「あなたはわたしの主」

及川 信

       詩編 16編 1節〜11節
神よ、守ってください
あなたを避けどころとするわたしを。
主に申します。
「あなたはわたしの主。あなたのほかにわたしの幸いはありません。」
この地の聖なる人々
わたしの愛する尊い人々に申します。
「ほかの神の後を追う者には苦しみが加わる。
わたしは血を注ぐ彼らの祭りを行わず
彼らの神の名を唇に上らせません。」
主はわたしに与えられた分、わたしの杯。
主はわたしの運命を支える方。
測り縄は麗しい地を示し
わたしは輝かしい嗣業を受けました。
わたしは主をたたえます。
主はわたしの思いを励まし
わたしの心を夜ごと諭してくださいます。 わたしは絶えず主に相対しています。
主は右にいまし
わたしは揺らぐことがありません。
わたしの心は喜び、魂は躍ります。
からだは安心して憩います。
あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく
あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず
命の道を教えてくださいます。
わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い
右の御手から永遠の喜びをいただきます。


 昨晩八時二十二分にWMさんが入院先の病院にて息を引き取られました。知らせを受けて駆けつけた時はまだ温かく、とても安らかなお顔で慰められました。九十九歳十ヶ月余りのご生涯でした。今日、こうしてWMさんのご遺体を前にして共に礼拝できることは、つい二年ほど前まで礼拝に通い続け、「礼拝している時が最も幸せな時なのです」とおっしゃっていたWMさんにとって相応しいことであり、また私たちにとっても大きな慰めです。ご葬儀は、明後日の午後一時半から執り行います。
 WMさんが愛した聖書の言葉の一つは詩編八編でした。その中の「人の子は何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは」という言葉です。浜辺の一粒の砂のような小さな存在である一人の人間を、神様はご自分の目の瞳のように大切に愛してくださる。その愛に衝撃を受け、神様を賛美する人間の言葉です。その賛美の言葉を、WMさんはご自身の賛美の言葉とされたのです。

 読み継がれてきた詩編

「神よ、守ってください
あなたを避けどころとするわたしを」。


 詩編一六編は、こういう祈りの言葉で始まります。
 今から二千数百年前に、ある人がこういう祈りを神様に捧げたのです。そして、その祈りの言葉は、本人かあるいはその祈りを聞いた人々によって書き記されていき、ついに百五十もの祈りや信仰告白などが集められた「詩編」の中に加えられることになりました。それは、これらの詩が長い歴史を貫いて多くの人々の共感を得たことの証しでもあります。そして、その後の二千年間、数え切れない人たちが「詩編」に収録されている詩を読み、その意味が分からずに煩悶したり、まるで自分の祈りや賛美の言葉であるかのように諳んじてきたのです。WMさんもその一人ですし、この詩もその一つです。
 詩編一六編は、新約聖書の使徒言行録でペトロの説教の中に引用されている大事な詩です。彼は、イエス・キリストが十字架の死から復活されたことを語る際にこの詩編一六編八節以下を引用してこう言っています。

「『彼は陰府に捨てておかれず、
その体は朽ち果てることがない』
 と語りました。神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。」


 受難週

 今日の礼拝は、週報にも記載されていますように「棕櫚の主日礼拝」とか「受難週礼拝」と呼ばれます。二千年前の今日、イエス様はロバの子に乗ってエルサレムに入城されました。多くの人々が棕櫚の葉を手に持って来るべきメシア、王としてイエス様を大歓迎したのです。しかし、それから僅か数日経った木曜日の晩には、イエス様は弟子たちと「最後の晩餐」をとり、金曜日には十字架に磔にされて処刑されてしまいました。そして、日曜日に復活をされました。ですから、私たちキリスト者にとって今日からの七日間は、イエス・キリストが十字架の死に向かい、さらには復活の命に向かって歩まれたことを心深く覚える一週間です。

 臨死体験

 イエス様は、十字架に磔にされつつ詩編二二編冒頭の言葉で祈られました。それは、こういう言葉です。

「わたしの神よ、わたしの神よ
なぜわたしをお見捨てになるのか。
なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず
呻きも言葉も聞いてくださらないのか。
わたしの神よ」。


