「主よ、どのような人が」

及川 信

       詩編 15編 1節〜 5節
15:1 【賛歌。ダビデの詩。】
主よ、どのような人が、あなたの幕屋に宿り
聖なる山に住むことができるのでしょうか。
15:2 それは、完全な道を歩き、正しいことを行う人。
心には真実の言葉があり
15:3 舌には中傷をもたない人。
友に災いをもたらさず、親しい人を嘲らない人。
15:4 主の目にかなわないものは退け
主を畏れる人を尊び
悪事をしないとの誓いを守る人。
15:5 金を貸しても利息を取らず
賄賂を受けて無実の人を陥れたりしない人。

これらのことを守る人は
とこしえに揺らぐことがないでしょう。


 「教会は敷居が高い」?

「主よ、どのような人が、あなたの幕屋に宿り
聖なる山に住むことができるのでしょうか」。


 詩編一五編は、こういう言葉で始まります。
 「教会は敷居が高い」とよく言われます。皆さんも、教会に来る前にそう思われていたと思います。先日の全員協議会の協議事項の一つは、「特別伝道礼拝」という呼び方の問題でした。この名称をそのままチラシに書くことが教会の敷居を高くしているのではないか。そういう思いがあると言われたからです。
 しかし、そのこととは別に、私は何故「特別伝道礼拝」というものを持つのかについても改めて考えました。その理由の一つは、普段の礼拝での説教が初めて礼拝に来られた方たちにとっては分かりにくいからだと思います。私の場合は特にそうだと思います。私は、毎週の礼拝においては連続して礼拝に来られる方を対象とする説教をします。聖書を読む、聖書を通して神様の語りかけを聴く。そのことに集中したいのです。
 しかし、そういう礼拝に出たこともない人が「教会の敷居が高い」と思っている場合があります。それは、礼拝に行くと牧師から「清く正しく生きなさい」なんて言われて、今より生きにくくなることは嫌だと思っていたり、クリスチャンなんて偽善者に自分はなりたくないと思っている場合もあるでしょう。私は、信仰の世界に入る前は、今言った両方の思いを持っていました。実際に教会の中で生きていれば、いずれの思いも当たっているような、外れているような感じがします。

 礼拝者の資格

 詩編一五編、この詩編の背景には、エルサレム神殿に礼拝に来た人と祭司がその入り口で行った問答があると言われたりします。神殿に来た礼拝者が、聖なる神殿で生ける神様に礼拝を捧げる資格がある者はどういう人ですか?と問いかけると、祭司が「それは完全な道を歩き、正しいことを行う人」と答える。そういう儀式があったと推測されるのです。
 古今東西を問わず、聖なる空間に入って礼拝をする前にすべきことがあると思います。神社に入る前に水で口をゆすぐとか、手を洗うとか、ここから先は土足厳禁だとか、この部屋には身を清めた神官しか入れないということがあります。
 皆さんも、日曜日にこの建物に入る瞬間、さらに礼拝堂に入る瞬間に、心を引き締めるというか、一種の緊張をもって入られると思いますし、そうであるべきだと思います。あまり気軽に入って来る所ではないのです。何故かと言えば、私たちは神様を礼拝するために礼拝堂に入ってくるからです。一週間ぶりに親しい人と会うために入ってくるのではありません。だから、礼拝前には、知り合いを探して隣に座ったり、座った途端に挨拶したり、ひそひそ話すことをしないように気をつけています。そのことが、この礼拝堂に入る時に注意すべきことです。
 いつから書かれているのか私は知りませんが、中渋谷教会の週報の裏面に「礼拝者の心得」として「定刻前に着席し、私語をつつしみ、静かに祈りつつ待ちましょう」とあります。初めて来る方以外には必要のない言葉だと思います。

 何が問われているのか?

