「主よ、答えてください」
人間の歴史 先日の新聞によると、韓国の次期大統領候補の一人が「韓国も核保有能力を持つべきだ」との持論を展開したそうです。実質的に核武装を完成した北朝鮮と交渉するカードとして戦術核を韓国に配備すべきだと言うのです。全く同じ理由で核保有国が一つまた一つと増えています。 一昨日の新聞には、防衛省が新たに購入するアメリカ製の戦闘機は一機百二億円だそうです。もちろん、旧式の飛行機を何機持っていても戦闘の場面では無意味なのでしょう。しかし、震災による被災者の生活は復旧に程遠く、年金医療制度が危機に瀕し、社会的弱者はいっそう苦しい生活を強いられている時に、そういうニュースを聞くと空しい気持ちになります。 私たちが作り出し、私たちが生きている世界において軍事力は不可欠なものかもしれません。また大国において、軍需産業は国家財政を支える一つの柱でもあるでしょう。人を殺すことを目的とする武器を造り、それを売ることで利益をあげているのです。 その武器を大量に使う戦争となると人々は突然信心深くなるものです。それぞれの神に戦勝祈願をし、神が味方であるから自分たちの戦争は正しい戦争であり、神が味方である限りその戦争は勝つ。そういう論理を作り出す。人類の歴史はそれの繰り返しに過ぎないという面があるでしょう。 勝利 救い 詩編二〇編は、「王の詩編」と呼ばれます。エルサレム神殿で祭司たちが王を前にして語り、祈った言葉なのだと思います。これから出陣する王を前にした戦勝祈願ではないかとか、王の即位式の祈りではないかと推測されています。何度も「勝利」という言葉が出てきますが、七節最後の「右の御手による救いの力を示されることを」の「救い」も原文では「勝利する」と同じ言葉です。 問題は、何に対する勝利なのか。何をもって勝利したと言えるのか。どのように勝利するのかです。救いとは何かという問題でもある。 戦勝祈願の流れ 最初に、この祈りが捧げられる場面を想像しておきたいと思います。今日は、戦勝祈願としてこの詩編を読んでおこうと思います。 これから戦いに出陣する王が供え物や生贄を携えて神殿にやってくる。その王を前にして、祭司たちが祈るのです。苦難の日に主が王に答え、支えてくださるように。王が捧げる供え物やいけにえを主が受け入れ、王の心の願いと計画を実現させ、王の勝利によって国民が喜びの声を上げることが出来るように、と。 そして、いけにえを捧げる儀式が執り行われる。その後、祭司は、主に選ばれ、聖別の油を注がれた王(つまり、メシア=キリスト)に、主が勝利を授けてくださることを、「今、わたしは知った」と宣言する。 その後に続く言葉は、イスラエル独特の信仰告白だと思います。戦いに出陣するのに、自分たちは戦車や馬(軍馬)の数を誇るのではなく、「我らの神、主の御名を唱える(思い起こす)」と宣言する。何故なら、軍事力を誇る者たちは「力を失って倒れるが」、主の御名を唱える「我らは力に満ちて立ち上がる」と信じているからです。 そして、祭司たちと会衆が王と一体となって、 「主よ、王に勝利を与え 呼び求める我らに答えてください」 と祈る。王の勝利は自分たちの勝利だからです。 多分、そういう流れなのだろうと思います。そして、それはよく分かる気がします。人間は太古の昔から様々な理由で戦争をしてきました。する限りは勝たなくてはなりません。そのために祈る。これは分かります。 神の民の戦争 旧約聖書には戦争の記事がたくさん出ています。神の民イスラエルもまたこの世を生きているのです。この世で起きることの影響はもろに受けます。新しいイスラエルであるキリスト教会も同じことです。戦争も貧困もない世界を生きているわけではありません。その世界から逃れることを神様が求めているわけでもない。その世界を変えることを求めておられるとは思います。 そして、イエス・キリストは「剣を持つ者は剣で滅びる」とおっしゃいましたから、キリスト者の戦いは基本的に武器を持っての戦いではありません。 イスラエルの戦争は神が戦うものです。エジプトを脱出して紅海を渡る時、追い迫るエジプト軍と戦ったのは神様です。その時、モーセは神様から祈るように命ぜられて祈っただけです。祈りで戦った。荒野において異民族と戦う時は、モーセが祈りの手を上げていたことによって勝ちました。 約束の地を取得して以後、イスラエルが王国を建設する時代のサウル、ダビデ、ソロモン王たちは周辺諸民族との戦争に勝ちました。