 詩編二二編の作者は、その後、自分は「虫けら」であり「屑」だと嘆きます。「わたしの神」と信じ、愛し、慕う方が、最早自分のほうを見てくれない、叫びを聞いてくれないからです。彼にとっては、神様がいつでもその目で自分を見守り、見張ってくれることが安心して生きる根拠、喜びをもって生きる根拠だったのです。幼子が親を呼ぶ時のように、神様を呼べばいつでも「な〜に?どうしたの?わたしはここにいるよ」と耳を傾けてくれることが最大の安心であり喜びだったのです。しかし今、その「わたしの神」から見捨てられてしまった。泣こうが喚こうが顔を向けてくれないし、耳を傾けてくれない。もう御顔を仰ぎ見ることができない。神様の臨在を感じることが出来ない。自分は完全な孤独の中にいる。そう感じざるを得ないのです。
 その時、人は自分の存在が無になってしまった悲しみを味わいます。自分は今や、踏みつけても足に痛みを感じない「虫けら」であり、無用の「屑」だと思わざるを得ないのです。それは一つの臨死体験だと思います。神様が目の前にいないと感じる。それは、主なる神様を唯一の頼みとしていた人間にとって死の経験です。

 愛の衝撃

 つい先日、「世界の衝撃映像」とかいうテレビ番組の中で、ビルから飛び降りそうな女性の姿が映し出されました。中国での出来事です。なんでも恋人に別れを告げられて傷つき、死のうと思ったというのです。でも、死に切れず雨どいをつたってずるずる落ちる最中に救出されました。ナレーションは女性の声でしたが、「男如きのことで死のうとするなんて馬鹿馬鹿しいわよね〜〜」と嘲笑していました。確かにその通りなのです。その通りなのですけれど、男であれ女であれ、人間にとって愛するとは衝撃的なことなのです。それまでの自分ではいられなくなることだからです。だから、その愛を失うこともまさに衝撃的なことなのです。自分の存在の根拠あるいは価値を失うことだからです。
 巷では本気かどうかは別にしてよく「愛こそすべて」と言われます。恋人に夢中な時は、その恋人こそすべてなのです。愛する人が出来た時は、愛する人がいるからこの世界は美しいのだし、世界が存在する意味があるのだし、自分が生きている意味もあるのです。しかし、その愛する人が死んでしまうとか、別れを告げられてしまうとか、目に見える現実は様々であっても愛の交わりが壊れてしまえば、喜びに満ちていた世界は悲しみだけの世界になり、喜びに満ちていた命は最早生きる意味のないものになる。傍から見ると、それはあまりにも愚かしい盲目的な世界観であり人生観かもしれません。しかし、それは愛の衝撃を知らないからそう見えるのです。愛に生きている者にしか見えないものもあるでしょう。

 主こそすべて

 一六編の作者にとって、主なる神こそがすべてなのです。

主に申します。
「あなたはわたしの主
あなたのほかにわたしの幸いはありません」。
・・・・・
主はわたしに与えられた分、わたしの杯。
主はわたしの運命を支える方。
測り縄は麗しい地を示し
わたしは輝かしい嗣業を受けました。
わたしは主をたたえます。


 主がおられない世界とか人生は、彼には考えられないことです。主は、彼にとってすべてであり、賛美せざるを得ない方なのです。

 ほかの神

 この詩の背後には、異教の神々に人々の心が奪われていく状況があると言われます。三節四節は、学者たちによって全く異なる読み方や解釈がなされていますが、今日は「新共同訳聖書」の読み方に従っておこうと思います。
 ここで作者は、「ほかの神の後を追う者には苦しみが加わる」と言います。そして、「わたしは血を注ぐ彼らの祭りを行わず、彼らの神の名を唇に上らせません」と言うのです。「ほかの神」とはどういう神か具体的には分かりませんし、この点についても諸説あります。ただ、こういう言葉を読むと「だから一神教は嫌だ。偏狭すぎる。他の神々と仲良くしたらよいじゃないか」と言われるかもしれません。特に日本人は、時に応じて宗教を使い分けることが得意ですから、そう思いがちです。結婚式はキリスト教か神道の形式を利用し、葬式は仏教を利用することになんら矛盾を感じない人は大勢います。
 先日大学二年になる女子学生の方から、「JRの中央線に乗ると車両全体に某巨大遊園地のイースターイベントの広告が載っていて嫌になった」と聞かされました。私も耳を疑いました。クリスマスとはイエス・キリストが誕生したことを祝うキリスト教会の大事なお祭り(礼拝)であることすら知らず、ケーキを食べたりお酒を飲んだりするパーティーの日、あるいは恋人同士のデートの日だと思っている人が大勢います。ましてイースターがキリストの復活を祝う祭りであることを知っている人はほとんどいないでしょう。その責任の大半は、私たちキリスト者にあると思います。
 しかし、少し気になってその遊園地のホームページを見てみました。すると、驚いたことに、イースターのお祭りはなんと六月三十日まで続いて、ウサギの格好をしたぬいぐるみがパレードで踊るようです。それが終わると、すぐに七夕祭りなのです。お祭り騒ぎが出来そうなものなら何でもかんでも利用して楽しませ、そして、利益を上げる。それはもう徹底したもので、呆れつつも感心もしました。いや、参った。これには敵わない、とも思いました。
 しかし、こんな無邪気なものなら様々な宗教を利用して何祭りをしようが構いません。でも、わたしの犬の散歩道のマンションには有名な芸人が住んでおり、事務所も構えていたようです。その芸人が自称占い師という女性にマインドコントロールされて大変だということで、連日大勢の報道陣が左右の歩道を埋める様に立っていました。人間は弱い者であり、恐るべき宗教に心を支配されるととんでもないことになってしまう。そういうことがあるのです。そして、それは所謂「宗教」でなくても、思想でも富でも権力でも同じです。人間が作り出した思想にはまり込み、それを絶対化したり、富さえあれば幸せである、権力を持つことが至上の幸せだと思い込んだりすると、その後に来るのは底なしの不幸であり、苦しみです。絶対でないものを絶対とすることは苦しみを増すことなのです。裏を返せば、絶対のものを知らないことは人生の幸いを知らないということでもあるでしょう。