 しかし、この詩編一五編では、「幕屋」とか「聖なる山」に象徴されているエルサレム神殿に入る時に、これからは喋らないようにとか、礼拝するに相応しい服を着てきたかとか、献げ物を持ってきたかとか、そういう礼拝に関する注意事項が語られているわけではありません。そうではなくて、主を礼拝する者が、どのように生きてきたか、どのように生きているかが問われているのです。礼拝と生活、信仰と倫理が密接不可分のものとして提示されているのです。

 主よ

 詩編を月に一回読み始めて十四回目になります。その間に何度も「主よ」という呼びかけを読んできました。来月読むことになる一六編は「神よ、守ってください」から始まります。百五十の詩の中に、「主よ」「神よ」と一体何回出てくるのかと思います。その一つ一つが痛切な叫びだと思うのです。その叫びはどこから出てくるのか。今日は、そのことに思いを凝らしたいと思います。

 どのような人が

 一五編の作者は、「主よ」と呼びかけ、あるいは叫びつつ、「どのような人が」神殿で礼拝できるのかと問いかけます。どのような人が主の御言を聞き、主を賛美できるのかと問いかけるのです。それは、一般論の問いではありません。自分の存在をかけた問いです。「私は、礼拝できるのか。礼拝させていただきたい。主の御顔を拝したい。その御声を聞きたい。主を賛美したい。礼拝することを許してください」。そういう願いが、そこには込められている。私は、そう思います。
 その問いに対する神様の答えが二節以下に出てきます。

それは、完全な道を歩き、正しいことを行う人。
心には真実の言葉があり
舌には中傷をもたない人。
友に災いをもたらさず、親しい人を嘲らない人。
主の目にかなわないものは退け
主を畏れる人を尊び
悪事をしないとの誓いを守る人。
金を貸しても利息を取らず
賄賂を受けて無実の人を陥れたりしない人。


 今日は一つ一つの言葉の意味を吟味することはしません。ここに描かれる人は、裏表なく、心においても行動においても、神の御心にかなう正しいこと、義を行う人です。

 打ちのめされる信仰者

 こういう言葉をここに記す時、この人はどういう思いだったのだろうか?"自分は、まさにこういう人間だ、だから胸を張って神様を礼拝できるのだ!なんと幸いなことか!"と思っていたのだろうか?
 私は違うと思うのです。彼は神様が望んでおられることを示され、それを書きながら、打ちのめされていったのではないかと思います。何の根拠もありません。でも、そう思う。
 神様が望んでおられることは、裏表なく、心の思いも行動も御心に従うことです。神様は、そのことにおいて「完全」を求められるのです。完全な義を求めておられる。「六十点でも合格だ。八十点なら上出来だ」という基準で人を見ない。レビ記には、"神は聖なるお方である。だから、神の民も聖なる者でなければならない"とあります。その「聖」には、一点の汚れがあっても駄目なのです。たとえば、純白の画用紙に一点だけ黒い染みがあれば、もうそれは純白の画用紙ではありません。それが商品であれば売り物にはなりません。ここで主が求めているのは、その純白、完全なのです。
 そして、その完全を生きる者は、「とこしえに揺らぐことがないでしょう」と一五編の作者が言う時、彼は自分の口から出る言葉を自ら聴きながら、その言葉に打ちのめされていると思います。

 人間の惨めさ

 以前、こういうテレビコマーシャルを見たことがあります。何の商品のコマーシャルだったかは忘れてしまいましたけれど、小学生の子どもたちが集まってワイワイ話し合っているのです。一人が「お父さんやお母さんは、喧嘩しちゃ駄目なんて言うけどさ、自分たちだってしょっちゅう喧嘩しているじゃん」と言うと、他の子どもたちが、「そうそう、やってるやってる」と笑いながら頷くのです。大人は、子どもに「あれしなさい、これはしては駄目」と色々言うのですが、子どもにはするなと言うことを自分ではやっており、やれと言うことはやっていない。そういうことがよくあります。家の中でも職場の中でもあるでしょう。大人とは、そういうものです。そして、そういう大人の言葉が大人自身を裁き、その欺瞞を暴いているのです。しかし、そのことに気付く人と気付かぬ人がいます。私は、この詩の作者は気付いている人だと思います。
 その彼が、「これらのことを守る人は、とこしえに揺らぐことがないでしょう」と言う時、守れない自分を思って、根底から揺らいでいると思うのです。だからこそ、自分の存在をかけて「主よ」と呼んでいる。そう思います。

