「御顔を仰ぎ望む」

及川 信

       詩編 17編 1節〜15節
17:1 【祈り。ダビデの詩。】
主よ、正しい訴えを聞き
わたしの叫びに耳を傾け
祈りに耳を向けてください。
わたしの唇に欺きはありません。
17:2 御前からわたしのために裁きを送り出し
あなた御自身の目をもって公平に御覧ください。
17:3 -4あなたはわたしの心を調べ、夜なお尋ね
火をもってわたしを試されますが
汚れた思いは何ひとつ御覧にならないでしょう。
わたしの口は人の習いに従うことなく
あなたの唇の言葉を守ります。
暴力の道を避けて
17:5 あなたの道をたどり
一歩一歩、揺らぐことなく進みます。
17:6 あなたを呼び求めます
神よ、わたしに答えてください。
わたしに耳を向け、この訴えを聞いてください。
17:7 慈しみの御業を示してください。
あなたを避けどころとする人を
立ち向かう者から
右の御手をもって救ってください。
17:8 瞳のようにわたしを守り
あなたの翼の陰に隠してください。
17:9 あなたに逆らう者がわたしを虐げ
貪欲な敵がわたしを包囲しています。
17:10 彼らは自分の肥え太った心のとりことなり
口々に傲慢なことを言います。
17:11 わたしに攻め寄せ、わたしを包囲し
地に打ち倒そうとねらっています。
17:12 そのさまは獲物を求めてあえぐ獅子
待ち伏せる若い獅子のようです。
17:13 主よ、立ち上がってください。
御顔を向けて彼らに迫り、屈服させてください。
あなたの剣をもって逆らう者を撃ち
わたしの魂を助け出してください。
17:14 主よ、御手をもって彼らを絶ち、この世から絶ち
命ある者の中から彼らの分を絶ってください。
しかし、御もとに隠れる人には
豊かに食べ物をお与えください。
子らも食べて飽き、子孫にも豊かに残すように。
17:15 わたしは正しさを認められ、御顔を仰ぎ望み
目覚めるときには御姿を拝して
満ち足りることができるでしょう。


 この世の裁き

 私たちが裁判に関わることはそう多くはありませんし、被告としてであれ原告としてであれ、法廷において裁判官の前に立つことはなるべく避けたいものです。最近は裁判員制度が出来て「裁判員」として法廷に呼ばれる可能性が出てきました。しかし、善し悪しは別として、裁判員になることを望む人も多くはないでしょう。その理由の一つは、人間の裁きに確信を持てないということだと思います。
 しかし、そうであるからこそ、裁判の話題が連日のように報道され、繰り返しテレビドラマや映画が作られるのだと思います。最近も、大物政治家の裁判があり、ある女性の結婚詐欺と練炭自殺に見せかけたとされる殺人事件の裁判がありました。いずれも被告人は無罪を主張しており、状況証拠を積み重ねただけでは犯罪を立証できないのです。この世の裁判においては、とりあえず判決が出たとしても真相は藪の中であるケースはいくつもあり、ずっと後になってから冤罪が明らかになるケースもあります。検察側が自らのストーリーに基づいて犯罪を作り出す場合があり、逆に有能な弁護士がつくと無罪を勝ち取れるようなこともあります。双方の言い分が真っ向から衝突し、目撃者も明確な証拠もない場合、その裁きにはどうしても不透明性が残ります。