 苦しみ

 四節には「血を注ぐ彼らの祭り」とあります。それがどういう祭りであるかは推測の域を出ませんが、詩編一〇六編三七節以下にこういうことが記されています。そこには、主なる神だけを愛し、礼拝すべきイスラエルの民が「ほかの神」に心惹かれて、その礼拝をしたことに対する神様の怒りと裁きが記されています。

彼らは息子や娘を悪霊に対するいけにえとし
無実なものの血を流した。
カナンの偶像のいけにえとなった息子や娘の血は
この地を汚した。
・・・・・
主の怒りは民に向かって燃え上がり
御自分の嗣業の民を忌むべきものと見なし
彼らを諸国の民の手に渡された。


 先日も、父親が怪しい宗教家の許に娘を連れて行き、「除霊をする」と言って、大量の水を浴びせ続けて死なせてしまうという悲惨な事件が報道されていました。イスラエルの民の中にも、何を間違ったか、恐るべき宗教に心惹かれて、実の息子や娘の血を流して生贄として捧げる人々がいたのです。
 そういう現実が、この祈りを捧げる人の周囲にある時、「あなたはわたしの主。あなたのほかにわたしの幸いはありません」という告白は、偏狭にして独善的な言葉ではなく、「真の絶対者を崇めることによって、真実の命を生きてほしい」という切実な呼びかけになるのではないでしょうか?

 生きるということ

 先日、書棚にあった『生きる』という詩集を読みました。それは谷川俊太郎という詩人の詩に啓発された人々がそれぞれの詩を書いて出来上がった詩集です。谷川俊太郎の詩は、

「生きているということ
今生きているということ
それはのどがかわくということ
木もれ陽がまぶしいということ・・・」


 という書き出しで始まる長いものです。その詩集には、「命」とか「ひだまり」とか「あなた」とか、いくつかの言葉から連想される詩が集められていました。その中の「命」という言葉を巡る詩の中にこういうものがありました。

死ぬことについて考えること
そして、それに死ぬほど怯えること


 この詩を寄せた人の言葉が小さな文字で書かれていましたが、それはこういうものです。
 「子どもの時から考えてる。死ぬと自分はどうなる?時間も空間も記憶も感情も理性も大切なものも何もかもなくなる?なくなったことさえ分からない?自分がいなくなるってどういうこと?誰も知らない。知ることができない。それってとっても怖いことだと思う。でも、だからこそ生きている。」
 こういうことを考える。それが人間だと思います。死とは何であるか。それはすべてがなくなること、なくなることさえ分からないこと。自分がいなくなるとはどういうことか。そのことを考えることに死ぬほど怯える。しかし、そのことで今生きていることを感じる。こういう感覚は私なりによく分かります。
 また、ある人は「命」という言葉に対してこういう短い詩を寄せていました。

