・・
 主は荒れ野で彼(イスラエル)を見出し、
 獣のほえる不毛の地でこれを見つけ
 これを囲い、いたわり
 ご自分のひとみのように守られた。
 ・・・
 ただ主のみ、その民を導き
 外国の神は彼と共にいなかった。
 ・・・
 お前は肥え太ると、かたくなになり、
 造り主なる神を捨て、救いの岩を侮った。
 彼らは他の神々に心を寄せ
 主にねたみを起こさせ
 いとうべきことを行って、主を怒らせた。」
(32章3節〜16節抜粋)

 出エジプトという救済の出来事の後、パンも水もない荒れ野の旅を守り導いてくださったのは「主なる神」、イスラエルの神です。「目のひとみ」のように守ってくださったのは、主(ヤハウェ)なのです。イスラエルは、その主の選びによって主の民とされ、主の導きの中を歩んできたのです。それなのに、少し豊かになると外国の神々に心を寄せて、その神々を礼拝するようになる。物質的な豊かさのみを求め、それを与えてくれる神を求めるようになる。
 そういうイスラエルのことを、モーセは「愚かで知恵のない民よ」と言います。「愚かで知恵のない民よ、これが主に向かって報いることか。彼は造り主なる父、あなたを造り、堅く立てられた方である」と言うのです。つまり、親を否定し、親がいなくても自分は生まれたし、生きていけると思い込む子どもの愚かさを批判しているのです。親の存在を、またその愛を否定することは、自分の命の根源を否定することです。小さな時は、そんなことは決してしません。しかし、長じて力をつけ、知恵を身につけると、人間はそういうことをする。賢くなったつもりで、実は「愚かで知恵のない者」になってしまう。
 「神を知らぬ者」とは、そういう意味で愚かなのです。「神などない」と思うことは、「自分もない」と自らの存在を否定することなのに、そのことに気づかない。その愚かさのことを言っているのです。

 腐敗し、忌むべき行いをする

 そういう人間が何をするのかと言うと「腐敗し」「忌むべき行いをする」「忌むべき行い」とは、外国の神々に心を寄せて、現世利益を求めて偶像崇拝を取り入れるとか、正義と公正を求める主なる神に逆らって、不平等にして不公正な社会を作ることでしょう。それは、イスラエルの根幹、主なる神の民であることの根幹を自ら否定し、破壊することなのです。「それをやったらお終い」と言うべきことなのです。
 実際、「腐敗している」と訳されたシャーハットという言葉は、ノアの洪水物語の中では「堕落する」と訳され、神様が主語の時は「滅ぼす」と訳される言葉です。腐敗は堕落であり、それは結局、自らに滅びをもたらすことなのです。それは、ソドム滅亡の物語においても同様です。

 善を行わない

 「善を行う者はいない」
とあります。この「善」は、天地創造の際に繰り返された言葉を思い起こさせます。そこには、こうありました。
「神はこれを見て、良しとされた」。
「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」。
 この「良し」と同じ言葉なのです。だから、神様がお造りになった良い世界を壊して行き、そして、自らの良き姿も破壊していく。自ら滅びを呼び込む業をする。それが、善を行わないということでしょう。

 見渡し 探される

 詩編14編には、ノアの洪水物語と共にソドムの滅亡物語で使われる大切な言葉がいくつか出てきます。
 「主は天から人の子らを見渡し、探される。目覚めた人、神を求める人はいないか、と」「探される」は直訳では「見る」です。洪水物語の中には、このようにして出てきます。

「主は地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって(見て)、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた」。
「神は地を御覧になった(見た)。見よ、それは堕落し、すべて肉なる者はこの地で堕落の道を歩んでいた」。