 傲慢か絶望か

 パスカルが、『パンセ』の中で言っている言葉を少し引用します。

「人間は葦に過ぎない。自然の中でも一番弱い葦に過ぎない。だが、それは考える葦である」。
「人間は惨めである。自分の惨めさを知るのは惨めなことである。しかし、自分が惨めだと知るのは偉大なことである」。
「わたしたちの惨めさを慰めてくれる唯一のものは気晴らしである。ところが、これこそ、わたしたちの惨めさの中で最大のものである。気晴らしはわたしたちを楽しませ、知らず知らずの内に死に至らせる」。
 そして、彼は、こうも言うのです。
「自分の惨めさを知らずに神を知ることは、傲慢を生む。神を知らずに自分の惨めさを知ることは、絶望を生む。イエス・キリストを知ることは、そのほど合いを作り出す。わたしたちは、そこに神と自分の惨めさを見出すからである」。

 ファリサイ派と徴税人

 水曜日の聖研祈祷会では、礼拝説教の備えも兼ねてルカ福音書を読んでいます。今は一八章です。そこに、神殿に上って来たファリサイ派と徴税人に関するイエス様の譬話があります。
 ファリサイ派の人は、立ち上がって心の中でこう祈るのです。

「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」

 つまり、「わたしは『完全な道を歩き、正しいことを行う人』であることを感謝します」と祈っている。
 しかし、徴税人は目を天に上げることもなく、胸を打ちながら、「心の中で」ではなく、叫ぶようにしてこう祈るのです。

「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」

 イエス様は、「義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」とおっしゃいました。
 ファリサイ派の人は、自分では完全な道を歩んでいると確信しており、そのような自分であることを神様に感謝しています。しかし、彼は、実は神を知らぬ者であり、そうであるが故に傲慢であり、そして惨めなのです。更に、自分の惨めさを知らぬという惨めさが加わっています。
 それに対して、徴税人は自分が罪人であることを知っています。知らざるを得ないのです。毎日、罪を犯しながらでしか生き得ないのですから。その行為においてだけでなく、心においても神の御心に適わないことを知っている。だから、彼は惨めです。しかし、その惨めさを知っている。だから、彼は「神様」と呼ぶ、叫ぶのです。自分は神様の御前に出ることなど出来ない、そんな資格などない、そのことを知っている。でも、いや、だからこそ彼は神様の御前に出てこざるを得ないのです。そして、「憐れんでください」と叫ぶ。神様の憐れみだけが、彼の頼りだからです。自分の中に頼るべきものが、何もないからです。
 先週の説教で語りましたように、父親の遺産を食い潰し、最早、「父よ」と呼ぶ資格などない弟息子は、そうであるが故に、父の憐れみに縋る以外に生きる道がありませんでした。この徴税人も、神様の憐れみに縋る他にない。そこに、人間の惨めさがあります。でも、その惨めさを知る所に、実は人間の偉大さもある。
 しかし、人はその偉大さの故に自らを救うことが出来るわけではありません。自分が風に揺らぐ葦であることを知ったところで、葦が大木になるわけではありません。葦は葦です。弱い存在です。そのことを知っていても知らなくても、その事実は変ることがないのです。しかし、事実を知ることからしか新しいことが始まらないのも事実です。