「私はここだよー」って叫ぶこと

 命とは、生きるとは、「私はここだよー」って叫ぶことだというのです。これは叫ぶ相手がいるということだし、その叫びを聞いてくれる存在がいるということです。そして、その叫びを聞いて、顔を向けて見てくれる存在があるということでもあり、自分もまたその存在の顔を見ることが出来るということでしょう。さらに、その叫びを聞いて、「私はここだよー」って答えてもらえる。「ここにいるよ。あなたの右にいる。あなたの正面にいる。ここにいるよ。何も心配しないでいいよ」と呼びかけられることでもあるでしょう。そういう愛の交わりの中に生きる。それが、この人にとっての命なのだと思います。この人は、その存在を「愛する人」として考えています。
 私も高校時代に同じようなことを考えました。でも、その「愛する人」が死んでしまったらどうなるのかと考えて、そのことに死ぬほど怯えました。人を愛すること、人から愛されるとは衝撃であることはうすうす感じており、生きている限り一度はその衝撃を受けたいと願っていました。しかし、その愛する人が「人」である限り、それはいつか死ぬということです。自分が愛する人、自分を愛してくれる人が死んでしまう、その衝撃に耐えることができるのか?そう思うと、まさに死ぬほどに怯えるほかにありませんでした。
 そういうこともあって、私は永遠の存在を求めるようになったと思います。それもまた、人間だからだと思うのです。聖書にも、神は「永遠を思う心を人に与えられる」と記されています。動物には、そういう心は与えられてはいないでしょう。

 言葉の背後にあるもの

 改めて、この祈りの詩はどういう状況から生み出されていったかを考えたいと思います。先ほど、この詩の作者を取り巻く状況に関して触れました。しかし、その状況だけがこの祈りを生み出す要因ではないように思うのです。
 彼は、七節以降にこう言っています。
「主はわたしの思いを励まし、
わたしの心を夜ごと諭してくださいます」。

 これは、励まされ、諭されなければならない心があるということでしょう。また、
「主は右にいまし、
わたしは揺らぐことがありません」。

これは、主が右におられない時に揺らいだことがあるということではないでしょうか。
「からだは安心して憩います」もまた、不安に苛まれて夜も眠れない経験が背後にあるはずです。
そして、その続きの
「あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく
あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず
命の道を教えてくださいます」

 という言葉から察せられることは、神様が自分の右にいないと感じられる時、また自分が神様の右にいないと感じられる時、その魂は死者の世界である「陰府」に落ち、真っ暗な「墓穴」の中に閉じ込められることをこの人自身が知っているということだと思います。

 心 魂 からだ

 彼にとって、主はすべてなのです。翻訳では、七節と九節に「心」とあり、また九節と一〇節に「魂」とありますけれど、原語ではすべて違う言葉が使われています。目に見えないけれど確かに存在する「心」「魂」を様々な言葉で表現しつつ、自分の全存在が神様の言葉を聞き、その御顔を仰ぐ時に喜び踊り、また喜び祝うことを表現したいのです。そして、それは内的な問題だけでなく九節にありますように「からだ」を含む喜びです。

 喜び

 「喜び」を表わす言葉も「喜ぶ」「踊る」「喜び祝い」「永遠の喜びをいただく」 と様々な言葉が使われています。まさに全身全霊の喜びを、あらん限りの言葉で言い表したい。そういう心の躍動を感じます。そして、その背後には、彼としての臨死体験があるのだと思います。彼には、魂が陰府に降り、体も墓穴の中に閉じ込められたような経験があるのです。神様を愛する衝撃、神様から愛される衝撃を知っている者だけが、その神様に「私はここだよー」って叫んでもその声が聞かれない衝撃、神様の御顔がこちらに向けられないことの衝撃を経験するのです。そして、その衝撃は、自分が「虫けら」「屑」になってしまったような深い悲しみを伴います。そういう悲しみの経験をしている人々にとって、この詩編一六編は、まさに自分の祈りです。だから、こうして読み継がれているのです。

 御顔を仰ぐ

 彼は、「あなたはわたしの主、あなたのほかにわたしの幸いはありません」と言い、祈りの最後には「わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い、右の御手から永遠の喜びをいただきます」と告白しています。
 先週の日曜日の晩、夕礼拝後に二人の来客と共に牧師館で食事をして色々なお話をしました。その時に、主イエスの復活と私たちの復活に関する話が出ました。私は半ば冗談、半ば本気で、「天国に行ったらアブラハムに会いたい、ペトロにも会いたい。パウロは遠くから会釈する程度でいいかな」としばしば言います。しかし、私と一緒に暮らす方は、「冗談じゃない。天国は人に会いに行くところなんかじゃない。教会でもよく『死んだ家族に会いたい』とか言うけれど、天国では神様に会えるんだから、人に会って挨拶するだとかなんだとかはどうでもいい。天国でも家族の生活があるわけじゃあるまいし、天国はただただ神様の御顔を見て喜んで礼拝するところだ。神様にお会いすることに勝る喜びがあるはずないでしょう」とおっしゃる。どちらが牧師なんだか分からないわけですが、私はそれでも、「天国では地上において和解し得なかった者同士が和解することが大事な要素なのだ」とも言いました。しかし、その人間同士の和解もまた、イエス・キリストの十字架の死と復活を信じる信仰において起こることであり、本質的には神様との和解において起こることです。そして、神様との和解によって何が与えられるのかと言えば、それは神様の御顔を仰ぎ見ることです。