 詩編に対する違和感

 詩編の中のいくつかは主なる神様を裁判官に見立てた「訴え」です。無実の自分を陥れようとする敵がいる。その敵をやっつけて欲しい、有罪判決を下して欲しい。そして、自分の無実を証明して欲しい。そういう訴えの詩がいくつもあります。今日の詩編一七編もその中の一つです。
 こういう詩を読んで、すぐさま感情移入して、作者に同情あるいは共感することもあるでしょう。しかし、それは読み手である私たちが、この詩の作者同様に「貪欲な敵に包囲され、地に打ち倒されようとしている」時だと思います。でも、私たちの多くはいつも目に見える敵と生きるか死ぬかのせめぎ合いをしているわけではないでしょう。ですから、こういう詩を読んですぐさま感情移入して共感や同情をすることは、あまり多くはないと思います。
 また、私たちは外国との戦争でもしていない限り、「あなたの剣をもって逆らう者を撃ち・・・御手をもって彼らを絶ち、この世から絶ち、命ある者の中から彼らの分を絶ってください」とまでは思わないのではないでしょうか。こういう激しい感情表現にもちょっと気後れします。礼拝の中で詩編を交読しながら「う〜〜〜ん、ちょっとついていけないな」と思うことはしばしばあります。主の恵みを感謝したり賛美する詩に心から共感できたり、「このような賛美を捧げたいものだ」と憧憬の念を抱いたりすることはあっても、敵の殲滅を願う詩を読む時には多少のためらいを感じる。それは多分、多くの方がお感じになっていることだと思います。
 また、私自身は「自分の訴えは正しく、揺らぐことなく主の道を辿っている」と思うことがあったとしても、神様に心を調べられ、火で精錬されても「汚れた思いは何一つ御覧にならないでしょう」とまで潔白を主張することはできません。自分を不当に攻撃する敵がいる時、その敵との比較において自分の正しさを主張することは当然です。しかし、神様に対して何もかも自分の正しさを主張することは出来ない。ですから、一七編の言葉のすべてに共感することは出来ないという思いを持ちます。そのような困惑を心に抱きつつ繰り返し読んでいくと、次第に色々なことを思い出したり思い巡らしたり、また気付いたりするようになるものです。

 『別離』・人には裁けない現実

 先日、イラン人の監督が作った映画を観ました。邦題では『別離』と題された映画の冒頭場面は、離婚の危機に陥った夫婦が裁判官に向かってそれぞれの主張を繰り返すというものでした。夫婦がカメラに向かって自分の主張を訴えるのです。つまり、観客である私たちに訴える。その時、私たちは裁判官の立場に置かれます。
 西欧的な思想を身につけた妻は、言葉にはしませんがイスラムの戒律が支配し男が支配するイランという国には見切りをつけています。そして、「夫と一人娘と共に外国に移住したい。何年もかけてその資格を取得してきた」と訴えるのです。しかし、夫は認知症を患っている父親を置いて外国になど行ける訳がないと言う。妻は息子のことすら分からない父親のことを、そこまで心配する必要がないと思っており、将来がある娘を外国に連れ出したいのだです。しかし、夫は妻にも娘にも共にいて欲しいと願っている。夫婦の愛が冷えているわけではない。
 それぞれの主張はそれなりに説得力があります。しかし、相手を納得させるほど決定的なものではありません。だから裁判官は、「あなたがたには離婚する理由を見出せない」言うのです。そして、「どうすればよいのですか」と問う妻に対して「どうすることもできない」と答えます。つまり、裁くことが出来ないのです。

 「別離」 狂い始める歯車

 夫は、仕事で留守をする間に父を看護する家政婦を雇います。その家政婦は貧しく、夫は気が短い性格でしばしば問題を起こし刑務所に入ったこともあり、今も借りた金を返せなければ刑務所に入れられることが確実なのです。そういう切羽詰った状況が家政婦にはあります。絶えず一緒にいなければならない幼い娘もいます。そして、彼女はこの時妊娠しているのですが、イスラムの女性が着る寸胴の服を着ているので見た目には分かりません。彼女も雇い主にはそのことを言っていないのです。
 雇い主の父親は徘徊の癖があり、目を離すと外に出てしまうことがあります。また、トイレが間に合わず粗相をしてしまうこともある。イスラムの戒律では、相手が老人であっても、女性が他人の男性の裸を見ることは堅く禁じられています。そこで彼女は宗教当局者に電話して事情を説明し、「こういう場合は男性の裸を見ることになっても罪にならないか」を確認するのです。
 ある時、一瞬目を離した隙に雇い主の父親が家を出てしまい、その父親を探している間に、家政婦は車に接触して道に倒れてしまうことがありました。しかし、家政婦は自分の過失がばれてしまうので、この件は雇い主には黙っています。
 その翌日、家政婦は具合が悪くなり、仕事中に産婦人科に行くのです。その間に認知症の父親が徘徊しないように、手をベッドに縛り付けて出かけるのですが、雇い主が仕事から帰った時、父はベッドから落ちて死にそうなっているのです。当然、彼は怒り心頭に達し、無断で外出した家政婦を即座に追い出そうとします。その時、棚においてあった金入れから日当に当たる金がないと思って、それも家政婦が盗んだと言い、泥棒呼ばわりしつつ無理やりに追い出そうとするのです。
 しかし、家政婦は身に覚えのない盗みの罪を着せられることだけは断じて容認できず、謝罪を求めて激しいやり取りになります。そして、最後は雇い主から突き飛ばされるようにして外に追い出されるのです。