 子どもと議員

 詩編一五編の作者は、自分の惨めさを知った人だと思います。そして、そうであるが故に、「とこしえに揺らぐことがない」人生を求めたのです。しかし、その人生を生きるために必要なことを人間はすることが出来ません。完全な道、正しいことを完璧に行うことは誰も出来ないのです。
 ルカ福音書一八章は、先ほどのイエス様の譬話の後に、「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」という主イエスの言葉を記します。そして、幼い時から聖書に記されている律法を忠実に守っている金持ちの議員が、イエス様に問いかける話が続くのです。
 彼は、こう問います。
「善い先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」。
 これは、何をすれば「とこしえに揺らぐことがない」人生を生きることが出来るでしょうか、という問いです。
 イエス様は、「律法を守りなさい」と、詩編一五編に書かれているようなことをおっしゃるのです。彼は、「幼い時からすべて守っている」と答えます。するとイエス様は、「あなたに欠けているものがまだ一つある」と言い、財産を全部売り払い、そのお金を貧しい人に施した上で、「わたしに従いなさい」とおっしゃる。
 金持ちの青年は悲しみました。彼は、イエス様に言われたことを実行できないのです。完全な道を生きてきたと自負しながら、心のどこかに不安を抱えていた彼は、自分の惨めさをうすうす知っている人間です。その惨めさを払拭したいのです。しかし、幼子の様な惨めさを受け入れることはできない。
 幼子は惨めです。昨日の午前、調布の市民講座に行きました。高いビルの八階が会場なのですけれど、帰りのエレベーターに二人の小さな子を連れた母親が乗ってきました。その途端に、小さな弟の方が大人たちで混雑している狭い空間が怖くて泣き出しました。母親に抱き上げて貰いたいのです。そうして貰わないと、彼は安心できない。でも、母親がしゃがんで抱き上げるなんてことは出来ないので、彼はずっと恐怖に引きつった顔をして泣いていました。
 子どもとは、そういうものです。親に抱いて貰った上で"私がいるから安心だ。しっかりと抱いているから。"そういうことを体全体で伝えて貰わないと安心できない。言葉で言われるだけではだめです。そこに子どもの惨めさがあります。親がいなければ生きていけない惨めさがあるのです。でも、だからこそ、彼らは親に縋り、その愛だけを求めます。彼らにとって財産は意味がありません。エレベーターの中で、お金を貰えば大人は喜ぶでしょう。でも、幼子は、親に抱き上げられることだけを求めます。ただただ親の愛を必要としている。それは惨めな姿です。でも、それは人間にとって本当に必要なものが何であるかを知っているということでしょう。「神の国には、このような者たちが入るのだ」と、主イエスは言われます。

 礼拝での祈り

 詩編を少しずつ読み進めて、「主よ」「神よ」という呼びかけ、あるいは叫びを何度も聞く中で、これらの詩、祈りを遺した人々の痛切な思いが次第に体の中に入ってきました。そして、私たちが礼拝の中で祈る祈りが少し分かってきました。
 礼拝の司式をしながら祈る時、真っ先に湧き起こってくる思いは、今日もこうして礼拝を捧げることが出来るその事実に対する驚きであり、感謝です。神様の臨在を感じ、その光に照らされて立っていることが分かるとき、言い知れぬ恐れと感謝が沸き起こってくるのです。
 私たちは、真っ白な画用紙に一点の染みがついているという人間ではありません。一週間の歩みの中で、身も心も汚れてしまった人間です。染みだらけなのです。世の闇の中では、そんなことは見えません。見えたとしても鮮明ではない。しかし、この礼拝堂に入り、礼拝の時間が近づき、奏楽がなり始めると、光が射してきます。それは大きな喜びの時でありつつ、自分の汚れを知らされる時です。それは恐ろしい時でもある。
 そして、その光に裸の恥、それも汚れてしまった裸の恥をさらしながら神様の御前に立つ。神様が求めておられることは分かる。でも、そのことを行えなかった自分もよく分かる。気晴らしに明け暮れていた一週間の欺瞞が分かる。それでも、いや、むしろそれだからこそ、私たちを御前に呼び出して、礼拝をする者として立たせてくださっている神様の「憐れみ」が分かるのです。その時、私たちは「主よ」と祈り始める。「主よ、感謝します」「主よ、申し訳ありません。どうぞ赦して下さい」と祈り始めます。そのように呼びかけて祈る資格はない。でも、それでも、いやそれだから、祈るしかないのです。