 和解

 人間同士だって、自分の犯した罪を赦してくれず、まだ激しい怒りを覚えている人の顔を見ることは出来ません。その人に正面から会うことなどできないのです。その人の顔をちゃんと見る、目と目を合わせて見ることが出来るのは赦してもらった時です。そして、罪の赦しは愛の究極です。最も深い愛、それは赦しなのです。そして、その愛は神様の愛です。私たちの主イエス・キリストの父なる神が、主イエスをあの十字架で見捨てることを通して与えてくださった愛です。
 主イエスは、その神様の愛を罪人に与えるために十字架の上で死ななければならなかったのです。そのことを思う時、主イエスは、「わたしは死ぬばかりに悲しい」とおっしゃいました。そして、ゲツセマネの園で「アッバ、父よ」と叫んで祈り続けられました。「できることならこの杯を取りのけてください」と。「しかし、わたしの思いではなく、あなたの御心のままになさってください」と。
 その御心、それは神様にとっての最愛の独り子である主イエス・キリストが私たち罪人の罪を背負って神様の怒りの裁き、悲しみの裁きを受けることでした。主イエスは、その御心の実現を望まれ、そのことを悲しみの中で喜びとされたのです。主イエスは、私たちが神様と和解し、その御顔を仰いで満ちたり、喜び祝い、神様の「右の御手から永遠の喜びを頂ける」ことを望み、ご自身の「体」を十字架の上に捧げ、ご自身の「血」を流してくださいました。そこに主イエスが飲むべき「杯」、生きるべき道があったのです。
 私たちは、主イエスを通して神様が私たちの罪を赦して下さっていること、そのように愛してくださっていることを、恵みによって知らされたキリスト者です。
 その私たちは神様に祈る時、イエス・キリストのお名前を通して祈ります。イエス・キリストは、罪人のためにご自身を生贄として捧げられ、あの十字架の上で神に見捨てられる定めを引き受けてくださいました。その信仰の従順の故に、神様はイエス・キリストを「墓穴」から、また「陰府」から甦らせ、天に引き上げられ、「主」という名前をお与えになりました。そのようにして、私たちとの愛の交わりを永遠のものとして下さったのです。最早、死が私たちと神様との交わりを壊すものではなく、むしろ近づけるものとして下さったのです。だから、私たちはこうしてWMさんのご遺体を前にしても、地上における交わりの終わりを感じて寂しさを禁じ得ませんが、WMさんが主の御許に召されたことを信じるが故に、慰めと喜びをも感じるのです。特に、WMさんのように天寿を全うされた方の場合は尚更です。

 和解と希望の食卓

 主イエスの十字架の死と復活、そして昇天を通して、死が最早最終的な勝利者ではなく、主イエスこそが罪と死に対する勝利者であることを信じ、洗礼を授けていただいた私たちは、これから聖餐の食卓に与ります。そこで配られるパンとぶどう酒は、私たちと神様との交わりを永遠なものとするために十字架の上で裂かれたイエス様の体と流された血の徴です。聖霊の注ぎの中で、信仰をもってそのパンとぶどう酒をいただくとき、私たちは今ここに主イエスがおられることを確信し、主イエスにおいて天と地が結ばれていることを知ります。そして、主イエスを通して悔い改めと感謝の祈りを捧げることが出来ます。主イエスに向かって「わたしはここにいます。あなたこそわたしのすべて、わたしの幸いです」と祈ることが出来るのです。そして、主イエスの「わたしもここにいる。あなたと共に生きている。安心しなさい。あなたの罪は赦された。新しく生きなさい」との御声を聞くことができ、遥かに天上の御国を仰ぎ見て、喜びに溢れます。主イエスを通して命の道が開かれているからです。

神よ、守ってください
あなたを避け所とするわたしを。
あなたはわたしの主 
あなたのほかにわたしの幸いはありません。


   この祈り、この告白、この賛美、この喜びを、今日もご一緒に主に捧げられる幸いを感謝します。
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