「完全への渇望」

及川 信

       詩編 19編 1節〜15節
19:1【指揮者によって。賛歌。ダビデの詩。】
19:2 天は神の栄光を物語り/大空は御手の業を示す。
19:3 昼は昼に語り伝え/夜は夜に知識を送る。
19:4 話すことも、語ることもなく/声は聞こえなくても
19:5 その響きは全地に/その言葉は世界の果てに向かう。そこに、神は太陽の幕屋を設けられた。
19:6 太陽は、花婿が天蓋から出るように/勇士が喜び勇んで道を走るように
19:7 天の果てを出で立ち/天の果てを目指して行く。その熱から隠れうるものはない。
19:8 主の律法は完全で、魂を生き返らせ/主の定めは真実で、無知な人に知恵を与える。
19:9 主の命令はまっすぐで、心に喜びを与え/主の戒めは清らかで、目に光を与える。
19:10 主への畏れは清く、いつまでも続き/主の裁きはまことで、ことごとく正しい。
19:11 金にまさり、多くの純金にまさって望ましく/蜜よりも、蜂の巣の滴りよりも甘い。
19:12 あなたの僕はそれらのことを熟慮し/それらを守って大きな報いを受けます。
19:13 知らずに犯した過ち、隠れた罪から/どうかわたしを清めてください。
19:14 あなたの僕(しもべ)を驕(おご)りから引き離し/支配されないようにしてください。そうすれば、重い背きの罪から清められ/わたしは完全になるでしょう。
19:15 どうか、わたしの口の言葉が御旨にかない/心の思いが御前に置かれますように。主よ、わたしの岩、わたしの贖い主よ。


 今日はご一緒に詩編一九編の御言葉に耳を澄まし、また目を凝らしていきたいと思います。

 愛唱される詩

 この詩編一九編、特にその前半部分を愛唱する方は多いと思います。つい先日も、お子さんの名前をこの詩編一九編冒頭の言葉から「顕」(あきら)と名づけた方と会いました。口語訳聖書では、「もろもろの天は神の栄光をあらわし、大空はみ手のわざをしめす」と記されており、その「顕す」から「顕」と名づけたそうです。
 私の長女がまだ三歳位の時、覚えた聖書の言葉もこの言葉でした。教会学校の聖句暗唱の時に覚えたのだと思います。でも娘は「もろもろのてんはかみのえいこうをあらわしおおぞらはみてのわざをしめすしへん」と必ず「詩編」まで言っていました。三歳の娘にとっては、聖書の言葉も意味が分からないし「詩編」の意味も分からないのですべてが意味不明のひと続きの言葉なのです。まあ、それでもいいやと思って聞いていたことを思い出します。

 耳を澄まし、目を凝らす

 今日もそうでしたが、私はよく説教の最初の方で、「御言葉に耳を澄まし、また目を凝らす」と言います。説教の準備において何をするかと言えば、そういうことをするからです。しかし、その時、私の目の前にあるのは紙に印刷された文字です。その文字に対していくら耳を澄ませても声が聞こえるわけではないし、目を凝らしたところで文字以外の何かが見えてくるわけではありません。しかし、その文字を目で読むことを通して神様の声が心に聞こえてきたり、神様がなしている御業が見えたり、神様が今ここに生きておられることが分かってこない限り、礼拝で語るべき言葉は与えられてきません。だから、必死になって文字を読みつつ、耳を澄まし、目を凝らす以外にはない。聖霊が働いて、その文字を通して御声を聞かせ、御心を示し、御顔を拝することを許してくださるまで、そういう時間を過ごすのです。それは皆さんが御心を知りたくて聖書を読む時も同じことだと思います。
 今は、私は語っており、皆さんはその声を耳で聞いています。しかし、人間が語るその声を通して神の声を聞き、人間が語る言葉を通して神の言葉を聞き、御心を示される、御顔を拝する。そういうことが起こらなければ、そこに礼拝は生じません。礼拝が起こらないとすれば、この時は、音楽つきの講演会のようなものになってしまいます。礼拝になるか講演会になるかは、私たちがひたすらに聖霊の導きを求めるか否か、神様が聖霊を送ってくださるか否かに掛かっているのです。

 二つの詩?