 神が「心を痛め」「人を造ったことを後悔する」。これは、本当に痛切な言葉です。人々は腐敗して滅びの道を歩んでいたのです。その様を、造り主なる神様が見る。そして、滅ぼすことを決意される。これはあまりにも痛ましいこと。しかし、神が滅ぼすのは、人間の滅びの道であって、人間のそのものではない。そのことも覚えておかねばなりません。
 天から「見渡す」は、ソドムの物語では、枠のような形で出てきます。あの物語は、アブラハムの前に現れた神が、高台からソドムを「見下ろす」ことに始まります。そして、アブラハムの必死の執り成しにもかかわらず、結局、十人の正しい者もいなかったソドムを神様が焼き尽くして滅ぼす様をアブラハムが同じ高台から「見下ろす」ことで終わるのです。
 天からソドムを見渡し、神様を求める人を見つけようと探す神様、またソドムのために必死に執り成したのに、ソドムの滅亡を見なければならなかったアブラハムがここにはいます。いずれも、その心にあるものは痛みでしょう。心が引き裂かれる痛みがある。
 「非常に良かった」人間と世界が、愚かで知恵のない人間によって破壊されていく。人間は自分で自分を破壊していく。地球環境を破壊し、目先の利益や快楽を求めて、公平であるべき社会の秩序を壊し、弱肉強食の社会を作っていく。また、人類の英知を傾け、科学技術の粋を結集して、実は自滅をもたらすかもしれない装置や兵器をたくさん作っている。そういう愚かで知恵のない人間を天上から見渡し、見下ろさなければならない神様の苦痛、そして、地上に「神を求める人はいないか」と探し回った挙句、「ひとりもいない」という現実を突きつけられる神様の悲痛を思わないわけにはいきません。

 矛盾?

 この詩は、「神を知らぬ者」「神などない」と心に言う人がいると言った途端に「善を行う者はいない。ひとりもいない」と断言するに至ります。もう、すべての人が「神を知らぬ者」であるかのようです。そして、彼らは貧しい人々を食い物にしている。しかし、その直後には「神は従う人々の群れにいます」と言う。「神に従う人」「義人」とも訳される言葉です。「善を行う者はひとりもいない」と言った直後に「神は義人の群れの中にいる」とは、義人がいるということですから、表面だけを読めば矛盾していると言わざるを得ません。
 今日は、こういう表現を客観的事実を告げる言葉として受け止めるのではなく、神様の心や業を際立たせる表現として受け止めておきたいと思います。

 神様の心

 ノアの洪水物語やソドムの滅亡物語でも、その冒頭では、地上やソドムには善を行う人が一人もいないかのように書かれています。でも、実は神に従うノアがいましたし、神の正義を問うアブラハムがいたのです。また、神様は地上の人々やすべての生物、またソドムの人々を「滅ぼす」とおっしゃいます。でも、実は、ノアとその家族、またすべての生き物を生き延びさせることが洪水の目的だし、ロトとその娘はアブラハムの故にソドムの滅亡から救い出され、モアブとアンモンという民族が誕生していくのです。
 神様の御心は、人間と世界を滅ぼすことではありません。ご自身が創造された「極めて良い」世界を完成させること、堕落や腐敗から救うことなのです。その心をこそ、私たちは見つめるべきでしょう。

 この世の中心

 2週前の説教の中で、私はある映画で描かれていた「十字架を担うキリスト」というブリューゲルの絵の話をしました。その絵の真ん中に、目を凝らして見ないと分からない小ささで、十字架を担うキリストが描かれています。しかし、周囲にいる人々の視線はキリストの十字架には注がれていません。どうでもいいドタバタ騒ぎの方を見ている。
 絵の左側には塔のように聳え立つ岩山があり、その頂上に風車小屋があります。ブリューゲルによると、そこは神の御座所である天の象徴です。風車小屋の主人が、そこから地上を見渡すのです。そこには享楽があり残虐がある。そして忘却があります。そのことの故に、繰り返される腐敗と忌むべき行為があるのです。そして、地上の誰も十字架を担うキリストを見てはいない。しかし、たった一人、神の子イエス・キリストが十字架を担って、十字架の死に向かって歩んでいる。誰もその姿を見ていなくても、風車小屋の主人は黙ってその姿を見ているのです。悲憤に満ちた顔をして見つめているのです。