 『別離』裁判

 しかし、その翌日、家政婦が流産してしまいます。その夫は自分の妻を突き飛ばして流産させたとして雇い主を訴えます。
 妊娠を知っていた上で妊婦を突き飛ばし、その結果として流産になった場合、イランでは殺人罪が適用されるようです。それに対抗して雇い主は家政婦が父を暴行したのだと、家政婦を訴える。
 家政婦は、雇い主の父が外に出てしまったことに気づかず、見つけ出した時に車に接触して道に倒れ、そのことが原因で流産してしまったかもしれないことを裁判官には言いません。また、雇い主は家政婦が妊娠していることを、ある会話を聞いて実は知っていたのですが、そのことを決して言いません。娘は、尊敬すべき父親が嘘をついているのではないかという疑いの故に苦しみ、ついに「お父さん、嘘をついていない?」と尋ねる。父親は、娘の目を見ることなく、うつむいたままその事実を認めます。しかし、「それは裁判の争点ではない」と誤魔化すのです。娘は、深く傷つきます。しかし、「父は家政婦が妊娠していたことを知らなかったはずだ」と裁判官の前では証言します。

 『別離』嘘の発覚

 つまり、皆が嘘をついている。嘘をつかざるを得ない事情がある。何も知らない家政婦の夫はいきり立ち、雇い主の娘が学校に行けないような嫌がらせをする。そして、ついに雇い主が示談金を払うことで決着をつけることになり、雇い主側の一家が家政婦の家に行きます。
 そこには、家政婦の夫に金を貸している男たちが同席していました。その場で、雇い主が家政婦の夫に向かって「あなたの奥さんは信心深い方だ。どうかコーランの上に手を置いて自分にはなんらやましいことがないと誓って貰いたい。そうすれば、この場で示談金を払う」と言う。なんらやましいことがないと思っている夫は承諾します。しかし、廊下でそのことを聞いていた家政婦は、慌てて台所に戻り、出てこない。夫は苛立ち、「何やっているんだ、早く来い」と言いに来ます。その夫に向かって、彼女はこう言うのです。
 「自分の流産は雇い主から追い出された時の衝撃が原因か、前日に車にぶつかった時の衝撃が原因か分からない。それなのに、金を受け取るためにコーランに手を置いて誓ってしまったら、恐るべき呪いが来るに違いない。娘がとんでもない不幸に見舞われるかもしれない。そんなことは怖くて出来ない」。
 面子丸潰れの夫は自棄になって家を出て行ってしまいます。彼はこの後、刑務所に入るしかないし、家政婦であった妻は夫の名誉を踏みにじったことで、その家から追放される定めです。そして、雇い主夫婦の間にある溝は、このことでむしろ深まっていきました。