 一九編は、前半は一見すると自然賛歌であり、後半は律法賛歌です。詩としての韻律も違う。思想も違う。前半はエール(神)が登場し、後半はヤハウェ(主)が登場する。何もかも違う。だから、異なる二つの詩がある時に一つの詩に合わされたのだと言われたりもします。しかし、今現在は一つの詩となっておりそのことの意味は深いと思いますから、私たちは一つの詩として読みたいと思います。

 自然賛歌?

 今、「前半は一見すると自然賛歌であり」と言いました。「自然賛歌」の根底にあるのは天体崇拝でしょう。太陽を「お日様」とか「お天道様」と呼び、「お月様」とか「お星様」とか言って、天体そのものを神格化し拝むことが背景にあります。日本には今もその影響は色濃く残っているのではないでしょうか。朝のワイドショーには、天気予報に並んで星占いのコーナーが必ずありますし、運命は星が握っていると心のどこかで思っている人は多いように思います。アメリカで作られた「星に願いを」という歌もあります。
 しかし、聖書では、天体は神様によって造られた被造物です。それぞれに役割を与えられた被造物なのです。物体です。だから、いつの日か消滅するとも言われます。永遠の存在とは考えられていないのです。この詩も、ちゃんと読めば分かりますように、いわゆる自然賛歌ではありません。被造物としての天体はそれ自身神でもなんでもなく、被造物として創造主である神の栄光を称えていると言われています。少なくとも、そのようにこの詩の作者には見え、その賛美の声が聞こえるのです。
 作者は、豊かな想像力と洞察力をもっている人です。彼は、「話すことも、語ることもなく、声も聞こえない」天体を見ながら、そこに「神の栄光を物語る」「響き」を聞き取り、それは太陽の熱が大地すべてを覆うように、「世界の果て」に及ぶ様を見ています。耳を澄まし目を凝らすと、目には見えず耳には聞こえないものが見えたり聞こえたりする。それは、幻聴とか幻覚ではなく、神の啓示に触れることなのです。
 その神の啓示がないのであれば、古代イスラエル民族が書き残した文書が、神の言葉として「世界の果て」にまで及ぶことなどあり得ないのではないでしょうか?私たちは今ここで、古代イスラエル人の宗教観を示す文書を学ぶためにこの礼拝堂に集まっているのでしょうか?そうではありません。その文書を通して、彼が見、彼が聞いたことを見聞きし、彼と同じように神様を賛美し、悔い改め、祈る礼拝をするために集まっているのです。

 第二の聖書としての自然

 キリスト教世界の中では、いつの頃からか自然は「第二の聖書」と呼ばれるようになったそうです。自然には神の御心が表れている、あるいは隠されている。その御心を知るためには自然の構造を探求しなければならない。そういう発想から自然科学も生まれてきたのだと思います。しかし、自然科学はいつしか神の御心を探求し神に仕えるためではなく、自然を支配し操作するために、つまり、人間が神の地位につくためのものになった面があります。
 しかし、科学やそれに基づく技術を神の御心に従ってではなく、自分の欲望に従って用い始めるとき、人は裸で神と人の前に立つことが出来ない人間になってしまうのではないでしょうか。人間は、手を伸ばせば食べることが出来る木の実を食べてしまうものです。そして、自分の意図や自覚的な願いとは裏腹に罪を深めていくものです。そして、神様と人との交わりを失っていく。
 自然は「神の作品の書物」、聖書は「神の言葉の書物」とも言われます。作品の解釈は個人の自由に委ねられている面があります。しかし、やはり愚かな鑑賞の仕方というものがあり、そこから出てくる愚かな解釈があることも事実です。
 例えば、五メートル四方もある大きな油絵を鑑賞するためには、それなりの距離の所に立って全体像を見つめる必要があります。しかし、人間の鑑賞の仕方は絵の間近に立って見ているに過ぎないことが多いのです。間近に立てば絵の全貌など見えません。しかし、絵の大きさを知らない人間は、自分が間近に立っていることすら分からず、自分が見えている範囲が絵の全貌だと思っている。さらに、キャンバスに塗られている絵の具を削ってその成分が何であるかを科学的に分析して、「この絵はこういう成分で成り立っている」と、まるでお門違いなことを言っているのに、絵のことを理解したかのような錯覚に陥る。そういう愚かさや惨めさが、私たち人間にはあるものです。
 「巨大な宇宙」と言っても良い聖書を読む時にも、そのような見方をして何かが分かったような気になることが最も危険なのです。
 天体を見るときも、私たちはかたわらにその作品を作った神様の言葉である聖書を置き、その解説を読みつつ見ないと、被造物に過ぎない物を神として拝むというとんでもないお門違いを犯すことになります。何を見ても、読んでも、その本来の姿を見誤ったり、読み違えれば、それは愚かなことだし、その愚かさに基づく営みの結果は悲惨なものになります。そして、私たち人類はもう何度もそういう悲惨な経験をしてきたはずです。しかし、相変わらず過去の教訓から学ぶことなく、自分たちはまるですべてを見ている賢い者であるかのような錯覚の中を生きていることが多いと言わざるを得ないでしょう。
 一九編の作者はそのことをよく知っている。だから、彼は天体を通して聞こえぬ声を聞き、見えぬ栄光を見つつ、紙や羊の皮に記されている神の「律法」を読むのです。そのこと抜きに天体の意味は分からないからだし、人間が何であり、生きるとは何であるかも分からないからです。何も分からない、何も知らない人間がすることは、天体崇拝であり偶像崇拝であり自己神格化です。そして、本来の自分の姿を失っていく。神様に似せて造られた栄光を失っていく。