 目覚める

「主は天から人の子らを見渡し、探される。
 目覚めた人、神を求める人はいないか、と。」

 「目覚める」
とは、凝視するとか、洞察するという意味を含み、「賢い」と訳されることもある言葉です。映画の中で、ブリューゲルは、「人々は本当に大切なものを見ないものだ」と言っていました。そして、その見つめるべき大切なものとして十字架を担うキリストを真ん中に小さく描いているのです。しかし、その十字架を凝視する人はいない。皆、愚かであり、賢い人がいないのです。
 その愚かさの中で「悪を行う者」は、神の民を食い物にして平気な顔をしている。「貧しい人」を痛めつけている。しかし、「そのゆえにこそ、大いに恐れるがよい」と、この詩の作者は言います。
 5節6節は本文が難しく、随分異なる訳がされる箇所です。私としては、「そのゆえにこそ」は、「そこにおいてこそ」という場所を表す言葉として、解釈したいと思います。つまり、社会的に上に立つ者たちが弱く貧しい人々を弾圧し、裁く、その場においてこそ、彼らは神を大いに恐れることになると受け取りたいのです。その理由は、後に述べます。

 貧しい人

 話があちこち飛ぶようで申し訳ありませんが、私たちは、月に3回はルカ福音書の御言を読んでいます。先週、読んだ主イエスの言葉の中にこういう言葉がありました。

「貧しい人は福音を告げ知らされている」。

 その直前には、病や障碍で苦しむ人々を癒す業が語られています。言うまでもなく、病、特にハンセン病が疑われるような重い皮膚病を患っている人や、目や耳に障碍を負っている人々は、社会から隔離されたり、また道端に座って物乞いをしつつ生きる他にありませんでした。それらの人々は、様々な意味で貧しい人々であり、それ故に神様に救いを求めている人々です。宗教社会の中で、それは単なる病や障碍の癒しではなく、罪の赦しを求め、神様に「良い」と言って頂くことを求めているのです。しかし、そういう人々を「生まれながらの罪人」とか、親の代の罪の結果を身に受けた人として見捨てているのが当時のユダヤ教社会でした。いや、それはいつの時代にも見られる人間社会の一つの傾向です。

 捕われ人を解放するメシア

 でも、神様はご自身の霊を注ぐメシアを、そのような人々のために遣わされます。イエス様がナザレの会堂で読んだイザヤ書の預言にも、「貧しい人々へ福音を告知」するメシア、捕われている人、圧迫されている人に自由と解放を与えるメシアの到来が告げられていました。その言葉は、14編の7節の「主がご自分の民、捕われ人を連れ帰られるとき、ヤコブは喜び踊り、イスラエルは喜び祝うであろう」と呼応する言葉でもあります。
 今日の詩編の中では、「貧しい人」「神に従う人」は同じ人々であり、彼らは悪を行う者たちによって弾圧され、捕われている。
 神様はその人々を「御自分の民」として救い出してくださる。その希望が7節では語られていると思います。
 しかし、実はもう一つ全く別の救いが起こると語っているのではないか。

 神の義

 そのことを知るために、私たちは再び新約聖書を読まねばならないと思います。
 この14編は、パウロがローマの信徒への手紙3章に引用している大事な詩です。
 彼はこう言います。

「ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。
(つまり、すべての人が罪人だということです。)
 次のように書いてあるとおりです。
 『正しい者はいない。一人もいない。
 悟る者もなく、
 神を探し求める者もいない。
 ・・・
 善を行う者はいない。
 ただの一人もいない。
 ・・・
 彼らの目には神への畏れがない。」

 そして、彼はこう続けます。

「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。」

 「信じる者」
はすべて、ユダヤ人であれ異邦人であれ、神の義が与えられる。そこには何の差別もない。これがイエス・キリストを通して与えられた新しい契約です。新約聖書は、その契約を語っているのです。

 わたしの民

 今日の詩編の中には「民」という言葉が2度出てきます。まず、4節に「わたしの民」と出てきます。そして、7節には「御自分の民」と出てくる。学者の中には、7節は後世の付加であり、バビロン捕囚によって連れ去られた民がシオン・エルサレムに連れ帰られるという救済の出来事を語っているのだと考える人もいます。もちろん、歴史的な見地から見れば、それは妥当な解釈です。
 しかし、新約聖書を含めてこの詩を解釈することも意味があることだと思います。
 この詩編の作者も最初の読者もイスラエルの民です。つまり、神の民です。だから、「わたしの民」とか「御自身の民」と言われるのです。しかし、その神の民の中に、悪を行う者たちによって食い物にされ、裁かれている人々がいる。その人々を神様は愛しておられます。何とか救いたいと願っておられるのです。
 しかし、主を呼び求めることなく、「悪を行う者」たちもまた、神の民イスラエルの人々であり、神様にしてみれば「御自分の民」なのです。彼らは「神などない」と心で思いつつ、神殿で礼拝を捧げもするでしょう。しかし、日常生活では神を求めることなく、腐敗し忌むべきことを行い、貧しい義人を弾圧している。神の名によって裁いている。しかし、まさにその彼らの腐敗しきった裁きの場においてこそ、彼らは「大いに恐れる」ことになるのです。彼らも、神が愛する民だからです。