神が命じる戦争であったからです。しかし、サウルもダビデもソロモンも、その勝利を通して誤りを犯していきました。神が命じる戦争では一切の利益を求めないことが基本なのです。しかし、彼らは次第に利益を求めて戦うようになり、ソロモンなどは軍需産業を立ち上げて利益を得るようになったのです。その結果が王国の南北の分裂であり滅亡でありバビロン捕囚なのです。 意味の変化 そういう時代の変遷の中でも、この詩編二〇編は読まれ続けてきました。神殿が崩壊し、王国が滅亡し、バビロンに連れ去られて以後もこの祈りの言葉は忘れ去られることなく、捨て去られることなく読み継がれてきたのです。その時、この戦勝祈願はイスラエルの民に自分たちが辿ってしまった罪の歴史を否応もなく突きつける言葉になったと思います。自分たちがかつて味わった勝利とは何に対しての勝利なのか?あれは本当に勝利だったのか?実は、敗北の始まりではなかったのか?本当に戦うべき敵とは何だったのか?本当に心に願うべきこと、計るべきことは何だったのか。掲げるべき旗は何であり、思い起こし、唱えるべきは何だったのか?そういうことを考えさせる祈りの言葉になっていったのではないかと思います。 繰り返される言葉 この二〇編には、二度三度と出てくる言葉があります。「勝利」あるいは「救い」がそうですけれど、それは主なる神様が王に与えるものです。王自身の力によって勝ち取るものではありません。また、「高く上げられる」と「助け」(救い)は他の詩編でもしばしば一緒に出てきます。両者は切っても切れない関係にあるのです。 「答える」という言葉は、冒頭と中間と最後に出てきます。王の呼びかけに神様が答えて欲しい。王の祈りに神様が答えて、王に勝利を、救いを与えて欲しいということです。その場合、王と祭司、また国民は一つです。王に与えられる勝利は、すべての民に与えられるものだからです。だから祈りの最後は「我らに答えてください」なのです。 「神(主)の御名」も繰り返されています。「名は体を現す」とも言いますが、この場合も、神ご自身の臨在の徴という意味があるでしょう。王が神の御名を忘れることなく、いつも覚え、その名を呼び、従う限り、王は高く上げられ、助け、勝利(救い)を与えられる。神様の「答え」とは、王にこの勝利、高く上げられる救いを与えることなのです。それがこの詩編の中核にあることでしょう。 そして、最後に挙げておかねばならないのが、五節と六節に出てくる「計らいを実現させてくださる」です。神様の心を王が自分の心とするならば、その心の願い、計らい、求めることは必ず神様によって実現される。その実現のために戦車や馬は必要ない。そして、神の名を覚え、苦難の時に呼び求める者は、倒れることがあっても必ず力を得て新たに立ち上がることが出来る。この詩は、そう語っています。そして、王が神様から「油を注がれた方」、つまり、メシア・キリストであることも重要なことです。 キリスト者にとっての「聖書」 私たちキリスト者にとって、聖書は旧約聖書と新約聖書が合わさったものです。旧約聖書の言葉は、それが書かれた時代にはどういう意味を持った言葉として語られ、また書かれたのかを真剣に探求しなければならないと思います。しかし、同時に、旧約聖書が新約聖書と合わさって「聖書」となった時に、その言葉がどういう意味に「なる」のかを考え、聖書全体の中で神様からの語りかけを聴き取ることが求められていると思います。その観点から、詩編二〇編を読み直していきたいと思います。 王 私たちは月に三回はルカ福音書を読んでいますし、今日の詩編とルカ福音書は深い関係があると思います。ルカ福音書は、他の福音書に比べてイエス様が「王」であることを強調する福音書です。天使ガブリエルは、マリアに向けての受胎告知の中でこう言いました。 「その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない」。 この「いと高き方の子」の王としての支配は、永遠に終わることがないものだと言うのです。しかし、その方は貧しい田舎町のナザレで生まれ、ついにエルサレムで十字架刑に処せられることになります。その十字架の下で、イエス様に敵対するユダヤ人の議員たちは、口々にこう言いました。 「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい」。 