 人を生かす神の言葉

 七節に出てくる「律法」は、新約聖書に出てくる硬直化した律法、ファリサイ派や祭司たちが人を束縛する規則として重んじるあの「律法」のことではありません。ここでは「定め」「命令」「戒め」と自由に言い直されるものであり、広く言えば神様からの語りかけの言葉だと言って良いと思います。そういう言葉が語りかけられなくなったら、そして、語りかけられても、私たちが誤解したり耳を塞げば、私たちは破滅してしまうのです。
 幼い子どもたちは、親からの語りかけを通して生きるすべを知り、その力をつけていくのではないでしょうか。「ご飯をちゃんと食べなさい。よく噛んで食べなさい。寝る前には歯を磨きなさい。朝起きたら顔を洗いなさい。お風呂に入ったら体をよく洗いなさい。遊びなさい。勉強しなさい。あそこに行っては駄目よ・・・」などなど無数の言葉があります。それは一見すれば、強制的な命令です。しかし、そこで語られていることは、人が人として生きる道です。その一つ一つを守らなければ、歯は虫歯だらけになり、体は不潔で病気になり、そのうち食べることも出来なくなって死んでしまうのです。また、行ってはいけない所に幼い頃から出入りすれば、身を持ち崩し破滅するのです。
 親の命令の背後には、その言葉の中には、子どもが健全な人間として成長して貰いたいという願いがあり、なによりも愛がある。その愛をその言葉の中に見ることが出来ない時、私たちはその言葉を誤解し、誤解を正解と思い、愚かなことをし、痛い目に遭うのです。そして、そういう経験をしたことがない人はいません。

 この詩の作者も、そういう経験を何度もしたのでしょう。だからこそ、彼は「主の律法」「定め」「命令」「戒め」「完全で、魂を生き返らせ、真実で、無知な人に知恵を与え、まっすぐで、心に喜びを与え、清らかで、目に光を与える」と言っているのだと思います。
 彼自身が、愚かさの故に主に背き、暗い谷底に落ちて魂が死んだ経験があるのです。そういう無言の闇の中で、主の御声を聞く。書かれた文字を通して、今の自分の魂に語りかけてくる声を聞く。そして、神の御顔を畏れをもって拝する。そういう経験があるのです。その時、主の裁きの正しさが分かる。そして、その裁きこそが何ものにも優る尊いものであり、蜜のように甘いことが分かるのです。

 熟慮して分かる罪

 そういう経験を通して、自分は「僕」であることが分かるのです。自分がこの世界の主人であるかのように思い、自己を中心にものを考えて来たことの愚かさと惨めさを、完全なる主の律法を通して示された時、彼は深い喜びをもって「僕」としての自分を見出したのです。そして、今後は熟慮しつつ主の言葉を読みつつ生きることを誓う。主の定め、命令、戒めを守って生きることを心に誓います。だからこそ、彼には気付くことがある。
 彼は、続けてこう言います。