 アッバ

 福音書には、イエス様が祈った姿が何度も描かれています。イエス様は、神様を「父よ」と呼びました。それはイエス様独特の呼び方です。イエス様だけが無条件に神様を「父よ」と呼べるのです。神様の子だからです。イエス様は、神様を「アッバ」と呼びました。これは幼子が父を呼ぶ時の言葉、「お父ちゃん」という言葉だと言われます。その呼びかけを聞いた人々の驚きは深かったのです。聖書の中に三箇所、ギリシア語の「父よ」という呼びかけの前に「アッバ」と記されている所があります。
 そのうちの一つは、マルコ福音書のゲツセマネの園の祈りの場面です。イエス様はそこで、「わたしは死ぬばかりに悲しい」と弟子たちに言われた上で、「アッバ」と呼び、祈られました。

「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」

 神様の御心、それは、罪なき神の独り子が罪人の罪を背負って十字架に掛かり、罪に対する裁きを受け、父なる神に見捨てられて死ぬ。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫びつつ死ぬ。見捨てたとしか思えぬ神に、それでもその愛に縋りつき、父なる神を呼び続ける。その全存在を父の御手に委ねる。そうしながら、罪人の罪の赦しのために祈る。「父よ、彼らをお赦しください」と祈る。その御心を、主イエスは完全に生きてくださったお方です。

 憐れみ

 この十字架のイエス様の姿の中に、あの徴税人が祈りの中で切実に求めた神様の「憐れみ」が現れているのです。この「憐れみ」が与えられなければ、罪人は神様の前に立てないのです。「神様」と呼ぶことすら出来ない。己が罪を知らぬ者は、平然と感謝しつつ「神様、神様、主よ、主よ」と気軽に呼びますが、己が罪を知っている者は、神様の前で顔を上げ得ない。でも、己が罪を知っているから、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と叫ぶように祈るしかないのです。そして、その人間を義として下さるのは、イエス・キリストの父なる神様です。ただこの方だけなのです。罪なき神の独り子、この世でただ独り、神様を「父よ」と呼ぶ資格のある方を十字架に磔にし、死の中に落とし、しかしその死の中から甦らせ、再びその懐に抱き上げ給うた神、ただこの方だけなのです。ご自身に背き、離れ去り、最早「父よ」と呼ぶことさえ出来なくなった惨めな私たち罪人の罪を赦し、再びご自身の子どもとして迎え入れ、抱き上げてくださるお方は、この方だけです。

 神の子とされた私たち

 パウロは、イエス・キリストの十字架の死と復活を信じる者に与えられる義、つまり救いを語り続けた人です。詩編一五編二節の「正しいことを行う人」とは義を行う人を意味します。罪人だった者が、主イエス・キリストを通して示された恵みによって義人とされる。それが、パウロが語る救いです。
 その救いは、聖霊によって与えられるものです。義とされることも、義とされた者が正しく生きることも、聖霊の注ぎを受けることによってのみ可能なことなのです。
 その聖霊の注ぎを受け入れつつ生きる者のことを、パウロはローマの信徒への手紙の中でこう言っています。

「もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。・・・
神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。・・・この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです。この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです」。


 私たちも、神様を「アッバ」と呼ぶことが出来る。「お父ちゃん」と呼んで、その胸に飛び込んでいくことが出来る。それが救いです。そして、キリストを通して与えられた父の愛に包まれた時にのみ、私たちは神の子として、永遠の命を、天の御国を受け継ぐことができるのです。一五編の作者が、慕い喘ぐように求めた「とこしえに揺らぐことがない」人生とは、ここにあるのです。
 そのキリスト者の人生にも苦しみはあります。むしろ多いかもしれません。でも、その苦しみは神の御子イエス・キリストと共なる苦しみなのですから、とこしえの御国を受け継ぐ望みに満ちた苦しみです。その苦しみの中で、私たちはイエス・キリストの名によって「主よ」と呼び、「父よ」と呼び、祈りつつ生きるのです。主なる、父なる神様は、イエス・キリストの故にその祈りを聞いてくださいます。そして、この世の財産ではなく、朽ちることのない財産、永遠の愛、永遠の命をもって私たちを生かし続けてくださるのです。
 これから与る聖餐の食卓は、まさにその命を与えてくれる恵みの食卓です。天地を貫き、歴史を越える命の食卓なのです。悔い改めと信仰をもってこの食卓に与り、心から主を賛美したいと思います。

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