 『別離』分からない

 映画の最後は、両親の間に立って苦しみ続けた娘が裁判官から尋ねられる場面です。冒頭の場面と同じく、裁判官の姿は見えず、カメラが裁判官の位置にあり、観客に見えるのは、 涙を流しつつ立っている娘の顔です。裁判官の声がこう尋ねます。
 「あなたはどちらと一緒に生活するか決心がつきましたか?」
 娘は答えます。
 「はい、つきました。でも、今ここで言わねばなりませんか?」
 裁判官が「両親の前では言いにくいですか?」と言うと、娘は「はい」と言う。両親は部屋から出て行き、妻は廊下の左側に立ち、夫は反対側の斜め前に座って無言のままうつむきます。
 再び場面は法廷に戻り、裁判官が娘に尋ねます。
 「決心はつきましたか?」
 娘が「はい」と答えるところで映画は終わります。
 彼女がどういう決心をしたかは私たち観客には分かりません。それまでは、私たち観客には登場人物の一人ひとりが真実を隠していることが分かるのです。登場人物である雇い主とその妻、家政婦とその夫はもちろんのこと、裁判官も事の真相のすべては分かりません。観客だけが少しずつ分かっていきます。すべての人間がやんごとなき事情を抱えており、そして、嘘を抱えている。そして、その嘘が互いには分からないことが、私たちには分かる。でも、誰が本当に正しいのか、それは裁判官の立場に立たされる観客にも分からない。また、家政婦が本当に金を盗んだのかも分からないし、流産の原因が車の接触なのか、雇い主の乱暴な追い出し方にあったのか、それも分からないのです。だから、誰かを有罪と決め、他の誰かを無罪とすることが出来ないのです。
 人間には正しい裁きはできないのだ。この映画が語っている一つのことはそういうことでしょう。そして、私たち人間は裁判官の立場で生きているのではなく、何らかの意味で被告や原告として生きている。そういうことも言いたいのだと思います。つまり、すべてを知っており、裁くことが出来るお方は人間ではなく神である。しかし、その神がどういう判決を下されるのか、それは分からない。

 訴え

 この映画の中盤には、簡易な家庭裁判所で事務員のような格好をした裁判官に向かって訴える場面が何度も出てきます。最初被告だった雇い主が家政婦を訴える原告になったりもしますから、原告と被告が目まぐるしく立場を替えつつ髭面の裁判官に必死に訴えるのです。「こっちを見てくれ、私の話を聞いてくれ、悪いのはこいつだ、俺は悪くない、ちゃんと裁いてくれ」と必死になって訴えるのです。誰も彼もが裁判官の目を見て自分に有利な判決をして欲しいと訴えているのです。

 見る 聞く

 詩編一七編を少し注意深く読んでみると、「聞く」とか「見る」「目」「耳」が大事な言葉であることが分かります。
 冒頭からしてそうです。原文では、「聞いてください」が最初の言葉です。
 「聞いてください、主よ、義を」が直訳です。続きはこうです。

「聞き入れてください、私の訴えを。
耳を傾けてください、わたしの祈りに。」


 「聞く」を意味する三つの異なる言葉が連続して出てきます。
 次は「目」です。

「あなた御自身の目をもって公平に御覧ください。」

 そして、再び耳です。

「わたしに耳を向け、この訴えを聞いてください。」

 誰に訴えるのか

 彼が訴える相手は主なる神様です。人間の心の奥底までもすべて見通すことが出来るお方であり、事の真相をすべて御覧になることが出来るお方です。そして、人の訴えの中にある真実と嘘を聞き分けることが出来るお方です。
 彼にとっての最終的な問題は具体的な処罰が敵に下されることではありません。彼の訴えが神様によって正しいものと認められ、彼の「魂が助け出される」ことです。何もかもご存知の神様が、その目と耳を自分の方に向けて、「あなたは正しい」と言ってくださる。そのことがこの詩の作者にとっての究極的な問題だと思うのです。この世における人の裁きには限界があるのですから。