 「わたしの民」の拡大

 新約聖書は、「わたしの民」をユダヤ人だけでなくギリシア人にまで広げていきます。つまり、異邦人もまた神様が愛して止まない民なのです。両者共に、神様から見るならば、罪によって捕われている憐れむべき人間たちなのです。そうであるが故に、捕われの状態から解き放って、御自身の都シオン・エルサレムに連れ帰ろうとして下さっているのです。つまし、エルサレムに立つイエス・キリストの十字架の許に連れ帰り、その十字架の死と復活を通して新しい人間に造り替えようとしてくださっているのです。そして、そのようにして救われた人々が「喜び踊り」「喜び祝う」ことが出来るようにしてくださっているのです。そこにこそ、神様の喜びがあるからです。

 十字架の上と下

 ルカ福音書の十字架の上と下で、その救いの御業が端的に現れていると、私は思います。
 十字架の上には、磔にされた犯罪者がおり、十字架の下には主イエスと二人の犯罪者を十字架に磔にした百人隊長がいます。犯罪者は「ユダヤ人」であり、百人隊長は「異邦人」です。真っ向から対立する立場の人たちです。
 犯罪者は、「父よ、彼らの罪をお赦しください。彼らは自分が何をしているのか知らないのです」と祈る主イエスの姿に罪の赦しを与えてくださるメシアの姿を見、主イエスをメシアと信じてこれまでの自分の罪を悔い改め、赦しを乞い求めました。そして、「今日、あなたはわたしと一緒に楽園にいる」と主イエスに言っていただくことになりました。
 ローマの総督による裁判で十字架刑が最終的に決まったイエス様を、ローマの軍人として処刑したのが百人隊長です。彼は、十字架上の主イエスの祈り、犯罪者との対話、神に霊を委ねつつ息を引き取る姿を見て、「『この人は、本当に正しい人だった』と言って神を賛美した」のです。この「正しい人」「正しい」は、パウロがローマ書で言う「神の義をお示しになった」「義」と同じ言葉です。
 自分たちの法の正義に基づき、罪人として裁いた人間の死の中に、神の義が現れている。正しい方を罪人として処刑することで罪人の罪を赦すという信じ難き神の義が現れている。そのことを彼は直感し、賛美しつつ信仰を告白したのではないでしょうか。
 人間の法律によって処刑された犯罪者と、法の正義に基づいて犯罪者を処刑した百人隊長が、それぞれの立場から、イエス様の十字架の死を凝視することによって、自分は罪に捕われている罪人であることを知り、神の義を知らされたのです。この十字架の主イエスにこそ、義なる神がおられることを知ったのです。そして、この方の死を通して、神は自分の罪を赦し、救ってくださることを信じたのです。
 彼らは、それぞれに神を知らぬ者たちでした。しかし、十字架の主イエスを見て、そこに神の義が現れていることを信じる信仰を与えられ、その信仰の故に救われたのです。「神はいる」ことを、裁きの場で知ったからです。
 神は今日も天から、見渡し探されます。「目覚めた人、神を求める者はいないか」と。神の言葉を通して、神が十字架の主イエスの中におられることを知らされ、信じた私たちを見る時、神様は喜び踊り、喜び祝ってくださるでしょう。あの放蕩息子が帰ってきた時、「この子は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかった」と言って大喜びで宴会を開いたあの父の様にです。
 私たちがこれから与る聖餐の食卓は、何よりも天地を貫く祝いの食卓です。主イエス・キリストを通して私たちの罪を赦した神様の喜びと、罪赦された私たちの喜びが溢れる食卓なのです。この食卓に集う私たちを神様は天から見渡し、喜んでくださっています。何と幸いなことでしょうか。
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