「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」。 ここには「救う」「メシア」「王」と、二〇編に出てきた言葉が出てきます。神様から、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言われ、多くの人々に「あなたの信仰があなたを救った」と救いの宣言をしてこられた方が、神の民ユダヤ人によって罪人と判定され、「お前に神からの救いなどないのだ。自分で自分を救え」と嘲られつつ処刑されているのです。 しかし、その十字架の上で、イエス様は「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と祈られました。その祈りを聞き、十字架の上で罪を悔い改め、赦しを求める一人の犯罪者がいました。イエス様は彼に対して「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と宣言された。それは、死刑になるほどの罪を犯した彼が、その悔い改めの信仰によりイエス様と共に「高く引き上げられる」、「救われる」という宣言でしょう。 イエス様は、最後に「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と大声で叫んで息を引き取られました。神からのメシア、王は、十字架の上で罪人の救いを祈り求め、自分の霊を神の御手に委ね、神様からの「答え」を待ったのです。 御心のままに その「答え」に至る前に、なぜ「神からのメシア」であり「王」であるお方が、自分を救うことなく、罪人のための祈りを捧げつつ死なねばならなかったのか。その問題を考えなければなりません。 詩編二〇編には、「心の願い」とか「計らい」、「あなたの求めるところ」とありました。そこで問題になるのは、油注がれたメシアである王が何を求めているのかです。自分の力、名誉、富、命なのか。それとも、自分に油を注ぎ、王として選び立てた神様の願いの実現なのかです。イスラエルの王たちは、当初は神の心を自分の心として歩み始めましたが、次第に自分の願いを先に立てるようになりました。 しかし、ルカ福音書によると、イエス様は弟子のユダに裏切られる直前、オリーブ山でこう祈られたとあります。 「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」。 この時、イエス様は「苦しみもだえ」「汗が血の滴るように地面に落ちた」と記されています。このイエス様の祈り、油注がれたメシアの祈りへの神様の答えがあの十字架の死なのです。 イエス様はそのことをご存知でした。神様の願いは、罪人の罪を赦し、罪人を罪の支配から解放し、罪と死に勝利させるために、イエス様がいけにえとなることです。それはイエス様にとっては恐るべき「計らい」、ご計画です。しかし、そこに神様の「計らい」があることを、イエス様はご存知でした。でも、もし他の道があるのならその道を示して欲しい。その道を歩ませて欲しいと願われたのです。しかし、そのことをも含めて、「わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」と祈られた。祈ってくださった。私たちの救いのために。私たちに罪と死に対する勝利を与えるためです。 神様はその祈りに答え、イエス様はその答えを受け止め、以後、十字架への道を決然として歩んでくださったのです。私たちの王として、です。 実現する そして、あの十字架の祈りがあり、主に霊を委ねつつイエス様は息を引き取り、そのご遺体は墓に葬られました。 しかし、それから三日目の日曜日の朝、イエス様は十字架の死から復活されました。そして、弟子たちの只中にお立ちになって「あなたがたに平和があるように」と言われたのです。しかし、恐れと驚きの中でなおも疑う弟子たちに向かってこうおっしゃった。 「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである」。 イエス様は、当時のユダヤ人として詩編には通じておられました。これまでも詩編の言葉を引用してこられましたし、「主よ、わたしの霊を御手に委ねます」も詩編三一編の言葉なのです。詩編ではその後に「わたしを贖ってください」という言葉が続きます。 この言葉もイエス様の復活の出来事を通して実現しているのです。