「知らずに犯した過ち、隠れた罪から
どうかわたしを清めてください。
あなたの僕を驕りから引き離し
支配されないようにしてください。
そうすれば、重い背きの罪から清められ
わたしは完全になるでしょう」。


 「凄いな〜」とつくづく思います。熟慮して律法を読む彼は、後に登場する律法主義者とは異なり、自分がどれほど主の律法を守る努力をしたとしても、神の目から見て完全な道を歩むことは出来ないことを洞察するのです。しかし、「それが人間だ」と居直るわけでも、諦めるわけでもない。神様の赦し、加護、助けを祈り求めるのです。罪から清められることを求める。主の律法が完全であるように、その律法を聴いて生きる人間として完全な者にされたいと願うのです。彼は諦めない。居直らない。そして威張らない。いずれも、私には難しいことです。
 人間に襲い掛かってくる誘惑は様々です。愚かな優越感に浸らせようとする誘惑が一方にあり、他方に自暴自棄に陥らせる誘惑があります。何をしても結局駄目なのだと諦めさせようとする。しかし、それも実は、自分に対する裁きも自分でするという「驕り」が根底にはあるでしょう。彼は、その「驕り」に支配されることを恐れます。そして、その支配から逃れるために主の愛とその力に頼るのです。そして、少しでも完全な者に近づけるように願う。口から出る言葉も、言葉を発する以前の心の思いも。神の御前に置かれることを願う。しかし、それはどういうことなのか?

 完全になる?

 私たちが「完全になる」という言葉を聞くとき、そこでイメージすることはどういうことでしょうか?恐らく、人格の完全性だと思うのです。何が起こっても動じず、何をされても怒ったり、憎んだりせず、愛をもって応答する人格者。そういう感じをイメージするように思います。それは違う言葉で言えば、「罪のない人間」のことです。
 しかし、現実にそういう人はいません。ある意味から言うと、いる必要もない。あえて言うなら、そういう人になる必要もない。神様は、そういうことを望んでいるわけではないからです。私たちは誰もが「知らずに犯す過ち」「隠れた罪」から自由ではありません。熟慮してそのことを深く知っている作者が、「罪のない人間」を目指すはずもありませんし、そういう意味で「完全になる」という言葉を使っているわけでもないでしょう。それでは、どういう意味なのか?
 詩編に収録されている詩の多くは「主よ」「神よ」と呼びかける言葉で始まっています。しかし、この一九編は最後にその呼びかけがあります。

「主よ、わたしの岩、わたしの贖い主よ」。

 「天は神の栄光を物語り」という賛美で高らかに始まった曲が、「主の律法は完全で、魂を生き返らせる」で転調し、最後に「主よ、わたしの岩、わたしの贖い主よ」という祈りで終わるのです。
 天体も完全、律法も完全、しかし、人間は常に罪の支配に陥る可能性を秘めている。規則正しい天体の運行とは全く逆に、人間の人生行路はいつ何時どうなるか分かりません。非常に不安定です。しかし、そういう人間である自分も「天」のように神の栄光を称える存在になりたい。存在を通して神様の栄光、その御手の業を世界の果てまで語り伝えたい。そういう者にならせてください。それがこの詩の作者の究極の願い、祈りなのだと思います。そして、それが「完全になる」という言葉が意味していることなのではないでしょうか。そしてそれは、「罪のない人間」になることではなく、罪赦された人間、「重い背きの罪から清められた」人間のことなのではないか、と思います。

 贖い主

 彼は、その祈りにおいて「わたしの贖い主よ」と言っています。「贖う」とは、基本的に奴隷であった者を買い取って自由にすることを意味します。今日の箇所に出てくる「贖い主」とは罪の奴隷になっている人間を買い取り、自由の身にしてくださる神様のことです。つまり、この詩は「天地の創造主が同時に贖い主である。自然を支配する王が、同時に罪の奴隷である人間を買い戻す「贖い主」である」ことを宣言しているのです。