 主に委ねる

 切実な訴えに満ちた詩のいくつかを読んで知らされることの一つは、彼らが自ら復讐しないということです。私だったら、「相手がこう出てきたからにはこうやって対応しよう。悪には悪で報いよう」と思い、「それこそ正しいことだ」と思い、結局、相手と同じようなことをし始めます。その結果は、人との別離です。その別離、破局の究極は神様との別離、その破局です。だから、そこに救いはありません。
 自分の正しさを主張する祈りや訴えの詩が今に至るまで読み継がれてきた理由は、彼らがこの世において経験する苦しみのすべてを神に向かって明け渡していることにあると、私は思います。何が善で何が悪かも分からないようなこの世の中で、弱肉強食のこの世の中で、金や権力さえあれば悪を善に変えることすら出来るこの世の中で、究極的な正しさをお持ちの唯一の方との関係を失わず、ただその方との正しい交わりを求めて生きる。悪に対する処罰を神に委ねる。自分で復讐しない。いつの日か、主が立ち上がってくださり、その御顔を向けて悪をなす者たちに迫り、自分にではなく、「主に対して」屈服させてくださる。悔い改めに導いてくださる。その日が来ることを確信して、自分は神様の御顔を仰ぎ見て満ち足りる。ただそのことを望む。そういう神様に対する絶対的な信頼と希望がこれらの詩の中にはあると思います。

 御顔 見る

 この詩の中で大事な言葉は「聞く」とか「見る」、「耳」や「目」であることは先ほど言いましたが、その目や耳は神様の顔にあるものです。新共同訳聖書では「御前」とか「御顔」と訳されています。この言葉が決定的に重要なのです。

「御前からわたしのために裁きを送り出し
あなた御自身の目をもって公平に御覧ください。」
(二節)

 「御覧ください」はもちろん「見てください」です。その御前(御顔)が「貪欲な敵」「口々に傲慢なことを言う」人々に向けられれば、それは処罰の徴となります。しかし、主によって心の奥底まで見られ、正しいと認められた者は、朝の目覚めの時に、その「御顔を仰ぎ望む」ことが出来る。つまり、「見る」ことが出来るのです。彼が求めていることはこのことです。御顔によって見られる者が、御顔を見る者になる。そこに救いがあるのです。
 翻訳では二回省略されていますが、原文では「わたしは」という言葉が合計三回出てきます。三節「わたしはあなたの唇の言葉を守ります」。六節「わたしは、あなたを呼びます」。そして、一五節。

「わたしは正しさを認められ、御顔を仰ぎ望み、目覚めるときには御姿を拝して、満ち足りることが出来るでしょう」。

 「他の人はどうであれ、この私はあなただけを求め、あなたから『正しさを認められる』ことを求めます。ただそのことだけが私の望みです」と彼は言っている。

 御姿

 この「御姿」という言葉は非常に重要な言葉です。そもそも見えない神が前提の聖書にあって、「御姿」と書かれること自体が特異なことですが、民数記一二章には、あのモーセに関して、主がこう言われたとあります。

「口から口へ、わたしは彼と語り合う、
あらわに、謎によらずに。
主の姿を彼は仰ぎ見る」。


 「御顔」にしろ「御姿」にしろ、通常は人が見ることが出来るものではありません。神は見えない神であるという意味だけでなく、主の顔や姿を見ることは罪人には死を意味するものだからです。しかし、極めて例外的に、モーセのような人が、またモーセに率いられたイスラエルの民の代表者が、神様の御顔や御姿を見ることが許されたと記されています。
 出エジプト記二四章では、シナイ山で神とイスラエルの民が「十戒」を内容とする契約を締結した直後に、モーセと七十人の長老たちがシナイ山の上で「神を見て、食べ、また飲んだ」と記されています。ここで表現されていることは、罪の赦しによる神様との愛の交わりの実現だと思います。イスラエルが神の民として誕生したその時に、究極的な救いの情景が描かれているのです。

 目覚めるとき

 この詩編一七編一五節は、キリスト教会においては信仰者の復活を暗示するものとして読まれてきました。「目覚めるとき」とは、イエス・キリストを信じる者たちが終わりの日に御国において甦らされることを示しているのだ、と。つまり、救いの時を示しているのだということです。
 私たちキリスト者にとって「救い」とは何か?それはこの世において正しいと認められたり、功績が褒め称えられたり、人格が尊敬されることではありません。それらすべては尊ぶべきことであり、それらのものを得ようと努力すべきものであるに違いありません。しかし、それらのものを手にすることが「救い」なのではありません。
 「救い」とは、人々からではなく、神様によって与えられるものです。そして、その「救い」とは、神様によって「正しさが認められる」ことなのです。しかし、パウロがローマの信徒への手紙の中で言う如く、この世には正しい者は一人もいないのです。その心においても行いにおいても、神様の御前に立ちその御顔を拝しつつ「わたしは正しい者です」と言うことが出来る人間はいません。そこに罪人としての人間の現実があります。