二〇編の「あなたの心の願いをかなえ、あなたの計らいを実現させてくださるように」「主が、あなたの求めるところを、すべて実現させてくださるように」という言葉も、主なる神の心を自分の心として、十字架に死に、復活させられた王・メシアにおいて実現しているのです。 答え この王は、外国との戦いに出て行き、たくさんの人々を殺して勝利する方ではありません。戦争の勝利によって国民に富をもたらす王ではない。苦難の時に、ヤコブの神、主の御名を呼ぶ王です。十字架に磔にされて死んだ「ユダヤ人の王」です。この王は無力にも殺されてしまったのです。その死は、人々には惨めな敗北に見えたし、弟子たちにもそう見えました。しかし、実はそうではないのです。ここにイエス様に油を注ぎメシア、王としてお立てになった神様の「願い」、その「計らい」(計画)の実現が隠されているのです。その計画とは、すべての罪人の罪を赦し、罪と死の力に対する勝利を与えるという計画です。イエス様は、その計画の実現のために苦しみ悶えつつ神様に祈り、十字架に磔にされ、そして三日目に力に満ちて死人の中から立ち上がられたのです。戦車と馬を頼みとする者たちは、いずれ力を失って倒れるほかにありません。しかし、苦難の中で主なる神の御名を呼び、祈りに生きたイエス様は死を打ち破って新しい命に復活させられたのです。そこに神様の答えがあるのです。王に対する、また王に従う者たちに対する答えです。 高く上げられる 詩編二〇編は、神が王に与える「勝利」、「救い」の表現の一つとして「高く上げられる」ことを挙げています。福音書の中では、ルカ福音書だけがイエス様の復活に続く昇天を記しています。神様の御心に従って、ついに死の世界にまで下られたイエス様は、復活し、いと高き神の右の座である天にまで引き上げられるのです。 ルカ福音書の最後を読みます。 「イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた」。 詩編二〇編の舞台はエルサレム神殿です。そこで祭司や会衆は、神に祈り、信仰を告白し、願い、また賛美しているのです。ルカ福音書は神殿の場面で始まり神殿で終わる福音書です。その神殿で弟子たちは、神を喜び、賛美している。何故か? 神からのメシアが、ついに罪と死という人間にとって究極の敵に勝利してくださったからです。苦難の時に主の名を呼び続けたメシアに主が勝利を与え、答えてくださったからです。人間が考える勝利は勝利ではなくむしろ敗北であり、人間が考える敗北の中に神の勝利があることを示してくださったからです。自分たち罪人が、その王の勝利に与らせて頂いていることを、「今、知った」からです。だからこそ、彼らは喜びの声を上げ、神を賛美している。 そして、聖霊を与えられて以後、彼らは十字架の「旗」を高く掲げてキリスト教会を立ち上げていきました。かつては恐れた死を、最早恐れることなく、「この方こそメシアです。主です。信じて救いに与ってください」と大胆に伝道する者たちにされていったのです。その中の何人もが殉教の死を遂げていきました。しかし、後に続く者たちが次から次へと現れました。皆、キリストに従い、キリストを証しするが故の死は、キリストと共に「高く上げられる」ことであると信じていたからです。 礼拝・伝道 教会とは、十字架の死を経て復活して昇天されたイエス様を「主」と信じ、主の再臨によって神の国が完成することを待ち望み、その完成に向けて、イエス様をこの世に宣べ伝えていく伝道共同体です。 私たちは、その伝道をなによりもこの礼拝においてしているのです。私たちは、イエス様を今に生きる「主」と崇め、この方の前にひれ伏し、賛美します。この方の下に真の自由があるからです。この方の御前にひれ伏し、この方に「服従」するところに真の「自由」があるからです。死を越えた命があるからです。永遠の愛の交わりがあるのです。その交わりに生かされる喜びに優るものはありません。 今日も、この後に聖餐の食卓に与ります。そこに主イエスによって与えられる罪の赦しと新しい命があります。愛があり、勝利があり、救いがあるのです。その食卓に人々を招く。人々に主イエスを宣べ伝え、信じる者に洗礼を授け、共にこの命の食卓に与る。それが私たちの伝道です。その伝道に生きるところに私たちの喜びがあり、また神様の喜びがあるのです。 今日も新たに主の食卓に与ることを通して、主の死による勝利を告げ知らせたいと思います。 |