 自然を支配する主イエス

 私たちは二週前に、イエス様と弟子たちが小さな舟でガリラヤ湖を渡る場面をご一緒に読みました。その時、荒れ狂う暴風と逆巻く波を一喝して鎮めてしまったイエス様を見て、弟子たちは「いったいこの方はどなたなのだろう。命じれば風も波も従うではないか」と言いました。自然をすら支配下においてしまうこの方はどなたなのだろう?!この方は神ではないか?!神は、この方を通して働き、この方を通してご自身を顕しているのではないか?!そういう驚嘆の言葉です。この時の彼らには、まだイエス様の姿は鮮明に見えず、その言葉が何を表しているのか、正しく聞き取ることが出来ませんでした。

 贖い主イエス

 どの福音書もその最後はイエス様の十字架の死であり復活です。しかし、ルカ福音書の十字架の場面は、詩編一九編を読んだ後には特に相応しいように思います。何故なら、そこでイエス様は、人間が「知らずに犯した罪」「隠れた罪」の赦しを祈ってくださっているからです。

「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」。

 この祈りを聞いて自分の罪を知らされ、悔い改めた人が一人だけいます。このイエス様の祈りを聞き、祈るイエス様の姿を見て、この方こそ自分の罪を贖ってくださる贖い主であることを知った人が、一人だけいる。イエス様の隣の十字架に磔にされている男です。彼は、こう言いました。

「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」。

 罪の赦しを乞い求めたのです。その男に向かって、主イエスは十字架の上でこう言われました。

「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」。

 受け入れられる人間

 一九編の作者は、こう祈ります。

どうか、わたしの口の言葉が御旨にかない
心の思いが御前に置かれますように

 「心の思いとその言葉が、あなたに喜んで受け入れられますように」と訳している聖書がいくつもあります。
 詩編一五編には、神様の幕屋に宿ることが出来る人間は誰だ?!それは、完全な道を歩く者だ、という言葉があります。神様の幕屋、それは御国を象徴していますが、そこには完全な道を歩む者が受け入れられるのです。しかし、それは人格が完全な人という意味でも、罪のない人という意味でもありません。そうではなくて、心から自分の罪を悔い改め、贖い主に赦しを求める人なのです。そういう人が主イエスの御国、楽園に喜んで受け入れられる人なのです。御子が十字架の上で流された血によって罪が清められ、復活の命に与るからです。その時、人は完全になる。私たちが求める完全とはそういう完全です。自ら完全になるのではなく、主イエスの贖いによって完全にしていただくことなのです。

 告げ知らせる

 私たちはこれから聖餐の食卓に与ります。主イエスと十二人の弟子たちとの最後の晩餐を記念する食卓です。その時、主イエスは、パンを取り、感謝の祈りを捧げてから弟子たちにこう言われました。

「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」。

 また杯をも同じようにして、こう言われた。

「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約の血である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」。

 パウロは、その主の言葉を受けて、コリントの信徒にこう言いました。

「だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです」。

 私たちのために裂かれた主イエスの体、私たちのために流された主イエスの血を頂く時、私たちは罪を悔い改め、感謝と信仰をもってキリストを味わいます。その贖い主の愛と赦しの恵みを味わうのです。その時、私たちは主イエス・キリストの死を告げ知らす者にされているのです。「天は神の栄光を物語り、声は聞こえなくても、その響きは全地に、その言葉は世界の果てに」向かいます。それと同じように今も生きて働き給う主イエスを礼拝する私たちを通して神の栄光は告げ知らされていく。新しい天地、新しい人間を造り出す神の栄光は、この礼拝を通して世界の果てにまで及んでいくのです。
 二千年前、天からの聖霊が注がれてエルサレムに誕生したキリスト教会は極東の国にまで広がって、今もこうして私たちは主の栄光を称えているのです。いつも新たに罪を犯してしまう私たちはいつも新たに「どうかわたしを清めてください」と悔い改め、「主よ、わたしの岩よ、わたしの贖い主よ」と祈ることを通して、心の思いと口の言葉が清められ、神の栄光を称える完全な人間に造り替えられていくのです。そういう私たちの礼拝において、神の栄光が顕れているのです。感謝してもし切れない恵みです。
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