 正しさが認められる

 その罪人が、それでも神様から正しい者と認められるために何が必要か、罪人が救われるために何が必要かと言えば、なによりもまず、罪人を救いたいと願う神様の熱心が必要なのです。燃えるような愛が必要なのです。罪人がその罪の故に滅びることを神様が望まれるのであれば、私たちが何をしようが救われる可能性はありません。私たち人間は罪人が処罰されることを望みます。しかし、感謝すべきことに、神様はそうではありません。神様は、ご自身との交わりを壊し自ら滅びに向かう私たちを救いたいと願ってくださるのです。愛とは理不尽なものです。その愛そのものである神様は罪人を救うために何をして下さったのか?
 パウロはこう言っています。ローマの信徒への手紙三章二一節以下を抜粋して読みます。

「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。・・・神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。・・・今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。」

 神様は罪を見逃される方ではありません。お裁きになる方です。そのことの故に神様は正しいお方なのです。そして、そのことの故に愛の方なのです。
 神様は罪人をその罪の故に処罰する裁きを下されませんでした。しかし、罪なきご自身の独り子イエス・キリストに罪を背負わせ、そのイエス・キリストを裁いて罪人の罪を償う供え物となされたのです。そのことを信じる。その愛を、悔い改めと感謝をもって信じる。その信仰を生きる者の罪を、神様は赦してくださるのです。そして、信じる者を義としてくださる。正しい者としてくださる。そこに神様が与えてくださる「救い」があるのです。
 神様は、私たちの信仰の告白に耳を傾けて聞いてくださいます。そして、信仰に生きる私たちをご自身の目でもって見てくださるのです。御顔を向けてくださる。今、神様はこの説教を聞いてくださっています。説教を聞いている皆さんの姿を見、その心の中の声を聞いてくださっているのです。そして、その心の中で、イエス・キリストを信じる信仰の告白がある時、その声を聞き、「あなたは正しい。わたしはあなたの罪を赦す」と語りかけてくださるのです。そこに私たちの「救い」があるのです。そして、その救いの究極は御国における復活です。
 私たちキリスト者が、これから与ろうとしている聖餐の食卓は、私たちの信仰告白の行為であり、また神様の恵みによって、私たちが神様の御顔を仰ぎ望むことが出来る時なのです。天の御国において神の御顔を拝し、その御姿を見つつ食卓を囲む。その「救いの完成」を遥かに望み見る時なのです。パウロは、その時は「顔と顔を合わせて見ることになる」と言っています。今は面影を映し偲ぶ食卓であっても、救いが完成する終わりの時、私たちはすべての罪赦された聖徒たちと共に神の御顔を拝しつつ救いの食卓を囲み、満ち足りるのです。私たちは今、その時に向かって生きている。なんと希望に満ちた人生でしょうか。
 この世にある限り艱難辛苦はあります。希望が見えず、打ちひしがれることもあります。私たちは誰も彼もが罪人なのですから、罪人たちが織り成すこの世には争いがあり敵意があり憎しみがあります。そして、人と人が別れ、神と人が別れ、別離していきます。しかし、その只中に罪を償ってくださった神の子イエス・キリストが復活の主として生きてくださっているのです。ただその主を見る時、私たちは希望をもって生きることが出来るのです。主にあって和解し、一つのものとして生きることが出来る。この礼拝の時は、私たちは主の民として一つとなって主の御顔を仰ぎ望み、その御姿を見て満ち足りる時です。そういう時を与えてくださっている主の恵みを賛美し、感謝せざるを得ません。
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